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待ち侘びた時◇サイドC
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「見事な働きだったな」
悠然と玉座に身体を預けた主――ジョン・ロッド七世は、ひざまずいた僕に向けてそう言った。
二年ぶりに拝謁するそのお姿は、記憶の中のものと全く変わりがない。
「砦を防衛し、向こう三十年の和平を確かなものとし、死者はわずか。これ以上の成果は望めまい。無理を通してそなたを行かせたことは正しかったな。他の者ではこうはいかなかっただろう」
この上なく満足そうなその言葉が、チクリと僕の胸を刺す。それを無視して頭を垂れた。
僕の『成果』にはあまり触れたくなくて、別の話題にすり替える。
「マリアンナ姫はお疲れのご様子でしたが……」
マリアンナ・ラ・ローシェ。
淡い金髪に若葉の色の瞳の麗しき姫君は、御年十七の隣国の王女だ。
今回の戦いは、我が国の圧倒的勝利に終わった。停戦を申し入れてきたのは、相手側からだ。
その申し入れを拒否して国境線を書き換えることも可能だったが、ジョン王は現状維持を選び、代わりに長く続く和平を選んだのだ。王女はそれを確かなものとする為に我が国に滞在する。
――まあ、体のいい人質、なわけだが。
だが、こちら側から要求したわけではない。停戦の証として、向こうから進んで第一王女である彼女を差し出してきたのだ。まるでそうしなければ我が国が破約するに決まっているとでも言わんばかりに。
「三十年もあれば、今よりもマシな国交を結ぶことができるだろう。まったく、疑心暗鬼でこちらの提案など聞こうとしないからな、彼らは。まともな信頼関係を築く時間と機会ができたのは、何よりだ。姫君にこの国をご覧いただければ、我々が鬼畜生ではないことを理解してもらえるだろう。きっと、あちらとの最高の架け橋になってくれる」
そこで彼は膝の上に頬杖を突き、どこか面白がるような光をその金色の瞳に浮かべて僕を見下ろしてきた。
「この戦いで、他の者十人が一生かかっても成し遂げられるか判らんほどの手柄は立てたぞ? 前にそなたが申しておった褒美だけでは釣り合わん。何か他に望みはないのか?」
「手柄なんて……」
また、そこに戻ってしまった。
僕の『成し遂げたこと』は、とうてい、胸を張れるようなものではない。全く誇れるものではないのだ。
僕のそんな胸中が顔に出たらしい。
「何だ? 不服そうだな」
器用に片方だけ眉を持ち上げ、王が首をかしげる。
「何か思うところがあるのならば、申してみよ」
「……私は、この戦いで誰一人死なせるつもりはありませんでした」
そう口にするのは苦渋を含むようなものだった。王はそんな僕に眉をひそめる。
「死者、と言っても五十三名だぞ? 戦で誰も死なせないというのは不可能だ。一万五千の兵のうち、五十三名。あの戦いでこの数は、奇跡と言ってもいいだろうに。その死者も、戦いそのもので命を失った者はわずか七名――傷や病を癒せるかどうかは医師と神の領分でそなたにはどうすることもできない。しかもその七名は、傷を負った者は直ちに後方へ下がるようにというそなたの命に従わなかった者ばかりだというではないか。そなたが気に病むことはない」
「それでも、死者は死者です。無視することは、できません」
僕は、彼らをただの数としては見られない。
明日から、遺族の元を一軒一軒回るつもりだった。
奥歯を噛み締めた僕に、王がため息混じりの苦笑をもらす。
「そなたはこの上なく優秀な将になれる器だというのに……この上なく将に向いていない性格だな」
「そんなものになど、なれませんよ。私には平和な土地の領主が精一杯です」
