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SS
理想の相手
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琴子はローズヒップティーを注いでもらったボーンチャイナのティーカップをそっと持ち上げ、まずはその香りを楽しんだ。ハイビスカスをブレンドしたお茶は、鮮やかな薔薇色をしている。
一口含んで、琴子は小さくため息を漏らした。蜂蜜の甘さが、舌に溶ける。
「いかがですか、琴子様?」
綾小路家の中庭に設えられた東屋で、テーブルの向かいに座った静香が柔らかな微笑みと共にそう訊いてくる。
「とても美味しくてよ。香りも華やかで」
「もしよろしければ、お持ちになって? 頂き物で、たくさんありますの。香りが良いうちに飲んでしまわなければ、もったいないですもの」
「嬉しいわ、是非」
そう答え、琴子も笑顔を返す。
静香の微笑みは同性から見ても艶やかで、琴子は目にするたびに憧れの念を抱いてしまう。
――高校を卒業してからも、琴子と静香はこうやって時折お茶会を開いていた。
もっとも、お嬢様女子大でのんびり学生生活を謳歌している琴子と違って静香は父親の仕事の絡みでなかなか時間が取れず、会えるのはそう頻繁な事ではなかったが。
「学校はいかがですの?」
「高校の時と、さほど変わりませんことよ。のんびり過ごしておりますの。文学部に籍を置いていても、将来教職に就くわけでもありませんし。どなたかに嫁ぐまでの時間つなぎに過ぎませんわ」
「まあ……」
琴子の口調にどこか不満の響きを感じ取ったのか、静香が形のよい眉を微かにひそめる。
「あら、でも、楽しくないわけではありませんのよ? ただ、変りばえがしないだけで」
琴子は慌てて首を振って取り成して、そう言えば、と続ける。
「嫁ぐまで、と言えば、驚きましたわ……武藤様とのこと」
その名を、琴子が口にした途端だった。
パッと、白磁のような静香の頬が薄紅色に染まる。その口元に浮かんだ笑みは、まさに『幸せ』を具現化しているようで。
その輝きに、琴子は目を奪われる。
静香はとても人当たりが良いが、感情を露出することは滅多にない。温かさを保ちながら己の中には立ち入らせない、器用な距離感を保てる少女だ。
そんな彼女が閃かせた想いの発露に、何だか琴子は悔しさを覚える。
静香の気持ちが向けられている者が誰なのか、彼女自身から明かされるまで、琴子はさっぱり判らなかったのだ。学園の中で最も静香に近しいのは自分だという自負があったのに、彼女はその想いを見事に己の中に包み込んでいた。
秘密を持たれていたことがしゃくで、つい琴子は意地の悪いことを言ってみたくなってしまう。
「わたくし、静香様は薔薇とお紅茶がお似合いになるような殿方と結ばれるべきだと思っておりましたのよ。あんなに……武骨な方じゃなくて。それに、お年が離れ過ぎていらっしゃいますわ」
琴子の声ににじむ拗ねたような響きに気付いたのか、静香は少し困ったような微笑みを浮かべた。
「琴子様は、恭介様のことをあまりお好きではありませんの?」
どことなく悲しげな彼女の声に、琴子は視線をテーブルに落とす。
静香の彼女の視線を感じながら一口二口お茶を含み、そして目を上げて続けた。
「ごめんなさい。嫌いではないですわ」
その言葉に、静香の顔がパッと華やぐ。
「琴子様も恭介様も、わたくしにとってはどちらも大事な方ですもの。仲良くしていただけたら嬉しくてよ。恭介様はとてもお優しい方ですの、琴子様もきっともっとお好きになりますわ」
「そうですわね……ええ」
不本意ながら、頷きは本心からのものだ。
恭介の外見からは思いも寄らない穏やかな人柄は、琴子も知っていた。
そして、彼が静香に対して抱いていた想いも。
確かに目付きは鋭いし、身体は大きいし、無口だし、そのどこを取っても静香に相応しい優美さに欠けている。
けれども、静香に注ぐ眼差しはこの世にただ一つのかけがえのないものを見つめるようだったし、時折彼女に触れるその手付きは繊細な陶器でも扱うかのようだった。
