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突然のお出かけ◇サイドA
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領地のカントリーハウスから都のタウンハウスに移って、しばらくしてからのこと。
「エイミー、出かけるよ」
旦那さまがそうおっしゃりましたので、わたしはいつも通りにお辞儀をして、お答えします。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
けれど、視界の隅に入っている旦那さまの靴の先がなかなか動きません。不思議に思って頭を上げると、待ち構えていたように腕を取られました。
眉根を寄せて見上げた旦那さまは、何だかやけに楽しげな様子です。
「……旦那さま?」
「君も一緒に行くんだよ」
「わたしも、ですか?」
「そう」
うなずかれるなり、旦那さまはわたしの手を肘に挟んで歩き出されてしまいました。
最近はわたしが出かける時に旦那さまもご同行されたがることが良くありますが、旦那さまのお出かけでわたしにお声がかかることは、初めてです。
そういうことは、ゲイリーさんやカルロさんのお役目のはずでしょう。
それに、ずいぶんと急なお話です。
午前にやるべきことは終わっていますが、午後には午後のお仕事がありますのに。
「どのくらいで帰れますか?」
遅くなるようであれば、マーゴさんにそうお伝えしておかなければ。
足が進まないわたしに旦那さまが振り返って、満面の笑みを向けてこられました。
「大丈夫、マーゴには言ってあるから」
……どんなふうに、でしょうか?
結局、何だかよくわからないうちに玄関前に付けられていた馬車に乗せられ、どこに行くのかも知らされないまま走り出されてしまいました。
お屋敷の外でわたしが旦那さまのお役に立てることなど、ないと思うのですが。
ちらちらと旦那さまを窺うとそのたびに目が合って、優しげな微笑みを返してこられます。
いえ、笑顔ではなく、説明をいただけないでしょうか。
そう思ってジッと旦那さまを見つめると、今度は手を取られました。なんだか、何かを確かめるように、わたしの指をまさぐっておられます。
しばらくそうしていたかと思ったら、やがて小さくうなずかれました。
それで手を放してくださるわけでもなく、指を組み合わせるようにしてつなぐと、旦那さまの膝の上に置いてしまわれます。
わたしの方から振り払うわけにもいかず、そのままになってしまいましたが、わたしは使用人なのです。こんなふうにしているのは、少し、馴れ馴れし過ぎるのではないかと思います。
だいたい、ご主人さまと使用人がこんなふうに隣り合って座るのは、おかしくないでしょうか?
つながれた手はわたしの方が下になっているので、旦那さまの手のひらと脚の両方の温もりに挟まれた形です。しかもそんなふうにされているものですから、わたしの身体の右側は、旦那さまの身体の左側にぴったりとくっついてしまっています。
それだけでも大概ですが、まだどこに行くのかも教えていただいておりませんし、落ち着かないことこの上ありません。
釈然としない気持ちを抱いたままのわたしと少し気味が悪いほど上機嫌な旦那さまを乗せて馬車は街中を走り、やがて停まりました。
「エイミー、おいで」
促されて馬車から降りると、そこは――女性用の仕立て屋さんのように見えますが?
本気で、旦那さまがわたしに何をご希望なのかが判りません。
このお店に来られたのは、どなたかお付き合いのある方へのプレゼントでも買われるためでしょうか。
けれど、そこにわたしが関わる余地はありません。
女性のファッションのことに関してなら、ドロシーさんの方がお詳しいはず。わたしに何かご助言ができるとは、思えません。
敢えてわたしをお連れになった理由は、何なのでしょう。
わたしがその疑問を口にするより先に、旦那さまはわたしの背中に手を置いてお店の中へと進んでしまいました。
わたしも、立ち止まっていることができなくて。
旦那さまとわたしが足を踏み入れると同時に、五人の女性がわたしたちを取り囲みました。
「ボールドウィン様、ようこそいらっしゃいました。その方が、例の?」
ご店主と思われる一番ご年配の方が、チラリとわたしをご覧になって、次いで、旦那さまに目を戻されました。
――『例の』……?
