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五章
禁忌の子
しおりを挟むあの時、冥府にて、緑汀は深い虚無の中にいた。恨むならそもそも自分を恨むべきで、そんな自分を悔やむよりも先に、ただ空虚だったのを覚えている。
死してどうなるかなど想像もつかなかった緑汀は、閻王の采配により、鬼楼へと送られた。その時点で鬼楼とは何なのかを理解していたわけではなく、提灯の導くままに辿り着いた先が、たいそうご立派な妓楼だったわけである。
「緑汀、入れ」
受付の……その頃から何丙だった……鬼に言われ、ただなすがままに入れられた部屋には、紅玉が待っていた。
妓楼になど足を運んだことのなかった緑汀、噂には聞くその場所が予想を上回る豪華さ煌びやかさであることには少々驚いた。こういった施設は、目的が決して健全なものでないとしてもいっそ厳かなほどに立派で、庶民の常識からはあまりにも遠い敷居の高さがうかがえた。
しかし、なぜ自分がそこに放り込まれたのかが分かっていない。なにやら説明された気もしたが耳には入らず、ただ死ぬときに感じた沼の冷たさをいつまでも身に染みて感じ、それがとてもつらかった。
「おいで。名は、聞いていいかい?」
手招きする紅玉の美しさには、さすがに目を見張った。女ではないとすぐにわかるのに、ものすごい艶めかしさだった。肌の透ける朱の薄衣を身に纏い、髪を肩に垂らした姿にはゾクリとした。
この状況、彼を抱いていいのだとは理解したが、とてもそんな気にはなれなかった。
今更男を抱いてどうする。あの人でもないのに。そんな冷めた思いと冷えた体が、とても欲情を燃え上がらせることをしなかった。
紅玉は色めきだつ事のない緑汀を、とても不思議がった。招いても動かない緑汀に歩み寄り、手に触れ、身体を寄せてきた。しかし緑汀は指一本動かさない。
中には多少頑なな客もいるにはいるようで、紅玉は誘いかける言葉と共に緑汀の手を取り、自身の体に導いた。頬や胸元、果ては下肢にも触れさせたが、それでも緑汀は動かない。
「おやおや、困ったね、ここに来たんなら私を抱くか抱かれるかしたいんだと思っていたけど。完全に振られたのは君が初めてだ」
肩をすくめて見せたが、そこで諦める紅玉ではなかった。彼は着ているものを全て脱ぎ去り、緑汀を寝台に引き込むと、身体の上に馬乗りになり、奉仕を始めたのだった。
さすがに、緑汀の体は猛った。体をじかに摺り寄せられ、手や口で刺激され、二度精を放った。しかしそれだけで、目の前にいる美しい男を自分からどうこうする気には、なれなかったのである。理由はひとつ。あの人じゃない。
「これでは楼主の名折れだな。君をこのまま帰すわけにもいかない。どうだろう、他に望むことはないかな」
持つ手管で吐かせたはいいが、それで役割を果たしたとは言えず、根負けした紅玉は言った。
やっと構われなくなったことに、緑汀はほっとした。
「何も。ただ、私はどうすればいいのか」
「そうだね、君ほど心を閉ざした客は初めてだ。このままでは鬼界でもうまくやっていくことはできないだろうね。餓鬼として朽ちてみる?」
「それも悪くない」
「今の冗談だったんだけど。わかった、ならここにいなさい」
「ここ、か?」
意図することがわからず尋ねた緑汀に、紅玉は楼の主の顔になり、肩にかかった髪を背に払いのけて言った。
「見たところ、利口そうな顔をしてる。ここで私のために働かないか? 君みたいな客を受け入れたり私の世話をするだけだよ。私は君に居場所を与える。代わりに君はここで使われる。この契約ではどうだ。気が向くようなら閨の相手をしてやろう。それで満足すればお役御免だ」
「……」
咄嗟には、拒むことも頷くこともできなかった。ただ、紅玉を抱くことよりもそれはずっと自分に向いた役割なのだと思った。このままどうなっても構わないとは思っていたが、ではここを出てご自由にと放り出されるとなると、ほんとうに朽ちるしかないような気がした。生前にそれほど未練もない。目の前に道があるならひとまずは辿ってみようというだけではあったが。
「どうせやることないんだったら、役に立ちなよ。ちょうど、切り盛りするだけの頭のいい鬼がいなくて困っていた。君にそれを命じたい」
紅玉の、「命じる」という言葉が気に入った。決め手はそれだったように思う。今度は躊躇いもなく言葉が出た。
「了承しよう」
「そうか。なら、成立だ。名は?」
「リョクテイ。緑の汀と書く」
「いい名だ。私は紅玉。ここの主だ。そして今君の主になった。よろしく頼む」