「――まあ、良い。何か望みの物ができたなら、その時に言いに来い。そなたも疲れただろう? 屋敷に戻ってゆっくりと休め」
「ありがとうございます」
一礼して謁見の間を後にしようとしたところを、引き止められる。
「そうだ。そう言えば、そなたの『宝』、近いうちに見せてもらえるのだろうな?」
「ああ、はい……いずれ、必ず」
そう答え、僕は静かに部屋を出た。
*
ガラガラと音を立てて馬車が走る。
いや、他にも馬車や人が行き交う都の大通りだから、走る、というほどの速度ではない。
本当なら自ら手綱を握って馬で屋敷に駆け付けたいところだが、街中を疾駆するわけにもいかないから、こうやって絹張りの座席で揺られているしかない。
窓の外には見慣れた街並があって、刻一刻と屋敷に近付いているのが実感できる。それだけに、気が逸った。
ジェシーの便りでは、皆、元気につつがなく過ごせているとのことだった――僕がいなかった間も。
僕がこの地を発ってから、もう、二年が過ぎたのだ。
とてつもなく長い、二年だった。
この地に残していった者の事を想わない日は無い、二年だった。
僕が不在の間は、都の屋敷には、必要最低限の使用人しか置いていない。その必要最低限の使用人の中に、今はエイミーがいる。
本当なら、彼女は領地の屋敷にいる筈だった。こうやって帰国できても、逢えるのはまだあと七日はお預けになる筈だった。
だが、エイミーはこの二年間、ずっとこの都にいた。彼女の方から、どうしても都にいたいのだと、ジェシーに願い出てきたらしい。便りが早く届くから、僕が帰ってきたら一日でも早く顔を見たいから、と。
あの子が自分の欲求を訴えてくることは、滅多にない。
つまり、それだけ強い望みだったということで。
――エイミーは、僕を慕っている。
それは、明らかだ。
問題は、その気持ちがどんな感情に基づいているのかというところだった。
僕を『保護者』ではなく、『男』として見るようになってくれるだろうか?
生涯の伴侶――夫として見るようになるだろうか?
……判らない。
だが、彼女の気持ちは、ゆっくりと育てていけばいいだろう。
僕が彼女の傍を離れることは、もうない。
時間はたくさんあるのだ。
僕が焦らず、エイミーを急かさず、二人の関係を変えていけばいい。
「旦那様、そろそろ到着です」
決意を胸に僕が膝の上で両手をゆっくりと握り締めた時、静かな声が、そう告げた。
声の主はデニスだ。影のように気配を感じさせない彼に現実へと引き戻された僕は、瞬きを一つして、窓の外に目を向ける。
ちょうど門を通り抜けたところで、屋敷はもう目の前にあった。夕日が照らす中、玄関の前に二十ばかりの人影が並んでいるのが見て取れる。
――変わっていない。
真っ先に、そう思った。
感慨にふける暇もなく馬車が停まり、御者台に乗っていたゲイリーが即座に扉を開けてくれる。
馬車の中の薄暗さに慣れていた目に西日は少しまぶしくて、目を細めながら居並ぶ屋敷の者たちをサッと一瞥した。
そして、もう一度。
ああ、いた。
彼女の姿を目にした途端、胸の中が温かくなった。目には見えない、柔らかく心地の良い何かで、胸の中が満たされた。
顔立ちは二年前とあまり変わらない――いや、やっぱり、少し大人びた感じだ。
大きな栗色の目が、僕にひたと向けられている。
どこか不安そうに見えるのは、二年ぶりの再会に緊張しているからだろうか。
何となくエイミーとの距離を感じてしまって、僕の肩にも力が入ってしまう。
僕はそんな自分をごまかすように、そして強張っているエイミーを宥めるように、微笑みを浮かべてみせる。
と、見る見る彼女の表情が和らいで、白くなるほど握り締められていた両手が緩んだのが見て取れた。
現金なもので、途端に僕の緊張も霧散する。
「ただいま、皆元気そうで何よりだ」
笑みを深くしてそう声をかけると、皆、多少なりとも気を張っていたのだろう――ホッとしたように一同がざわめいた。