どういう意味でしょう。
眉をひそめて旦那さまに目を向けましたが、にっこり笑ってお店の人たちの方へと押し出されてしまいました。
「では、お嬢様はこちらへ。ボールドウィン様はしばしお寛ぎを」
別行動、なのですか?
「あの……」
「さあさあ、どうぞ。お時間が無くなってしまいます」
――時間?
訳が解からないままに四人の店員さんと一緒に奥の部屋へと押し込まれ、あろうことか、あっという間に服を脱がされてしまいました。
本当に、あっという間に。
一言も抗議することもできず。
――なぜ、こんなことに?
予想外の展開で固まっているわたしに、今度はてきぱきとお仕着せとは別の衣装が着付けられていきます。
途中、ハッと我に返ったわたしが身じろぎしかけると、すかさず声が飛んできました。
「まだ仮縫いなんですから動いてはいけません!」
その調子があまりに鋭くて、思わずまた固まってしまいます。
どうやら、わたしと一緒にこの部屋に来た四人の若い女性はお針子のようです。
無抵抗のわたしの周りで、そのお針子さんたちがどんどん針を動かしていきます。
本当に、これは、いったい、どういうことなのでしょうか。
見下ろすことができないので目で確認することができないのですが、肌に触れる生地の感触は柔らかく、絹か何かだと思われます。視界の隅に時々ひらりと入ってくる色も、透き通るような淡い薄紅で。
こんな、貴族のご令嬢がお召しになるようなドレスが、何故、わたしに着せられているのでしょう。
今すぐ旦那さまにご説明いただきたいのですが、ご本人はここにはいらっしゃいません。
仕方なく、されるがままに立ちすくんでいると、やがて一人、二人とお針子さんが離れ始めました。
――どうやら、終わったようですね。
と思ったら、今度はきちんとまとめておいた髪を解かれてしまいました。
「あの、すみません――」
「あら、きれいな髪ね。ボールドウィン様は下ろしておいて欲しいとおっしゃってらしたけど、どうしましょうか。流行りは高く結い上げるものだけど、確かに、ちょっともったいないかもしれないわね」
――わたしの声は、お耳に届いていないようです。
わたしの髪をいじり始めたのは四人の中で一番年かさの方で、梳いては結い、結っては梳いてを何度も繰り返されました。
その手が止まったのは、たぶん、それを繰り返して五度目くらいの時だったと思います。一歩下がり、わたしの天辺からつま先まで、何かを確かめるように視線を行き来させました。
「こんなところかしらね」
彼女の満足そうな声で、若いお針子さんの一人が大きな姿見を動かしてきます。
「どう?」
その姿見にわたしを映して、わたしの髪をいじっていらした方がそう尋ねてこられましたが。
「……」
黙ったままのわたしに、彼女は眉根を寄せました。
「あら、気に入らない? 別の髪形にしましょうか?」
「いえ、気に入らない、というか……」
姿見の中にいるのは、確かにわたしです。
上等な生地のきれいなドレスを着て、横の部分を金色のリボンと一緒に複雑に編み込まれて頭の後ろで留められた緩い巻き毛を背中に垂らして。
確かにわたしなのですが、とてつもなく、違和感があります。
こんな姿の自分は、なんというか、『正しくない』気がします。
何も言えずにいるわたしの背中を、店員さんが焦れたように押してきました。
「それでよろしいのなら、早く伯爵様のところに参りましょう。首を長くしてお待ちですよ」
「この格好で、ですか?」
思わず裏返った声を出してしまったわたしに向けられたのは、思いきり訝しげな眼差しです。
「ええ」
もちろんですと言わんばかりにうなずかれても、困ります。
この方は、わたしがここに来た時の服装をご覧になっていたはずです。あれは見るからにメイドのもので、とてもではないですが、こんなふうに着飾る立場の者ではないということは明らかなはず。
「こんな姿では出ていけません」
「何をおっしゃいます。伯爵様のお見立ては確かですわ。色からレース使いから刺繍の柄から、全てこと細かくご指示をいただきましたの。とてもお似合いですよ?」
「旦那さまが……?」
「ええ。この五日間というもの、毎日お見えでしたわ」
……ここのところ昼間に毎日お出かけになっておられたのは、これだったのですか。
