黒霧の盾は最果てに在り

桂葉

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四章

狂人

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 一応、都には定期的にこちらの様子を報告する義務がある。それに則り、沖憲は魔や采家について、そして黒霧の仙の存在を文に書き記した。
 数日して届いた帝直々の手による文には、引き続き対策を進めるようにという命に加え、魔仙という言葉があると情報があった。古来より、仙は魔を祓う、封じる、斬るといったことをひとつの目的にしているが、中には魔との戦いにおいて精神を喰われ、自身が魔と化してしまう仙が存在するのだそうだ。魔力の強い剣を扱うのならば、それの可能性があり、林迅についても危険と思われるという旨の文だった。
 沖憲は、文から目を離し、うんと唸った。
 確かに、遠からずという気もする。しかし、この情報だけで彼の全てを断定してしまう気も、沖憲にはなかった。
 改めて言葉を交わしたところ、愛想は皆無だがごく普通の青年と変わらぬ様子だった。むしろ、仙によくある居丈高な態度はなく、かといって何か卓越しすぎて掴みどころのない雰囲気でもなく。ただ人嫌いといった類の、実に人間味のある理由から他者との接触を避けがちであるように見えた。
 咄嗟に掴んでしまった手も、また、普通の武人のものと相違なかった。沖憲よりも少し高い体温と、骨ばってがっしりとした手。沖憲らと同じように息をし、地に足で立ち、感情によって表情を変える、ひとだった。
 くっきりと黒い瞳は、鋭く沖憲を見据えてきた。
 沖憲の行動に対する非難もあり、驚きもあり、そうでいてこちらの本質を見定めるような鋭さもあった。それで、彼の領域に足を踏み入れることを許されたのだから、光栄なことである。
 今一度会いたいと強く願いながら、それが叶う可能性は五分五分くらいに思っていたのだが。
 きっかけをあの規則破りの痴れ者が作ってくれたと考えると、皮肉なものだ。だからといって罰を軽くするつもりはないが。
 文を片付けた沖憲は、ハハと軽く笑いを零した。誰もいない部屋だ。多少の奇行は許されていい。
 笑ったのは、自分自身に対してだった。一人の年若き仙に、思いの外心惹かれてしまった自分。興味はそれだけに留まらないのかと、既にその先を意識し始めた自分に、笑えたのだ。これはどういうことなのかと。
 ただ、それを認めるのは今はよしておこうと思った。
 実に単純な答えに収めようと思えばできたが、それではまだ面白くない。そんなものじゃないと、言い張ってみたかった。
 いい歳の男が、今更何をどうせよと言うのだ。だから、そうではない方向で、沖憲は状況を楽しみたいと思った。
 何か、あの仙がハッと振り返るような、沖憲を認めざるを得ないような何かを、けしかけてみたい。雑魚には雑魚の意地があると、見せつけてやりたいという思いが、今は沖憲の胸を熱くしていた。


     ●


 その後は悪天候でない限り、満月の夜には必ず采景香と共に荒野へ赴くようになった。魔が出るとは限らずとも、その可能性が高いなら待ち構えたい。
 彼女にも先日のことは話し、情報の共有はできている。しかし、沖憲個人の感想はできるだけ差し控えた。また林迅は姿を現してくれると思っているし、女仙には女仙から見た林迅の姿もあろうから、あまり決めつけてしまうのは良くないという考え方だ。万一彼女が彼女の基準で林迅を見、そこで武人としてではない感情を得、それを林迅が受け止めるなどと言うことがあっても、沖憲には口出しできないことだと思っている。
 仙には仙の、在り方がある。そういう意味では、人などどうあがいてもつまらぬ存在でしかないことは否めない。まして林迅が同じ目線で沖憲を見ることもまた、ないのだろう。所詮守られる立場だ。それでも意地を張りたいのは、沖憲だけの、本気の腕試しであり、意地でもある。
 それでいいのだ。なんでもいい。この心が燃える理由があるならば、乗じて成すべきを成すのみ。与えられた十年を、ただお役目として勤めるだけでは物足りないと思うまでだ。
 さて暦を見れば、今月はあと四日で月が満ちる。兵たちには瞑想などの精神鍛錬を強化しつつ、皆に霊剣も生き渡ったところだ。まだうまく扱いきれぬ者もあるようだが、今回からは小隊を一つずつ伴って実践を試みようかと思っていた。
 そもそも、月の満ち欠けに関わらず、夜には雑多な妖魔に出くわすことが多い。それを祓うだけでもいくらかは魔を増大させぬ効果があるのだろうと思っている。
 同行させる隊には、明日の朝議で命を下さねばならない。副将はやはり伴貫か、あるいは一度荘宜にも経験させようかと思案していたところだ。
 スイと空を切って飛んできた一羽の霊鳥が、窓辺に降り立った。翡翠色の羽根を持つ鳥の片足に付けられた結び文に気が付き、沖憲はそれを急いで解いた。
 文には采家の紋が押されており、内容はこうだった。
『北の荒野に魔、現る。直ちに来られたし』と。
 たちまち鼓動が大きくなった。沖憲は勇ましく立ち上がり、扉の外に控える兵に言った。
「出陣だ! 支度のできた者から門に集合せよ!」
 と。