恭介が静香の名を呼ぶところは聞いたことがないが、きっと、甘いお菓子を含んでいるような声でその三文字を口にするのだろう。
そう、恭介が静香に向けている想いは、誰から見ても、筒抜けだった。
もしかしたら彼は隠そうとしていたのかもしれない。
けれど、彼の頭はクリスタル並みで、そこにあるものは完全に透けて見えていたのだ。
だから、彼が静香の傍にいることが、ほんの少し、面白くなかった。
――多分、これは、やきもち。
あの頃の琴子は静香の心に誰がいるのか判らないと思っていたけれど、本当は、何となく気付いていたのかもしれない――彼女が想う相手は恭介なのだということに。
けれども二人が想いを通じ合わせてしまったら、そこに琴子が入り込む余地が無くなってしまう。
それが、嫌だった。
我ながら子どもじみた感情に、琴子は知らずため息を漏らす。
「琴子さま?」
案じる響きを含んだ声で名を呼ばれ、琴子はにっこりと笑顔を見せた。
「何でもありませんわ」
そう答えたその時、ザッと近くの茂みを揺らして大きな影が現れる。
「静――っと、すみません、西園寺様が来られてましたか」
「恭介様」
がっしりとした身体でペコリと頭を下げた恭介に、静香が目を輝かせた。
立ち上がりかけた彼女を彼が目で制すると、静香は子どものようにふわりと微笑んだ。
それは、琴子が今まで見たことのないようなもので。
――ああ、ほら、やっぱり。
琴子は内心でそう呟き、恭介に向けて笑顔を作る。
「ごきげんよう、武藤様」
「お久しぶりです、西園寺様」
「静香様とお約束でしたの? それでしたら、わたくしはこれで失礼いたしますわ」
もったいぶって、そう告げる。
そんな約束があるなら、静香が言っていた筈だ。うっかり忘れていた、ということは彼女に限っては有り得ないことだから、予定もなしに恭介がやってきたのだろう。
琴子のその推測は正しくて、恭介は頭を振った。
「いや、俺が突然押しかけたので……ちょっと時間が空いたから、昼飯でも、と思ったんだがな。また出直そう」
後半は静香に向けての言葉だ。
「申し訳ありません」
恭介も静香の付き人を辞めて働き出したという。彼らの間に漂う空気から察すると、多忙な二人が時間を共にできることはあまりないのだろう。
けれど、それでも静香は琴子を優先させてくれたのだ。
そのことに、彼女の胸はほっこりと温かくなる。
――ここは譲って差し上げますわ。
胸中で、恭介にそう恩を着せて。
「あら、わたくしはお暇させていただきますわ」
「でも、琴子様……」
「実は、この後ちょっと予定がありましたの。すっかり失念いたしておりました。何て切り出そうかと、迷っていましたのよ。武藤様がいらしてくださって、助かりました」
にっこりと笑顔でそう言うと、恭介が小さく会釈をして返した。
「ありがとうございます」
彼は存外に真剣な眼差しで礼を言う。
「お気になさらず」
作った笑顔でそう答え、琴子は席を立つ。
彼女を見送る為に立ち上がった静香は、意識しているのかいないのか、一歩恭介に近寄った。
琴子は並んだ彼らに、彼女の口元には自然と微笑みが浮かぶ。
全然、そぐわない二人だと思っていたけれど。
「琴子様?」
訝しげに首をかしげた静香に、小さくかぶりを振る。
「何でもありませんことよ――おふたりは、とてもお似合いですわ」
琴子のその一言に、静香の顔はパッと大輪の花が開いたような輝きを放った――この上なく嬉しそうに。今日のところは、それを見られただけで良しとしよう。
二人に向けて、琴子は優雅に一礼する。
「では、ごきげんよう、静香様、恭介様」
「ごきげんよう。また近いうちにお逢いしましょう?」
「ええ」
琴子は頷きを返すとクルリと身を翻した。二人きりになった彼らは、きっと短い逢瀬を堪能するのだろう。
静香が恭介を想う気持ちは何よりも強いだろうけれど、だからと言って、琴子との友情は少しも色褪せはしないのだ。
――親友としての座は、一歩たりとも譲りませんことよ?
