長風歌

桂葉

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五章

秘め事

 長く重いため息をつきながら肩を回したら、ゴキゴキと鈍い音がした。
今日は朝から人の出入りが多く、雪崩を起こす一歩手前の書類にもなかなか手が付かない。持ち上がる案件は相変わらず雑多で、優先順位をつけるだけでも一苦労というありさまである。机の上は書簡と木簡だらけで、卓の木肌はまだ見えてこない。
 のらりくらりと、一切の責任を蘇汎に押し付ける意向丸わかりな次官と押し問答をしていたが、最後に蘇汎が押し切って、半時に渡った話は終わった。些細な判断はこちらまで上げてくる必要はないのだ。報告だけでいい。それを全て丸投げにしてくる次官にはそろそろ怒りも頂点だった。左程の大事ではない、責任も発生しない、そういった場合には次官に任せると言い切った。どうせ利権がどうのとか、そういった面倒ごとは長官が責を負うのだから、それでいいだろうと机を叩いた。
次官はさすがに少し驚いたらしく、額に脂汗を浮かべて愛想笑いを見せ、そそくさと退散した。入れ替わりに、有伊が執務室に入ってきた。
「文が二通届いています。あなた様宛てに」
 わざわざ蘇汎にと言い添えられたのは、仕事がらみではなく蘇汎個人宛ての手紙だということだ。眉間の皺を人差し指でほぐしてから、一息ついて、蘇汎はそれを受け取る。
「どちらかから、上品なよい香りがします」
 すこしだけゆったりとした有伊の話し方には、心が落ち着く。しかし、その香りに思い当たる節があり、蘇汎はまた重ねて重いため息をついた。
「おや、お持ちしてはいけませんでしたか」
 目ざとい部下は、主人の表情の変化にも敏い。
「いや、そうじゃないよ」
 遠慮のない部下に接するのはこちらも気楽でいい。口ではそう言いながら、複雑な感情を隠すのはやめた。
手渡された文箱の中の、一つは確実に嬉しい便りだ。そういえば、月が替わったのだった。姉からの定期便である。毎月一日に書かれて、翌日かその次くらいに届くので、その頃の文と言えばたいてい姉からのものだ。急を要する内容であってはならぬため、家からの文はできる限りすぐに紐解くことにしている。
『そちらにお変わりはありませんか。こちらは皆元気です』
 忙しい蘇汎を気遣ってか、この書き出しの場合、特に気に留めるべき内容ではないとわかるように書いてくる。この後は暇のできた時に読んでくれということだ。しかし、蘇汎は後回しにしたことがない。赴任してから数通のやり取りがあるが、これからもそれを変えるつもりはない。
『いろいろと苦労もあろうかと思います。どうぞこちらのことは心配せず、お勤めに精を出してください。梅梅(メイメイ)が、少し寂しがっています。文など書いてやってはどうでしょうか』
「ああ……」
 そうだなと、蘇汎は忙殺されていた自分を悔いた。都にいる時から頻繁には家に帰れない蘇汎は、この姉に娘を任せっきりになりがちだった。おかげで赴任時に泣かれることはなかったが、やはり寂しい思いはさせていたようだ。
 蘇汎には、二十一の歳に娶った妻がいた。若い者同士、親の決めた相手との結婚ではあったが、互いに慣れないながらも思いやり慈しみ合う夫婦だったつもりだ。しかし、妻は娘を生んでしばらく、他界した。その後、既に婿を取って家を守っていた姉に、娘の梅梅を育ててもらっているような形になってしまっている。
 娘も、もうこの正月に五歳になった。少し女の子っぽさが出てくる頃だ。本当ならばそばに置いてその成長を毎日見ていたいものだが……、これまで以上に遠いこの地においては、なかなかままならないのである。
「遠すぎたな」
 自重する。なんでこうなったと言えば、二十八にもなって、既婚者でもあるのに、男に気に入られたからだ。それが自分のせいだと言い切るのは不本意であるし、少し行き過ぎた感情を押し付けてきた相手のせいだけでもないのだろう。
 ここまでするしかなかった。それで一度ご破算にせねば、いずれもっと面倒なことになると思った。後悔はしていないつもりだ。
「お休みを取ってはいかがです? 蜻蛉帰りになるかもしれませんが」
 気遣う有伊の声が、蘇汎の心中を読んだことがわかった。ごく身近な部下には多少個人的な事情は明かしてあるので、さほど珍しいことでもないが、単身赴任となった今回の人事には彼も同情をくれている。
「まあ、そうだね。もうすこし落ち着いたら」
「そうですか?」
「だが、近いうちに半日だけ休みをもらうよ」
「県府の休日くらい、一日お休みください」
「そろそろそうしたいところだ」
 と、言うにもため息が混じった。
 県府自体は十日に一度閉門し、官吏にも休みは存在する。ただ、赴任してからずっと、蘇汎は窓口が閉まっていても執務室に籠っていた。そうでもせねば、今抱えている案件を整理して進めることができないのだ。わからぬことも多く、その都度妥当な判断のためにとる確認作業が足を引っ張っていた。
「次の閉門日には、ここに鍵を掛けます。鍵は私が肌身離さず」
「容赦ないなあ」
「あなた様、ひいては民のためです」
 言い切る有伊の言葉は爽快なほどに潔い。
 確かにそうだ。蘇汎があまり疲労をためて判断を誤ると、それで最終的に痛い目を見るのは役人ではないのだ。
「わかった」
 腹をくくって、今心に決めたことは、二つ。
 まずは、あとで姉への返事を書こう。それから、梅梅にもだ。まだ先の事ではあるが中秋節には梅梅をこちらに呼び寄せるつもりだという旨を、そろそろ本人たちにも伝えておかなけばならない。
 それから、次の休みには彼女らにこのあたりの珍しいものを土産として買ってこようと思う。何を喜んでくれるかはわからないけれども、この目で見て気に入ったものがいい。それを口実に、町へ繰り出してみようじゃないか。
 ―――そして、もう一通の文は、まだ今は読めないと、そっと飾り棚の上に置いた。
 松香の落ち着いた香りは、彼がよく好んだものだ。その時の記憶が苦い痛みを伴って静かに思い出される。
「君を愛している。どうか……」
 今も。好きだった声が凶器となってこの身に迫ったあの時のことは、まだ少しも過去の思い出にはなっていないのだと。


