遠水連天碧

桂葉

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六章

逢引

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 その後、まだ天宮からの連絡はなく、流文は暇だった。手持無沙汰といえば生温い。けっこうな暇さに持て余している時間が苦痛にさえ感じられてきて、どうしたものかと考えることで時間を潰す、そんなことになってきていた。
 さっきから、部屋に入ったり廊下に出たり、庭を歩いたりしていた流文の姿を見かねたか、清江がふと、地上に降りてみないかと言い出した。
「いいんですか! 誰かに呼ばれでもしましたか?」
 流文は、子供のように声を弾ませた。その態度があまりにもわかりやすすぎたのか、清江が呆れたことは、ふっと漏らされた笑いが物語っていた。しかし、そんなものにめげるつもりはない。退屈を極めていた心が一気に水を得た。
「呼ばれてはいないが。少し気になることもあるのでな。様子を見に行くだけだ」
 何気ないように言う清江が、流文に気を遣ってくれていることは明らかだ。その心ごと、嬉しかったのだ。
「私が邪魔になるようなことがなければ」
「邪魔にはならんだろうさ。そろそろ地上が恋しいのではないかと思うが、どうだ」
「そうですね、ここがちょっと暇すぎて、そういう意味では恋しいかな。でも、気になることって何です?」
「いや、大したことじゃない」
 すべてが流文を遊ばせるための口実でもないようだが、清江はそれについて詳しくは話してくれなかった。
「ならいいですけど。連れてってもらえるなら、嬉しいです」
「ついでに、なにかやり残していることがあれば、済ませに行くといい」
「ありがとうございます。すぐに行きますか?」
「君に合わせる」
「行きましょう!」
 勢いよくはしゃいでしまった流文に、穏やかな笑みが向けられる。
 ふだんの表情の薄さがそう感じさせるのか、清江の微笑みはとても艶やかだ。じっと見てしまうと目が離せなくなるような、不思議な引力がある。そして見つめてしまっていると、心地良いのに落ち着かなくなって、こちらがどんな顔をしていいものかもわからなくなる。
 だから流文は、茶を挟んで座っていた席から勢いよく立ち上がった。いつまでも見ていては、さすがの清江も不信に思うに違いない。
「せっかちな」
 また苦笑されたが、今の流文は強気である。
「さあ、そうと決まれば早く!」
 急かせば清江もやれやれと立ち上がり、当たり前のような流れる所作で、流文の腰に手を添え引き寄せた。
 ふわりと体が泳ぎ、清江の腕の中に納まる。がっしりとした腕に抱かれ、翻った彼の袖が流文の体に軽く巻き付いてほどけた。
 互いの顔が近い。もう何度目かになるこの行為にもそろそろ慣れてきたらしく、それほど恥じらうことなくいられるようになっていた。
 唇を寄せるとき、清江は一度だけ同意を求めるように、流文の瞳を見る。そして、少しだけ目を細めてから伏せるのだが、この瞬間は、さすがにまだ胸は騒ぐ。
 一度鼓動が鳴って、刹那の期待が現実になる。
 音も立てない、触れ合うだけの口づけに名残を惜しむ暇もなく。ふっと吐息のようなものが薄く開いた唇の間に吹き込まれ、それで離れていく。
 おや、と流文は思った。今、少しだけ触れ合う時間が長かったような気がした。もちろん、瞬き程の差ではあったが。
 そうだとしても、特に意味はない。だから確かめるまでもない。ただ、この……、回を重ねるほどに愛しささえ覚える一瞬がすこしでも長くなったならば、それは流文にとってほのかに嬉しく。それを認めてはならずとも、胸の奥に満たされる何かを感じないではいられないようになっていた。
「行くぞ」
「はい」
 抱き寄せられたまま、ふっと清江の気に包まれた。そして気が付けば、あの河畔の龍神殿に二人は降り立っていたのだった。



 清江の用とは何か。先程の彼の反応からは、なんとなく聞いてはいけないような空気を感じていた。ついていけばわかることなのか、はたまた彼の胸のなかだけで果たされるものなのかは、今はわからない。
