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8月の微熱
8月‐3
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案の定、部屋に戻って体温を測ってみたら静香には微熱があった。
追いやるようにして風呂に入れ、髪を乾かし、今の彼女はベッドの上だ。
「体調は悪くなかったんですか?」
「ええ、まったく」
大きなベッドの上で枕にもたれた静香が頷く。その手には、恭介が入れてきた温めた蜂蜜入りレモン水がある。
気付いていなかったのなら、仕方がない。
しかし、海に入ったことで高熱にでもなったら……と思うと、恭介は気が気ではなかった。あるいは、泳いでいる時に急に熱が上がって意識が遠のき、溺れていたという可能性もあったのだ。
ベッドの中の静香は、熱の為か、微かに頬を紅くしている。
頬が紅いということは、間違いなく生きているということで。
――本当に、何事も無くて良かった。
恭介はしみじみとそう思う。
彼女がレモン水を飲み干す間、黙っているのも手持ち無沙汰で、何か話題を探す。
思いついたのは一つだけだった。
「でも、何だってまた、こんな夜更けに海に入ったりしたんです?」
海で得られなかった回答を、再び求める。
カップに口をつけようとしていた静香の手が止まり、彼女はそのままそれに視線を落とした。
「お嬢サマ?」
気晴らしだとか、涼む為だとか、そんな――取り敢えず納得できるような理由で充分だというのに、何をそんなに迷うことがあるのか、彼女は押し黙ったままだ。
固まられては、カップの中身も減らなくなる。
返事はいらないから、さっさと飲んでしまってくださいよ。
恭介がそう言おうとした時だった。
ポツリと静香が返す。
「少し、頭を冷やしたくて」
「……はあ?」
「昼間、おかしな態度を取ってしまったでしょう? 申し訳ありませんでした」
「おかしな……って、あまり喋らなかったことですか? きっと、その時から調子が悪かったんでしょう。自覚がなかっただけで」
辻褄の合う恭介の解釈に、静香は曖昧に微笑む。
「そう……そうかもしれません。熱があったから……」
彼女の声は小さくて、恭介は最後まで聞き取れなかった。
「今、何て?」
恭介がそう問い返すと、彼女は小さく首を振りかけて、そしてふと止まった。伏せていた睫毛を上げてチラリと彼を見ると、またすぐに視線を落とす。
「……あの方々……美しくていらっしゃいました」
唐突に言われて、恭介は何のことかと首を捻る――が、思い当たらない。
顔にクエスチョンマークを浮かべているのが見て取れたのか、静香が言葉を付け足した。
「昼間の、方々。武藤に話しかけてこられた、お二人の女性です。とても女性らしい……スタイルもよろしくて」
その補足で、ああ、と思い出した。
顔は記憶に残っていないが、あれだけ押し付けられたのだから、胸がでかかったことだけは覚えている。
「まあ……そうですね」
静香がどんな回答を望んでいるのか今一つ察することができず、恭介はあやふやに答える。
そんな彼の言葉に、彼女は一つ瞬きをした。
「やはり――殿方は……あのような方がお好きなのでしょう?」
「あのような?」
「ええ……豊艶な……」
この場合は肯定が正しいのだろうか、否定が正しいのだろうか。迷った末、恭介は選んだ。
「俺は、モンローよりもヘプバーンの方が好みですよ」
彼の返答に、静香は意表を突かれたようにパチクリと瞬きをする。
「そうですの?」
「まあ、メリハリあるのが好きなのもいれば、スレンダーな方が好みなのもいますから」
「そう……」
こぼした彼女の頬は、微かに緩んでいるように見える。
なんだか妙な方向に進みつつある話に終止符を打つべく、恭介はすっかり冷めてしまったカップを静香の手の中から取り上げた。
「さあ、もう休んでください」
恭介のその言葉に、静香は抗うことなく横になる。
羽毛の肌掛けをきちんと整えて、恭介は部屋を後にする。
電気を消し、戸口から出ようとした時、そっと声がかけられた。
「武藤?」
恭介は立ち止まり、一つ息をついてから振り返った。
暗がりの中、ベッドの方に目を向ける。
しばらく待ってみたが、続きが来ない。
「お嬢サマ?」
歩み寄ることなくその場で呼びかけると、ややしてから先ほどよりも小さな声で返してきた。
「……何でもないわ。おやすみなさい」
その時、恭介がもう少し深く訊こうとしていれば、静香は何かを答えてくれたのかもしれない。
けれども、彼はそうしなかった。
その『何か』を聞くのは良くないことのように思えたし、現状を維持することを決めた彼は聞くべきではないという戒めが、頭の片隅をよぎったのだ。
「おやすみなさい、お嬢サマ」
定型の言葉を返し、扉を閉める。部屋を出た恭介はしばしドアに背を預けて瞑目した。