     ●


 空は快晴。日の光は眩しく、この日を逃してなるものかと外に出かけたくなる心地よさだ。広いとはいえ屋根の下にばかりいて、手元の紙と向き合う時間が長かった蘇汎は、久しぶりに見上げる頭上が果てしなく高いこと、頬に吹く風の清々しさに今更ながら感じ入ったところである。
 こういう日は、仕事がない(正確には、しない)だけで心がスカッと晴れるものだが、今日はこの後に待つ楽しみに、心が躍って仕方がない。
 安西橋のたもとで、待ち合わせになった。相手は誰かといえば、景舜である。
 町に行くのに一人ではつまらないので、昨日彼をひっつかまえて約束を取り付けた。ものすごい驚き方をされたが、家族への土産を一緒に選んでくれと言ったところであっさりと首を縦に振ってくれたのだった。
 現地集合になったのは、景舜が一度家に寄ってから行くと言ったからだ。帰省を邪魔することになるなら遠慮すると言ったが、いつも少し寄って風呂に入るだけだと言ったので、そういうことだ。官舎には沐浴施設はあるが湯舟は管理が大変なので用意されておらず、地元出身者である官吏は実家に帰ったときにゆっくり風呂に入ることが多いという事情だ。
 ちなみに、長官舎には小さな湯桶があるので、そこで入浴も可能。蘇汎も出かける前に体と髪を清め、久しぶりの私服に着替えて出かけることにした。ふだん総髪を結い上げている髪も後ろ半分は降ろし、かなり身軽な気分だ。
 できるなら共をつけた方がよかったのだが、帰り道は景舜と一緒になることを考え、行きは一人で出てきた。こんな自由はどれだけぶりだろう。都育ちの蘇汎にとって、地方の町はこれが初めて。町と言っても幾分のんびりとした雰囲気は、目に優しく心にも穏やかだ。
 橋に着き、大人げないほど落ち着きのなくなった心を深呼吸で鎮めていると、ほどなくして横から声を掛けられた。
「えっと、蘇汎?」
 名を呼ばれて振り返る、それもまた普段はなかなかないことで、ふっと顔がほころんだ。
「俺、遅かった?」
 待ち人は、そう言って少し眉を下げた。
「いいや。私が早かったのだろう。つい、はしゃいで出てきてしまったからね」
「そ。ならよかった。それにしてもあんたさ……」
 景舜が、一通り蘇汎の上から下まで丁寧に眺めて、今度は苦笑いを見せた。
「何か問題でも?」
「いや。いいねえ、こんな美人を連れて町歩けるなんて、俺幸せ者だなとさ、思ったわけ」
「君なあ」
「だって、見ろよ周りを。俺今すげえ羨ましがられてんぜ。女にも男にも」
 言われて見渡してみると、確かに二人に注がれる視線は多かった。若い娘二人連れはほうっと頬を染め、若い男女の男の方がこちらを気にして女を怒らせ、男の三人連れがなにやら言い合っている姿が確認できた。景舜の言い分がどこまで正しいかは定かではないが、自分たちが注目を集めていることは認めざるを得ないようだ。
「そういうことを、いちいち気にしないでもらおうか」
 言いながら、待ち合わせをこの場所に設定したことは正しかったと思った。どうせ蘇汎が景舜を待つことになる。その間に変な輩と騒動にならぬよう、ものすごく人目につきやすい環境を選んだのだった。
「まあまあ、おかげで俺の気分はいいんだ。許してくれよ」
「……そうか?」
 自分の容姿を、もはや煩わしいものとしか認識していない蘇汎である。それを良きものとして扱ってもらえたのが、久しぶりで新鮮だった。
「でも、さすがにその髪は反則だぜ?」
「……髪?」
「こんどはひっつめて来てほしいね。つい触りたくなる」
 景舜が言って、蘇汎の後ろ髪に手を伸ばすふりをした。しかし、このような公衆の面前で、冗談にもそういった行動には出なかった。
「……今から髪結いに行くか?」
「それも勿体ない。せっかくだから今日は思う存分色気ふりまいてよ。何かあっても俺が守れるし」
「ここでも護衛か?」
「無償だから遠慮なく」
 景舜が、ひひひと笑った。つられて蘇汎も笑みをこぼす。
「なら頑張ってもらおう。片時も目を離すなよ?」



