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戦いの傷痕◇サイドC

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 机の上に広げた書類の文字の上を、目が滑っていく。
 無意識のうちに紙をめくり、そうしてから、その内容が全く頭に入っていなかったことに気付いた。

 これで何度目だろう。
 領地の収穫についての報告書の束を音を立てて机の上に放り出し、僕は椅子の背に身体を預けた。

 祖国の土を踏み、都の我が屋敷に戻ってから、もうひと月近くになる。
 そのひと月の間、ずっとこんな調子だった。

 知らず、深いため息が口から洩れる。
 ふとした時に僕の頭の中に浮かぶのは、喪われた五十三人の姿だ。
 僕の指揮下にあった、五十三人。
 その命を僕に預け、そして散らされた五十三人。
 彼らのうち二十一人はこの都で暮らしていた。皆、誰かしら家族がいて、屋敷に戻った翌日から、僕は彼らを訪問することを始めたのだ。父、夫、息子、兄、弟の死を、詫びる為に。
 都で会える遺族の最後の一人――まだ年若い兵士だった青年の年老いた母への訪問を終えたのは、二日前のことだ。彼女は息子の死を悼み、差し出した僕の手を額に押し抱いて、むせび泣いた。
 その声が、今も耳の奥から離れない。僕の手を包んでいた乾いた肌の感触も、それから僕のその手を濡らした涙の温かさも。

 彼らの家を訪ねることは単なる自己満足に過ぎないことは、僕もよく解かっている。
 僕が詫びても死んだ者は還ってこないのだ。
 ただ、この身に巣食う罪悪感をなだめる為のもの。
 それだけ。

 ジェシーに僕がしようとしていることを伝えた時、彼は穏やかな顔で「何故、それをするのですか」と訊いてきた。
 その時は答えなかったけれど、僕は多分、彼らに責められたかったのだ。

 息子を返してくれ、夫を返してくれと、胸倉を掴まれたかったのだと思う。そうすれば、自己憐憫に浸れたから。

 それなのに。

『あの子は手紙に書いていました――あの方になら、この命を預けてもいい、と』
『夫は申しておりました――伯爵の指揮下で戦えるのは、この戦争が始まって以来、唯一の幸運だ、と』
『父はあなたのもとで戦えて、本望だったと思います』

 僕は、そんな言葉を聞きたかったわけではない。
 僕が望んだのは、もっと違う台詞だ。

 目蓋を閉じ、開き、そして窓の外へと目を向けた。外には、柔らかな色合いの春の青空が広がっている。それは、僕の胸の中とは正反対に爽やかに晴れ渡っていた。

 残りの三十二人は、領地に戻ってからになる。
 領地の者は、僕が幼い頃からの顔見知りだ。多分、その三十二人の方がよりいっそうきついものになるだろう。

 ふと、何かを感じる。
 振り返ると、戸口に今一番見たかった姿があった。いや、今だけではない、いつでも傍にいて欲しい姿だ。
 どうやら、ノックに無意識のうちに答えていたらしい。

「エイミー、どうしたんだい?」
 何故か入ってくるのを躊躇っているらしいエイミーに、微笑みかけた。と、ホッとしたように細い肩が少し落ちて、彼女はワゴンを押して中に入ってくる。

「お茶をお持ちしました」
 机の横にワゴンを止めたエイミーは、柔らかな動きで茶を淹れ始めた。
 元々流れるような所作だったものに、以前にはなかった、たおやかさが加わっている。
 こうやって彼女を間近で見つめている時だけ、鬱々とした心に光が射し、指の先までじわりと温かくなる気がする。

 屋敷に帰ってきて、彼女の姿を目にする度に、しみじみと思う。

 ずっと、エイミーに傍にいて欲しかった。
 いつでも、彼女の姿を見ていたい。声を聴いていたい。
 こんなふうに思うのは良くないと判っていても、やっぱり求めてしまう。
 引き寄せて、離れていた二年間分、抱き締めていたい。

 そして――

 ボウッと夢想していた僕は、紅茶を置いてまた遠ざかりそうになったエイミーの手を、頭で考えることなく捕まえてしまっていた。
 これでも僕は、屋敷に着いた日に抱き締めてからは、できる限り彼女には触れないようにしていたのだ。自分を、信用できなかったから。