心の中で『ライバル』にそう宣戦布告して、琴子は足取りも軽くその場を後にした。
一口含んで、琴子は小さくため息を漏らした。蜂蜜の甘さが、舌に溶ける。
「いかがですか、琴子様?」
綾小路家の中庭に設えられた東屋で、テーブルの向かいに座った静香が柔らかな微笑みと共にそう訊いてくる。
「とても美味しくてよ。香りも華やかで」
「もしよろしければ、お持ちになって? 頂き物で、たくさんありますの。香りが良いうちに飲んでしまわなければ、もったいないですもの」
「嬉しいわ、是非」
そう答え、琴子も笑顔を返す。
静香の微笑みは同性から見ても艶やかで、琴子は目にするたびに憧れの念を抱いてしまう。
――高校を卒業してからも、琴子と静香はこうやって時折お茶会を開いていた。
もっとも、お嬢様女子大でのんびり学生生活を謳歌している琴子と違って静香は父親の仕事の絡みでなかなか時間が取れず、会えるのはそう頻繁な事ではなかったが。
「学校はいかがですの?」
「高校の時と、さほど変わりませんことよ。のんびり過ごしておりますの。文学部に籍を置いていても、将来教職に就くわけでもありませんし。どなたかに嫁ぐまでの時間つなぎに過ぎませんわ」
「まあ……」
琴子の口調にどこか不満の響きを感じ取ったのか、静香が形のよい眉を微かにひそめる。
「あら、でも、楽しくないわけではありませんのよ? ただ、変りばえがしないだけで」
琴子は慌てて首を振って取り成して、そう言えば、と続ける。
「嫁ぐまで、と言えば、驚きましたわ……武藤様とのこと」
その名を、琴子が口にした途端だった。
パッと、白磁のような静香の頬が薄紅色に染まる。その口元に浮かんだ笑みは、まさに『幸せ』を具現化しているようで。
その輝きに、琴子は目を奪われる。
静香はとても人当たりが良いが、感情を露出することは滅多にない。温かさを保ちながら己の中には立ち入らせない、器用な距離感を保てる少女だ。
そんな彼女が閃かせた想いの発露に、何だか琴子は悔しさを覚える。
静香の気持ちが向けられている者が誰なのか、彼女自身から明かされるまで、琴子はさっぱり判らなかったのだ。学園の中で最も静香に近しいのは自分だという自負があったのに、彼女はその想いを見事に己の中に包み込んでいた。
秘密を持たれていたことがしゃくで、つい琴子は意地の悪いことを言ってみたくなってしまう。
「わたくし、静香様は薔薇とお紅茶がお似合いになるような殿方と結ばれるべきだと思っておりましたのよ。あんなに……武骨な方じゃなくて。それに、お年が離れ過ぎていらっしゃいますわ」
琴子の声ににじむ拗ねたような響きに気付いたのか、静香は少し困ったような微笑みを浮かべた。
「琴子様は、恭介様のことをあまりお好きではありませんの?」
どことなく悲しげな彼女の声に、琴子は視線をテーブルに落とす。
静香の彼女の視線を感じながら一口二口お茶を含み、そして目を上げて続けた。
「ごめんなさい。嫌いではないですわ」
その言葉に、静香の顔がパッと華やぐ。
「琴子様も恭介様も、わたくしにとってはどちらも大事な方ですもの。仲良くしていただけたら嬉しくてよ。恭介様はとてもお優しい方ですの、琴子様もきっともっとお好きになりますわ」
「そうですわね……ええ」
不本意ながら、頷きは本心からのものだ。
恭介の外見からは思いも寄らない穏やかな人柄は、琴子も知っていた。
そして、彼が静香に対して抱いていた想いも。
確かに目付きは鋭いし、身体は大きいし、無口だし、そのどこを取っても静香に相応しい優美さに欠けている。
けれども、静香に注ぐ眼差しはこの世にただ一つのかけがえのないものを見つめるようだったし、時折彼女に触れるその手付きは繊細な陶器でも扱うかのようだった。
恭介が静香の名を呼ぶところは聞いたことがないが、きっと、甘いお菓子を含んでいるような声でその三文字を口にするのだろう。
そう、恭介が静香に向けている想いは、誰から見ても、筒抜けだった。