 廟に特に異変がないことを確認した清江は、すっと外へ出てしまう。それに続く流文があわてて龍神像に手を合わせたのに気が付き、清江は可笑しそうに笑った。
「抜け殻に参られてもな」
 よほど面白かったらしく、清江はくくくと喉を鳴らす。
「そうですが。でも形代でしょう、これは。だから、なんとなく無視しちゃいけないような気がして」
「今更本体には手を合わさないのにか?」
「……まあ、そうなんですけどね」
 指摘された不自然さは、確かに認めるところだった。頭ではわかっているのだが、何だろう、やはり庶民であった頃に身に着けた習慣というのはなかなか消えないものらしい。神には手を合わせ祈るという行為が癖のようなものであるらしいことを、神本人から知らされてしまった。
 それから清江は外に出て、やはりここから見える河の流れを遠く眺めた。静かにそこに佇み、一定の間ただ見つめるのだ。その姿は、やはり神々しいとしか表現できないほどに、清らかで威厳に満ちている。その時間ばかりは、おそらくすぐ後ろに流文がいることなど忘れてしまっているのだろう。ただ静謐な時が、流れていく。
「君は、やりたいことはないのか?」
 ふっと空気が変わって瞬きをすると、清江が振り返った。
「えーっと。そうですね、特には。でも、あなたが付き合ってくださるなら、ありますよ」
 ほんの思い付きだったが、頭によぎったことがあった。少しの遊び心だ。流文の表情を読んだか、清江はそれは何だとは聞かずに黙ってしまった。
「めんどくさそうな顔しないでください。ちょっとしたことです」
「……一応、聞こうか」
「はい。えっと、甘いものはお嫌いではないですか。……食べられますよね?」
「嫌うほどではない。必要ないだけだ」
「じゃあ、逢引きしましょう! 茶店で」
 清江は、目を見開いた。まあ、これくらいの反応は想定内だ。だが、絶対反対という様子でもなさそうだ。なら、押すまで。
「何を考えている。この姿を人間に晒すのか?」
「そうです。服だって自由に作り出せるんでしょう? だったら、ふつうの貴族が着るくらいの服に着替えればいいんです。姿を現すこともできるんですよね?」
「……できなくはないが」
「まさか、龍神様が人の形で町をうろついてるなんて、誰も思いません。おもしろくないですか? あなたは目立つでしょうけど、そこは私もいますから、声をかけられても上手くかわしてあげます。楽しいと思いませんか? そういうの、やったことないでしょう?」
 こんな発想は、たぶん只人上がりの自分ならではだと思う。だからこそ、清江を乗せてみたかった。自分が楽しいと感じることを、このひとにも味わってほしかった。
「君は……」
 清江が、何かを言いかけて、口を噤む。どうせ、呆れたとか何を考えているんだとか、そういう小言的なものだったのだろうが、本人の努力家配慮のおかげで言葉にはされなかった。
「なんです?」
「いい。やりたいことをせよと言ったのは私だ。つきあおう」
「そうこなくっちゃ! 前に立ち寄った茶店が、いい味だったので」
「……天界はよほど退屈だったようだな」
「正直、そうでした」
 きっぱりと言って、さあさあと清江の手を引く。こんな行為も気にせずやってのけられる自分が信じられないが、構うものか。
 ひんやりとした手の指先ほどのところを握ると、軽く握り返された。これでは本当に逢引きのようだけれど、人の目がある場所までは、そのまま。正直なところ、町の中もそれでいいとさえ思ってしまっていた。
 町は、春龍祭の時ほどではないが人の往来もあり、平常通りの活気は感じられた。大きな街道の近くにあるので、旅人の足も向きやすいのだろう。それで潤っているのに違いない。
 流文はそのままでよかったが、清江はやはり何段階か簡素ないで立ちに上衣を着替え、二人は通りを並んで歩いていた。
「お兄さんがた、ちょっと寄ってかないかい? おいしい万頭があるよ」
「うちの商品見て行ってよ。恋人に簪を贈ってみないかい」
 やはり人目を引いてしまうらしく、店からはつぎつぎと声をかけられた。そのたびに清江は戸惑った顔になって言葉を返せないのだが、流文は手慣れたものだ。いいねえ、また来るよなどと調子を合わせ、しかし乗せられて散財することもなく、うまく楽しむだけ楽しませてもらうことにした。
