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終章
散華
しおりを挟む約束したとはいえ、胸のつぶれる思いで待っていた緑汀の前に、紅玉はすぐに戻ってきた。
このひとは、誤魔化しやはぐらかしをすることはあっても、約束を違えたことはない。しかし事態が事態であり、先程交わした言葉をただの言葉としか受け止められなかったのだ。再び姿を見ることができた瞬間、緑汀は腰が抜けるほどほっとした。
しかし、待たされた鬼たちはまた、別の戸惑いを抑えられないようだ。閻魔堂に案内され、一塊になったままおずおずと周囲を見渡している。死んだときに一度来ているはずの場所だが、知っているからと言って落ち着く場所でもない。緑汀に至ってはその時の記憶さえ曖昧だ。
「桃花はどうなりましたか」
緑汀は、紅玉を案ずるとともに気になっていたことを真っ先に問う。
彼がこの場にいないのは当然としても、その後が心配でならなかった。そもそもが間者として鬼楼に潜り込んだのならある程度割り切ってもいたのだろうが、それでも一定期間同じ場所同じ主の元に仕えていた仲間だ。一番近くにいて、緑汀に恋をしていた。
結局別れの言葉さえ交わすことなくこうなって、せめてあの子が酷い咎めを受けぬようにと祈るしかできない。
「うん。天界に返したよ。私が匿ってやれたなら鬼界にいてよかったんだけど、こうなってしまっては一人にできないしね。でも天帝に約束させた。あんなへぼ上司の下じゃなくて、天帝直属の世話係に取り立てるようにと。違えば呪うと言っておいた。流石に天帝が約束破ることはないけどね」
「そう……でしたか」
「淋しいね。すまなかった」
「いえ。やはりあの子は、天にあるべきでしょう」
最後に抱き留めた時の華奢な肩の感触を思い出し、なんとも言えない気分になる。
が、仕方がなかったのだろう。諦めないと言って笑ったあの笑みは、鬼界には少し眩しすぎた。あのまま同じ主に仕える仲間としてやっていけたならば……それを桃花が良しとしたならば、時と共になにかちょうどいい関係に収まり、信頼できる配下として見ることもできたのだろうが、そもそもがそんな未来は用意されていなかったのだ。どうしようもない。
ここに連れてこられた鬼たちは、自分の身に起きていることに気を取られ、桃花についてとやかく言う者もいない。それには助けられたと思った。少なくとも彼が天界人であることを知っていた緑汀にとっては、責任も生じるところだ。たとえ知っても知らずとも、招かれた結果は同じであったとしても。
「皆、待たせたね」
一言の後、紅玉は一同の先頭に立ち、ちょうど姿を現した閻王に向かった。
「閻王。……あまりうまく立ち回れなくて悪かった」
上段の閻王にもまた物おじしない態度は、実に紅玉らしい。そしてどこか親し気な空気があるのはこの二人の場合だけだ。やはり普段から関わりの多い関係だからなのだろう。
「やむを得んだろう。天界の行き過ぎは目に余るところがある。今回鬼王も本気でお怒りだ。重く受け止めると申されておった」
「ああ。幻灯楼の犠牲だけで事が収まることはないだろう。が、もう私の関わるところではなくなってしまったよ。閻王にはこの後も見届けてもらおう。剥げないでくれよ?」
「自信はないのう。だがこれも儂の負った業だ。そなたの分まで責を果たすのみよ」
「重いね」
「そういうものだ」
互いを労わるような会話だと、聞いていた緑汀には感じられた。このふたりは、少なくとも鬼楼の初めから終わりを見守りまた動かしてきた。他にはわからぬ苦労もあったことだろう。交わす言葉と眼差しに込めたものは深かろうと思われた。
そしてここで、彼らもまた別れとなる。次に顔を合わせるのは、紅玉が人としての生を全うし、再びここに召されるとき。しかし恐らくその時には、紅玉の方にはこれまでの記憶がない。
「役目ご苦労だった。皆と共に人界に、降りるがよい」
少し、ほんの少し、厳めしい面構えの閻王が微笑んで見えた。
「でね、ちょっとお願いがあるんだけど」
すかさず紅玉が言った。
「何だ。聞けるなら聞こう」
