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第三章:ずっと、大好き
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帰りの馬車の中で、ギーベルグラントとドリガンは、向かい合わせで座っていた。
「さて」
走り出して間も無く、ドリガンが口を開く。
「あのお嬢ちゃんのことじゃがの」
「マリーシア? 何もなかったのでしょう?」
「うむ。身体的にはな」
「身体的には……?」
ドリガンの微妙な言い方に、ギーベルグラントは眉根を寄せる。
――体的に問題がなければ、問題ないということではないのだろうか。
だが、ドリガンの表情は渋い。マリーシアの部屋にいた時のふざけた様子は、全くなかった。
「そう、身体的には、じゃ。お主の話を聞く限り、あの子の眠り方は尋常ではないからの。身体には因らないところで、『何か』はあるかもしれん」
その『何か』が何なのかは判らんが、と老人はぼやく。
「ま、普通じゃないのは確かじゃな。気をつけてやるに越したことはない」
ドリガンにしても、はっきりとした原因がわからないので、それ以上は何とも言えないようだ。それきり、口を噤んでしまう。
無言の時が流れ、そろそろ町へと繋げてもいいだろうかと、ギーベルグラントが考え始めた時だった。ふと、彼は、ドリガンがマリーシアを見た時の態度を思い出した。
まるで、彼女を前にも見たことがあると言わんばかりのいぶかしげな眼差し。
まさかな、と小さく首を振る仕草。
ドリガンが住む街には、これまで一度もマリーシアを連れて行ったことはない。
彼と彼女がたまたまどこかの街ですれ違った、という可能性はないわけではないが、それだけであんな反応をするだろうか。
ギーベルグラントはヒトのことには詳しくないが、普通はないような気がする。
「あなたは――」
尋ねかけて、止まる。
思い出した一つの事柄。
――幼いマリーシアを拾ったのは、ドリガンが住む街の方にある森だ。
これは、触れない方がいいことなのだろうか。
かつてのマリーシアのことを知っている者がいるかもしれないということに、ギーベルグラントの胸がざわついた。
それは、妙に不快なざわつきだった。
途中で言葉を止めたギーベルグラントに、眉を上げてドリガンが首をかしげる。
「なんじゃ?」
ギーベルグラントは、迷った。
もしも彼女のことを知る誰かをドリガンが知っていたら、どうなるのだろう。
――たとえば、親とか兄弟とか。
野の獣にとっては、成長した後は血族などさして意味はない存在になる。
だが、ヒトにとってはそうではないのだということを、今のギーベルグラントは良く知っていた。
だから、もしもマリーシアに血縁者がいるのだとすれば、彼女は彼らに逢いたがるだろう。
――逢いたがって、その後は……?
ギーベルグラントの胸のざわつきが、はっきりとした不快な感覚になる。
今のマリーシアは、彼のものだ――彼だけの。
もしも彼女に血族がいるならば、それが変わる。
彼は、ずっとマリーシアを見てきたのだ。
親や兄弟がいると知れば彼女がどんな反応を示すか、その時にならなくてもよく判る。
――彼女に、彼の他に大事に想う存在ができる。
もしかしたら、その誰かの方が、彼女の一番になってしまうかもしれない。
ギーベルグラントの脳裏に、いつも彼に向けられるマリーシアの満面の笑みが浮かんだ。
それが、他の人間に向けられる。
――そんな事態には、耐えられない。
だが、至極利己的で愚かな考えの陰で、彼の理性は、今の不可解な彼女の『症状』の原因を探るには、どんな情報でも隠すべきではないのだと囁いていた。
「……最初にマリーシアを見た時、あなたは何か仰ってましたね」
「ん? ああ、あれか。わしの気のせいじゃろう」
「何なのですか?」
問われても言い淀むのは、個人的なことは口にしない、医師の職業病のようなものだろうか。
「マリーシアは私の妹ではありませんよ。森の中で拾った子です」
「森の中……?」
「ええ。まだ幼い頃に、森の中に独りでいました」
「それは……十二、三年ほど前のことか?」
「そのぐらいかと。見つけたときは、自分の名前をようやく言えるくらいの年でした」
ドリガンが顎鬚を撫で付けながら考え込む。渋い顔を見る限りは、あまりいい話ではなさそうだった。
「そうか……」
老医師の口は渋い。
ギーベルグラントは、彼の胸倉をつかんで揺すりたてて答えを迫ってやりたくなるのをこらえて、穏やかな口調で促す。
「やはり、何かご存知なのですね?」
またしばらく物思いにふけってから、ドリガンは少し遠くを見るような眼差しで宙を見つめながら、語り出した。
「うむ……。てっきり、もうこの世にはおらんものじゃと思っていたからの。まあ、十年以上も前のことじゃから、当然、今のあの子自身に見覚えがあるわけではない」
「では……?」
「……街の貴族でのう。一番の別嬪と評判の奥方じゃった。あのお嬢ちゃんとよく似た、蜂蜜色の金髪に青空のような瞳で、旦那の方も見目好い男での。気立てもよくて、民によく尽くし、街の者皆に好かれておった」