 今日ばかりは、笠もかぶらず二人素顔を晒しながらなので、女からも声をかけられた。
「私、そこの凜泉楼にいるのよ。逢いに来てくれる気はない?」
 さすがに清江には近づきがたいのか、流文の方に流し目を送ってきたのは、いかにも妓女という女盛りの美しさだった。どこまで本気か分かったものではないが、いい男と見れば営業活動はしておきたいのだろう。同じ相手をするならば、若いほうがいいに決まっている。
 こうなると面倒だとは思っていたが、簡単に予想のできたことだ。こういう時、見栄えのする男連れだと一つ簡単な逃げ方がある。
「ごめんね、姐さん。私は決めた人がいるんだよ」
 言って、流文はチラと清江を見る。それだけで、色恋事に長けた者ならだいたいは察してくれる。
「だから、この人のことも誘っちゃだめだよ?」
「あら、それは残念」
 赤い唇を笑みに引き上げ、艶やかに笑って女は去って行った。こういうやり取りだけは必要以上に慣れている流文は、あしらう台詞は淀みなく口を出るのだ。
「おい」
 女が去ったあと、隣からは早速と渋い声がかけられた。こういう場面には慣れていなさそうな清江だが、自分がどういう扱いを受けたのかはしっかり察してくれたようだ。
「はいはい。言いたいことは分かってます。いいじゃないですか、口づけする仲なんですし」
「流文っ!」
 さすがに、清江が頬を赤らめた。龍神のくせに、何なのだろう、この初心な反応は。
「あはは。やっぱり私は人ですね。俗なほうにまだ馴染みます」
 そう言うと、清江の表情が少し神妙なものになる。
「……天界に、住まう気はないのか?」
「そういうわけじゃないんですけど。うーん。行き来できるのが一番いいですね。天界ばかりじゃ、たぶん退屈ですし」
「君が天上する意味は、どこにある? 天仙ゆえか?」
「……初めはそうでした。でも、すこし違ってきました。ちゃんと理由はありますよ」
「それは……」
 問いかけた清江の言葉は、聞かないふりをした。わざとはしゃいで、一軒の店に指をさす。
「あの茶店です。前は春龍節に用意された餅菓子が美味かったんですが、今日は何があるかな」
「おい、待ちなさい」
「置いて行きますよ!」
 今度は手を引かない。追いかけてほしかった。まったく、この歳で知り初めた想いはどうにもふわついて、つい子供じみた行動をとらされてしまうようだ。
 本心を言いたい思いと、隠していたい思い。身を任せたくとも、躊躇う思い。全てがあまりにも矛盾だらけで、しかしその出どころは単純。振り回されてしまうことさえ楽しいなんて、こんなのどう扱えばいいのだ。自分でもこうなのに、そんな流文に振り回される清江は少しだけ気の毒で、それでも、巻き込んでいたいと思ってしまう心がある。
 茶店に入ると、客は流文たちだけだった。昼時を過ぎた時間だったようだ。すぐに注文を伺いに来た店主に今日のおすすめの菓子を注文したら、顔を覚えられていたようで、新作の菓子を一つオマケしてくれることになった。新しい客を連れてきたのが喜ばれたらしいが、まさかこれがあの龍神とは露も思わず、清江の美しさに見とれている店主の呆けた顔が面白かった。
 秘密は、本人と流文しか知らない。そのことに、心を踊らされる。
「あなたと離れがたくなりました」
「……え」
「さっきの、答えです」
「……」
「へへ」
 言うべきか言わざるべきかは、茶と菓子が出てくるまでの間に、密かに思案した。で、結局言ってしまうのが自分だよなあと、単純にすぎる己を思った。
「……そうか」
 清江は、それをどうとらえたか、すっと目を細め、また穏やかに笑んだ。
 流文の想いがどのような形を成すものであれ、縁を繋ぎたいと願う心は、無事受け入れられたようだ。それだけで、心がほっと熱を帯びる。
「はい。だから、ちゃんと天上できるようになりたいです。あなたの手を借りなくても、自由に」
「そうだな」
 今のままでは、一度一人でこちらに来てしまうと、閉ざされてしまってそれまでだ。清江を呼べば声を聞きつけて降りてきてくれるのかもしれないが、そうでは嫌なのだ。