めいめいが口々に「お帰りなさいませ」と声をかけてくる中、彼らに応えながらも、僕はエイミーから目を離せなかった。
僕が「ただいま」と言った時にエイミーの顔に溢れた、喜びの輝き。微かに緩んだ口元は、彼女にとっての笑顔なのだろう。
表情という顔の筋肉の動きなんかよりも遥かに雄弁に、エイミーの目が語っている。
僕に逢えて嬉しい、と。
僕の帰りを待ち焦がれていたのだ、と。
ああ、今、この場で、抱き締めてしまいたい。
そんな想いを、理性を総動員して捻じ伏せる。
他の者たちからすれば、僕にとってエイミーは使用人の一人に過ぎないのだ。そして、僕はエイミーにとって主であり庇護者だ。いつかのように泣いた彼女を慰める為ならまだしも、再会の喜びで彼女一人だけを抱き締めるわけにはいかない。
「さあ、セディ様、お疲れでしょう。湯浴みの用意はさせていますから、お部屋の方へ」
「ああ、そうだな……」
声をかけてきたジェシーに僕は上の空で答え、そうして彼について歩き出した。
一心に僕を見つめているエイミーの眼差しを全身で感じ取りながら。
*
湯浴みを終え、食事を終え、僕は書斎でデニスが置いていった琥珀色の液体が入ったグラスを所在なく揺らしていた。
チラリと時計に目を走らせて、注いだ時から一滴たりとも減っていないグラスをテーブルに置く。
もう、遅い時間だ。
夕食後、仕事を終えたらエイミーを書斎に寄越して欲しいとジェシーに伝えた時、彼は錐《きり》のように鋭い視線を僕に向けてきた。
その目の無言の問いかけに、僕は両手を上げて約束する。
「話をしたいだけだ。何もしないよ」
「……明日、昼間に、では駄目なのですか?」
「ああ」
今夜のうちに逢っておかないと、一睡もできそうにない。
こうやって安心できるところに落ち着くと、これまであまり考えずに済んでいたことを考える余裕ができてしまったのだ。
どうしても、エイミーに逢いたい――逢わないではいられない。
しばしの沈黙の後、ジェシーは小さなため息をつく。
「まあ、良いでしょう。ですが、一時間後にはあの子が自分の部屋にいるようにしてください」
「わかっている。約束だ。絶対に時間通りにここから出すし、あの子の為にならないようなことは絶対にしない」
今度は右手を胸に当てて、誓ってみせる。
「……エイミーがこの書斎を出るまでは、お酒は控えてください」
勿論だ。
理性のたががほんの少しでも緩むようなことは、絶対にできない。
ジェシーはそれでもまだ気がかりそうな色を目に宿していたが、やがて諦めたように首を振り、一礼して出て行ったのだ。
それから、もうずいぶん時間が過ぎたような気がする。
独りきりになってから、秒針がコチコチと時を刻む音がやけに耳に付いた。
静寂の中目を閉じると、脳裏に浮かぶのは血の気を失ったいくつもの顔だ。
鼓膜には怒号と銃声、金属がぶつかり合う音がこびり付いている。
――まるで、未だ戦火の真っ只中にいるかのように。
椅子の背に寄りかかり天井を仰いでも、長年過ごしてきた見慣れている筈の室内が、どこかよそよそしく思われてならなかった。
こうやって、安全で、寛げる空間にいることに、無性に違和感が湧いてくる。
一杯くらい、飲んでも構わないか、と僕がグラスに目を向けた時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が静かな室内に響く。
思わず立ち上がって、応じた。
「どうぞ」
そっと開いた扉から入ってきた姿は、僕の期待を裏切らなかった。
「何か、ご用でしょうか?」
扉は閉めたものの、その場に立ち止ったまま、エイミーが訊く。
一瞬、何も返せなかった。
玄関でチラリと顔を合わせてからエイミーはずっと忙しくしていて、彼女をまじまじと見ることができたのは、帰宅してからこれが初めてだった。その姿を目にするだけで、硬く強張っていた心のどこかが柔らかくほぐれたような心持ちになる。