「この子たち一斉におんなじ場所に転生させることできないかな。もういっそ同い年でいいし。まあ、多少ずれてた方が面白いんだろうけど」
「なぜまたそのような」
「うん。生まれ変わっても同じ場所に集いたいって言うんだよ。そこ、閻王の力でどうにかできない? ちょちょいと、なんとか」
子供だましの呪いを乞うように言う紅玉に、閻王は頭を抱えて見せた。
「紅玉……無茶を言うな。転生などそもそも神の領域だ。儂ができるのは放り出すことだけだぞ。あとはそれぞれのだな……」
「その辺知ってて言ってるんだけど。無理かなあ」
「ただ、お主が皆の業を一掃したなら、同じようにまた生まれ変わるだろう。苦しみを忘れた魂はすぐに生を得る。あとは運だとしか言えぬよ」
閻王の渋顔は、もはや苦笑になった。まるで、息子から多少の無理を言われて頷く父親のようだ。
「だってさ。どう、これで我慢できる?」
紅玉が、今度は振り返って鬼たちに問いかけた。鬼はそれぞれに顔を見合わせ、呟き合う。
「ま、仕方ないか。記憶はなくなるんだしな」
「だよな」
「やり直せるってのはありがてえ。心軽いの久しぶりだな」
「また、縁あったらな」
「ああ。神に祈る気にゃなれねえがな。あとは俺らの運と、気合で乗り切ろうや」
「おうさ。それでいいのさ」
「それじゃ、よろしく頼みます」
最後は何丙が意見をまとめた。他の皆も、紅玉を見上げて頷く。
「うんうん。じゃ、皆行っておいで」
お帰りはこちらとばかりに、役人が皆を案内し始め、紅玉が手を振る。
「え、主も一緒でしょ? でなきゃ本当に……」
バラバラになっちまうと、何丙が言った。
「ちょっとだけ、緑汀を借りたいだけ」
「私ですか」
急にまた勝手なことを言い出した紅玉に、皆がため息をつく。当然緑汀もだ。
「じゃあ俺たち待ってます。ちょっとでも縁切れないように」
「困った子たちだなあ」
それじゃあ待っていなさいと言って、紅玉は緑汀の腕を強引に掴むと、勝手知ったるように隣室へと引きずり込んだ。時を惜しんだか扉を閉めることもなく、紅玉は戸口で緑汀を留め、柱と紅玉の体の間に挟むようにして迫った。まさかこの状況で緑汀が逃げ出すことはないのだが、それを阻止するためのように思えた。
「一体何なんです?」
「別れの挨拶?」
「……そのようなもの……」
要らないとはとても言えなかった。しかし、言われてしまっては胸が詰まる。
皆が納得しても、実は緑汀はまだ転生を受け入れることができていなかった。いや、正確には転生そのものではなく、紅玉と行く先を異にすることをだということは、自ら認めていた。実に諦めが悪いのは、もはや魂に刻み込まれた因縁だろう。
先程閻王が言っていたように、転生など偶然の上にしか成り立たないのではないか。紅玉は捕えていると言ったけれども、それが叶う保証はないと言っていい。しかも記憶まで消されるのであれば、あわよくば接触できる場所に生まれ落ちたとして、どうして見つけられ、紅玉だと認識できるというのだ。それでは意味がない。今、ここまで積み重ねてきた想いをもってこの先も紅玉と共にいたいのだ。
……いたかったのだ。
「緑汀。長い間、世話になったね。感謝する」
いよいよ言葉にされ、緑汀はやはり素直にそれを受け取る気にはなれなかった。
「……よしてください、改まって」
「生まれ変わっても、君とは切っても切れない縁で結ばれたいな。君のためというよりは、私のために」
「それは、世話係が欲しいということでしょうか」
「まさか。君と離れたくないっていう意味だよ」
「……貴方、私に惚れてました? 恋が分からないって言ってませんでしたか」
「君で知ったんだよ。どう?すごいだろう?」
「まあ、嬉しくは、あります」
しかし、今ここでその告白を受け取っても。そんな思いがどうしても、緑汀を素直に喜ばせない。心通わぬのと同じことだとまでは言わないが、ここから始まるものが何一つないなんて、あまりにも詮方ない。
「ね、来世は兄弟ってどう?」
「また同じなんて勘弁ですね。うんざりです」
「おや。生きてるときは兄弟を好きだったのかい?」
