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戦いの傷痕◇サイドA

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 ああ、またです。
 午後のお茶を運んできて、わたしはまた、その光景を目にしました。

 それは、椅子に深く腰掛け、窓の外を見つめる旦那さまのお姿です。
 ここに、わたしのすぐ目の前におられるのに、どこか遠くを見つめていらっしゃるような――どこか遠くにいらっしゃるような。

 以前の、戦争に行かれる前の旦那さまは、こんなふうにぼんやりとなさることはありませんでした。
 確かに、お仕事一筋、寸暇を惜しんでバリバリご用をこなしていく、という方ではありませんでしたが、何もせずにボウッと窓の外を眺めるなんて、目にしたことがありません。その上、旦那さまのその眼差しには、これもまた以前はなかった何か陰のようなものがちらちらとくすぶっているのです。

 お近くに行くのがためらわれて戸口の所で立ち止まっているわたしに、ふと気付いたように旦那さまが振り返りました。
「エイミー? どうしたんだい?」
 そう言って軽く首をかしげた旦那さまのご様子は、もういつもと変わりません。わたしを見つめて、優しく微笑んでおられます。その穏やかな笑顔を向けられて、何故か、わたしの胸がチクリと痛みました。

 笑えるのは良いことのはずなのに、そんなふうに笑わないでくださいと、大声で言いたくなってしまいます。
 けれど、旦那さまは何事もなかったかのようにしていらっしゃるから、わたしも胸の中のざわつきをなかったことにして、ワゴンを押してテーブルへと向かいました。

「お茶をお持ちしました」
「ありがとう、ちょうど一息入れたかったところなんだ」
 旦那さまは、またニッコリと笑顔をくださいます。
 一息どころか十息くらいは入れていたように見えましたが、わたしは黙って準備を進めました。

 書き物机の上の書類を少し片づけて、カップやお茶請けを置く場所を作ります。
 午後のお茶はダージリンで、茶葉入れを開けるとふわりと香りが漂いました。
 わたしのすることを旦那さまはジッと見つめておられますが、何もおっしゃられません。
 なのでわたしも黙々と手を動かします。
 もっと、旦那さまのことをお慰めできるようなことを言ったりできたりできれば良いのですが、わたしにできることなど、数えるほどしかありません。
 身の回りを整えて差し上げるとか、こうやって、お茶を淹れて差し上げるとか。
 でも、わたしにできることを精一杯やって、少しでも寛いでいただきたいのです。

 黙々と動くうち、静かで、穏やかで、この部屋に入った時よりも旦那さまから感じられる何か――雰囲気のようなものが柔らかくなったような気がして、わたしも胸の中で少しホッとしました。
 カップにお茶を注ぐと、ダージリンの良い香りが辺りに広がります。色も鮮やかで、上手に淹れられたことに我ながら嬉しくなりました。
 それをそっと旦那さまの前に置き、そのまま手を引こうとしたのですけれど、わたしが手を下ろしきるより先に旦那さまの手が伸びてきて、指先をひっかけるようにして止められてしまいました。

 わたしの指三本ほどが、旦那さまの人差し指と親指の間に挟まってます。
 ただそれだけで、きつく力を込められているわけでもないのですが、腕の力を抜いてみても、まるで動きません。
 そうやってわたしの手を掴まえたまま、旦那さまはジッとわたしを見上げてきました。
 何か足りないものがあったのかと思いましたが、手順はいつも通り、もう何千回もしてきたことです。間違いがあったら――いいえ、間違えようもありません。

 旦那さまは、ただただ無言で。
 ひたすら見つめてこられるばかりで何もおっしゃって下さらないので、何がお望みなのか判りません。
 何かご不足なら、ちゃんと口に出していただきたいのですが。

「旦那さま?」
 しばらく待ってみてもまったく動きがないので、小さな声でお呼びしてみました。
 と、旦那さまはまるでうたた寝から目が醒めたというように、ハッと瞬きをひとつされました。まさか、本当に目を開けたまま、居眠りをされてらっしゃったとか?

「どうかされましたか? お疲れですか?」
 眉をひそめて伺うと、旦那さまはまたまじまじとわたしを見つめて、そして小さく微笑まれました。
 柔らかな、どこかホッとしたような、笑顔。
 不意に、わたしのお腹の辺りがキュッと縮まったような変な感じになりました。