「旦那さま?」
訝しげな声での呼びかけで、僕はハッと我に返る。
「ああ、すまない。こっちにおいで」
エイミーはほんのわずかなためらいもなく、僕の言葉に従った。そうして、手を伸ばしたら届くか届かないかという距離で立ち止まる。僕は半歩進んで、残りの距離を詰めた。
力を込めて身体の両脇に下ろした手は、硬く握り締めて。
そんなふうに全身をガチガチに強張らせていることなど悟らせないように、微笑みを浮かべた。
「元気にしてたかい?」
他にかける言葉が見つからなくて、そんな間抜けな質問をした僕に、エイミーは生真面目な顔で頷く。
「はい」
見上げてくる、あどけない瞳。
一欠片も陰のないその眼差しが、愛おしい。
「ようやく帰ってこられて、ホッとしたよ」
それは心の底からの台詞だったが、深刻な響きを帯びないように、僕は少しおどけた口調でそう言った。だけど、それは本当に心底からの言葉だったのだ。
エイミーは頷いて言うだろう。
わたしもです、とか。
帰ってきてくれて嬉しいです、とか。
彼女がどんなことを言うかは予想済みだった。
だが、どんな声で、どんな眼差しで言うのかは、予想できていなかった。
エイミーは、ジッと僕を見つめ、そして、微かにかすれた声で、囁く。
「ずっと、お待ちしていました」
ああ、彼女は自分がどんな顔をしているのか、解かっているのだろうか。
今は姿を見るだけにしよう、今晩は触れずにいようという僕の決意は、淡雪のように消え去っていく。
勝手に伸びた僕の手は彼女を引き寄せ、気付けば柔らかな身体を腕の中に閉じ込めていた。
背丈は、変わっていない。
僕の顎の下の柔らかいところに彼女の頭がすっぽりとはまる。
けれど、首から下の感触は変わっていた。
前よりも柔らかな身体は、二年間という短くない時の経過を証明している。
それでも、変わらない温もり――変わらない香り。
これは確かにエイミーだった。紛れもなく、彼女だった。
不意に、何かの衝動が込み上げる。焼け付くようなそれに押し流されてしまわないように、深く息を吸った。
「君に、逢いたかった」
『庇護者』のものではない力で華奢な身体を抱き締め、頭を下げて、小さな耳のすぐそばで囁く。
エイミーからの返事は無かった――言葉では。
腕の中でエイミーが身じろぎをし、少し力が強すぎたかと僕は腕を緩める。だが、そのまま彼女は動きを止めず――僕は背中に小さな手が触れるのを感じた。
それが、優しく、動く。
撫でられているのだということに気付いたのは、一拍遅れてのことだった。
控えめなひと撫でごとに、僕の心のささくれが鎮められていくような気がする。
――帰って、きたんだ。
小さな手が与えてくれる安らぎに、この国に戻ってきてから初めて、そう実感した。
不意に、目の奥が熱くなる。視界がにじみそうになって、きつく目を閉じた。
「僕は、誓いを守れなかった」
僕は、エイミーに弱音を吐く気なんてなかった。いや、誰に対しても、そんなことをするつもりはなかったのだ。けれど、気付けば、その一言がポロリと口からこぼれ出していた。
僕の台詞に、一瞬、エイミーの手が止まる。そうして、胸元でくぐもった声がする。
「そうですか」
いつもと変わらず落ち着いたその声は、ただ、そう言っただけだった。
追及するでもなく、責めるでもなく、赦すでもなく。
ただ、僕の言葉を受け入れただけだった。
僕はまた、腕に力を込める――ほんの少しだけ。
絹のような感触の髪に頬を寄せ、頭の天辺にそっと口付ける。
――そうして、ジェシーが許した時間が終わるまで、僕は胸の中の温もりに縋っていた。
悠然と玉座に身体を預けた主――ジョン・ロッド七世は、ひざまずいた僕に向けてそう言った。