 やっとこういうやり取りができるようになったことが、なにより蘇汎の気を良くさせていた。多少歳の差があるとはいえ、同じ若者同士だ。少し砕けて戯言の一つや二つやり合える相手なんてこれまでにほとんどいなかった。休みということで互いに立場を忘れ、好きに振舞える解放感がある。気の置けない友人と羽目を外す経験がこれほど楽しいとは、図らずも癖になりそうだ。
「で、どこへ行く? 何買うの」
 二人自然に歩き出し、景舜は同じ位置に肩を並べた。県府では蘇汎の後ろしか歩けない彼がそうしてくれたことにも気が付いた。
「そうだね、姉に贈りたいのだが、いい物はないだろうか。この辺には伝統柄の織物があるのではなかったか。良い店があればと思ったんだが」
「ああ、よく知ってんだな。それなら……、帯とかいいかもな。予算は?」
「帯程度なら想定内だ」
「なら、ちょっといい店行くか。地元の人間としちゃ、半端なもんを勧めたくないんでね」
 景舜も乗り気になってくれたようだ。これならば、強引に誘ったことを後悔しなくて済みそうだ。
「よろしく頼む」
「その前に、食い物な。腹減った」
「どこに入る?」
「ああ、チマキの美味い屋台があるんだ。俺の舌が正しければ、この町一番の味だ。あんたに食わせてやる」
 この口ぶり、どうやら買い食いになりそうだ。それもまた未経験の蘇汎、ここは店でゆっくり……などと野暮なことは言わない。
「よいな。チマキは好きだ。ああ、それから、君の行きたいところがあればつれて行ってくれ。例の本を置いている店でもいいぞ?」
 あからさまに揶揄うと、今日の景舜はそれを恥じることはせず、しれっと言い返してきた。
「ちょっと、勘弁してくれよ。あれは貞のって言ったろ? あんたみたいなのそんな店に連れてったら大変なことになる」
「大変? 別にあれくらいで鼻血を出して倒れるほど初心ではないぞ」
「そうじゃなくて。あんたがやらしい目で見られるってこと。な、自覚して、もっと」
「君が守ってくれるのなら問題あるまい」
「言ってろ! ほら、ついて来いよ」
「私も護身術程度は心得ているんだが?」
「はいはい。わかったわかった。まずはチマキと、万頭」
「万頭が増えた」
「気にすんな!」
 楽しい。年甲斐もなく心が躍る。もっと、もっと自分を振り回して、たくさん新しいものを見せてくれと、景舜の横顔を眩しく仰いだ。するとそこには上機嫌な笑みがあって、自分も今日は繕った顔はするまいと思った。
 通りの賑わいの中、二人は踊るように身を投じた。



