盲目的な献身

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宿業と執念

18. 信徒の名前

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そのメッセージを見た瞬間、久世くぜはじめは指の動きを止めた。
画面の光が、夜の歩道に淡く反射している。視線を外せないまま、数秒が過ぎた。ちん慈恩じおんの退院が、想定よりも早かった。

久世くぜはじめは、フードを深く被り、人の流れの端に立っていた。駅前の広場は、週末の熱を帯びている。肩を寄せ合う恋人たち、笑い声を弾ませる友人同士。ガラス張りの商業施設から零れる光が、彼らの輪郭を温かく縁取っていた。
その中で、久世くぜはじめの吐息だけが白く、冷たい。呼気はすぐに人波に溶け、跡を残さない。足元を急ぐ靴音に混じり、胸の奥の鼓動が遅れて響いた。視線は自然と下がり、指先はポケットの中で固くなっている。

短い文面をちん慈恩じおんへ返すと、すぐに東雲しののめみおの通話画面へ切り替えた。
耳元で呼び出し音が一度鳴り、途切れる。

「記録官、貴方に伝えたいことがあるんです。
今から、白苑会はくえんかいの外で会えますか?」



指定したのは、夜の見晴し台だった。
街を見下ろす高台は、観光案内に載るほどの場所だが、この時間は人影が少ない。足元の舗装は冷え切り、街灯の光が規則正しく並んでいる。遠くの車列が、光の帯となって流れていた。風は強く、木々の葉が擦れ合う音だけが続く。

しばらくして、階段を上ってくる足音がした。
東雲しののめみおだった。彼女は濃色のコートを羽織り、ヒールの音を響かせながら現れた。夜風に裾が揺れ、足取りは迷いなくこちらへ向かってくる。立ち止まり、久世くぜはじめの姿を確かめるように首を傾げた。

伊織いおりくん、どうしたの?」

久世くぜはじめは答えない。風に煽られ、フードの縁が微かに揺れた。
沈黙が伸び、街のざわめきが遠くに引いていく。やがて、彼はゆっくりと両手を上げ、フードを外した。

白磁のような肌が、街灯の下に現れる。伏せられていた睫毛が上がり、虚ろで慈悲深い眼差しが露わになった。白金の髪が風に揺れ、額に影を落とす。その顔立ちは、時間から切り離されたように静謐だった。

東雲しののめみおは、その場に立ち尽くした。
一拍遅れて呼吸が浅くなり、指先に微かな震えが走る。

「……るい……?」

久世くぜはじめが、わずかに頷く。
次の瞬間、東雲しののめみおは駆け寄り、その身体を強く抱き締めた。嗚咽が堰を切ったように溢れ、言葉にならない呼気が夜気に混じった。久世くぜはじめは逃げず、ただ受け止めた。背中に回された腕の力が、次第に弱まるまで、一定の間隔で背を叩く。彼女の呼吸が整うまで、同じ動きを繰り返した。

やがて、東雲しののめみおが顔を上げる。涙で滲んだ瞳が、久世くぜはじめを捉えた。

「……話して。何が起きているの」

久世くぜはじめは、少しだけ言葉を選ぶ間を置いた。
「信じられないと思うけど」と前置いて、
自身が伊織の肉体と同化するに至った経緯を――省くことなく、順を追って説明した。

東雲しののめみおは時折肩を震わせながら話を聞いていた。

語り終えると、久世くぜはじめは視線を逸らし、見晴し台の先に広がる街明かりを見つめた。

「この姿では、白苑会には戻れないし、
東京を離れようと思う。この事件の黒幕が一体誰なのか、分かっていないけど、黒幕が私の存在に気づく前に、とにかく逃げないと」

東雲しののめみおの視線が、久世くぜはじめの横顔に留まる。
何かを言いかけた唇が、結局閉じられた。

「澪も、これ以上この事件に関わらないで」

沈黙が落ちる。

久世くぜはじめの脳裏に、ふと、白苑会はくえんかいの礼拝堂地下にある部屋が浮かぶ。
扉の向こうに残したまま、結局取り戻せずにいるもの。その存在だけが、遅れて胸の奥に触れた。
久世くぜはじめは唇を噛み締め、痛みで思考を断ち切った。

東雲しののめみおは、息を吸い込んだ。

ちん慈恩じおん導師には話したの?」

久世くぜはじめは首を振る。

「澪から話して」

その言葉に、東雲しののめみおの目が見開かれる。

「……私が? どうして」

「今の自分では、伝えられない」

東雲しののめみおは一歩踏み出し、必死に言葉を探す。

「それでも、貴方から言うべきよ。
ちん慈恩じおん導師は……貴方のためだけに、十四年間生きてきたのよ」

久世くぜはじめの喉が、僅かに鳴った。

「どうして? なぜ彼が?」

東雲しののめみおの瞳に、再び涙が溜まる。

「……もしかして、累、気づいていないの?」

彼女は震える息で続けた。

ちん慈恩じおん導師は――いつも貴方の後ろについていた少年、シェン慈恩ツーエンよ」

その名が落ちた瞬間、久世くぜはじめの呼吸が止まった。
胸の奥で、何かが強く打ち鳴らされる。視界が一瞬、白くなる。耳鳴りの向こうで、風の音だけが鋭くなる。

雪の日の記憶が、鮮明に蘇った。

境内に降り積もる白。足元を濡らしながら立っていた久世くぜはじめのもとへ、小さな足音が急ぎ気味に近づいてくる。

「教祖様、どうぞ」

差し出された一本の傘。その向こうで、ちん慈恩じおんが息を整えていた。
背丈はまだ低く、外套の袖は少し長い。左目には白い包帯が巻かれていたが、それを気に留める様子はなく、視線はまっすぐ久世くぜはじめに向けられていた。雪を払うことも忘れたまま、ただ傘を掲げている。

「……どうして、ここに?」

「雪が降ってきたので。教祖様、傘を持っていないと思って」

言い切る前に、少しだけ息を吸う。思いついたまま駆けてきたらしい。

「走ってきたのか」

「はい。でも、転んでません」

小さな手が傘の柄を握る。指先は赤くなっているが、本人は気にも留めず、ただ早く渡したいという様子だった。

久世くぜはじめは一瞬躊躇い、それから傘を受け取る。
内側に残った体温が、想像以上に温かい。

「……私が傘をもらうと、慈恩ツーエンの傘がない」

「大丈夫です。すぐ戻りますから」

どこか誇らしげで、それでいて無邪気な声だった。
雪は、二人の間を隔てるでもなく、ただ静かに降り続けている。

あの時の子供。
信仰と幼さを同時に宿した、揺るがない視線。

それが今、屈強な体躯と鋭い視線を持つ男へと変わっている。孤高で、峻烈で、誰も近づけない導師の姿が、重なった。

久世くぜはじめの喉から、かすれた声が落ちる。

「あの男が……慈恩ツーエンなのか……?」
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