二年ぶりに拝謁するそのお姿は、記憶の中のものと全く変わりがない。
「砦を防衛し、向こう三十年の和平を確かなものとし、死者はわずか。これ以上の成果は望めまい。無理を通してそなたを行かせたことは正しかったな。他の者ではこうはいかなかっただろう」
この上なく満足そうなその言葉が、チクリと僕の胸を刺す。それを無視して頭を垂れた。
僕の『成果』にはあまり触れたくなくて、別の話題にすり替える。
「マリアンナ姫はお疲れのご様子でしたが……」
マリアンナ・ラ・ローシェ。
淡い金髪に若葉の色の瞳の麗しき姫君は、御年十七の隣国の王女だ。
今回の戦いは、我が国の圧倒的勝利に終わった。停戦を申し入れてきたのは、相手側からだ。
その申し入れを拒否して国境線を書き換えることも可能だったが、ジョン王は現状維持を選び、代わりに長く続く和平を選んだのだ。王女はそれを確かなものとする為に我が国に滞在する。
――まあ、体のいい人質、なわけだが。
だが、こちら側から要求したわけではない。停戦の証として、向こうから進んで第一王女である彼女を差し出してきたのだ。まるでそうしなければ我が国が破約するに決まっているとでも言わんばかりに。
「三十年もあれば、今よりもマシな国交を結ぶことができるだろう。まったく、疑心暗鬼でこちらの提案など聞こうとしないからな、彼らは。まともな信頼関係を築く時間と機会ができたのは、何よりだ。姫君にこの国をご覧いただければ、我々が鬼畜生ではないことを理解してもらえるだろう。きっと、あちらとの最高の架け橋になってくれる」
そこで彼は膝の上に頬杖を突き、どこか面白がるような光をその金色の瞳に浮かべて僕を見下ろしてきた。
「この戦いで、他の者十人が一生かかっても成し遂げられるか判らんほどの手柄は立てたぞ? 前にそなたが申しておった褒美だけでは釣り合わん。何か他に望みはないのか?」
「手柄なんて……」
また、そこに戻ってしまった。
僕の『成し遂げたこと』は、とうてい、胸を張れるようなものではない。全く誇れるものではないのだ。
僕のそんな胸中が顔に出たらしい。
「何だ? 不服そうだな」
器用に片方だけ眉を持ち上げ、王が首をかしげる。
「何か思うところがあるのならば、申してみよ」
「……私は、この戦いで誰一人死なせるつもりはありませんでした」
そう口にするのは苦渋を含むようなものだった。王はそんな僕に眉をひそめる。
「死者、と言っても五十三名だぞ? 戦で誰も死なせないというのは不可能だ。一万五千の兵のうち、五十三名。あの戦いでこの数は、奇跡と言ってもいいだろうに。その死者も、戦いそのもので命を失った者はわずか七名――傷や病を癒せるかどうかは医師と神の領分でそなたにはどうすることもできない。しかもその七名は、傷を負った者は直ちに後方へ下がるようにというそなたの命に従わなかった者ばかりだというではないか。そなたが気に病むことはない」
「それでも、死者は死者です。無視することは、できません」
僕は、彼らをただの数としては見られない。
明日から、遺族の元を一軒一軒回るつもりだった。
奥歯を噛み締めた僕に、王がため息混じりの苦笑をもらす。
「そなたはこの上なく優秀な将になれる器だというのに……この上なく将に向いていない性格だな」
「そんなものになど、なれませんよ。私には平和な土地の領主が精一杯です」
「――まあ、良い。何か望みの物ができたなら、その時に言いに来い。そなたも疲れただろう? 屋敷に戻ってゆっくりと休め」
「ありがとうございます」
一礼して謁見の間を後にしようとしたところを、引き止められる。
「そうだ。そう言えば、そなたの『宝』、近いうちに見せてもらえるのだろうな?」
「ああ、はい……いずれ、必ず」
そう答え、僕は静かに部屋を出た。
*
ガラガラと音を立てて馬車が走る。