「ええ。兄でした。実の兄です。絶対に手が出せないし、向こうも気が付かない。それを拗らせて、貴方のことも抱かないと意地になっていましたね。私だけのものにならないなら要らないみたいに」
これが緑汀からの告白ではあったが、紅玉はやはり知っていたようで、驚きは見せなかった。
「ようやく全てに合点がいった。でも、私だったら抱かれてあげるけどね」
「はい?」
「私は君が弟でも抱かれたいな。君の兄は朴念仁過ぎたんだろうさ。君に想われて気づかないなんてどうかしてる」
「あなたどういう倫理観してるんです」
「さあ。でも、男同士なら孕まないから問題は少ないよ?、兄弟でも」
ね?と、紅玉は嬉しそうにさえ見える笑顔で言う。
この笑みならば信じてもいいのだろうか。もう一度生を得て、互いに記憶をなくしていたとしてもまた出会い、惹かれ、想い合うことはできるのだろうか。
それがもしも叶った暁には、思いのままこのひとを想おう。誰にも阻まれる余地のないほどに愛し、片時も離れないように、この腕に抱き続けよう。
「だから、それでいこう?」
君が好きだと、紅玉は言った。これまでに聞いてきたどの言葉よりもそれは深く、胸にしみて全身を満たした。
「私が決めるわけじゃないですから」
「こういう時はさ、まずは君も言うもんじゃないの? 私を好きだって」
軽く睨んでくる紅玉が愛しくて。
この言葉を、自分もまた口にすることができる喜びに、心が打ち震えた。
受け止められるとはこれほどに幸いなのか。他が何と思おうと構わない、互いを愛しいと伝えあうことが、これほどに。
「あなたを愛しています」
紅玉が、満足そうに笑んだ。花がほころぶよりもたおやかに。
あとは言葉なく笑い合って、皆の元へ戻った。
「閻王、兄弟でなんとかして! ほんと、どうにかして!」
二人を待っていた一同を前に、紅玉は叫ぶ。閻王は呆れたように肩をすくめた。
「だから、儂の采配ではないと言っておろうに」
「なんか裏技くらいあるんだろう? ここで使わなきゃどうするって思わない?」
「わかったわかった。できるだけのことはしよう」
「言ったね? 期待している!」
勝ち誇った紅玉は、皆の注目を一身に浴びていた。
何かを諦めたまま、楼の中で滴るような艶で咲いていた日陰の花ではない、それは日を浴びて輝く大輪の花だった。その眩しさは鬼が目を背けるものではなく、むしろ惹きつけられて目を離せないほどの美しさだ。
「主、兄弟って何の話です?」
何丙が言った。この場の鬼たち全員の代弁だっただろう。
「ん-、内緒。な、緑汀?」
「……ええ、そういうことで」
紅玉が固く手を握ってきた。指を絡めて握り返す。
向かうは転生の炎の中。閻魔堂に続く間にあり、絶やされることなく燃え続ける紅蓮の火に身を投じれば、魂は輪廻の流れに乗ることができる。
焼かれることを恐れた鬼たちも、熱くも苦しくもないと保証されてやっと、そこに一歩を踏み入れた。一人、一人と炎に飲み込まれ、そして消えていく。煌めく火の粉を散らしながら、新しい生を受ける準備に入る。
最後に、紅玉と緑汀は手を携えたまま、炎に包まれた。
炎の中で、固く抱き合い唇を重ねた。
どうか、来世は。当たり前のように愛しい人を想いたい。
そしてそれが、貴方の魂であってほしい。
その後数百年にわたり、人の世に鬼が跋扈する時代が訪れたという。
人はまた、神への信仰心を篤くする。自身が鬼と化すことに怯え、また鬼に脅かされることを恐れ、神に救いを求めた。
いつの頃か、その中に一つ、少し変わった神話が生まれる。
一度鬼になった者さえも救ってくれる神がいるのだと。その神は、どんなに醜い鬼をもお許しになる。ただし、人に恋をして鬼になってしまった者しか救ってくれない。
その神は赤い衣に身を包み、赤い光をほのかにまとう、たいそうに美しい神様なのだそうだ。一説によれば、夜を司る女神だとも云われる。
しかしそれも時代と共にまた人から忘れ去られ、今となっては誰も知る者はいない。
――― 完 ―――
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