ドリガンが過去を辿るように、目を閉じる。ギーベルグラントは焦ることなく待った――町までの時間など、いくらでもある。さほどの時をかけず、老人は再び口を開き始めた。
「わしが直接その家族と関わったのは、夫妻の子どもが病になった時じゃ。その街の医者がわしの元教え子で、たまたまその時そいつのところを訪れておってな。まずはそいつが呼ばれたんじゃが、ムリだ、お手上げだ、と、わしにお鉢が回ってきてしもうたんじゃ。まだ、生まれて間もない時でなあ。重い感染症で、正直、わしはもう駄目じゃと思った。手は尽くしたが、どうにもならんで……夫妻と赤子だけを部屋に残して――わしは、諦めた」
飄々とした老人の眉間に、苦悩の皺が寄る。助けるべき命を諦めなければならなかったことに、未だ無念の思いを抱いていることが察せられた。
だが、これはマリーシアとは関係のない話なのではないかと、ギーベルグラントは疑問に思う。やはり、単なる他人の空似なのだろうか。
――マリーシアは、生きているのだから。
マリーシアが「誰かのもの」でないということにホッとしたのか、彼女について知ることができなかったことを残念に思ったのか、自分でもよくわからない。ただ、これまでと変わらないのだということに安堵した想いだけは確かだった。
訊きたいことは全て終えた、とギーベルグラントは馬車を町に向かわせようとする――が、不意に、老人が再び語りだした。
「わしは、部屋の外で待っておった。赤子が息を引き取り、夫妻が落ち着くのを、な。どんなにかかろうと、待とうと思っておった」
ドリガンが、何とも言えない眼差しをギーベルグラントに向ける。
「誓ってもいい。わしが診る限り、あの赤子はたすかる筈がなかったんじゃ」
その目の中にあるのは、紛う事なき確信である。そこには己の生業に対する自負があった。
「その、死ぬ筈の赤子がいる部屋から、これ以上はないというぐらい元気な泣き声が聞こえてきた時、わしは己の耳が信じられんかった。自分の望む幻聴かとも思ったよ。部屋に入ってみると、奥方が赤子をあやしておった――一見して健康そのものの赤子をな」
「あなたの治療が効を奏したのではないのですか?」
「いや、それは有り得ん」
ギーベルグラントの言葉を、ドリガンはきっぱりと否定する。
「誰が何と言おうと、あの赤子はたすかるもんじゃなかった。わしがこの仕事をしていて、『奇跡』っちゅうもんを信じたのは、後にも先にもあれっきりじゃ」
ウンウンと頷くドリガンを、ギーベルグラントはぼんやりと見つめる。
この老人の話がマリーシアのことなのだとすれば、彼女には返さなければならない場所があるということなのだろうか。
そう考えただけで、ギーベルグラントの腹の中に、何か冷たいものが急速に満ちていく。
今すぐに目の前のこの老人を消し去ってしまえば、全て聞かなかったことにできるのだろうか。
――束の間、殺意が芽生えた。
ギーベルグラントは、無言で両手をきつく握り締める。
手を伸ばせば届くような距離にいる者がそんな物騒なことを考えているとは露知らず、ドリガンは続ける。
「夫妻と赤子は、それはもう幸せそうじゃった。まさに『目の中に入れても痛くない』という風情でのう。たまにまたわしがその街を訪れた時には必ず会いに行ったもんじゃが、赤子もすくすく育っていってな。奥方讓りの蜂蜜色の髪、よく晴れた青空の瞳。いつもニコニコ笑っておって、誰もが『天使のようだ』と言ったよ。皆には『マリー』と呼ばれておったな」
老人も、その頃の子どもに会っていたのだろう。彼の口元に、それまでに見せていたからかうようなものではない、心底幸せそうな笑みが浮かぶ。
ギーベルグラントと出会った時のマリーシアの笑顔と同じものを思い浮かべているのだとすれば、ドリガンがそんなふうに笑むのも頷けた。
だが、その微笑みは、長くは続かなかった。
ドリガンはふと視線を落とす。
「――それが起きたのは、今から十二、いや――もう十三年前になるか。あの子が三歳を少し越えた頃のことじゃったよ……。夫妻の邸が火事になっての。……焼け跡から出てきた夫妻には、刃物の傷があった。物取りだったのじゃろう。あんなに善い方たちに惨いことをするものじゃ。――町の者総出で焼け跡をひっくり返したが、幼い子どもの姿は見つからんかった。――あれだけ可愛い子じゃったから……売られてしもうたんじゃろうと……」
それ以上は続かないようだった。老人は、ほのかに赤らんだ目を、ギーベルグラントにヒタと据える。
「もしも……もしも、あの子が生きているなら、幸せに暮らしていて欲しいものじゃと、今でも町の者は祈っているよ」
――やがて馬車はその足を止め、老医師を本来の場所へと戻す。
ドリガンはもう一度何かを訴える眼差しをギーベルグラントに向け、そして去っていった。
初めに見たときよりも小さく縮んだように見える背中が消えるまで見送って、ギーベルグラントは馬車を出す。ドリガンから聞いた話をどう処理すればよいのか、彼には判らなかった。
マリーシアと出会って、共に過ごし、ギーベルグラントはこれまでの永い時の中では得られなかった、満ち足りた想いを手に入れた。
――だが、マリーシアは、どうなのだろう?