いや、他にも馬車や人が行き交う都の大通りだから、走る、というほどの速度ではない。
本当なら自ら手綱を握って馬で屋敷に駆け付けたいところだが、街中を疾駆するわけにもいかないから、こうやって絹張りの座席で揺られているしかない。
窓の外には見慣れた街並があって、刻一刻と屋敷に近付いているのが実感できる。それだけに、気が逸った。
ジェシーの便りでは、皆、元気につつがなく過ごせているとのことだった――僕がいなかった間も。
僕がこの地を発ってから、もう、二年が過ぎたのだ。
とてつもなく長い、二年だった。
この地に残していった者の事を想わない日は無い、二年だった。
僕が不在の間は、都の屋敷には、必要最低限の使用人しか置いていない。その必要最低限の使用人の中に、今はエイミーがいる。
本当なら、彼女は領地の屋敷にいる筈だった。こうやって帰国できても、逢えるのはまだあと七日はお預けになる筈だった。
だが、エイミーはこの二年間、ずっとこの都にいた。彼女の方から、どうしても都にいたいのだと、ジェシーに願い出てきたらしい。便りが早く届くから、僕が帰ってきたら一日でも早く顔を見たいから、と。
あの子が自分の欲求を訴えてくることは、滅多にない。
つまり、それだけ強い望みだったということで。
――エイミーは、僕を慕っている。
それは、明らかだ。
問題は、その気持ちがどんな感情に基づいているのかというところだった。
僕を『保護者』ではなく、『男』として見るようになってくれるだろうか?
生涯の伴侶――夫として見るようになるだろうか?
……判らない。
だが、彼女の気持ちは、ゆっくりと育てていけばいいだろう。
僕が彼女の傍を離れることは、もうない。
時間はたくさんあるのだ。
僕が焦らず、エイミーを急かさず、二人の関係を変えていけばいい。
「旦那様、そろそろ到着です」
決意を胸に僕が膝の上で両手をゆっくりと握り締めた時、静かな声が、そう告げた。
声の主はデニスだ。影のように気配を感じさせない彼に現実へと引き戻された僕は、瞬きを一つして、窓の外に目を向ける。
ちょうど門を通り抜けたところで、屋敷はもう目の前にあった。夕日が照らす中、玄関の前に二十ばかりの人影が並んでいるのが見て取れる。
――変わっていない。
真っ先に、そう思った。
感慨にふける暇もなく馬車が停まり、御者台に乗っていたゲイリーが即座に扉を開けてくれる。
馬車の中の薄暗さに慣れていた目に西日は少しまぶしくて、目を細めながら居並ぶ屋敷の者たちをサッと一瞥した。
そして、もう一度。
ああ、いた。
彼女の姿を目にした途端、胸の中が温かくなった。目には見えない、柔らかく心地の良い何かで、胸の中が満たされた。
顔立ちは二年前とあまり変わらない――いや、やっぱり、少し大人びた感じだ。
大きな栗色の目が、僕にひたと向けられている。
どこか不安そうに見えるのは、二年ぶりの再会に緊張しているからだろうか。
何となくエイミーとの距離を感じてしまって、僕の肩にも力が入ってしまう。
僕はそんな自分をごまかすように、そして強張っているエイミーを宥めるように、微笑みを浮かべてみせる。
と、見る見る彼女の表情が和らいで、白くなるほど握り締められていた両手が緩んだのが見て取れた。
現金なもので、途端に僕の緊張も霧散する。
「ただいま、皆元気そうで何よりだ」
笑みを深くしてそう声をかけると、皆、多少なりとも気を張っていたのだろう――ホッとしたように一同がざわめいた。
めいめいが口々に「お帰りなさいませ」と声をかけてくる中、彼らに応えながらも、僕はエイミーから目を離せなかった。
僕が「ただいま」と言った時にエイミーの顔に溢れた、喜びの輝き。微かに緩んだ口元は、彼女にとっての笑顔なのだろう。
表情という顔の筋肉の動きなんかよりも遥かに雄弁に、エイミーの目が語っている。
僕に逢えて嬉しい、と。