ですが、旦那さまがいったい何をお考えになってこんなことをなさっているのかは解からないままです。
やはり、ご本人に伺わなければならないのでしょう。
「……わたしの服を、返していただけませんか?」
だめで元々、そう言ってみましたが、やっぱりだめなようです。
先ほどよりも強く背中を押されて、その姿のままで店へと戻る扉をくぐることになってしまいました。
気まずい思いで店内へと戻ると、旦那さまはこちらに背を向けてご店主とお話をされています。
こんな姿を、旦那さまにお見せしなければいけないのでしょうか。
急に胸元のレースが肌を刺激して、無意識のうちに手が行きました。
お仕着せの木綿と違ってドレスの生地は軽くて、柔らかくて、薄くて、まるで何も着ていないような感じがしてしまいます。胸元も、いつもは顎の下まで襟が詰まっているのに、これは明らかに開き過ぎです。
こっそり外へ出てしまいたいところでしたが、自分の服は取り上げられてしまったままなので、そうもいきません。
戸口で立ち止まっていると、こちらの方を向いているご店主が先にわたしに気付かれました。彼女に何か言われて、旦那さまが振り返ります。
「エイミー――……」
わたしを見た途端、旦那さまが浮かべていた笑顔が凍り付きました。
まさに『愕然とした』という風情で。
明らかに不釣り合いだろうということは、わたしだってよく判っています。
けれど、この格好は、旦那さまのご指示のはずです。
それなのに、その反応はひどくないでしょうか?
ムッとすると、途端に旦那さまは取り繕ったような笑顔を浮かべられました。
――取り繕っているのが、バレバレな笑顔です。
旦那さまはその笑顔のままでわたしの前までやって来られました。
ちょうど一歩分ほど離れたところで止まると、奥の部屋でお針子さんがしたように、わたしの頭の天辺からつま先まで視線を一往復させます。
そうして、またにっこりと微笑まれました。
今度の笑顔は、ホンモノ、でしょうか?
何となく先ほどの笑みとは違って、自分でも奇妙なほどにホッとしてしまいます。
「とてもよく似合っているよ」
旦那さまはそうおっしゃって、わたしの右手を取られました。そして爪の先にそっと唇で触れると、手にしていたレースの手袋をするりとおはめになります。
右手の次は、左手も、同じように。
旦那さまの手付きはとても滑らかで、きっと何度も同じことをされてきたのだろうということを窺わせました。そう、きっと、何人もの麗しいご令嬢方に同じことをなさってこられたはずです。
「どうかした? 手袋がきついのかい?」
ふと首をかしげてそう尋ねてこられた旦那さまに、わたしはかぶりを振りました。
「いいえ、ちょうど良いです」
それは本当のことで、手袋は驚くほどにぴったりでした。それを言うなら、ドレスも、ほとんど修正するところなどなかったと思います。
見ているだけでサイズが判ってしまうなんて、すごいですね。
そんなふうにわたしが思っていると、旦那さまのお顔が一層心配そうに曇ってきました。
「もしかして、突然こんなふうに連れ出したことを怒っている?」
「いいえ、まさか。わたしは旦那さまのなさることに対して怒れるような立場にはおりません。ただ、旦那さまが何をお考えなのか、さっぱり解かりかねますので」
「ああ、それは……」
旦那さまは言いかけて、ふと思い出したというふうにポケットに手をやりました。取り出したのは長くて薄い箱です。
その蓋を開けて出てきたものは――
思わず、わたしは後ずさりました。
けれど少し遅くて、サッとわたしの首の後ろに旦那さまの両手が回り、ごくごく小さなかちりという音が聞こえました。
旦那さまの手が離れると、わたしの首周りに、冷たい重みが加わります。
呆然と見下ろした目には、二連の真珠の首飾りが映り込みました。
真っ白ではなく、仄かに紅色がかった、あまり見たことのない色合いです。
真珠にこんな色のものがあるなんて、初めて知りました。いえ、もしかしたら、真珠ではないのかもしれません。
何か、模造品とか――
そんなふうに思おうとしたわたしに、うれし気な旦那さまの声が届きます。
「ああ、やっぱりその色がいいね。真っ白な真珠でも良かったのだけど、ドレスと色を合わせたかったから、今日はそちらにしたんだ」
――『今日は』……?