「お客さんでしたら、どうです、このあたり。そのお召し物にもよく合いますよ」
 開いているのかわからないような細目の店主が、臙脂色の糸が複雑な文様を織りなす帯を両手で広げ、蘇汎の腰辺りの高さに掲げた。
 数件ある布屋のなかで、一番品がよさそうだからと景舜が勧めてくれた店に、二人はいる。構えも老舗の貫禄があり、品物は常時陳列しているものは一部で、客の好みなどを聞き出しながら相応のものを出してくるという店であるらしい。今は店には蘇汎と景舜の二人だけ。初めは店員が応対に来たが、蘇汎が買いたいと申し出たのを聞き、店主がそれを引き継いだ。
「ああ、私じゃないんだ。しかもこれは、女性ものだろう?」
 自分ならまずは身に付けないその色合いに苦笑いをすると、店主は景舜に問いかけた。
「いえ、幅は男性用に作られていますよ。そちらの旦那様、いかがです?」
「いやいや、ほんと、この人のじゃねえから。締めるのは女。でも色味はいいと思うよ」
「そうでしたか。いや、てっきり……」
 店に来てすぐに、女性に贈るとはっきり蘇汎が伝えたはずが、こういうことになった。まあ、商売人にはよくある強引さで、まずはいいものを見せるという魂胆だろう。蘇汎もある程度以上のものを求めていたので、この店が本物を取り扱うことはわかってよかった。
「恋仲だと思われたぞ? 俺あんな高級品買えねえって」
 別の意味で苦笑を見せたのは、財布を握っていると勘違いされた景舜である。確かに、彼が買うには幾分贅沢にあたるものなのだろう。
「はは。給金の見直しが必要かな」
「そういう問題じゃねえ。それより、あんたの姉さんならやっぱり美人なんだろうな。顔、似てる?」
「まあ、それなりにはな。少し目が細い」
「ふうん。だったら、あんたに似合えば姉さんにも似合うんだろう。よし、俺が見立ててやる」
「……まあ、いいんだがな」
 いつの間にか景舜の方がやる気を出しているようだ。女物の帯の見立てなど得意そうには見えない若者だが、実はそうでもないのだろうか。
「なあ、店主。そこの棚のはどうだ? いい色のがある」
 商品をたたみ直している店主に向かって、景舜が棚を指さして言った。
 そこには、藤色を基調とした、先程の柄に似たものがいくつか並べてあった。巻かれたものを台に広げさせると、まさに藤の錦のようだ。
「どうだ? こういう、織の細かいのがわりと古典的なんだ。大柄になると若い娘っぽくなるけど、既婚者ならこれくらい落ち着いたのが品がある」
 店主にしゃべらさず、景舜が品の解説を始めた。裏地や手触りを確認しながら、良品と認めたようだ。
「へえ。よく知っているな」
「うん。この辺の女は嫁入り道具に持って行くしきたりなんだ。嫁いでからのために、未婚の頃とは色味も柄も変えて、一式用意する。従妹の姉ちゃんがそうだった」
「君には姉妹はないのか」
「ああ。兄貴が二人だな。上のは家を継いでて、下のは一応都勤めなんだけど、下っ端雑用係だからあんたは知らないはず。そっちは姉ちゃんだけ?」
「いや、私にも兄がいる。宦官なので、……私もそうなる可能性を考えて、姉が婿取りで家を継いだ。私が継ぐと言ったのにな」
 言ったが、結果としては姉が継いでくれてよかったわけだ。姉夫婦の間には男の子が二人、女の子が一人生まれ、生家の継承にはまず心配がない。蘇汎が継いでいたとしたら、梅梅一人に家を背負わせることになり、いささか心苦しかったところだ。
「ふーん……」
 何を思ったか、景舜が帯から視線をこちらに移して見つめた。
「ん?」
「いや。いい。あんたが宦官にならなくてよかったな」
「ならないよ。後宮勤めなんて御免だ」
「そうしてくれ。刃傷沙汰が起きる気がする」
「こら。言い過ぎだぞ」
 この流れで蘇汎のことをもう少し突っ込んで聞かれるかと思ったが、話は途切れてしまった。そのことにどこか安堵する。
 結局、景舜が勧めた中から一枚を蘇汎が選び、買って帰ることにした。あまり華やかすぎるよりは落ち着いたものを好む姉には喜ばれそうだ。
 それからもう一つ、忘れてはならない買い物があった。
「店主、これも包んでくれるか」
 手に取ったのは一枚の手巾だ。店に入った時からちらちらと遠目で物色していたものだった。姉の帯とよく似た織柄の刺繍が施され、繊細でなかなかに美しかった。これは梅梅にだ。最近少し大人の真似事をしたがるになってきたようだから、こういった本物を与えるのもいいだろう。もう少し大きくなったら簪や櫛でもいいが、今はまだ髪を上げていないからこのあたりがいい。
「それも?」
 なんとなく見つかりたくなかったのだが、しっかりとばれてしまったようで、景舜から声を掛けられ、少しだけドキリとする。
「ああ」
「小物ならそれくらい可愛くてもいいんじゃない?」
 これも姉への土産だと思ったであろう景舜の言葉には、やはり「ああ」とだけ答えた。
 娘にだとは、なぜか言えなかった。そのことが胸に小さな波紋を落とした。隠すつもりはないのだから、軽く言ってしまえばよかったのに、おかしな話である。
 景舜が、彼よりもはるか上の上官の家庭事情など知るはずがないが、蘇汎の年齢がそれなりであるところから既婚者であることも子がいることも想像できないわけではないだろう。だから普通に言えばよかったのに。
 とはいえ、その辺からの噂で知っていることも考えられる。だとすれば聞かれもしないのは不思議ではないのかもしれないが。
 いずれそんな話をする日も来るだろう。今はそうではないだけだと自分をなだめ、蘇汎はそっと自分の袖口を握った。