 なんでしょう?
 思わず空いている方の手でみぞおちの辺りをさすってみましたが、それは一瞬のもので、もう全然残っていません。

 気のせい、でしょうか。
 変だな、と眉をひそめていたわたしの耳に届いたのは、小さな囁き声。

「なんでも、ないよ」
 そうおっしゃった旦那さまの金色の頭が、少し下がりました。次いで、指先に温かくて柔らかな感触。
 旦那さまの唇が、捕まっているわたしの指の先の爪の一つ一つに、そっと触れていきます。
 人差し指……中指……そして薬指で、止まりました。
 微かな吐息が、指先を温めています。
 旦那さまはお座りになっていて、わたしは立っていて――いつもは見上げている金色に輝く頭が、今はわたしの目の下にあります。伏せられた睫毛が頬に影を作っているのまで、見えました。
 わたしよりも大人で、大きくて、ご立派な旦那さまが、今はどこか頼りなげな、小さな子どものように思われました。
 その途端、何故でしょう、わたしは、自分の持っているものを全て差し上げてしまいたいような、わたしができることなら何でもしてあげたいような、そんな気持ちになりました。

 いえ、前から、そういうふうに思ってはいたのです。
 旦那さまの、お世話をさせていただけるのが、わたしにとっての喜びでしたから。
 けれど、今胸の中に込み上げているのは、これまでのものとは比べ物にならないほどに、強いもので。

「わたしに、何かできることがありますか?」
 おこがましいとは思っても、つい、そんな言葉が口からこぼれ出てしまいました。

「え?」
 パッと、旦那さまが顔を上げて、目を丸くしています。驚いたようなそのお顔に、わたしはバカなことを言ったと思いながらも、繰り返してしまいました。

「わたしにできることなら、なんでもして差し上げます」
 旦那さまはそのままわたしを見つめ続け、そして、フッと苦笑を浮かべられました。笑顔、ではなくて、苦笑、です。

 何故、苦笑い、なのでしょう。
 わたしにできることなど別にないと、思われたのでしょうか。

 少しムッとしたわたしの前で、旦那さまが立ち上がりました。
 そうして、まだ捕らえたままだったわたしの手を引っ張ります。一瞬後には、わたしは旦那さまの腕の中にいました。意表を突かれて束の間ポカンとしてしまいましたが、すぐに我に返りました。身体を捻って離れようとしましたが、腰と頭の後ろにまわされた手で、かえって硬い胸にピタリと顔の片側が押し付けられてしまいます。そこから響いてきた声は、やっぱり苦笑混じりでした。

「僕以外には、そんなことを言ってはいけないよ?」
「え?」
 顔を上げようとしましたが、びくともしません。また、声が響いてきました。
「だからね、男に向かって『何でもしてあげる』なんて、言ってはいけないんだ」
 けれどわたしは、心の底から、そう思ったのです。確かにわたしにはたいしたことはできませんが、それでも、少しは何かができる筈。

「ですが――」
 お顔を見て、なんとかこの意欲を認めてもらおうとしたのですが、わたしが動けば動くほど旦那さまの力が強くなって、いっそうしっかりと捕まってしまいます。

 と、旦那さまの頭が下がって、わたしの耳元が温かくなりました。
「僕が君にして欲しいことを口に出したら、今の君はすごく困ると思うよ」
 耳のすぐ傍でこぼされた、どことなく試すような、微かに不安が滲んでいるような、旦那さまの声。
 わたしはもがくのをやめて、旦那さまのシャツの胸元を強く握り締めました。しわになってしまいましたが、その時は、それを気にする頭が回らなかったのです。

 旦那さまのお望みに、『いつのわたし』も困るわけがありません。
 もしも、何かわたしに望まれることがあるのなら。
「だいじょうぶですから、おっしゃってください」
 わたしの力が及ぶ限り、全力で試みますとも。

 きっぱりとわたしが言うと、旦那さまの腕の力が緩みました。顔を上げると、わたしの顔をしげしげと見つめておられる眼差しがあります。

「……本当に?」
「はい」
 なんだか、旦那さまの目がコワいです。いえ、コワいというか……
 何故だか急に逃げ出したいような気持になってしまったのをグッと抑え込みました。
 旦那さまに対して、コワいとか逃げたいとか、思うはずがありませんから。

「拒否しない?」
「もちろんです」
「絶対?」
「絶対に」
 言葉だけでなく、深々と、うなずきます。
 すると旦那さまの腕が解かれ、何を思われたのか、突然わたしの前で片膝をついてひざまずかれました。

「旦那さま?」
 意味不明な行動に戸惑うわたしの左手を、旦那さまは無言で取り上げました。そして、そこにまた唇で触れます。さっき爪にそうした時よりも、しっかりと。
 旦那さまを感じている手の甲は、まるで熱湯を浴びたみたいです。耳の中で、ドクドクと鼓動が響いているような気がしました。

 無意識のうちに、それを数えていたと思います。
 多分、たっぷり十回はいったところで、ようやく旦那さまが顔を上げられました。

 そうして、ニッコリと笑います。この上なく、晴れやかに。

 ――その後に続いた旦那さまのお言葉は、耳を疑う、ご乱心なさったとした思えないものでした。
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