 門を出ると、既に東北の空が暗く垂れこめた雲に覆われていた。それが果たして雲なのか、そうではないもっと凶悪なものなのかは、現地に到達してみないとわからない。
 返信は霊鳥に託したから、もうとっくに先方には届いていることだろう。沖憲らを頼るというのは、それだけ手に負えない魔なのか。だとすれば林迅は来ないのか。
 当てにしたくないと言いながらそんなことを思うのは大いなる矛盾だと弁えている。しかしやはり気になった。もしも先日沖憲がしつこくして林迅の機嫌を損ねてしまったせいで、助けに来なくなってしまう可能性があるなら、その責任は取らねばという思いもあった。
「ただいま加勢に参った!」
 戦地に辿り着き、沖憲は兵を鼓舞するように大声を上げた。
 そこでは既に仙たちが、黒い魔に纏いつかれそうになりながら戦闘を繰り広げていた。
「大事ないか」
 その先陣で剣を振るう采景香に声をかけると、笑みを交えて平気だと返った。まずは一安心だ。
 魔は黒き淀みとなって、蠢きまた漂いながら、まるで実体のない様子で仙たちをかく乱する。ひとまとまりにでもなってくれていれば集中攻撃もできようもの、なかなかに戦い辛い様子だ。それで沖憲にも援軍要請があったのだろう。
 ここで、少しは腕を見せたいところだ。役に立つとまではいかずとも、多少の時間稼ぎくらいのことはしたい。
 沖憲が腹の底から上げた号令で、自軍の兵たちが一斉に魔に斬りかかる。慣れぬ者は隊の後方に控え、前線で取りこぼした魔を斬れと指示を出していた。
 沖憲もまた、新しい剣での初陣である。すらりと鞘から抜き、その霊力を我がものと感じ、強く握りしめてから大きく掲げた。
 剣を振るうたび、ズシャリと湿った音がする。当たれば多少の手ごたえがあり、魔は消える。しかし、感覚としては蜥蜴の尻尾切りで、魔の本体を弱体化させるところまでいかない。
「戦いづらい相手ですな」
「ああ。見ての通りの苦戦。恥じ入るばかりだ」
 采景香は、悔し気に肩をすくめた。仙家でこうなのだから、沖憲たちが役に立たないのは当然と言えば当然。
「林迅は、来ませんな」
「リンジン……、ああ、あの仙ですね? 名を御存じで」
「ええ、先だって聞き出しました。ですがどうも嫌われましたな。この状況に、手助けをくれぬとは……」
「そういうことでは……」
 将軍同志、背を預け戦いながら言葉を交わしていたところ。
「あれは!」
 兵の一人が叫んだのと、一瞬月光が遮られ、目の目が暗くなったのとが同時だったように思う。
「ひっこんでおれ!」
 林迅の声が、辺りに響いた。彼にしては威勢のいい大音声に、一瞬沖憲は戸惑う。
 しかし同時に歓喜した。やはり、見捨てずに来てくれたのだと。
「林迅殿! 加勢、痛み入る!」
「いいから下がれ! お前も斬られたいか」
 歯切れのいい声だった。そして目の前には、黒い炎を全身に纏う林迅が立ちふさがった。
「……!」
 通常の炎ではないことは、さすがにわかった。例えれば闘志、殺気というようなものが、林迅の体を炎で包むように立ち上がっていた。
 チラと振り返った彼の表情は、これまでに見たものとはかけ離れていて、沖憲は目を見張った。
 笑みさえ浮かべている……?
 しかもこの上なく好戦的な笑みだ。目は鋭く熱く、狂喜に煌めいて見えた。
 過去二回会ったうちの、一度目は静かに冴えた無表情だった。二度目は不機嫌そうにツンとした仏頂面だった。そのどちらもが林迅の常だと思っていたが、ここで全く別の顔が見られたのである。
 少し、ぞっとした。これは、本当に、あの林迅なのか。
「やはり、彼は来ましたね。これで……我々の出る幕は終わりです」
 采景香が、皮肉交じりに、しかし安堵もした表情で言った。
 彼女もまた仙たちとともに林迅の背に守られ、剣をそっと脇に下ろす。その精悍な顔には苦笑。完敗を認める表情だった。もちろん、林迅に対しての敗北である。
「ご覧になるといい。彼の前には我々など、……、赤子のようなものでしょう」
「……」
 采景香が赤子なら、やはり沖憲らは虫かそれ以下なのかもしれない。