旦那さまのその一言に気を取られ、次に発せられたお言葉を、危うく聞き逃してしまいそうになりました。
いえ、聞こえていても、意味を理解することができなかったのですが。
旦那さまは、至極満足そうなお顔のまま、おっしゃったのです。
「ああ、今晩はこれから城に行くからね」
――と。
それはもちろん、旦那さまだけですよね?
わたしのことは、先にお屋敷に送っていただけるのですよね?
あまりに当然のことなので声に出したつもりはなかったのですが、実際には出てしまっていたようです。
「何を言っているんだ。もちろん君も一緒だよ」
理解不能です。
そのお言葉も、その満面の笑みも。
このドレスも、この首飾りも。
――何もかも。
最近は落ち着いてこられたと思っていたのに、また、少し前の『おかしな』旦那さまが戻ってきてしまったのでしょうか。
呆然としている間にわたしはいつの間にか馬車に乗せられて、そしていつの間にか馬車は走り出してしまいました。
――お屋敷に戻るのとは、違う方向に。
「エイミー、出かけるよ」
旦那さまがそうおっしゃりましたので、わたしはいつも通りにお辞儀をして、お答えします。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
けれど、視界の隅に入っている旦那さまの靴の先がなかなか動きません。不思議に思って頭を上げると、待ち構えていたように腕を取られました。
眉根を寄せて見上げた旦那さまは、何だかやけに楽しげな様子です。
「……旦那さま?」
「君も一緒に行くんだよ」
「わたしも、ですか?」
「そう」
うなずかれるなり、旦那さまはわたしの手を肘に挟んで歩き出されてしまいました。
最近はわたしが出かける時に旦那さまもご同行されたがることが良くありますが、旦那さまのお出かけでわたしにお声がかかることは、初めてです。
そういうことは、ゲイリーさんやカルロさんのお役目のはずでしょう。
それに、ずいぶんと急なお話です。
午前にやるべきことは終わっていますが、午後には午後のお仕事がありますのに。
「どのくらいで帰れますか?」
遅くなるようであれば、マーゴさんにそうお伝えしておかなければ。
足が進まないわたしに旦那さまが振り返って、満面の笑みを向けてこられました。
「大丈夫、マーゴには言ってあるから」
……どんなふうに、でしょうか?
結局、何だかよくわからないうちに玄関前に付けられていた馬車に乗せられ、どこに行くのかも知らされないまま走り出されてしまいました。
お屋敷の外でわたしが旦那さまのお役に立てることなど、ないと思うのですが。
ちらちらと旦那さまを窺うとそのたびに目が合って、優しげな微笑みを返してこられます。
いえ、笑顔ではなく、説明をいただけないでしょうか。
そう思ってジッと旦那さまを見つめると、今度は手を取られました。なんだか、何かを確かめるように、わたしの指をまさぐっておられます。
しばらくそうしていたかと思ったら、やがて小さくうなずかれました。
それで手を放してくださるわけでもなく、指を組み合わせるようにしてつなぐと、旦那さまの膝の上に置いてしまわれます。
わたしの方から振り払うわけにもいかず、そのままになってしまいましたが、わたしは使用人なのです。こんなふうにしているのは、少し、馴れ馴れし過ぎるのではないかと思います。
だいたい、ご主人さまと使用人がこんなふうに隣り合って座るのは、おかしくないでしょうか?