本来、居るべき場所が他にあると知ったら、彼女は何と答えるのだろうか?
彼女が行きたいと言ったら、自分は手放せるのか?
――絶対に、無理だ。
ギーベルグラントだけを乗せた馬車は、瞬きのうちに邸へ到着する。
扉を開けるのももどかしく、ギーベルグラントは真っ直ぐに目指すものの元へ駆ける。
食堂の扉を手荒く開け放った彼を、マリーシアが驚いたように見上げたが、すぐにいつもと同じ笑顔を向けた。
「おかえりなさい」
その笑顔が、胸を締め付ける。
立ち上がってギーベルグラントを迎えたマリーシアを、彼は両腕の中に包み込んだ。いつの間にか、こうやって抱き締めても彼女の足が浮かなくなっていたことに気付く。
「すみません……すみません、マリーシア」
謝罪を耳元で呟くギーベルグラントの背に、マリーシアは戸惑いながらも手を回す。
「どうしたの……ギイ?」
小さく温かな手で背を撫でながら問われても、彼には何も答えられなかった。
「さて」
走り出して間も無く、ドリガンが口を開く。
「あのお嬢ちゃんのことじゃがの」
「マリーシア? 何もなかったのでしょう?」
「うむ。身体的にはな」
「身体的には……?」
ドリガンの微妙な言い方に、ギーベルグラントは眉根を寄せる。
――体的に問題がなければ、問題ないということではないのだろうか。
だが、ドリガンの表情は渋い。マリーシアの部屋にいた時のふざけた様子は、全くなかった。
「そう、身体的には、じゃ。お主の話を聞く限り、あの子の眠り方は尋常ではないからの。身体には因らないところで、『何か』はあるかもしれん」
その『何か』が何なのかは判らんが、と老人はぼやく。
「ま、普通じゃないのは確かじゃな。気をつけてやるに越したことはない」
ドリガンにしても、はっきりとした原因がわからないので、それ以上は何とも言えないようだ。それきり、口を噤んでしまう。
無言の時が流れ、そろそろ町へと繋げてもいいだろうかと、ギーベルグラントが考え始めた時だった。ふと、彼は、ドリガンがマリーシアを見た時の態度を思い出した。
まるで、彼女を前にも見たことがあると言わんばかりのいぶかしげな眼差し。
まさかな、と小さく首を振る仕草。
ドリガンが住む街には、これまで一度もマリーシアを連れて行ったことはない。
彼と彼女がたまたまどこかの街ですれ違った、という可能性はないわけではないが、それだけであんな反応をするだろうか。
ギーベルグラントはヒトのことには詳しくないが、普通はないような気がする。
「あなたは――」
尋ねかけて、止まる。
思い出した一つの事柄。
――幼いマリーシアを拾ったのは、ドリガンが住む街の方にある森だ。
これは、触れない方がいいことなのだろうか。
かつてのマリーシアのことを知っている者がいるかもしれないということに、ギーベルグラントの胸がざわついた。
それは、妙に不快なざわつきだった。
途中で言葉を止めたギーベルグラントに、眉を上げてドリガンが首をかしげる。
「なんじゃ?」
ギーベルグラントは、迷った。
もしも彼女のことを知る誰かをドリガンが知っていたら、どうなるのだろう。
――たとえば、親とか兄弟とか。
野の獣にとっては、成長した後は血族などさして意味はない存在になる。
だが、ヒトにとってはそうではないのだということを、今のギーベルグラントは良く知っていた。
だから、もしもマリーシアに血縁者がいるのだとすれば、彼女は彼らに逢いたがるだろう。
――逢いたがって、その後は……?