 しかしそんなことはもうどうでもよかった。目の前にいる林迅もまた彼本人でありながら、しかし存在は「黒霧の仙」。この姿が本来そう呼ばれるべき彼なのであろう。手に握られた大刀は、ゴウと呻きのような声を発しながら、確かに黒い、霧のような煙のような……、焔のようなものを吹き上げている。
 魔よ、来い。出でよと咆哮するように。
 そしてそれを御する林迅もまた、同じ黒い炎に身を包んでいる。
 きっかけは何もなかった。ある時林迅はひとつ、大きく呼吸した。
 その次の瞬間、彼はそこにはもういなかった。逃げたのではもちろんない。魔に向かってものすごい速さで疾走したのだ。
 彼は刀とその身をもって魔を斬り捌いていく。刀は振るえば振るうほど激しく霧を放ち、魔を両断した。沖憲らがそれをしても魔はまた斬られた先で一つの塊を成し、再生していたが、今は違う。再生させる猶予を与えず林迅が切り刻むので、形を成さなくなった部分から魔は力をなくし、灰のように消えていく。
 林迅が走り去ったところから、少しずつ魔は薄らぎ、散り、瞬く間に消えて行った。
「もっと来いよ、俺に斬られに!」
 林迅が、魔に向かって叫んだ。その目はギラつき、正気を失っているようにさえ見えた。楽し気に笑んだまま、その目はそれだけで魔を射殺さんとするように見開かれ、いっそあでやかなほどに大ぶりで派手な身のこなしで、どんどん魔を「喰って」いく。
「足りねえぞ! 出てこい!」
 およそ別人だと、沖憲は思った。知らず、ゴクリと固唾をのむ。
 林迅から目を離せないまま、同じように隣で凄惨なほどの光景を見守っている采景香に、声をかけた。
「采殿、貴殿が見たのは、この林迅殿だったのだな」
「ええ。そうです。どちらが魔か、わからぬと思いました。しかし確実に彼は魔のみを斬り、我々は守られたのです」
「……納得した」
 いっそ魔に魅入られたのではと目を見張る。敵味方の区別なく、その場にあるものは残らず斬り倒していきそうな覇気である。だが、仮にそうであったとしても沖憲が軍をもってそれを誅することはとうてい不可能だ。このまま呆然と彼の戦いを見届けそして、戦いの鬼と化したのならその彼に、我々の命は奪わないでくれと願うことしかできなかっただろう。
 戦いは、四半時ほどで片付いた。残ったのは冷たい風以外に何もない荒野と、無力に立ちすくむ沖憲ら。そして、月に向かうようにして立つ、林迅の黒い後ろ姿だった。
 彼はさすがに肩で息をしていた。当然人にはできない運動量、そして魔を斬り割くために使った気も計り知れないことだっただろう。明らかに前よりも強大な魔だった。それを、たった一人でこの短時間で一掃したのだ。
 彼と刀から立ち上る黒いものが少しずつ静まってくるのを見、沖憲は声をかけるべく林迅に近づいた。しかし、
「来るな!」
 一声を発するまでに、鋭い拒否を食らった。足は止めたが、沖憲としてはそれで引き下がるわけにもいかない。
「助かった、林迅殿。やはり貴方の手を借りねば、どうにもならなかったようだ」
「来るな!」
 再び激しく言われ、困った。それとともに、今怒鳴ったのは先程のような烈火に似た林迅ではなく、あのぶっきらぼうな彼であることに気が付いて、ほっとする。
 彼の変貌ぶり、戦い方の違いを目の当たりにし、いろいろと納得したとともに、また疑問もわいた沖憲である。できるならもう一度話をしたかった。
「林迅殿?」
 根気強くまた名を呼んだが、ついに林迅は、そのまま目も合わせずに走り去った。
 まだ礼もろくに受け取られていないままだ。沖憲は彼を追うことにした。またろくに話をさせてくれないのかもしれなかったが、そうせずにいられなかった。
 軍を退かせた沖憲は、伴貫と荘宜に先に砦に帰らせ、自らは反対方向に馬を走らせる。
 拒む者を追うなど愚かしいとは思ったが、林迅が姿を隠さず走り去ったのが気になった。本当に拒んでいるなら、目くらましでもかけてその場で消えてしまえばいい。それをしないのは、追う余地を残したということか、あるいは魔との戦いで気を使い果たしてしまったせいか。