つながれた手はわたしの方が下になっているので、旦那さまの手のひらと脚の両方の温もりに挟まれた形です。しかもそんなふうにされているものですから、わたしの身体の右側は、旦那さまの身体の左側にぴったりとくっついてしまっています。
それだけでも大概ですが、まだどこに行くのかも教えていただいておりませんし、落ち着かないことこの上ありません。
釈然としない気持ちを抱いたままのわたしと少し気味が悪いほど上機嫌な旦那さまを乗せて馬車は街中を走り、やがて停まりました。
「エイミー、おいで」
促されて馬車から降りると、そこは――女性用の仕立て屋さんのように見えますが?
本気で、旦那さまがわたしに何をご希望なのかが判りません。
このお店に来られたのは、どなたかお付き合いのある方へのプレゼントでも買われるためでしょうか。
けれど、そこにわたしが関わる余地はありません。
女性のファッションのことに関してなら、ドロシーさんの方がお詳しいはず。わたしに何かご助言ができるとは、思えません。
敢えてわたしをお連れになった理由は、何なのでしょう。
わたしがその疑問を口にするより先に、旦那さまはわたしの背中に手を置いてお店の中へと進んでしまいました。
わたしも、立ち止まっていることができなくて。
旦那さまとわたしが足を踏み入れると同時に、五人の女性がわたしたちを取り囲みました。
「ボールドウィン様、ようこそいらっしゃいました。その方が、例の?」
ご店主と思われる一番ご年配の方が、チラリとわたしをご覧になって、次いで、旦那さまに目を戻されました。
――『例の』……?
どういう意味でしょう。
眉をひそめて旦那さまに目を向けましたが、にっこり笑ってお店の人たちの方へと押し出されてしまいました。
「では、お嬢様はこちらへ。ボールドウィン様はしばしお寛ぎを」
別行動、なのですか?
「あの……」
「さあさあ、どうぞ。お時間が無くなってしまいます」
――時間?
訳が解からないままに四人の店員さんと一緒に奥の部屋へと押し込まれ、あろうことか、あっという間に服を脱がされてしまいました。
本当に、あっという間に。
一言も抗議することもできず。
――なぜ、こんなことに?
予想外の展開で固まっているわたしに、今度はてきぱきとお仕着せとは別の衣装が着付けられていきます。
途中、ハッと我に返ったわたしが身じろぎしかけると、すかさず声が飛んできました。
「まだ仮縫いなんですから動いてはいけません!」
その調子があまりに鋭くて、思わずまた固まってしまいます。
どうやら、わたしと一緒にこの部屋に来た四人の若い女性はお針子のようです。
無抵抗のわたしの周りで、そのお針子さんたちがどんどん針を動かしていきます。
本当に、これは、いったい、どういうことなのでしょうか。
見下ろすことができないので目で確認することができないのですが、肌に触れる生地の感触は柔らかく、絹か何かだと思われます。視界の隅に時々ひらりと入ってくる色も、透き通るような淡い薄紅で。
こんな、貴族のご令嬢がお召しになるようなドレスが、何故、わたしに着せられているのでしょう。
今すぐ旦那さまにご説明いただきたいのですが、ご本人はここにはいらっしゃいません。
仕方なく、されるがままに立ちすくんでいると、やがて一人、二人とお針子さんが離れ始めました。
――どうやら、終わったようですね。
と思ったら、今度はきちんとまとめておいた髪を解かれてしまいました。
「あの、すみません――」
「あら、きれいな髪ね。ボールドウィン様は下ろしておいて欲しいとおっしゃってらしたけど、どうしましょうか。流行りは高く結い上げるものだけど、確かに、ちょっともったいないかもしれないわね」