 会いたいと思えるだけでも贅沢で、本来ならば繋がることもなかったはずの縁だからこそ、つなぎとめていたい。それも、全てが清江次第ではなくて、自分の力で意志で、彼に会いに行きたい。そうできる資格が、能力がほしい。せめて堂々と、天仙を名乗りたい。
「やはり、どうにかしてやりたいものだ」
 清江がそういう言い方をしたことで、まだ自分の本心は伝わっていないのだろうと、切なく安堵する。
「いいんですか? 私に付きまとわれてしまいますけど」
「構わんさ。私にとっても、天界は少し退屈だ。君がいてちょうどいい」
「そうですか」
 ああ、と返しながら、清江は皿に乗せられた餅菓子に視線を落とした。蓮を模っていて、花弁には薄く桃色が付けられている。青磁の丸い皿がその可憐な姿を引き立てていて、とても上品な菓子だ。
「人の食すものも、悪くないな」
「でしょう?」
「ああ」
 流れた穏やかな思いが互いに馴染んだような、心地よい呼吸があった。
 多くは語らなくていい。語ろうとしても、あまり上手くは言葉にならないだろう。けれども、言いたいことは、伝えたいことは分かっていた。
 流文は、ほのかに湯気を立てる茶を、一口すすった。
 清江は、菓子を指でつまみ、愛し気に一度眺めてから、口に運んだ。
 形のいい唇が少しだけ開き、そこに乗せるように菓子を咥え、一口かじる。清江のその一連の動作を、流文は目を細めて見ていた。ゆったりと、美しく品の香る、彼の仕草がとても好きだと思った。
 見られていることに、清江が気づいていないはずはない。けれども、見るなとは言われなかったから。永遠にでも見ていられるなと思いながら、見つめていた。
 茶が冷めても、店の者が次の注文を取りに来ることはなかった。


 店を出た二人は、今度は町を離れ、山に囲まれた広野を上空から見下ろしていた。
 清江の河からは、西にいくらか移動したあたりだ。人の足で半日は歩かねばならない距離でも、空を飛べる神にとっては、ちょっとそこまで程度の感覚で辿り着くことができる。
 そこは山の麓を縫うように道が通っている以外は特に何があるというわけではなく、清江がわざわざ様子を見にきた理由は、流文にはわかりかねた。
「少し、見ていよう」
 清江は言うが、一体何を見ていればいいのか、さっぱりだ。確かに景色は美しく、自然が瑞々しく豊かではあるのだが、そういうことではないはずだ。
「何があるのですか」
「何が起こるか、と言ったほうがいい」
 そうとだけ告げられ、どれだけ待っただろうか。ある時山を吹き下ろす強い風が起こり、そこで初めて清江の目つきが鋭くなった。
 広大な土地をざっと掃き飛ばすような、戯れにも似た吹き方の風だった。しかしその強さは戯れ程度のものではなく、周囲の林の木々を根こそぎ引っこ抜くのではないかと思わせるような力で弄り吹き抜けたかと思えば、くるりと巻き取るようにして竜巻と化し、それはまるで一体の生き物のように、周囲を走り始めた。上空から見れば、その動きは実に不規則で、ときたま拭き上げる風が巻き込んだ木の葉がここまで飛んでくる。
「これか……」
 心が漏れたような呟きに、流文は清江の横顔を見る。
「なんです?」
「風が暴れているという話を、この間雷がしていたのでな」
「ああ……」
 あの時の。その、短い会話は流文も聞いていた。なんでも、新しい神が生まれるかもしれないという話だったはず。
 なるほど、こういう変わった自然現象が人の信仰対象になることはあるだろう。良きにつけ悪しきにつけ、人知を超えた力を見せつけられれば、そこに畏怖の念が生まれる。それが信仰の始まりだ。
「でも、このへん、……風神がいるんじゃないですか?」
 ふいに思い出された記憶から、流文は言った。はっとして、清江がこちらを向く。
「え?」
「私、以前旅をしていて、このへんを通ったことがあります。確か古い廟があって、風神様を祀っていたはず」
「……そうなのか?」
「ええ。ただ、廟はその時点でずいぶんと朽ちていて、人に忘れられてしまっているかんじではありました。そういう場合、神様ってどうなるんです? 天に召されるんですか? だとしたら、また新しい神様が迎えられるのかなあ」
「……」
「同じ場所にふたりの同じ性質の神様が存在するってことはないんですかね? ……清江?」
