密やかに、清らかに

野瀬 さと

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車内は物凄く高温になっていたから、社用車のエンジンを掛けてエアコンを入れる。

「どうした!オイっ…」

呆然と前を向く天野さんは、やっと俺の顔を見た。

「母が…」
「え?お母さんがどうした…」
「亡くなりました…」


その日は、八王子はちおうじにある得意先の東京本社に出向いていた。
天野さんのご実家は調布ちょうふで、高速でも下道でもちょうど社に戻る途中だった。
だから、遠慮する天野さんを乗せて、車を調布に向けた。

途中で倒れそうなほど、真っ青な顔をしていたから。

部長に連絡を取って、天野さんのお母さんが亡くなったことと、天野さんが倒れそうなことを伝えて、帰り道だから送っていくという報告はしておいた。

だから、天野さんがいくら遠慮しても聞かないで、強引に俺は調布に向かっていた。

「課長…もう、降ろして下さい…」
「だめだよ…そんな真っ青な顔して」
「でも…」
「いいから。部長にも言ってあるから」

諦めたのか、無言になった。

でも、暫くしたら小さな嗚咽が聞こえてきて。
ポケットからハンカチを取り出した。

よかった。今日洗いたての持ってきてた。

「泣いていい」
「え…」
「顔、見ないから」
「課長…」
「病院に着くまで、思い切り泣いてしまえ」


強引だったか

そう思ったけど、暫く黙っていたら堰を切ったように天野さんは泣き出した。

約束通り、泣き顔は見なかった。


なんとか病院を聞き出して、辿り着いた。
白亜の大きな病院だった。

暫く駐車場の隅で、天野さんが落ち着くのを待った。

「すいません…」
「いや…」

なんて言葉を掛けていいか…
俺の両親は健在だし、身内を亡くした経験もなかった。
だから、ハンカチを差し出すことくらいしかできなかった。

無言の車内でハンドルに凭れながら、ひたすら天野さんの気配を感じているしかなかった。

「…ハンカチ…」
「え?」

突然の呟きに、思わず天野さんの方を見てしまった。
俯いてぎゅっとカバンを掴んでいる手には、俺のハンカチと銀縁のメガネが握られていた。

「洗ってお返しします…」
「あ、ああ…そんなの…」

顔を見ないって言ったのに、見てしまった罪悪感でハンドルを握りしめて前を見た。

「ずっと持ってていいから」

なんで…こんなことしか言えない。
こんなときに慰めるようなことも、俺には言えないのか。

「…ほんとに…?」
「あ、ああ…」

たまに敬語じゃなくなるときはあったが、それは大抵ふざけていたときで。
こんな時なのに、心臓が跳ね上がるかと思った。

「ありがとう…ございます…」
「うん…」

なんて顔していいのかわからなかった。
こんなときに不謹慎にときめいてしまう自分を嫌悪した。

「早く…行ってあげなよ」
「はい…」
「仕事のことは、ちゃんと俺がしておくから」

違う…こんなことが言いたいんじゃないのに。

「落ち着いたら、連絡ちょうだいよ。なにか手伝えたら…」
「課長…」

遮るように呼ばれて、また思わず天野さんを見てしまった。
今度は顔を上げていた。

紅潮した頬に、赤い唇
潤んだ目に前髪が掛かって、縋るように俺を見てる

メガネ越しではない瞳を初めて見た。

やっぱり漆黒で…美しい。


抱きしめたい


そう、強く思った。

慰めの言葉なんか、今のこの人には役に立たない。
だったら、ただ抱きしめて…
思う存分泣かせてやりたい。

でも、そんなことできるはずもない。
この人は立派な男で…俺なんかが抱きしめていいような人じゃない。


なんとか心臓を落ち着かせると天野さんの肩に手を乗せた。
抱きしめることはできないけど、せめて肩から俺の気持ちが伝わったら嬉しいと思った。

「天野さん…」

言葉が続かなかった。

手のひらに天野さんの熱を感じながら、ただ見つめ合うしかなかった。

「ありがとう…ございます…」

震える声…

「課長でよかった…」

天野さんの身体が小刻みに震えた。

「今…ここにいるのが…課長でよかった…」
「え…?」

そっと天野さんの目が閉じられて。
肩に手をかける俺の腕に、額を預けた。

「少しだけ…こうして居て、いいですか…?」

額の熱さが、長袖のワイシャツの薄い布越しに伝わってきて。
鼓動が一気に早くなった。

「…甘えてすいません…」

また涙声になって…

「いい…」

そっと、腕を外すと肩を抱き寄せた。

「こんなことでいいなら…いくらでも…」

天野さんの背中が小さく丸まって。
俺の腕の中に、自ら身体を預けてきた。

髪の香りと泣きはらした高い体温を感じた瞬間、もう我慢できなかった。
強引に身を乗り出すと、両腕で天野さんの身体を引き寄せた。

抱きしめると、天野さんは声を放って泣き出した。

俺のワイシャツがびしょびしょになるほど、天野さんは泣いた。



天野さんは、小さい頃母親が家に居た記憶がほとんどないそうだ。
母親とは、病院に入院しているものだと思っていたと。
家に一緒に住んでいるのではなく、会いに行くものだと思っていたと。

正直、驚いた。
そんな寂しい幼少時代を過ごしているようには見えなかったから。

そんな幼少時代を過ごしているだけに、とても母親を大事にしていた。

母親に差し入れで美味しいと評判の店のお菓子なんかを、外回りのついでに買ってきている天野さんをよく見ていた。
週末はほとんど出かけることなく、平日を担当している父親と代わって見舞いに行っていたそうだ。
趣味の海釣りにも、出かけてはいないようだった。

それはもう、眩しいほど…

マザコンって言いたいやつは言えばいいさ。
天野さんは小さい頃、一切母親に甘えられなかったんだから。
そんな人の気持ちを慮れないで、なにがマザコンだ。
上等じゃねえか。

心底わかるとは言えないが、俺には到底馬鹿にすることなんてできなかった。

天野さんがアメリカに居た頃は、母親の症状も安定していて。
院を出る時点で、帰国の選択肢もあったが向こうで就職をした。

だけど、今回の帰国は…覚悟の要るものだったと、天野さんは語っていた。
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