 日が暮れかけ、夕日が県府をまるごと朱塗りに染める時刻、二人は揃って門をくぐった。今日の門番が少しだけ驚いた顔をしたが、特に説明をする必要もないため、するりと通り過ぎる。
 石畳の続く道をそれぞれの官舎に向かって歩いていたが、向こうとこちらへ別れる角にさしかかると、二人の歩みは少しずつ緩くなった。
 歩幅も短くなり、しかしとうとう足は止まる。
 辺りはもう、暗くなり始めていた。灯番が灯していった掛け灯篭がほのかに光を感じさせ、そろそろここまでと二人を急かす。
「今日は楽しかった。君のおかげで良いものも手に入ったしな」
 先に声をかけたのは蘇汎の方だ。誘った方の礼儀というものである。もちろん、社交辞令などではないが、それは言う必要もないことだ。
「うん。また誘ってよ。あんた今日すごくいい顔してた。こんどは飲みに行こう」
 少々はしゃぎ過ぎたことは、当然のように景舜にも伝わっていたようだ。しかし、彼の方も負けじと楽しんでいる様子に見えた。互いに、良き時を過ごせたということだ。
「ああ、必ずだ。良ければ長官舎にも招きたい」
「うん。招かれてみたい」
「なら、また誘う。遠慮はなしで頼むぞ。酒が不味くなる」
「了解。無礼講だ」
 きっと、景舜は楽しい酒を飲むのだろうと予想していた。そもそもがあまり堅苦しいところのない男だ。身分とか立場とかに拘るのは仕方のないことだが、それも言い換えれば、前に本人が言っていたように、うっかり礼節を欠いてしまいそうだから戒めているということなのかもしれないと思う。
 今日の彼は、蘇汎が望む距離で目線で接してくれた。蘇汎も自然に気を許した。だからお互いが楽しめたのだろう。
 明日になればまた、公人としての二人に戻り、会話どころかろくに顔も合わせないような日々が当たり前になる。それが少し、今の二人を離れがたくさせているらしい。
「ハハッ。なんだこれ。名残惜しいな。まだ遊び足りねえみたい。ガキかっての」
「私もだ。半日遊んだのにまだ物足りない」
 どうしようもなくなって互いに言葉にして、しかし変えられぬものが二人に諦めを飲み込ませて。それでも残る何かが、どこか半端な笑みとして交わされる。
一歩、景舜が蘇汎に近づいた。そして、肩にかかる髪をそっと背に払う。
「蘇汎?」 
「うん?」
 何を言いたかったのか。
 何を聞きたかったのか。
 よく似た思いがあることを感じていた。ただ、それを言葉にはできなかった。だから、別の言葉で補うしかないようだった。
「俺にあんたほどの地位があればな」
 蘇汎の髪に触れた手をすとんと降ろし、景舜は言った。
 それを超えられればと、言っているようだった。それに対し、蘇汎がどうこうすることはできない。
「君は、上を目指さないのか」
「……今からじゃ、全然間に合わないじゃないか」
 言葉の中に、蘇汎は諦めの色を聞き取った。全く望まないのならそう言ったはずだ。なのに「間に合わない」という表現をしたところに彼の心の欠片を見た気がして、そこに、手を伸ばす。
「……私は……、待てるぞ。君が来るなら何年でも」
 景舜の中に、仮に上を目指す何某かの目的があったとして、それが何であるにせよ可能性があるのなら自分は待ちたいと思った。