 半分独り言になってしまっていた言葉を切ると、清江は流文からは視線を外し、これまでに見たことのないような神妙な面持ちでじっと暴れまわる風を見ていた。
「どうしました、清江?」
 かけた声に反応してこちらを向いた清江は、どこか頼りなく揺れる目をしていた。深い色の瞳が、今はざわめく水面のように落ち着きをなくしている。
「すまない。廟と言ったな。それはどこにある」
「そうですね……、少し小高い丘の上にあったはず。もう、周りは荒れているでしょうから、ここから見えるかなあ?」
 見渡してみるが、すぐには見つからなかった。なにせ、地上を歩いていた時の方向感覚と、上空から見下ろしているのとではずいぶんと違って見えるものだ。しかも、あれはもう八十年前の話だ。今も同じ姿で残っているとも限らない。
「あそこ、一度降りてみましょう」
 山の足元に、ころりとした半球型の丘がある。あの時周囲の見晴らしはよかったはずだから、そこだった可能性があると思った。
 ひととき、先ほどの風は弱まっていた。まるで風神が戯れにそこでひとさし舞ったかのような、一時的な風だった。
 二人は空を泳ぐようにして地上近くまで降り、その丘のすぐ上を飛んだ。木々の間の隙間に建物の跡が見えないか、慎重に目を凝らしながら探していると、頂上付近の場所に色褪せた屋根瓦が垣間見えた。
「あ、あの廟かな……」
 流文は、見覚えのある古い建物を指さした。
「あったのか」
 にわかに清江の声が強張ったことには、気が付かなかった。かつての記憶を辿りながら、そこに降り立つ。だが、懸念した通り、廟はもうその面影もないほどに崩れ、ただの瓦礫と化していた。
 転がった、割れた板の片割れに、もう筆の跡も微かな「風神廟」という字の一部が読み取れた。
 しかし、不思議だ。この廟の建て方や祀り方は、当時にしてかなり古いものだった。何百年前といったところのように見えた。にもかかわらず、朽ち方はまだ穏やかで、屋根も瓦が一部欠落している程度で棟が落ちてはいなかった。ところが、そこから八十年で、廟はここまで朽ちた。最期の力さえも振り絞った後のような無残な姿だ。もはや像でさえ、尊顔を伺うも気の毒なほどの崩れ方だ。それこそ、風にでも襲われて一気に壊れ果てたか。
「私が訪れた時よりもかなり壊れていますが、ここですね。風神廟です」
「……間違いなさそうだな」
「ええ。実はここで私、仙力を得たんです」
「……そうなのか? 修行で得たのではなかったのか」
「修行の最中でというわけではなかったんですよね、実は」
 このことは、聞かれなかったから言わなかったにすぎない。別段、特別なことだとも思っていなかったからである。
 当時、師と離れた流文は、自分だけの修行場を探しながら旅をしていた。その途中、朽ち果てた廟に一夜の宿を求めた時のことが、ぽつぽつと思い出される。記憶を手繰り寄せるように、流文はそれを清江に話して聞かせた。
 確かあの時は急に雨が降ってきて、近くには町も村もなく、困り果てていたのだった。体は濡れて冷えてくるし、夕刻も近く、なんとかせねば、さすがの自分でも風邪をひくと焦っていた。
 小走りに、雨を凌げる場所を探していたときに見つけたのが、その朽ちた廟だったのだ。当時はまだ屋台がしっかりしていたので、平地からでも廟の屋根を見つけることができた。天の助けだと思って飛び込んだそこは、ずいぶんと古い様式で作られた廟の跡だった。瓦が落ちかけていたが、屋根があって助かった。
 中は荒れており、燭台や祭壇も壊れて散乱していた。ここがどれくらい前に退廃したのかはわからないが、人が参らなくなったあとでも、こうして流文のような旅人に一夜の宿を与えていたのだろう。石敷きの床には、まだいくらか新しい蓆が敷かれたままになっていた。その夜は自分もそれを借りようと、流文は思った。
 そうとなれば、ここは廟。朽ちても神の宿っていた場所であるわけで、ご神体に無断で場所を借りるのは無礼かと思った流文は、台座から転げ落ち体を伏せたまま倒れていた木像の顔の方に回り、手を合わせた。