紅玉は、あでやかに笑った。このひとの、造形以外のものを美しいと思った初めてが、それだった。
といういきさつで、緑汀の支配人としての生活が始まったわけである。やるべき事がはっきりしているのはありがたいことだった。初めは要領を得なかったが、呆けていた頭がちゃんと働くようになってからは、緑汀は徐々に手腕を発揮するようになった。
とにかくは、紅玉が采配していたすべての雑務を一手に引き受ける。そのことで紅玉にも余裕が生まれ、彼の優美さに磨きがかかったように見えた。彼は緑汀に一言言うだけで、あとは体を休めることができるようになった。主としての貫禄もまた、その辺から生まれたような気がする。
夜毎客を迎える紅玉の妖艶な笑みは、程なくして緑汀をも魅了し始めた。当然、色香だけに惹かれたわけではない。主として、ここにいる鬼たちをとても大事に思っていることも感じられた。おおらかに万事を受け入れる姿勢は、課せられた役割とは別に彼自身の懐の深さを思わせた。そんな彼から寄せられる信頼が緑汀を強くした。
自分たちは床を交えぬ関係だと心していても、気まぐれに任せてくすぐるように仕掛けられる紅玉からの誘惑に、心奪われ。そのたびに自分を律し、また受け流せるようにもなった。
代わりというべきか、純粋に焦がれる想いは募り、しかし殺しながら、はや百年である。
この、恋えども交わらぬという状況に、想いはずいぶんと拗れたものだと思う。しかしそれも通すと決めた意地だ。今更、客と同じように紅玉を抱いてどうする。互いを繋ぎ満たすものなど情交には見いだせないのだ。
紅玉が恋うてくれねば、ただ空しいだけの欲の交換にしかならないではないか――。
ならば、他のところで心を結んでおかねばならない。なのに自分は、紅玉を遠ざけるようなことをしてしまった。
謝らねばならないかと、仕事の合間に手を止め、緑汀はここから見えるはずもない一室の方向に視線を向けた。
当然、見えるのはいつもの控室。
紅玉は恐らく、緑汀を慰めようとしたのだ。あんな風に誘うような流れをもって、決して自分に手を出そうとしないこの頑なな緑汀を、強引にでも抱え込んで癒そうとした。初めて会ったあの時のように。
そしてあの人もまた、寂しかったのだ。彼にだってたまにはそんな日もあろう。一夜限りの相手は絶えないが、彼も言う通り、本当に彼を愛して慈しみ、続く誠意を見せてくれる者は一人としていないのだから。
そう。一人として。
彼の思いを汲むのなら、一度だけと決めて応じるのがよかったのだろう。それで紅玉は何かに満足したはずなのだ。
緑汀ならば抱き合った後でも自分の傍にいると理解したか。あるいは自分にも緑汀を癒すことができると感じたかして、またいつもの距離感に戻れたのだろう。成していれば。
しかし、緑汀の方がそれに耐えられたようには思えない。一度抱いてしまえばきっと、後戻りができなくなる。百年、耐えきった紅玉への欲情と恋情に歯止めが利かなくなって、その後どうなるかなど考えただけでも末恐ろしい。
今夜の客が帰り、紅玉が休息を得た後で、言おう。
真心を拒んでしまったことを、申し訳なくと思うと。それから、何があっても貴方の傍にいて、いつでも貴方のことを一番に思っているのは自分だと、それだけを告げよう。
彼がどうとらえるかはわからないが。少なくとも彼が鬼楼の主である間は、この関係を崩すことはできないのだから。それは彼もじゅうぶんにわかっているはずだ。
もう何度も前に立った扉が、今日は特別厚く感じた。楼主個人の部屋なので、当然楼内でも最上の造りであるわけだが。
「いいでしょうか」
「うん。かまわない」
交わしたのはいつものやり取りだ。緑汀が紅玉の部屋を訪れるのには大小なにがしかの用がある。声をかければ必ず紅玉からは許可の返答があって、緑汀もそれを聞いてから扉を開ける。
その後、紅玉は別段何もなかったかのように振舞っていた。そもそもが根に持つ性格ではないのも手伝ってのことだろう。しかし、一度でも彼を退けたことは何かのしこりを残したはずだ。早めに解消しておくべきだろうと緑汀は思っていた。
「昨日は、失礼を言いました。それを、詫びに」
緑汀はあっさりと頭を下げた。
「え、なんだいそれ」
「あなたが私を気遣って下さったのを、拒みました。決して、迷惑だったわけではないのです。その……、」
「ああ、そのこと。気にしてない。気にしてない」
こういう時の紅玉は、本当に自然だ。だから、本心がどうであるかは付き合いの長い緑汀にも計りかねることがある。今がそうだ。
「……ですが、あまりうまくお伝えできていなかったと思います」