 彼との縁が向こう三年よりも長く続くのならばと望む心が生まれていることを、自分の言葉で知った。
「先に都に帰ったら、俺のことなんかすぐ忘れちまうくせに」
「それはないさ」
「俺じゃなくてもあんたを慕う官吏はたくさんいるだろ」
「そうでもないんだ。心を許せる相手など、一人もいなくなった。待たせてくれるならずっと待つよ」
 ひどく弱気な言葉になった。しかし紛れもない本音がそこにあった。
 あの場所に帰りたくないなどと甘えたことを言うつもりはない。たった一人、自分しか信じる相手の居ないような場所で生きていくことを決めたのは自分自身だ。それでも自分の中の何かを委ねたい人がいて、しかしそれを失った蘇汎がこの県府で、見つけたものは都には替えのないものだったから。景舜がもしも都へと向かう心を持ってくれるのならば、強く、期待を掛けたいと思ってしまう。それは無理だと決めつけないでくれるなら、今ここで可能性が生まれるのなら、縋りたいと思ってしまう。
 しかしそれに蘇汎が責任を持つことはできないのだ。すべては景舜次第なのである。
「……すまない。弱音を吐いた。望まぬことに無理をさせるつもりはないんだ」
 蘇汎は、望み過ぎた自分を悔いた。しかし、景舜はそれに「いや……」と答えた。
「なまじっか無理でもないかも。考えてみようかな」
「本当か!」
 つい、声が大きくなってあわてて抑える。そんな蘇汎に、景舜はふっと笑った。
「なんでそんな嬉しそうなの。そんなに俺がいいのか? いいって言ったらちゃんと考えるけど」
「君がいい。共に仕事がしたい」
 口を突いて出た食いつくような口調に、少し自分で驚いた。
「あっさり言うなあ。はは。でも無理だったらカッコ悪いから、いったん忘れといて」
「考えてみてくれるのか?」
「まあ、な。実は兄と一緒に勉強はしてきてる。こう見えて馬鹿じゃねえんだ俺」
「馬鹿なものか!」
「俺、あんたには甘いなあ。我儘聞きすぎじゃね?」
「本当だ」
「なんでだろうな」
「……それを私に聞くのか?」
 剣舞もそう。親しくなりたいという申し出も、今日の町歩きもそして、これからの人生を左右することでさえ、蘇汎の思いを叶えようとするのは、単純な優しさでも優柔不断でもないはずだ。剣舞は上官の命でしたことで避けられなかったが、その他は嫌なら断ればよいことばかりだ。
 では、景舜を動かしたものは何か。それは、蘇汎が判ずることでは当然ない。
「はは。そういうわけにはいかないか。まあ、今日のところはいいよ」
 面倒事をわざと避けたように、景舜は言って話を切り上げた。蘇汎も、これ以上何かを約束させるわけにもいかず、しかし明らかに景舜の中の何かが変わったことを感じ、行く末に期待を託すことにしようと思った。
 未来を切り開くのは自らの手しかないと思ってきた自分だったが、今初めて、誰かの手に委ねることで生まれる展望に賭けたいと思った。
「ああ。また」
「うん。じゃ。おやすみ。体冷やすなよ」
「君こそ」
 胸が熱かった。ただ熱くて、何に燃える熱なのかもよくわからなかった。
 行き着くはずのなかったところへ、心が導かれていく。その予感には、目を瞑ることにした。今宵だけは。