 流文は、その像に何かを感じた。もうとっくに忘れ去られたようなこの場所で、祀る者も参る者も絶えて久しい神像に、微かに宿る何か。朽ちないままに取り残された、思念のようなものだと感じ、流文はそれを聞き取るかのように、傍に寄って、耳を澄ませた。
 その時だった。ほうっと光が宿ったように、像が白い何かをまとったように見えた。なんだろうと、瞑目していた瞼を開いた。
 弱弱しい光のようなものが、すっと流文を包んだ気がした。
 ピリリと全身が痺れたと思った次の瞬間、流文は、自らの内側からなにか大きな力を引き出されたような気がした。
 例えるならば、眠っていた記憶を取り戻したような。あるいは、秘めていた思いが溢れてきたような。とても不思議な感覚があって、これは何だろうとただ己の身に起きている事象を感じていると、その内から引き出されたものが今一度、体を包むように満たした。
 流文は、自分が新しい力を得たことを感じた。それが、仙力を得た瞬間だったのだ。
「そう、だったか」
 清江の声は、呟くように低かった。
「ええ。皆どんな時に仙力を身に着けるのかは知りませんが、私はそんなかんじでした。この像に、まだ神力が残っていたのかもしれませんね」
「……ああ。そういうこともあるのだな」
 清江は変わらず神妙な面持ちである。いや、先ほどよりも、なにか思案するような重い雰囲気だ。
「最後の神力を、私がいただいてしまったのかな。悪いことをしたみたいです」
 そう考えれば、ここまで廟が朽ちてしまったことに説明がつくような気がした。あの日ここを立ち去ってからは一度も訪れていなかったから、今もいくらかはあのままの姿で残っているようなつもりでいたが、思いの外、退廃は進んでしまっていた。
 ご神体の姿が雨風に晒されてしまっているのが、実に哀れだ。かといって、清江の力をもってこれを起こして立て直そうにも、足元から割れてしまっていて自立は不可能。それを修復できたとしても、ご神体を守る廟も、今は元の姿を見る影もない残骸と化している。
「どうしました?」
 黙ってしまったまま、清江はどこかここではない場所へ思考を飛ばしているようだった。流文の声で慌ててここへ戻ってきたような、間があった。
「いや。いい。そうだとしても、残ってただ朽ちていくだけだった神の力が、別の魂と結びついて新しい神を生んだのなら、悪いことではないさ」
「あなたらそう言ってくださると思いました」
「うん」
「元には、戻してやれませんね」
「そうだな。我々の範疇ではない。それにもうここには、……とっくに誰もいない」
 言葉の最後に、清江の眉間はぐっと寄せられた。憐憫の思いを、そこに込めるように。
「清江? 何か……。もしかして、私が天上できない理由は、ここにあるとか」
 清江の常ならぬ様子から、流文は半分当てずっぽうを言った。しかし、清江はそれを否定しなかった。
「……可能性がある」
 先ほどからの彼の思案は、これが原因であったようだ。何に思い至ったのか。まだすぐには話してくれそうにはない。
「まさか……、でも、どうしてでしょうね」
「君が仙力を得たのが、確かにここならば」
「間違いないです。この神像にも覚えがあります。あなた、何を知っているのです?」
 問いたかったのは、むしろ知っているのならなぜすぐに言ってくれないのかということだったかもしれない。
 その思いは表情にも出ていたのだろう。一度目を合わせてから清江は、心を決めたように一つ大きく呼吸した。
「思い当たることがある。一度天界に戻ろう」
「あ、はい」
 いよいよ険しくなった表情の清江は、流文の体を攫うようにして、天界につれて行った。


 ◇◇◇


 清江が何に思い至っているのかをすぐに聞きたいのに、重い空気がそれを簡単には許さなかった。流文は、しばし彼の様子を見守りながら、声をかける機会が訪れることを待っていた。つい握ってしまっていた手が痛みを帯びてくる。
 やがてもう一度清江が重く息を吐き、「そうだな」と、流文でない誰かに聞かせるようなつぶやきを落としたとき、やっと口を開くことができた。
「どういう、ことでしょうか」
 どんな問い方がよかったのか、それはわからない。清江はまた少し苦い表情で、
「待て、順番に話そう」
 詰め寄りたい流文から少し距離をとるように顔をそむけた。