 摘まんだ指先は、僕のものと比べてあまりに細く柔らかく、どこか甘そうだった。
「旦那さま?」
 まろい声でそっと呼ばれ、我に返る。
「どうかされましたか? お疲れですか?」
 眉をひそめたエイミーは少し幼く見えて、二年前の彼女に戻ったようだ。
 さっきまで僕が考えていたようなことを、僕がそんなふうに考えているのだということを、彼女は想像すらしないのだろうな。
 それが微笑ましくもあり、物足りなくもある――いや、やっぱり、エイミーらしくて安心する、かもしれない。

 幼いままの彼女も、どこか大人びた彼女も、どちらも愛おしい。
 ずっとこのままでいて欲しいし、早く僕に追い付いて欲しい。

 矛盾していることは判っているが、どんな彼女も、やっぱり彼女なのだから仕方がない。

「なんでも、ないよ」
 囁いて、桜貝のような彼女の爪に、口付けた。
 人差し指、中指、そして薬指――ここにこの手で指輪をはめられたら、どんなに満ち足りた気分になれることだろう。
 艶やかな感触に唇で触れる以上のことをしたくなるけれど、ギリギリのところでこらえる。

 本当は、立ち上がり、華奢で柔らかな身体を抱き締めたかった。
 絶壁で垂らされた一本の綱にすがるように、僕の中にぱっくりと口を開けている底の見えない暗い谷に転がり落ちないように、二年前と同じ温もりをくれる彼女を抱き締めていたかった。
 もう二度と離れることのないように僕の全身で包み込んで、そして彼女に包み込まれたかった。

 こんなふうに考えている僕を、エイミーはなんて思うだろう。

 出逢ってから八年。
 初めて出逢ったその瞬間から、僕は彼女の庇護者だった。
 そんな僕が、僕の方こそが彼女を必要とし、支えにしているのだと知ったら?

 情けない、と幻滅されるだろうか。
 ――と、まるで、僕のそんな心の中の声に答えるかのように。

「わたしに、何かできることがありますか?」
「え?」
 頭の上から聴こえてきた躊躇いがちな声に、弾かれたように顔を上げる。僕を見下ろすエイミーの顔は、至極生真面目なものだった。

 彼女がまた口を開く。

「わたしにできることなら、なんでもして差し上げます」

 ああ、彼女は、自分が相手にしている男が何を考え何を望んでいるのか、まるで解かっていない。
 そんな台詞は、決して口にしてはいけなかったのに。
 二年間で見た目は大人になったけれど、中身は変わらぬエイミーだ。
 無防備で無垢で無邪気で無知な、エイミーだ。
 ついつい、苦笑が漏れる。
 だって、仕方がないだろう?
 僕がこんなに我慢に我慢を重ねているというのに、彼女の方からそれを揺さぶってしまうのだから。
 苦笑する以外に、何ができるというのだろう。

 当然、エイミーはムッと唇を結んだ。
 きっと軽くいなされたと思ったに違いない。
 限界まで来ているこの僕に、そんなことができるわけがないというのに。

 いいさ、エイミーの方からそう言ってくれるなら、喜んで僕の望みを言おうじゃないか。

 僕は苦笑を引っ込めて、立ち上がる。
 捕まえていた彼女の手を握り直して、引っ張った。
 軽々と腕の中に引き寄せて、ふわりと抱き締める。一瞬固まり、次いでもがき出した彼女を、逃げられないようにしっかりと固定した。

 エイミーの柔らかな身体は、ぴったりと僕の身体に重なる。まるで、僕の為に作られた、僕だけの為に存在するみたいに。
 きちんとまとめられた栗色の髪に、頬を寄せる。仄かに漂う彼女らしい甘い香りが、鼻腔をくすぐった。それが絹のような手触りであることを知っているから、ほどいてしまいたくて指が疼く。
 エイミーには気付かれないように、小さな耳の上の辺りにそっと口付けた。

「僕以外には、そんなことを言ってはいけないよ?」
「え?」
「だからね、男に向かって『何でもしてあげる』なんて、言ってはいけないんだ」
「ですが――」
 くぐもった声で言いながら僕から離れようとするのを、いっそう力を込めて閉じ込めた。

