闇に飛ぶ鳥

トウリン

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トビ

決断

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 外からは、何も聞こえてこなかった。
 壁も扉も薄い木の板だから、小さな音でも聞こえる筈。けれど、どんなに耳を澄ませても、何も聞こえてこない。

 音がしないということは、カラスは無事だと思っていいのだろうか。

 巴は扉に額を押し当てて、うなだれる。
 こんなふうに、自分だけ安全なところにいるのは辛い。
 でも、外に出て彼の足手まといになるのも、辛い。
 何もできない自分が、巴は嫌でたまらなかった。

 カラスが行ってしまってから何刻も過ぎたような気がするけれど、実際はどうなのだろう。少なくとも四半刻は経ったのだろうか。
 カラスの安否が気になって仕方がなかった。紅い髪と緑の目をしたあの人は、いつの間にか、巴にとってかけがえのない存在になっている。
 何となくカラスと小早川の家を出て、もうひと月、彼と一緒にいる。厳しい寒さも和らぎつつあって、時が流れていることが実感できた。
 巴とカラスを取り巻くものは、移りゆく。

(わたくしと彼との間にあるものは、どう変わったのだろう)

 カラスに向ける巴の気持ちは、どんどん強くなっている。この想いを何と呼んだらいいのかは判らないけれど、とても特別で強いものだ。
 では、カラスは? 巴に対するカラスの気持ちは、どんなものなのだろう。
 あの時カラスは、巴のことを当然のように護り、有無を言わせず連れ出した。そこに、彼女の意思が入る余地は殆どなかった。そして、彼が何を思ってそうしたのかも、解からなかった。
 全てが曖昧に始まった、旅路だった。
 あれからしばらく共に過ごした今も、彼は相変わらず独善的で何を考えているか解からなくて。
 考えも、人となりも、目的も、望みも、カラスの何もかも、巴には解からない。

(でも、一つだけ、判ってることもある)

 それは。

「……あの人は、優しい」
 巴はポツリとつぶやく。

 そう、とても解かりにくいけれど、彼は巴に優しいのだ。それだけははっきりしていた。
 だからなのだろうか、カラスの前では、今まで知らなかった自分を出せる。
 祖父母も優しい人たちだったけれど、彼らの前では、巴は常に背筋を伸ばしていなければならなかった。背筋を伸ばして、自分を律して。
 小早川の後継ぎとしてちゃんとしなければと、まるで、小さな箱の中に押し込められているようだった。

 それが、カラスと過ごすようになって、変わった。

 怒って、むくれて。
 自分の中にそんなふうに動く気持ちがあるなんて、巴は知らなかった。
 カラスは、目には見えない何かを彼女にくれたのだ。
 だから巴も彼に何かを返したいのに。

(わたくしに、何ができるのだろう)

 これから先も、カラスと共に在りたいと思う。
 曖昧に始まったこの道行きに、今ははっきりと巴の意志がある。この先もずっと一緒にいたいと思うから、空っぽだった彼女にそう望む心をくれた彼に、何かを返したい。
 けれど、カラスが巴に望んでいるものが何なのかが判らないから、どうやって返したらいいのかが判らない。

 巴は小さく息をついて、また耳を澄ませた。
 やはり返ってくるのは静寂だけ。静けさの中、無音で降り積もる雪のように、彼女の中に不安が募っていく。
 不意に、彼女の脳裏に三日前の襲撃のことがよみがえる。
 どこからともなく放たれた銃弾。カラスでさえも、身をかわすのが精一杯なようだった。
 今も、そうなのかもしれない。
 カラスは狙ってくる相手を見つけることができなくて、手を出し兼ねているのに違いない。
 今はカラスも身を潜めているのだろう。けれど、短気な彼の事だからじきに痺れを切らしてしまう。
 そうなったら、カラスは無事でいられるのか。

 一瞬、胸を鉛玉で貫かれた彼の姿が頭の中に閃いて、巴はぞっと身を震わせた。
 何か動きがあれば、彼も血路を開けるかもしれない。

 その何か、は。

 手立てを探る巴の頭に、一つの考えが思い浮かんだ。
(それなら、わたくしにもできる)
 キュッと唇を噛み、巴は顔を上げる。
 凶手の狙いは、巴だ。彼女が姿を見せれば、必ず狙ってくるだろう。
(けれど、大丈夫。きっとカラスが何とかしてくれるから)

 迷う余地はない。

 大きく一つ深呼吸をして、巴は両手を上げて扉を押し開けた。
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