ギーベルグラントの胸のざわつきが、はっきりとした不快な感覚になる。
今のマリーシアは、彼のものだ――彼だけの。
もしも彼女に血族がいるならば、それが変わる。
彼は、ずっとマリーシアを見てきたのだ。
親や兄弟がいると知れば彼女がどんな反応を示すか、その時にならなくてもよく判る。
――彼女に、彼の他に大事に想う存在ができる。
もしかしたら、その誰かの方が、彼女の一番になってしまうかもしれない。
ギーベルグラントの脳裏に、いつも彼に向けられるマリーシアの満面の笑みが浮かんだ。
それが、他の人間に向けられる。
――そんな事態には、耐えられない。
だが、至極利己的で愚かな考えの陰で、彼の理性は、今の不可解な彼女の『症状』の原因を探るには、どんな情報でも隠すべきではないのだと囁いていた。
「……最初にマリーシアを見た時、あなたは何か仰ってましたね」
「ん? ああ、あれか。わしの気のせいじゃろう」
「何なのですか?」
問われても言い淀むのは、個人的なことは口にしない、医師の職業病のようなものだろうか。
「マリーシアは私の妹ではありませんよ。森の中で拾った子です」
「森の中……?」
「ええ。まだ幼い頃に、森の中に独りでいました」
「それは……十二、三年ほど前のことか?」
「そのぐらいかと。見つけたときは、自分の名前をようやく言えるくらいの年でした」
ドリガンが顎鬚を撫で付けながら考え込む。渋い顔を見る限りは、あまりいい話ではなさそうだった。
「そうか……」
老医師の口は渋い。
ギーベルグラントは、彼の胸倉をつかんで揺すりたてて答えを迫ってやりたくなるのをこらえて、穏やかな口調で促す。
「やはり、何かご存知なのですね?」
またしばらく物思いにふけってから、ドリガンは少し遠くを見るような眼差しで宙を見つめながら、語り出した。
「うむ……。てっきり、もうこの世にはおらんものじゃと思っていたからの。まあ、十年以上も前のことじゃから、当然、今のあの子自身に見覚えがあるわけではない」
「では……?」
「……街の貴族でのう。一番の別嬪と評判の奥方じゃった。あのお嬢ちゃんとよく似た、蜂蜜色の金髪に青空のような瞳で、旦那の方も見目好い男での。気立てもよくて、民によく尽くし、街の者皆に好かれておった」
ドリガンが過去を辿るように、目を閉じる。ギーベルグラントは焦ることなく待った――町までの時間など、いくらでもある。さほどの時をかけず、老人は再び口を開き始めた。
「わしが直接その家族と関わったのは、夫妻の子どもが病になった時じゃ。その街の医者がわしの元教え子で、たまたまその時そいつのところを訪れておってな。まずはそいつが呼ばれたんじゃが、ムリだ、お手上げだ、と、わしにお鉢が回ってきてしもうたんじゃ。まだ、生まれて間もない時でなあ。重い感染症で、正直、わしはもう駄目じゃと思った。手は尽くしたが、どうにもならんで……夫妻と赤子だけを部屋に残して――わしは、諦めた」
飄々とした老人の眉間に、苦悩の皺が寄る。助けるべき命を諦めなければならなかったことに、未だ無念の思いを抱いていることが察せられた。
だが、これはマリーシアとは関係のない話なのではないかと、ギーベルグラントは疑問に思う。やはり、単なる他人の空似なのだろうか。
――マリーシアは、生きているのだから。
マリーシアが「誰かのもの」でないということにホッとしたのか、彼女について知ることができなかったことを残念に思ったのか、自分でもよくわからない。ただ、これまでと変わらないのだということに安堵した想いだけは確かだった。
訊きたいことは全て終えた、とギーベルグラントは馬車を町に向かわせようとする――が、不意に、老人が再び語りだした。
「わしは、部屋の外で待っておった。赤子が息を引き取り、夫妻が落ち着くのを、な。どんなにかかろうと、待とうと思っておった」
ドリガンが、何とも言えない眼差しをギーベルグラントに向ける。
「誓ってもいい。わしが診る限り、あの赤子はたすかる筈がなかったんじゃ」
その目の中にあるのは、紛う事なき確信である。そこには己の生業に対する自負があった。