僕の帰りを待ち焦がれていたのだ、と。
ああ、今、この場で、抱き締めてしまいたい。
そんな想いを、理性を総動員して捻じ伏せる。
他の者たちからすれば、僕にとってエイミーは使用人の一人に過ぎないのだ。そして、僕はエイミーにとって主であり庇護者だ。いつかのように泣いた彼女を慰める為ならまだしも、再会の喜びで彼女一人だけを抱き締めるわけにはいかない。
「さあ、セディ様、お疲れでしょう。湯浴みの用意はさせていますから、お部屋の方へ」
「ああ、そうだな……」
声をかけてきたジェシーに僕は上の空で答え、そうして彼について歩き出した。
一心に僕を見つめているエイミーの眼差しを全身で感じ取りながら。
*
湯浴みを終え、食事を終え、僕は書斎でデニスが置いていった琥珀色の液体が入ったグラスを所在なく揺らしていた。
チラリと時計に目を走らせて、注いだ時から一滴たりとも減っていないグラスをテーブルに置く。
もう、遅い時間だ。
夕食後、仕事を終えたらエイミーを書斎に寄越して欲しいとジェシーに伝えた時、彼は錐《きり》のように鋭い視線を僕に向けてきた。
その目の無言の問いかけに、僕は両手を上げて約束する。
「話をしたいだけだ。何もしないよ」
「……明日、昼間に、では駄目なのですか?」
「ああ」
今夜のうちに逢っておかないと、一睡もできそうにない。
こうやって安心できるところに落ち着くと、これまであまり考えずに済んでいたことを考える余裕ができてしまったのだ。
どうしても、エイミーに逢いたい――逢わないではいられない。
しばしの沈黙の後、ジェシーは小さなため息をつく。
「まあ、良いでしょう。ですが、一時間後にはあの子が自分の部屋にいるようにしてください」
「わかっている。約束だ。絶対に時間通りにここから出すし、あの子の為にならないようなことは絶対にしない」
今度は右手を胸に当てて、誓ってみせる。
「……エイミーがこの書斎を出るまでは、お酒は控えてください」
勿論だ。
理性のたががほんの少しでも緩むようなことは、絶対にできない。
ジェシーはそれでもまだ気がかりそうな色を目に宿していたが、やがて諦めたように首を振り、一礼して出て行ったのだ。
それから、もうずいぶん時間が過ぎたような気がする。
独りきりになってから、秒針がコチコチと時を刻む音がやけに耳に付いた。
静寂の中目を閉じると、脳裏に浮かぶのは血の気を失ったいくつもの顔だ。
鼓膜には怒号と銃声、金属がぶつかり合う音がこびり付いている。
――まるで、未だ戦火の真っ只中にいるかのように。
椅子の背に寄りかかり天井を仰いでも、長年過ごしてきた見慣れている筈の室内が、どこかよそよそしく思われてならなかった。
こうやって、安全で、寛げる空間にいることに、無性に違和感が湧いてくる。
一杯くらい、飲んでも構わないか、と僕がグラスに目を向けた時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が静かな室内に響く。
思わず立ち上がって、応じた。
「どうぞ」
そっと開いた扉から入ってきた姿は、僕の期待を裏切らなかった。
「何か、ご用でしょうか?」
扉は閉めたものの、その場に立ち止ったまま、エイミーが訊く。
一瞬、何も返せなかった。
玄関でチラリと顔を合わせてからエイミーはずっと忙しくしていて、彼女をまじまじと見ることができたのは、帰宅してからこれが初めてだった。その姿を目にするだけで、硬く強張っていた心のどこかが柔らかくほぐれたような心持ちになる。
「旦那さま?」
訝しげな声での呼びかけで、僕はハッと我に返る。
「ああ、すまない。こっちにおいで」
エイミーはほんのわずかなためらいもなく、僕の言葉に従った。そうして、手を伸ばしたら届くか届かないかという距離で立ち止まる。僕は半歩進んで、残りの距離を詰めた。