もしかしたら彼は隠そうとしていたのかもしれない。
けれど、彼の頭はクリスタル並みで、そこにあるものは完全に透けて見えていたのだ。
だから、彼が静香の傍にいることが、ほんの少し、面白くなかった。
――多分、これは、やきもち。
あの頃の琴子は静香の心に誰がいるのか判らないと思っていたけれど、本当は、何となく気付いていたのかもしれない――彼女が想う相手は恭介なのだということに。
けれども二人が想いを通じ合わせてしまったら、そこに琴子が入り込む余地が無くなってしまう。
それが、嫌だった。
我ながら子どもじみた感情に、琴子は知らずため息を漏らす。
「琴子さま?」
案じる響きを含んだ声で名を呼ばれ、琴子はにっこりと笑顔を見せた。
「何でもありませんわ」
そう答えたその時、ザッと近くの茂みを揺らして大きな影が現れる。
「静――っと、すみません、西園寺様が来られてましたか」
「恭介様」
がっしりとした身体でペコリと頭を下げた恭介に、静香が目を輝かせた。
立ち上がりかけた彼女を彼が目で制すると、静香は子どものようにふわりと微笑んだ。
それは、琴子が今まで見たことのないようなもので。
――ああ、ほら、やっぱり。
琴子は内心でそう呟き、恭介に向けて笑顔を作る。
「ごきげんよう、武藤様」
「お久しぶりです、西園寺様」
「静香様とお約束でしたの? それでしたら、わたくしはこれで失礼いたしますわ」
もったいぶって、そう告げる。
そんな約束があるなら、静香が言っていた筈だ。うっかり忘れていた、ということは彼女に限っては有り得ないことだから、予定もなしに恭介がやってきたのだろう。
琴子のその推測は正しくて、恭介は頭を振った。
「いや、俺が突然押しかけたので……ちょっと時間が空いたから、昼飯でも、と思ったんだがな。また出直そう」
後半は静香に向けての言葉だ。
「申し訳ありません」
恭介も静香の付き人を辞めて働き出したという。彼らの間に漂う空気から察すると、多忙な二人が時間を共にできることはあまりないのだろう。
けれど、それでも静香は琴子を優先させてくれたのだ。
そのことに、彼女の胸はほっこりと温かくなる。
――ここは譲って差し上げますわ。
胸中で、恭介にそう恩を着せて。
「あら、わたくしはお暇させていただきますわ」
「でも、琴子様……」
「実は、この後ちょっと予定がありましたの。すっかり失念いたしておりました。何て切り出そうかと、迷っていましたのよ。武藤様がいらしてくださって、助かりました」
にっこりと笑顔でそう言うと、恭介が小さく会釈をして返した。
「ありがとうございます」
彼は存外に真剣な眼差しで礼を言う。
「お気になさらず」
作った笑顔でそう答え、琴子は席を立つ。
彼女を見送る為に立ち上がった静香は、意識しているのかいないのか、一歩恭介に近寄った。
琴子は並んだ彼らに、彼女の口元には自然と微笑みが浮かぶ。
全然、そぐわない二人だと思っていたけれど。
「琴子様?」
訝しげに首をかしげた静香に、小さくかぶりを振る。
「何でもありませんことよ――おふたりは、とてもお似合いですわ」
琴子のその一言に、静香の顔はパッと大輪の花が開いたような輝きを放った――この上なく嬉しそうに。今日のところは、それを見られただけで良しとしよう。
二人に向けて、琴子は優雅に一礼する。
「では、ごきげんよう、静香様、恭介様」
「ごきげんよう。また近いうちにお逢いしましょう?」
「ええ」
琴子は頷きを返すとクルリと身を翻した。二人きりになった彼らは、きっと短い逢瀬を堪能するのだろう。
静香が恭介を想う気持ちは何よりも強いだろうけれど、だからと言って、琴子との友情は少しも色褪せはしないのだ。
――親友としての座は、一歩たりとも譲りませんことよ?
心の中で『ライバル』にそう宣戦布告して、琴子は足取りも軽くその場を後にした。
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