「すみません」
 変わらず、清江の面持ちは硬く、白い頬が更に透けるように見えた。
 長椅子に二人、並んで座ることになったのは、清江が言葉もないままそこに座ったからだ。習って流文も腰を掛けた。ここでいいかと確認のため清江を見たら、ひとつ頷かれたのでそのまま話を聞くことにする。
「昔話をしよう」
 清江はそう切り出した。
「今から、ざっと千年前の話だ。当時私は天上してやはり千年。それなりに格のある神として扱われていた。当時は人の信仰心が篤い時代で神がよく誕生していて、私はとっくにそれらのお守りをする立場ではなくなっていたのだが、ある地上の戦を収める命を受けた若い神を補佐する役目を賜った。その神は風神。名を玉風と言った。恐らく、先程の廟の主だ」
「ああ、なるほど」
 相槌を打って、話がひとつ頭の中でつながった。
「彼は見事戦を収め、その徳によって信仰され、一時期力を得ていた。しかし、奔放すぎる性質が災いして、……天帝の怒りを買い、それに反発して天界を出、その後戻らなくなった。謝罪すれば戻れたものを、意地を張ってそれをしなかったため、再びの天上を禁じられた、ということがあった。おそらく、それが君に影響しているのではないかと思う」
 ここまでで、もう結論に達してしまったようだ。しかし、この話ならば先程すぐに聞かせてくれてもよかったのではないかと思うのは、浅はかだろうか。
 そこまで考えて、これだけではないのだと察する。でなければ、清江がああも言いにくそうにする理由がわからない。このまま話をしながら聞き出すことはできるだろうか。
「それならば……、納得です。つまり、その風神の残った力に助けられて仙になった私には、その方にかけられた禁も働いてしまっているということですね」
「ああ。恐らくは。まさか、彼の罪が君に引き継がれてしまうなど、思いもしなかった。天宮で調査しても、わからないはずだ。君が彼の力を得ているなんて、……今の天帝では感じ取れなくて当たり前だ」
 我が事のように深刻にうなだれる清江の姿は、見ているこちらが気の毒になるほどだ。
「先の天帝は、天意に背く者をすいぶんと嫌っていた。ご自身の力の弱まりを感じて、天界の乱れを懸念しておいでだった」
「今は、先の天帝は、もういらっしゃらない……?」
「ああ。譲位と共に、退かれた。つまり、消滅だ」
「……そう、ですか」
 禁をかけた本人が存命ならば、話は簡単だ。呪いはかけた者なら容易く解ける。しかしそうではない場合、厄介なのかもしれないと、清江を見ていると察することができた。
「まあ、とにかく原因を突き止められたんです。天宮へ報告しましょう。御子息の現天帝ならば、どうにかしてくださるかもしれません」
 努めて前向きに言った流文の肩を、清江が強くつかんだ。
「その前に、君に謝らねばならん」
 がしりと大きな手が両肩を捕らえて、流文は身動きが取れなくなった。それは彼の力のせいというよりは、彼らしからぬ、強い感情によってなされた行為に戸惑ったからだ。
 じっと、深淵を覗くような清江の目が、流文を見つめる。悲痛そうな表情は、ここからが話の核心であることを語る。
「なぜ、あなたが謝るのです?」
 問いかけずにはいられなかった。心当たりがないからだけではなく、根拠のわからない強い胸騒ぎを覚えていた。
「すまない。責の一端は私にある」
 重苦しい一言に、騒いでいた胸が今度は固まったような気がした。
「……それは、どういう?」
「あの時、私が玉風をうまく導いてやれなかったせいだ。私は彼の一番近くにいたのに、何もしてやれなかった。それが、君にまで及んでしまった。すまない」
 絞り出すように言って、清江はそのまま流文と目を合わせずに、頭を下げた。
「待ってください。話が飛んでいませんか?」
「この件、私が責任をもって解決する。共に天宮へ行く。いいか」
「は、はい」
 訳の分からないまま、また抱きしめられ、強く口づけられた。触れた清江の唇は、熱いほどだった。
 ふと彼の腕の中で浮かんだ仮説が、流文の胸を痛いほどに締め付けた。