――わたしの声は、お耳に届いていないようです。
わたしの髪をいじり始めたのは四人の中で一番年かさの方で、梳いては結い、結っては梳いてを何度も繰り返されました。
その手が止まったのは、たぶん、それを繰り返して五度目くらいの時だったと思います。一歩下がり、わたしの天辺からつま先まで、何かを確かめるように視線を行き来させました。
「こんなところかしらね」
彼女の満足そうな声で、若いお針子さんの一人が大きな姿見を動かしてきます。
「どう?」
その姿見にわたしを映して、わたしの髪をいじっていらした方がそう尋ねてこられましたが。
「……」
黙ったままのわたしに、彼女は眉根を寄せました。
「あら、気に入らない? 別の髪形にしましょうか?」
「いえ、気に入らない、というか……」
姿見の中にいるのは、確かにわたしです。
上等な生地のきれいなドレスを着て、横の部分を金色のリボンと一緒に複雑に編み込まれて頭の後ろで留められた緩い巻き毛を背中に垂らして。
確かにわたしなのですが、とてつもなく、違和感があります。
こんな姿の自分は、なんというか、『正しくない』気がします。
何も言えずにいるわたしの背中を、店員さんが焦れたように押してきました。
「それでよろしいのなら、早く伯爵様のところに参りましょう。首を長くしてお待ちですよ」
「この格好で、ですか?」
思わず裏返った声を出してしまったわたしに向けられたのは、思いきり訝しげな眼差しです。
「ええ」
もちろんですと言わんばかりにうなずかれても、困ります。
この方は、わたしがここに来た時の服装をご覧になっていたはずです。あれは見るからにメイドのもので、とてもではないですが、こんなふうに着飾る立場の者ではないということは明らかなはず。
「こんな姿では出ていけません」
「何をおっしゃいます。伯爵様のお見立ては確かですわ。色からレース使いから刺繍の柄から、全てこと細かくご指示をいただきましたの。とてもお似合いですよ?」
「旦那さまが……?」
「ええ。この五日間というもの、毎日お見えでしたわ」
……ここのところ昼間に毎日お出かけになっておられたのは、これだったのですか。
ですが、旦那さまがいったい何をお考えになってこんなことをなさっているのかは解からないままです。
やはり、ご本人に伺わなければならないのでしょう。
「……わたしの服を、返していただけませんか?」
だめで元々、そう言ってみましたが、やっぱりだめなようです。
先ほどよりも強く背中を押されて、その姿のままで店へと戻る扉をくぐることになってしまいました。
気まずい思いで店内へと戻ると、旦那さまはこちらに背を向けてご店主とお話をされています。
こんな姿を、旦那さまにお見せしなければいけないのでしょうか。
急に胸元のレースが肌を刺激して、無意識のうちに手が行きました。
お仕着せの木綿と違ってドレスの生地は軽くて、柔らかくて、薄くて、まるで何も着ていないような感じがしてしまいます。胸元も、いつもは顎の下まで襟が詰まっているのに、これは明らかに開き過ぎです。
こっそり外へ出てしまいたいところでしたが、自分の服は取り上げられてしまったままなので、そうもいきません。
戸口で立ち止まっていると、こちらの方を向いているご店主が先にわたしに気付かれました。彼女に何か言われて、旦那さまが振り返ります。
「エイミー――……」
わたしを見た途端、旦那さまが浮かべていた笑顔が凍り付きました。
まさに『愕然とした』という風情で。
明らかに不釣り合いだろうということは、わたしだってよく判っています。
けれど、この格好は、旦那さまのご指示のはずです。
それなのに、その反応はひどくないでしょうか?