再び歩き出したのは、随分と時間が経ってからの事だった。
追いやるようにして風呂に入れ、髪を乾かし、今の彼女はベッドの上だ。
「体調は悪くなかったんですか?」
「ええ、まったく」
大きなベッドの上で枕にもたれた静香が頷く。その手には、恭介が入れてきた温めた蜂蜜入りレモン水がある。
気付いていなかったのなら、仕方がない。
しかし、海に入ったことで高熱にでもなったら……と思うと、恭介は気が気ではなかった。あるいは、泳いでいる時に急に熱が上がって意識が遠のき、溺れていたという可能性もあったのだ。
ベッドの中の静香は、熱の為か、微かに頬を紅くしている。
頬が紅いということは、間違いなく生きているということで。
――本当に、何事も無くて良かった。
恭介はしみじみとそう思う。
彼女がレモン水を飲み干す間、黙っているのも手持ち無沙汰で、何か話題を探す。
思いついたのは一つだけだった。
「でも、何だってまた、こんな夜更けに海に入ったりしたんです?」
海で得られなかった回答を、再び求める。
カップに口をつけようとしていた静香の手が止まり、彼女はそのままそれに視線を落とした。
「お嬢サマ?」
気晴らしだとか、涼む為だとか、そんな――取り敢えず納得できるような理由で充分だというのに、何をそんなに迷うことがあるのか、彼女は押し黙ったままだ。
固まられては、カップの中身も減らなくなる。
返事はいらないから、さっさと飲んでしまってくださいよ。
恭介がそう言おうとした時だった。
ポツリと静香が返す。
「少し、頭を冷やしたくて」
「……はあ?」
「昼間、おかしな態度を取ってしまったでしょう? 申し訳ありませんでした」
「おかしな……って、あまり喋らなかったことですか? きっと、その時から調子が悪かったんでしょう。自覚がなかっただけで」
辻褄の合う恭介の解釈に、静香は曖昧に微笑む。
「そう……そうかもしれません。熱があったから……」
彼女の声は小さくて、恭介は最後まで聞き取れなかった。
「今、何て?」
恭介がそう問い返すと、彼女は小さく首を振りかけて、そしてふと止まった。伏せていた睫毛を上げてチラリと彼を見ると、またすぐに視線を落とす。
「……あの方々……美しくていらっしゃいました」
唐突に言われて、恭介は何のことかと首を捻る――が、思い当たらない。
顔にクエスチョンマークを浮かべているのが見て取れたのか、静香が言葉を付け足した。
「昼間の、方々。武藤に話しかけてこられた、お二人の女性です。とても女性らしい……スタイルもよろしくて」
その補足で、ああ、と思い出した。
顔は記憶に残っていないが、あれだけ押し付けられたのだから、胸がでかかったことだけは覚えている。
「まあ……そうですね」
静香がどんな回答を望んでいるのか今一つ察することができず、恭介はあやふやに答える。
そんな彼の言葉に、彼女は一つ瞬きをした。
「やはり――殿方は……あのような方がお好きなのでしょう?」
「あのような?」
「ええ……豊艶な……」
この場合は肯定が正しいのだろうか、否定が正しいのだろうか。迷った末、恭介は選んだ。
「俺は、モンローよりもヘプバーンの方が好みですよ」
彼の返答に、静香は意表を突かれたようにパチクリと瞬きをする。
「そうですの?」
「まあ、メリハリあるのが好きなのもいれば、スレンダーな方が好みなのもいますから」
「そう……」
こぼした彼女の頬は、微かに緩んでいるように見える。
なんだか妙な方向に進みつつある話に終止符を打つべく、恭介はすっかり冷めてしまったカップを静香の手の中から取り上げた。
「さあ、もう休んでください」
恭介のその言葉に、静香は抗うことなく横になる。
羽毛の肌掛けをきちんと整えて、恭介は部屋を後にする。
電気を消し、戸口から出ようとした時、そっと声がかけられた。
「武藤?」
恭介は立ち止まり、一つ息をついてから振り返った。
暗がりの中、ベッドの方に目を向ける。
しばらく待ってみたが、続きが来ない。
「お嬢サマ?」
歩み寄ることなくその場で呼びかけると、ややしてから先ほどよりも小さな声で返してきた。
「……何でもないわ。おやすみなさい」
その時、恭介がもう少し深く訊こうとしていれば、静香は何かを答えてくれたのかもしれない。
けれども、彼はそうしなかった。
その『何か』を聞くのは良くないことのように思えたし、現状を維持することを決めた彼は聞くべきではないという戒めが、頭の片隅をよぎったのだ。
「おやすみなさい、お嬢サマ」
定型の言葉を返し、扉を閉める。部屋を出た恭介はしばしドアに背を預けて瞑目した。
再び歩き出したのは、随分と時間が経ってからの事だった。
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