     ●


 しんと静まり返った部屋に、互いの息遣いさえ聞こえそうな閉鎖的な空気が立ち込めていた。
 実際は、それよりも自分の鼓動の方が耳に響いていた。背筋に、汗がにじむ。まだ庭の雪も解けぬ季節なのに。
「私には妻子もいるのですよ」
 極力抑えた声は、寒さのせいだけでなく、震えた。わなないたというのが正しかったのかもしれない。
「わかっています。しかし、これはそういうものとはまた別。どうか受け入れておくれ。無体はせぬ。少し触れさせてくれるだけでいい」
 彼が、蘇汎の袖を引いた。まだ、それは蘇汎の心を伺う余地を残していたのか、左程強い力ではなかった。
「君を愛している」
 思いつめたような視線に迫られ、気が付けば背に壁が近づいていた。これ以上は危険だと、蘇汎は腹をくくった。あとはどうにでもなるがいい。
「徐(シー)殿……失礼!」
 なけなしの力でふりきり、彼の部屋を逃げ出した。
 部屋に焚かれていた香に何か良からぬものを足されていたか、立ち上がるのも億劫なほどには目が回り脱力するほどの眠気だったが、気力で奮い立たせた。あのままでは確実に、彼のものにされていたはずだ。幸い、生粋の文官であった彼には、少しは鍛えてきた蘇汎を追いかけて捉えるだけの力はなかったから、逃れきることができただけだ。
 嫌だった。彼が自分に特別な感情を抱いていることはわかっていたが、認めたくなくて知らぬふりをしてきた。彼は蘇汎の尊敬する上官だったのだ。背を見て付いて行きたいと思った初めての人だったから。そういう感情とは別のもので信頼を得ていたかった。そう思っているのは蘇汎だけだったのだろうか。
「美しい、私の汎。いつまでもそばにいてほしいものだね」
 言って笑うそこには、深い慈愛が確かにあったはず。だからそれを信じていたのに。
 所詮彼も、立場を利用して勝手を押し通す、ただの男だった。それが蘇汎の容姿に惹かれた色欲ではなく募らせた恋ゆえであったとしても、そんなものは言い訳でしかない。幻滅した。あの一夜さえなければ、自分を裏でどのように思われていようとも、あの人への敬意は持ち続けることができたはずなのに。

『あなたの居ない都はなんと色あせて見えることか。
 あなたも慣れぬ田舎で不自由をしているに違いありません。
 少し便宜を図りましょうか?』

 もう何通目かになる文には、そう書かれていた。重いため息をつき、文ごと火にくべる。
「便宜など必要ないんですよ」
 灰皿の上でみるみる燃えて焦げて姿を変えていくその紙の哀れを眺めながら、蘇汎はひとりごちた。
 私はここを気に入っている。もう「こんなところ」とは思えなくなってしまった。
 都が恋しくないかと言えば噓はつけないが、都にないものがここで見つかった。できるならもう、あの混沌とした欲まみれの都よりも、ずっとここにいたいほどだ。それもまた、叶わぬ希望であるからそう望むのかもしれないが。

『御心配には及びません。官吏たるもの、何度かは地方勤務も経験せねばならぬもの。この地にも慣れ、恙なく過ごしています。今後もお気遣いは必要ありません』

 そう書いて、封緘をした。明日の朝、送らせることにしよう。
 こんな冷たい文でも返せばまた返事が届くようになるのだろうが、無視もできないと思ってしまう。まだ情が残ってでもいるのか、義理でしかないのか、それすらもわからない。
 もう、忘れたいのに。ここでの三年が全て忘れさせてくれるのだとしても、戻る時にはまた手繰り寄せることにもなろうが。
 あの一件の後、ちょうどその頃隠蔽されつつあった不正を見抜いていた蘇汎は、ここぞとばかりにそれを明るみにした。蘇汎自身も関わる部署が隠していたものであったため、蘇汎もまた処分対象となった。自供したため免罪とされかけたが、自ら処分を希望してここに来たのだ。上官であった彼もまた、責任を問われたが移動と減俸にとどまった。
 そうして得た別離なのだ。
 もう、深く人と関わることはすまいと心に決めてきたというのに。
 自らの心に起きている矛盾に、気が付いていないわけではない。
 窓の外を見やる。細い燭台ひとつの薄暗い部屋に光を届ける同じ月を、もし彼も見上げているのであったなら。その煌々たる鏡に映るものが、我が心であればと願う。
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雪兎
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第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。