「いや。そうでもないかも」
「え」
「私が無神経だったんだろうよ。長年こうだろう? 抱き合うことの意味は、君の感じるよりずっと軽いものになっていた。それを失念していたよ。君が初めに拒んだ時、それはわかったつもりだったのに、すまなかったね。忘れていた」
「……いえ」
「ちょっと、そこに座って」
自分は寝台に、緑汀を椅子に座らせて、紅玉は珍しく男らしい仕草で膝の上に手を組んだ。
紅玉が改まって話をするというのは珍しい。だからそういう雰囲気を作られたならばすぐに感じ取れる。
「いいよ」だけで済ませてしまうつもりではないのだろう。ならばもしや今日は、このひとの心にもう少し、触れることが許されるのだろうかと思った。
「君はまだ鬼になって百年だけど、三界の禁忌というものは耳にしたことはあるかな」
切り出された話に、ここまでの流れとの関連は見いだせなかった。どういうことかと訝しみながら、緑汀は偽りなきところを伝える。
「あまり、詳しくはないのだと思います。それぞれを自由に行き来することは、今は禁じられていますよね。それから、種を超えた婚姻と、互いに強く干渉することなどもでしたか」
「まあ、そんなところ」
「それが、どうしました?」
「うん。禁忌とされるものには必ずその理由と、破った際の悲劇が付き物だ」
「……」
ここで一瞬見せた紅玉の笑みは、いつものとは違う不穏なものだった。
「私みたいに天人と抱き合っても平気な者は、まずいない。結局、行き来だの干渉だの禁じるのはさ、異種間で交わるのを禁じているんだよ。混血は混沌を生む」
「紅玉様……?」
この話を、一連のものとして語る意味は。思い、そして一つの仮説が頭をよぎった。
ハッとして、紅玉を見つめる。彼は浅く頷いた。
「……そう、なのですか」
「いわゆる、禁忌の子というやつだね」
「……そう、でしたか」
唸るように一言を漏らしてから、緑汀は口を噤んでしまうしかなかった。
ある意味心よりも重いものを手渡されて、取り落とさずにいるにはどうするべきなのかと、しばしの間考える。
「昔は今ほど、天界と鬼界はいがみ合っていなかったそうだ。ゆえに、互いを行き来しあう者も今よりは多かった。それでも、交配は禁じられていたんだけどね。とあるお偉い神様が、たまたま視察か何かで鬼界に来て、接待みたいなもので、当時は何人も妓女や男娼のいたここでお遊びして……本気で惚れちゃったんだそうだ。よりによって、楼主に」
戸惑いを隠せない緑汀をわざと置いたまま、紅玉は世間話をするような軽い口調で昔話を始める。
「楼主は当時、女だった。通い詰めるうち、彼女は孕んだ。どこでもそうだけど、格の高い妓女は簡単には体を許さないものだ。しかしそいつには、彼女は許したんだね。恋という奴だろうよ。相手に言えば、簡単に降ろせと言われたそうだよ。妓楼ならそういう子をたくさん養ってまた妓女に育てる、その一人にしてもいいとね。しかし、禁忌を犯したことに彼女は恐れを抱き、閻王に相談をかける。閻王は罪のない者を罰せない宿命を持つ。それで、生まれた子供は時期の楼主として育てられることになったという話」
紅玉は自分が母の跡を継いだ時、全ての妓娼に十分な金を持たせて解放した。そして己一人で客の相手をするようになった。同時に、一般的な妓楼のように開かれていた門戸を閉ざし、その必要のある者だけを客とし、それを癒すことを命じられた。それが、幻灯楼が現在の在り方になったいきさつであると。
「だからあなたは……」
「そ。だから、鬼でいながら半分天人でもあるから鬼を浄化できてしまう。母以上に、私はここの主に相応しいわけだ。そして、天界の汚点だから、表に出られない」
「……なんと」
「天界人と交わっても壊されない理由もこれだね。納得した?」
「ええ。そういうことなら。しかし、なぜ今私にこのことを?」
急な告白も、緑汀にとっては重さと同時に嬉しいものであった。主でもあり焦がれる相手のことを、その真実を本人の口から知ることができるのは光栄なことだ。しかし、永遠に誰にも秘する必要のあったことを、今緑汀に明かしたことの意味は、計れなかった。
「うーん。誠意、かな。昨日のことを君が気にしているなら、私も誠意を見せないとと思って。無暗に抱かそうとしてすまなかったけど、そういうわけだから、君の隠しているものを少しでも穏やかにできるかもしれないと思ったんだと、言っておきたかった。その、行為そのものとしての意味だけじゃなくて、というような話で。君が気遣いといったものの正体を、このさい知っておいてほしかったのかもしれないね」
「紅玉様……」