 結界との境界は、あっさりと通ることができた。
「ついてくるなと言っているだろう。帰れ!」
 門の前で立ち止まり、林迅は怒鳴った。
 改めて月明かりの下で見る林迅は頬を赤く上気させ、まだ肩で息をつきながらかなりの興奮状態である。体も火照っているのか、近づけばいくらか熱を感じる。汗の滲む顔をしかめ、やや苦しそうにも見えた
「具合が悪いのか。まさか魔に犯されたか」
「放っておけ。いいな、この場で、直ちに帰れ!」
 言い放ち、林迅は逃げるように邸の中に入ってしまった。
 ここまで追わせておいて、拒否。辻褄の合わない林迅の態度に、やはり首をかしげてしまう。
 あの状態は、あまり良いものではないのだろう。鬼気迫る戦いそのものはともかくとして、狂気さえ孕んだ彼の目が、どうしても心に引っ掛かったままだった。あれが収まるまでは自身を危険視でもしているのだとすれば、やはり彼が自覚するほどには、常軌を逸した状態であることは間違いない。
 戦いの最中からはいくらか冷却されたようだから、今なら、ある程度の危険から身を守ることはできるだろう。彼に理性が失われていないのであれば。本来の彼は、敵とみなす者以外に無暗に危害を加える男ではない。
 一呼吸だけ置いて、沖憲は邸の中に入ってみることにした。
 前にも思ったことだが、ここには侍女一人の気配すら感じ取ることができない。本当に彼しか住んでいないのだろう。練られた仙は霞を食って生きていけるものだそうだから、特に世話もかからないのだろうが。
「林迅殿、おられるか」
 鍵もかかっていないままの内門を開け、邸の玄関に向かって声をかけた。しかし、予想通り返事はない。だが確かにここにいるという予感はしていた。気配というのだろうか、彼の昂った気がこの先に留まっているように感じた。
「無礼を承知で入らせていただくぞ」
 一際大声で言った。この声が聞こえなかったとは後から言わせないためだ。
 躊躇わず、沖憲は足を進めた。回廊を辿って、彼のいそうな部屋を探す。そう広い邸でもないので、一番奥の部屋まではすぐに行きついた。そこだけが戸を閉めていたので、逆によくわかったと言ってよかった。
 戸の前で沖憲が足を止めたことは、気が付いているはずだ。
「林迅殿? 具合はいかがか。大事ない……」
「入るな!」
 最後まで言わせてはくれず、ひどく尖った声が返った。先程に輪をかけ、全身全霊でこちらを拒むような険しい口調に、このような心でも多少は痛む。左程に信用されていないのかと。
「確認させてくれないか。先程の戦い実に見事であったが、どうもいつもの貴方ではなかったように見えた。何か悪しきものに取り入られてはおらぬかと……」
「いいから、放っておけ!」
 再びの拒否にも手加減はなかった。どうも本気で嫌がっている様子だ。話を聞こうとせずひたすらに拒絶するさまは、気難しい子供のようだ。
 まあ、好かれている自覚は当然ないが、ここまで嫌われてはおらぬと思っていた。甘い考えだったか。
「そうか。どこかの部屋で少し、待たせてもらえないか。やはり貴方が心配だ……」
「……っ。……、……、……」
 半分は独り言を聞かせるつもりだったその言葉に、また違う声がかぶさって、沖憲は続きを継げなくなった。
 いやこれは、声という穏やかなものではなかった。
 呻きに近い、苦し気な声だった。そして、荒い息遣いさえも聞こえるようだった。
「いかがした、林迅殿!」
「……ぁっ!」
「おい!」
 鍵がかかっているならばぶち破る気で、戸を強引に引いた。しかし戸はあまりにも容易く開いた。
「来るなって言ってんだろうが!」
「そうは申せど、只事ではないだろう!」
 押し問答にもならないような噛み合わないやり取りをしながら、部屋の奥に大股でのりこんだ。
「来るなって! もう! よせ!」
 もはや泣き声にも聞こえる声が叫んだのと、衝立を押しのけたのが同時だった。
 目が合った。
 まさに涙さえ滲む瞳と。しかしそれは苦痛や悲しみの涙ではないことは、彼の状態を見て本能が悟った。
 これは……。
 そのあまりの惨事に、驚きと疑問とそして情が、ないまぜになって乱れた。