力を込めて身体の両脇に下ろした手は、硬く握り締めて。
そんなふうに全身をガチガチに強張らせていることなど悟らせないように、微笑みを浮かべた。
「元気にしてたかい?」
他にかける言葉が見つからなくて、そんな間抜けな質問をした僕に、エイミーは生真面目な顔で頷く。
「はい」
見上げてくる、あどけない瞳。
一欠片も陰のないその眼差しが、愛おしい。
「ようやく帰ってこられて、ホッとしたよ」
それは心の底からの台詞だったが、深刻な響きを帯びないように、僕は少しおどけた口調でそう言った。だけど、それは本当に心底からの言葉だったのだ。
エイミーは頷いて言うだろう。
わたしもです、とか。
帰ってきてくれて嬉しいです、とか。
彼女がどんなことを言うかは予想済みだった。
だが、どんな声で、どんな眼差しで言うのかは、予想できていなかった。
エイミーは、ジッと僕を見つめ、そして、微かにかすれた声で、囁く。
「ずっと、お待ちしていました」
ああ、彼女は自分がどんな顔をしているのか、解かっているのだろうか。
今は姿を見るだけにしよう、今晩は触れずにいようという僕の決意は、淡雪のように消え去っていく。
勝手に伸びた僕の手は彼女を引き寄せ、気付けば柔らかな身体を腕の中に閉じ込めていた。
背丈は、変わっていない。
僕の顎の下の柔らかいところに彼女の頭がすっぽりとはまる。
けれど、首から下の感触は変わっていた。
前よりも柔らかな身体は、二年間という短くない時の経過を証明している。
それでも、変わらない温もり――変わらない香り。
これは確かにエイミーだった。紛れもなく、彼女だった。
不意に、何かの衝動が込み上げる。焼け付くようなそれに押し流されてしまわないように、深く息を吸った。
「君に、逢いたかった」
『庇護者』のものではない力で華奢な身体を抱き締め、頭を下げて、小さな耳のすぐそばで囁く。
エイミーからの返事は無かった――言葉では。
腕の中でエイミーが身じろぎをし、少し力が強すぎたかと僕は腕を緩める。だが、そのまま彼女は動きを止めず――僕は背中に小さな手が触れるのを感じた。
それが、優しく、動く。
撫でられているのだということに気付いたのは、一拍遅れてのことだった。
控えめなひと撫でごとに、僕の心のささくれが鎮められていくような気がする。
――帰って、きたんだ。
小さな手が与えてくれる安らぎに、この国に戻ってきてから初めて、そう実感した。
不意に、目の奥が熱くなる。視界がにじみそうになって、きつく目を閉じた。
「僕は、誓いを守れなかった」
僕は、エイミーに弱音を吐く気なんてなかった。いや、誰に対しても、そんなことをするつもりはなかったのだ。けれど、気付けば、その一言がポロリと口からこぼれ出していた。
僕の台詞に、一瞬、エイミーの手が止まる。そうして、胸元でくぐもった声がする。
「そうですか」
いつもと変わらず落ち着いたその声は、ただ、そう言っただけだった。
追及するでもなく、責めるでもなく、赦すでもなく。
ただ、僕の言葉を受け入れただけだった。
僕はまた、腕に力を込める――ほんの少しだけ。
絹のような感触の髪に頬を寄せ、頭の天辺にそっと口付ける。
――そうして、ジェシーが許した時間が終わるまで、僕は胸の中の温もりに縋っていた。
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天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
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料理で国を救う特級厨師。
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