思い知った。紅玉が鬼たちに施していた行為の本当の意味を。それは結果ではなく真の目的であったのだ。紅玉と肌を重ねることを軽んじていたのは緑汀の方だった。
「ふふ。でも、君を落としたいのは変わらないよ。こういう真面目な話でもあるし、床で乱れる君が見たいっていう好奇心もある」
「ちょっと……」
「でも、むやみにするもんじゃないっていう君の常識を踏み倒す気もない。君はきっと、心から思う相手と交わったことがあるんだろう。結果は……悲しかったのかもしれないが、その記憶を拠り所にしているんだろう。それを汚してはいけないね」
だから自分が悪かったのだと、紅玉は言った。しかしそこにもまた誤解があった。
これを正す必要がどこまであったのかはわからない。それでも緑汀の心には痛みが生まれてしまい、それすらも理解されていなかったことにひどく苛立った。
当たり前だ。自分もまたこの人に、自分自身のことを何一つ語ってこなかった。これまでの生きざまを捨ててしまえる鬼界であるゆえに、誰もが互いの過去について興味を持たないという暗黙の礼儀が存在していて、緑汀もまた敢えて語りはしないし紅玉が強引に尋ねてくることもなかったからだ。それ以前に、紅玉が自分の過去などに興味を持つなどとは思ってもみなかった。だから、どれほど認識が違っていても当然と割り切っていた。これまでは。
「……ありませんよ」
「え」
「一度だって、ありません。あの人には、一度も触れてない!」
癇癪のように言って、そうしながら長年押し殺してきたものが急に溢れ出したことに気が付いた。
これはよくないと思ったが、止められるものでもなかった。
今。紅玉への心が揺れ、恋が恋として叶わぬことをまた嘆く想いと共に、過去に叶えられなかった恋の味が、まるで墨を零したように昏く胸に広がったのだ。
「……そうか。ごめんよ、本当に私は至らないな。無礼にも程があった。許してくれ。私には、こんなことをしているくせに私には、恋が分からないんだよ」
「いえ……」
不覚にも涙が込み上げた。
生きていた頃も、一度だって叶えようとしなかった。同じ河で水浴びをした時も、酔って絡んでくる兄を受け止めた時も、嫁を貰うんだと頬を染めた兄を見た時も、それだけはしてはならないと自分を戒めて。ただ兄の平穏な幸せだけを望んできたのに。取り返しのつかない過ちを犯し、苦しみの中で息絶えるような人生だった。兄に不義の子を押し付けて自分は。何もできないまま死んだ。結局兄にさえ、不幸の一端を残しただけの人生だった。
兄を好きで何が悪かったんだ。自分より少し高い声が、白い肌が、母に似た笑みが、左利きが、誠実な性格が、不器用な優しさを持つあの人が好きだっただけだ。義姉などではなく、兄を抱いて失う命だったならどれだけ救われただろう。
自分の名を呼んで笑んでくれる兄を、兄としての彼を失いたくない一心で恋心のすべてを封印していた、その対価が今の自分。
恋など叶えて何になろう。叶わぬ恋に身をやつして何になろう。
自分には何もできない。何も……想う相手にさえ自分は、一つも幸いを残せないじゃないか。今もだ。
恋い焦がれるほどに、もう、穏やかでいられる自分ではないのだ。
「緑汀。すまない。本当に……」
「貴方のせいではありません。すべては私の……つまらない宿世のせいでしょう」
「そんなことを言うもんじゃないよ。君はもう許されていい。私などが言う言葉ではないんだが、他に君にそれを言ってやれる者がいないなら、私に言わせてくれ。君はもう、悲しみに囚われていなくてもいいんだ」
丸めた背に、覆いかぶさるように紅玉のぬくもりと香りを感じた。
温かいと思った。この手に包まれれば、誰もが癒しを得るだろう。そして自分を許せるのだろう。もう、いいと。
「紅玉様。私を捕らえていてください」
「え?」
「転生などしてもまた同じ業を背負うのなら、永遠にここにありたい。あなたのお傍にいさせてほしい。それをお許しください。他には何も望みません」
叶えて壊れるのなら叶えないままでいい。ただこの、恐ろしいほど美しく、そして寂しい貴方のことを、誰よりも傍で、慈しみ愛していたい。ただ一人をただ愛していても許される場所が欲しい。
「謙虚だなあ」
泣き笑うように、紅玉は言った。背に響く声で。
「いいよ。いつまでいてもいい。嬉しいね、ずっと一人にならなくていい確約ができた」
やはりこのひとは、人を許す力がある。心から感じた。
そして、その力はどこから来るものかを知った。
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