 男ならば一目でわかるその状態。床に脱ぎ捨てられた内袴の白さと、同じだけの白さで濡れそぼる白い腿が沖憲の目に焼き付いた。しどけなく乱れた上衣、解かれることもなく緩んだ帯と、乱れた黒髪。取り乱した表情にはまだ火照りの冷めない赤みが差し。体の中心に添えられた手の、白きもので濡れた様子が生々しかった。
ぐらりと、何かが鈍く頭の中で捻れたような、眩暈がした。
「し、失礼、した」
 譫言のように呟くと、沖憲はあわてて衝立のこちらに身を隠した。奥の寝台に背を向け、高まった鼓動を収める術を探す。
 自分は何ということをしたのだ。これほどに私的な場所に強引に押し入って、まさか彼の自慰を拝んでしまうとは。とんでもない失態だ。拒まれて当然の状況だった。素直に止まるべきであったのに。
 同時に違う考えも浮かんだ。どうして今彼がああいった状態だったのかだ。戦というのは極度の興奮を呼ぶものでもあり、そこから性的に昂ることはある。しかしこれほど間を置かずに、なりふり構わずといったように慰めねばならぬほど強い欲求でもないと、思われるのだが。
 思い出すとこちらが煽られるので望ましくはないが、しかしあまりの驚きに、光景はくっきりと目に焼き付いてしまった。あれはもう既に何度か果てた後のようだった。おそらく沖憲を置いて去ったすぐ後に引きこもり、行為を始めたのだろう。我慢ならず、あれほどまでに乱れて、無心に体の欲と戦っていたのだろう。
 ……あまりにも淫らで、そして美しかった。
 いや、そうではなくて。もしやあの戦いが彼をそういった状態に追いやったのではないか。鬼のような戦いの代償として、これがあるのではないか。
「まだ、いるのかよ」
 しばらくすると、ばつの悪そうな林迅の声がした。もう出て行けと言わないのは、秘するべきが暴かれてしまったせいの諦めかも知れなかった。
「かたじけない。少し驚いたのだよ」
「こんなクソみたいな姿見たからか? はは」
 投げやりに吐き出された言葉は、沖憲にでなくむしろ彼自身への罵倒のようだ。
「林迅殿、……その、このような私的なことを暴いてしまい、大変に失礼した。ただこれだけは言わせてくれ。貴方が心配だったのだ。何か良くないものを抱えているのではないかと」
 言い訳にしか解釈されなかったのだろう、また、乾いた空笑いが聞こえた。
「確かによくはねえだろうな、これは。あんたの予想は的中だ」
 節々に嘲笑を交えた言葉。今日に限って口数が多い。
「やはり、あの戦いのせいなのか。前に貴方の戦う姿を見た時はこうではなかったように記憶しているが」
 もっと静かで、優美なほどの戦いだったはずだ。そこに見惚れたのだから。
「少し度を超すとこうなる。今日の魔は強かったってことだ」
「刀が燃えたように見えた。貴方の体も」
「その辺が全部繋がってる」
 なるほど、もしやこれのせいで林迅は、他の仙家とも交流を断ち、一人で妖魔と戦っているのか。
だとすれば、沖憲のやらかしたことはもう、彼の逆鱗に触れたようなものだろう。それでも向こうから言葉をかけてきたのには、どのような意味があったのか。やはり、自棄になってしまったということか。
「で、落ち着かれたか……?」
「まだいるつもりかよ」
「いや、……」
 沖憲は立ち上がった。そしてそっと衝立の向こうをのぞく。
 目は合わなかった。しかし林迅の様子は先程から変わった風でもない。かるく体を拭い、肌着の襟を少しだけ寄せた程度だ。まだ、白い素足は膝まで晒されたまま。
「まだお辛いのか」
「うっせーな。見るなよ」
「林迅殿……」
 不謹慎だとは、頭がはっきりと自覚させてきた。しかし情の部分がそれに蓋をした。
 湧き上がってしまった、情に伴う欲。情がなければ、男のこのような姿に煽られるはずはなかった。
「私にできることはないか。その、自身で納められないのか?」
「……」
 素直な無言だった。まだてこずるようだ。ならばいっそこの情を利用してはくれないかと思った。