ムッとすると、途端に旦那さまは取り繕ったような笑顔を浮かべられました。
――取り繕っているのが、バレバレな笑顔です。
旦那さまはその笑顔のままでわたしの前までやって来られました。
ちょうど一歩分ほど離れたところで止まると、奥の部屋でお針子さんがしたように、わたしの頭の天辺からつま先まで視線を一往復させます。
そうして、またにっこりと微笑まれました。
今度の笑顔は、ホンモノ、でしょうか?
何となく先ほどの笑みとは違って、自分でも奇妙なほどにホッとしてしまいます。
「とてもよく似合っているよ」
旦那さまはそうおっしゃって、わたしの右手を取られました。そして爪の先にそっと唇で触れると、手にしていたレースの手袋をするりとおはめになります。
右手の次は、左手も、同じように。
旦那さまの手付きはとても滑らかで、きっと何度も同じことをされてきたのだろうということを窺わせました。そう、きっと、何人もの麗しいご令嬢方に同じことをなさってこられたはずです。
「どうかした? 手袋がきついのかい?」
ふと首をかしげてそう尋ねてこられた旦那さまに、わたしはかぶりを振りました。
「いいえ、ちょうど良いです」
それは本当のことで、手袋は驚くほどにぴったりでした。それを言うなら、ドレスも、ほとんど修正するところなどなかったと思います。
見ているだけでサイズが判ってしまうなんて、すごいですね。
そんなふうにわたしが思っていると、旦那さまのお顔が一層心配そうに曇ってきました。
「もしかして、突然こんなふうに連れ出したことを怒っている?」
「いいえ、まさか。わたしは旦那さまのなさることに対して怒れるような立場にはおりません。ただ、旦那さまが何をお考えなのか、さっぱり解かりかねますので」
「ああ、それは……」
旦那さまは言いかけて、ふと思い出したというふうにポケットに手をやりました。取り出したのは長くて薄い箱です。
その蓋を開けて出てきたものは――
思わず、わたしは後ずさりました。
けれど少し遅くて、サッとわたしの首の後ろに旦那さまの両手が回り、ごくごく小さなかちりという音が聞こえました。
旦那さまの手が離れると、わたしの首周りに、冷たい重みが加わります。
呆然と見下ろした目には、二連の真珠の首飾りが映り込みました。
真っ白ではなく、仄かに紅色がかった、あまり見たことのない色合いです。
真珠にこんな色のものがあるなんて、初めて知りました。いえ、もしかしたら、真珠ではないのかもしれません。
何か、模造品とか――
そんなふうに思おうとしたわたしに、うれし気な旦那さまの声が届きます。
「ああ、やっぱりその色がいいね。真っ白な真珠でも良かったのだけど、ドレスと色を合わせたかったから、今日はそちらにしたんだ」
――『今日は』……?
旦那さまのその一言に気を取られ、次に発せられたお言葉を、危うく聞き逃してしまいそうになりました。
いえ、聞こえていても、意味を理解することができなかったのですが。
旦那さまは、至極満足そうなお顔のまま、おっしゃったのです。
「ああ、今晩はこれから城に行くからね」
――と。
それはもちろん、旦那さまだけですよね?
わたしのことは、先にお屋敷に送っていただけるのですよね?
あまりに当然のことなので声に出したつもりはなかったのですが、実際には出てしまっていたようです。
「何を言っているんだ。もちろん君も一緒だよ」
理解不能です。
そのお言葉も、その満面の笑みも。
このドレスも、この首飾りも。
――何もかも。
最近は落ち着いてこられたと思っていたのに、また、少し前の『おかしな』旦那さまが戻ってきてしまったのでしょうか。
呆然としている間にわたしはいつの間にか馬車に乗せられて、そしていつの間にか馬車は走り出してしまいました。
――お屋敷に戻るのとは、違う方向に。
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