 エイミーの温もりが、どんどん僕の中に浸透してくる。

 ああ、やっぱり彼女が欲しい。全てを僕のものにしたい。

 抑えきれない衝動に駆られて、僕は頭を下げて彼女の耳元に囁く。
「僕が君にして欲しいことを口に出したら、今の君はすごく困ると思うよ」

 きっと、今のエイミーにはまだ理解できない。
 きっと、今のエイミーには拒絶される。

 だけど、叶うことなら、僕の気持ちを、僕の望みを、受け入れて欲しい。

 ぐらぐらと揺れる僕の耳元で、きっぱりとした彼女の声が告げる。
「だいじょうぶですから、おっしゃってください」
 意気込みを感じさせるエイミーのその返事に、僕は身体を離して彼女を見つめた。

「……本当に?」
「はい」
 エイミーの大きな目が、真っ直ぐに見返してくる。

 君の全てが欲しいんだ、と言ったら――
「拒否しない?」
「もちろんです」
 常に僕の隣にいて、これからの人生の全てを共にして、最期の息を吐き出すその瞬間まで一緒に生きて欲しいと言っても、拒まないのだろうか。

「絶対?」
「絶対に」
 エイミーは、深々と頷いた。

 キラキラと輝く瞳の中にあるのは、僕への信頼と思慕だ。――愛……は、ないかもしれないけれど、間違いない、彼女は僕を慕っている。これは疑う余地がない。
 僕に対する彼女の気持ちの中に恋情は存在しなくても、僕の中には彼女の分を補っても余りある愛がある。

 まずは、そこからでもいいだろう?

 多分、何かのたがが外れてしまったのだと思う。しかし、一度外れてしまったものは、もう戻せない。

 僕に光を与えてくれるエイミーがいれば、僕を捉えようとするドロドロした何かから逃れられる。
 僕に光を与えてくれるエイミーがいなければ、僕は闇に足をすくわれ二度と立ち上がれなくなってしまう。
 僕には、エイミーが必要なんだ。

「旦那さま?」
 ひざまずいた僕に、エイミーが戸惑いに満ちた声で問い掛けてくる。

 僕は彼女の手を取り、気付いた。

 しまった、指輪がない。
 ボールドウィン家の花嫁が代々受け継いできた指輪を、ジェシーに言って出しておいてもらわないと。

 頭の中でそんなことを考えつつ、その甲に口付けた。
 そうして顔を上げ、晴れやかに笑いかける。彼女の眼差しが困惑と混乱で塗り込められていても、構うものか。いっそ、この機に乗じてやる。

「僕と結婚してくれないか?」

「……けっこん……?」

「僕の妻になって欲しいんだ」

「…………つま…………?」

 僕の台詞の一部をポツリポツリと繰り返す彼女の目の中に浮かぶ色は、いつの間にか疑念に変わっていた。
 エイミーは何を疑っているのだろう。僕の気持ちだろうか?
「大丈夫、絶対に君を幸せにするから。何も心配する必要はない」
 そう言って立ち上がり、軽く、本当に軽く、唇を重ねた。触れただけですぐに離れたそれは、僕の唇を疼かせる。本当は、僕の中の想いを全部注ぎ込むような深い口付けをしたかった。けれど、さすがにそれは急ぎ過ぎなことは、今の僕だって判っている。

 なんだか急に気持ちが軽くなって、ごくごく自然に笑みが浮かんだ。
「気持ちを整理する時間をあげるよ。だけど、あんまり長くは待たせないで欲しいな」
 もう、充分過ぎるほど長い間、我慢してきたのだから。

 僕は指の背でポカンとしているエイミーの頬を撫で、名残惜しさをこらえてそっと彼女の向きを変えさせた。これ以上無防備な彼女を前にしていたら、さすがに限界を超えてしまう。
 肩を抱いて戸口まで連れて行き、外へと押し出した。
 されるがままのエイミーは僕に背を向けたままで、少しうつむいた彼女の華奢なうなじが目に入る。
 途端、多大なる欲求に駆られたが、それまで鳴りを潜めていた理性がようやく頭をもたげてきた。

 今日のところはもうこれまでだ。

「ではまた後で、エイミー」
 そう告げて、静かに扉を閉めて僕は僕自身から彼女を隠した。
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