 いろいろと大義名分を掲げても、言ってみれば、惹かれたのだ。いい歳になりこんな若者に……しかも仙で男だ……特別な感情を向けるなど滑稽でならないから、言い逃れのような思い込みを貫いていたつもりだったが、簡単に言えばこれは恋だ。そしてこのような状況に乗じないほど、沖憲は達観しているのでもない。悟るとすれば、この邪なお節介を焼いた後で、平気な顔をすることだろうか。
「なあ、林迅殿。私も男だ。それでは辛いのはよく理解できる。……こういったことは、自分でするよりも他者が手を貸した方が手早く吐けることもある」
「……そうなのか?」
 あまりにも素朴な問いで、林迅は返してくる。
 女を抱いたことがないのか、あるいは互いに触れ合うような抱き合い方をしたことがないのか。
 愚かが過ぎる。しかしこのような反応をされたのでは、もう後に引く気にはなれかった。知らぬなら教えてやればいい。他者から与えられる快楽の愉悦を、えもいわれぬ充足感を。
「任せてはくれぬか。なに、男同士、恥じることもなかろうよ」
 見事な方便がするりと口を滑る。しかしそれを言えば彼が頷く予感があった。
 実際、承諾はなかった。しかし警戒心を解いた間合いが沖憲の接近を許し、彼が座り込んだ寝台の隣に腰を下ろしても、嫌がられることはなかった。ただ、恥ずかし気にうつむいた顔をむこうへと背けられただけだ。
「失礼するよ」
「……っ」
 膝まで隠していた衣の下から手を這わせ、濡れそぼったままの塊に、沖憲はそっと指先で触れた。とても、熱い。
 びくりと林迅が体を震わせ、同時に沖憲の情が強くせり上がるように疼いた。冷静に対処できると高をくくっていた感情に、今火が灯る。一度燃えればもう止められない。
 そのまま掌に包むようにすると、それはまた一際硬さを増した気がした。じゅうぶんに張り詰めた状態だ。このまま刺激を与えてやればすぐに達することだろう。
「触れ方に希望があれば、言ってほしい。恥ずかしいか?」
 耳元に囁く。髪から、彼の汗の匂いがした。
「……、っと……」
 もっと、と聞こえ、沖憲はそのまま手を動かし始めた。まあ、個人的な好みはあるにせよ、男の弱い部分は皆同じだろう。そう思い、ゆるゆると手を滑らしながら擦りあげていく。
「……く!」
「痛いか?」
「そうじゃねえ。もっと……、激しく」
「いいのか?」
「いっつももっと酷くやってる。でないと満足できねえ」
 頭がぐらりとした。この理性、鍛えるのは今か。
「では遠慮はしないよ? ああ、それともこういうのはどうだろうね。好きかな?」
 もうこうなれば好きにさせてもらえるのだろうと理解した沖憲は、寝台の足元に膝をつき、彼の足の間に顔を埋めた。女が喜ぶ行為だが、男だって同じだ。
「ああっ!」
 手とはまた違う、舌や唇、口内の感触はお気に召したようだ。一物が大きく跳ねるように反応した。これは喜び以外のものではない。先端を舌でくすぐり吸い上げると、たちまちそれは熱いものを吐いた。彼の精を飲み下し、今度は舌で舐め上げる。
「いやっ! 無理だ、今、したばっか……!」
「もっと刺激が欲しいだろう? だったらこのまま次をどうぞ。私が受け止めよう。枯れるまで」
「うそ、だろ!」
「自慰など生ぬるい。貴方は女を抱いたことはおありか? 毎度こうなるなら、手っ取り早く同侶くらい娶ればいい」
「俗人と同じにするな! 女は好かねえ」
「ないのか? では誰かとこういうことは、今が初めて?」
「馬鹿にすんな。生粋の仙なんてそんなもんだろ」
「……まあ、多くはそうかもしれんな」
 言って、舌先で先端をきつく舐める。
 林迅は背を仰け反らせて感じた。もはや自分の背を支えきれず、後ろに手をついてなんとか体制を保つ。はだけた上衣が肩から滑り落ち、白い胸が露わになった。ああ、そこも吸いたいと欲はまた膨らんだ。
 このまま抱きしめて、身体の全てに唇を這わせ、舌で舐め上げ、自分のものにしてしまいたい。竿だけではなく、身体の奥でも感じられるはずの快楽を教えたい。猛り狂った体を昇華させて、高みを見せ、この手で!この情熱で!、これでもかというほどに愛でたい。