「その、死ぬ筈の赤子がいる部屋から、これ以上はないというぐらい元気な泣き声が聞こえてきた時、わしは己の耳が信じられんかった。自分の望む幻聴かとも思ったよ。部屋に入ってみると、奥方が赤子をあやしておった――一見して健康そのものの赤子をな」
「あなたの治療が効を奏したのではないのですか?」
「いや、それは有り得ん」
ギーベルグラントの言葉を、ドリガンはきっぱりと否定する。
「誰が何と言おうと、あの赤子はたすかるもんじゃなかった。わしがこの仕事をしていて、『奇跡』っちゅうもんを信じたのは、後にも先にもあれっきりじゃ」
ウンウンと頷くドリガンを、ギーベルグラントはぼんやりと見つめる。
この老人の話がマリーシアのことなのだとすれば、彼女には返さなければならない場所があるということなのだろうか。
そう考えただけで、ギーベルグラントの腹の中に、何か冷たいものが急速に満ちていく。
今すぐに目の前のこの老人を消し去ってしまえば、全て聞かなかったことにできるのだろうか。
――束の間、殺意が芽生えた。
ギーベルグラントは、無言で両手をきつく握り締める。
手を伸ばせば届くような距離にいる者がそんな物騒なことを考えているとは露知らず、ドリガンは続ける。
「夫妻と赤子は、それはもう幸せそうじゃった。まさに『目の中に入れても痛くない』という風情でのう。たまにまたわしがその街を訪れた時には必ず会いに行ったもんじゃが、赤子もすくすく育っていってな。奥方讓りの蜂蜜色の髪、よく晴れた青空の瞳。いつもニコニコ笑っておって、誰もが『天使のようだ』と言ったよ。皆には『マリー』と呼ばれておったな」
老人も、その頃の子どもに会っていたのだろう。彼の口元に、それまでに見せていたからかうようなものではない、心底幸せそうな笑みが浮かぶ。
ギーベルグラントと出会った時のマリーシアの笑顔と同じものを思い浮かべているのだとすれば、ドリガンがそんなふうに笑むのも頷けた。
だが、その微笑みは、長くは続かなかった。
ドリガンはふと視線を落とす。
「――それが起きたのは、今から十二、いや――もう十三年前になるか。あの子が三歳を少し越えた頃のことじゃったよ……。夫妻の邸が火事になっての。……焼け跡から出てきた夫妻には、刃物の傷があった。物取りだったのじゃろう。あんなに善い方たちに惨いことをするものじゃ。――町の者総出で焼け跡をひっくり返したが、幼い子どもの姿は見つからんかった。――あれだけ可愛い子じゃったから……売られてしもうたんじゃろうと……」
それ以上は続かないようだった。老人は、ほのかに赤らんだ目を、ギーベルグラントにヒタと据える。
「もしも……もしも、あの子が生きているなら、幸せに暮らしていて欲しいものじゃと、今でも町の者は祈っているよ」
――やがて馬車はその足を止め、老医師を本来の場所へと戻す。
ドリガンはもう一度何かを訴える眼差しをギーベルグラントに向け、そして去っていった。
初めに見たときよりも小さく縮んだように見える背中が消えるまで見送って、ギーベルグラントは馬車を出す。ドリガンから聞いた話をどう処理すればよいのか、彼には判らなかった。
マリーシアと出会って、共に過ごし、ギーベルグラントはこれまでの永い時の中では得られなかった、満ち足りた想いを手に入れた。
――だが、マリーシアは、どうなのだろう?
本来、居るべき場所が他にあると知ったら、彼女は何と答えるのだろうか?
彼女が行きたいと言ったら、自分は手放せるのか?
――絶対に、無理だ。
ギーベルグラントだけを乗せた馬車は、瞬きのうちに邸へ到着する。
扉を開けるのももどかしく、ギーベルグラントは真っ直ぐに目指すものの元へ駆ける。
食堂の扉を手荒く開け放った彼を、マリーシアが驚いたように見上げたが、すぐにいつもと同じ笑顔を向けた。
「おかえりなさい」
その笑顔が、胸を締め付ける。
立ち上がってギーベルグラントを迎えたマリーシアを、彼は両腕の中に包み込んだ。いつの間にか、こうやって抱き締めても彼女の足が浮かなくなっていたことに気付く。
「すみません……すみません、マリーシア」
謝罪を耳元で呟くギーベルグラントの背に、マリーシアは戸惑いながらも手を回す。
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