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いじめられ続けた僕は、ある日突然、異世界に転移した。 けれど、勇者として歓迎されたのは、僕を苦しめてきた“あいつ”の方。僕は無能と決めつけられ、誰からも相手にされなかった。 そんな僕に手を差し伸べてくれたのは、冷酷と恐れられる騎士団長・ジグルドだった。 なのに、あいつの命令で、僕は彼に嘘の告白をしてしまう――「ジグルドさんのことが、好きなんです」 それが、すべての始まりだった。 あの日から彼は、僕だけをまっすぐ見つめてくる。 僕を守る手は、やさしく、強くて、どこまでも真剣だった。 だけど僕には、まだ知られていない“力”がある。 過去の傷も、偽りの言葉も超えて、彼の隣にいてもいいのだろうか。 これは、いじめられっ子の僕が“愛されること”を知っていく、嘘と覚醒の物語。 全8話。

巻き戻りした悪役令息は最愛の人から離れて生きていく

藍沢真啓/庚あき
BL
11月にアンダルシュノベルズ様から出版されます! 婚約者ユリウスから断罪をされたアリステルは、ボロボロになった状態で廃教会で命を終えた……はずだった。 目覚めた時はユリウスと婚約したばかりの頃で、それならばとアリステルは自らユリウスと距離を置くことに決める。だが、なぜかユリウスはアリステルに構うようになり…… 巻き戻りから人生をやり直す悪役令息の物語。 【感想のお返事について】 感想をくださりありがとうございます。 執筆を最優先させていただきますので、お返事についてはご容赦願います。 大切に読ませていただいてます。執筆の活力になっていますので、今後も感想いただければ幸いです。 他サイトでも公開中

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

転生したら、主人公の宿敵(でも俺の推し)の側近でした

リリーブルー
BL
「しごとより、いのち」厚労省の過労死等防止対策のスローガンです。過労死をゼロにし、健康で充実して働き続けることのできる社会へ。この小説の主人公は、仕事依存で過労死し異世界転生します。  仕事依存だった主人公(20代社畜)は、過労で倒れた拍子に異世界へ転生。目を覚ますと、そこは剣と魔法の世界——。愛読していた小説のラスボス貴族、すなわち原作主人公の宿敵(ライバル)レオナルト公爵に仕える側近の美青年貴族・シリル(20代)になっていた!  原作小説では悪役のレオナルト公爵。でも主人公はレオナルトに感情移入して読んでおり彼が推しだった! なので嬉しい!  だが問題は、そのラスボス貴族・レオナルト公爵(30代)が、物語の中では原作主人公にとっての宿敵ゆえに、原作小説では彼の冷酷な策略によって国家間の戦争へと突き進み、最終的にレオナルトと側近のシリルは処刑される運命だったことだ。 「俺、このままだと死ぬやつじゃん……」  死を回避するために、主人公、すなわち転生先の新しいシリルは、レオナルト公爵の信頼を得て歴史を変えようと決意。しかし、レオナルトは原作とは違い、どこか寂しげで孤独を抱えている様子。さらに、主人公が意外な才覚を発揮するたびに、公爵の態度が甘くなり、なぜか距離が近くなっていく。主人公は気づく。レオナルト公爵が悪に染まる原因は、彼の孤独と裏切られ続けた過去にあるのではないかと。そして彼を救おうと奔走するが、それは同時に、公爵からの執着を招くことになり——!?  原作主人公ラセル王太子も出てきて話は複雑に! 見どころ ・転生 ・主従  ・推しである原作悪役に溺愛される ・前世の経験と知識を活かす ・政治的な駆け引きとバトル要素(少し) ・ダークヒーロー(攻め)の変化(冷酷な公爵が愛を知り、主人公に執着・溺愛する過程) ・黒猫もふもふ 番外編では。 ・もふもふ獣人化 ・切ない裏側 ・少年時代 などなど 最初は、推しの信頼を得るために、ほのぼの日常スローライフ、かわいい黒猫が出てきます。中盤にバトルがあって、解決、という流れ。後日譚は、ほのぼのに戻るかも。本編は完結しましたが、後日譚や番外編、ifルートなど、続々更新中。

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