 想いは胸に詰まり、それが体をも煽り始めた。そうでなくとも惚れた相手とこのようなことをしているのだ。こちらの身が持たなくなりそうだ。
 三度吐かせてやって、やがて林迅は沖憲の胸にもたれてうとうとし始めた。やっと、ということろか。
「いつも、何度もするのか?」
 ゆっくり支えながら林迅を横たえてやって、自分もその隣に寝転がる。
「んー? 一晩? そのうち寝る」
 とろりと鈍い声が返ってきた。
「……もしもだ。もし次もこのようなことがあって私に頼ってくれるのなら、また違う方法を試してみないか」
「あ? 他にもあるのか?」
「他にも性的充足を得る方法があるだろう……?、男でも」
「……本気か。あんた俺にそれできるのか?」
「はは。案外できるだろうと思う」
 本当は、案外どころか今すぐにでもしたいところだ。あられもない姿をこれでもかと見せつけられ、抑えるのも一苦労だ。沖憲がもっと若く盛んな年頃であったなら、このように耐えることはとても不可能だったと思われる。
「ただ、君はそこでするのは初めてだろうから、今日はできなかった。傷つけてもいけないからね」
「いいよ。治癒能力少しはあるから多分平気。しても良かったのに」
「……そうなのか? 嫌ではないかと」
「もー、何でもいいさ。これ以上かく恥もない。それより早く楽になれるんだったら……」
 あとは言葉にならず、寝息がそれに取って代わった。
 その無防備な寝顔を見て、沖憲は深くため息をついた。胸の奥に苦いものが滲む。
 そうだな。これは処置でしかないのだ。君にとっては。
 でも構わない。割り切れないほど、こちらは子供ではない。
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【完結】抱っこからはじまる恋

  *  ゆるゆ
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満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。 ふたりの動画をつくりました! インスタ @yuruyu0 絵もあがります。 YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。 プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら! 完結しました! おまけのお話を時々更新しています。 BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です! 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

青龍将軍の新婚生活

蒼井あざらし
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犬猿の仲だった青辰国と涼白国は長年の争いに終止符を打ち、友好を結ぶこととなった。その友好の証として、それぞれの国を代表する二人の将軍――青龍将軍と白虎将軍の婚姻話が持ち上がる。 武勇名高い二人の将軍の婚姻は政略結婚であることが火を見るより明らかで、国民の誰もが「国境沿いで睨み合いをしていた将軍同士の結婚など上手くいくはずがない」と心の中では思っていた。 そんな国民たちの心配と期待を背負い、青辰の青龍将軍・星燐は家族に高らかに宣言し母国を旅立った。 「私は……良き伴侶となり幸せな家庭を築いて参ります!」 幼少期から伴侶となる人に尽くしたいという願望を持っていた星燐の願いは叶うのか。 中華風政略結婚ラブコメ。 ※他のサイトにも投稿しています。

執着

紅林
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聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

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