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突然のお出かけ◇サイドC

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 タウンハウスに落ち着いて、三週間。
 ようやくこの日がやってきた。
 王都からの連絡で覚悟を決めてから、今日のこの日が来ることを一日千秋の思いで待っていたのだ。
 まだ予定の時間までたっぷりあるというのに、気が急いてならない。
 逸る気持ちを抑え付けて、エイミーを探す。

 いた。
 午前の仕事を終えて、休憩室に行くところなのだろう。手ぶらで、廊下の先を歩いている。

「エイ――」
 と、彼女を呼び止める前に、もう一度自分の身なりを見下ろした。
 コートのボタンをきっちり留めているから、その下に僕がどんなものを着ているかは判らないはず。服装から、今日、これから僕が――僕らがどこに行くことになっているかを彼女に知られることはないだろう。

 よし。

「エイミー、出かけるよ」
 敢えてのんびりとした口調で、そう声をかけた。
 エイミーは、ミルクを見せられた仔猫のように真っ直ぐに僕の方へとやってくる。
 本当は、悠長にこんなことを言っておらずにさっさと彼女を抱え上げて馬車に放り込んでしまいたい。三週間待てたはずなのに、いや、待ったからなのか、これからのたった数時間がうんざりするほど長く感じられた。
 なんだか、最近、どんどん堪え性が無くなってきている気がする。
 ――エイミーのことに関してだけは。
 そんなふうに思って内心で苦笑している僕の前で、エイミーはいつものように頭を下げた。

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 僕が動かずにいると、エイミーはすぐにそれに気づいて身体を起こした。首を傾げた彼女と目が合うと、言葉よりも先についつい手が伸びて、その細い腕を掴んでしまう。
 驚いたように僕の手に目をやってから、エイミーは眉をひそめて見上げてきた。
 いぶかしげなその様子が、愛らしい。
 僕が選んだあのドレスは、さぞかし彼女に似合うことだろう。色も意匠も、念入りに選んだのだ。これから何着でも作るつもりだけれど、今日はとても大事な日になる。だから、特別な一着にしたかった。
 ああ、早くアレを身に着けた彼女を見たくてたまらない。

「……旦那さま?」
 期待のあまりほんの一瞬頭の中がどこかに飛んでいた僕は、呼ばれてハタと我に返る。
 そうして、にっこり笑って彼女を見下ろした。
「君も一緒に行くんだよ」
「わたしも、ですか?」
「そう」
 馬車はとうに玄関前に待たせてある。
 問答無用でエイミーの小さな手を脇に挟んで、さっさと歩き出した。
 と、くい、と腕を引かれる。

「どのくらいで帰れますか?」
 これは、生真面目なエイミーから当然出てくるだろう台詞だ。
 もちろん、答えは用意してある。
 一週間前から、今日の午後は彼女を連れ出すことをジェシーとマーゴには伝えてあった。
「大丈夫、マーゴには言ってあるから」
 小さな顔の滑らかな眉間に浅くしわが寄ったのは、予定を知らされていなかったせいだろうか、それとも、いつも通りの予定を変えさせられたからだろうか。
 とにかくここは、エイミーにはあまり考えることをさせずに連れ出してしまった方がいいだろう。事細かくこれからの説明をしたら、絶対に頷かないだろうことは判りきっていることなのだから。

 有耶無耶のうちに、僕にとっては少しゆっくり目、エイミーにとってはやや早歩きで廊下を進み、待機していた馬車に放り込んでしまう。
 彼女を奥に、僕はその隣に座って、馬車のドアが閉まると同時に走り出させた。
 門をくぐり、通りに出たところで横目でエイミーを窺えば、彼女はムッと何かを考え込んでいる。
 時々こちらをチラリと見るから、そのたびに笑い返して安心させてやろうとしたのだが。
 ――どうやら、あまりうまくいっていないらしい。

 何度めかに目が合った時、僕が微笑みを返してもエイミーは前に向き直ることなく、眉間のしわを一層深くしてじっとこちらを見つめてきた。
 何か、説明を求めているのだろうなとは、思う。
 どこに行くのだとか、何をするのだとか、訊きたくてたまらないはずだ。
 だが、本当のことを教えたら、即座に屋敷に帰してくれと言われるだろう。

 ――ここは沈黙を通そう。
 とは言え、こんな狭い場所でエイミーと見つめ合ったりしたら少し危険だ。
 他のことを考えていなければ。

 何か気を逸らすネタを考えていて、ふと、僕はポケットの中に忍ばせてあるものの存在を思い出した。
 多分サイズは合っていると思うが、ちゃんと確かめたことはない。緩いのならまだしも、いざという時に入らないということはないように、一応確認しておいた方がいいだろう。
 僕はちゃんと揃えて膝の上に置かれているエイミーの右手を取り、薬指を探る。右手と左手の違いはそうないだろうから、そこに納まるようであれば大丈夫だろう。

 ――うん、きっとぴったりだ。
 だが、ボールドウィン家代々の婚約指輪は、エイミーの華奢な指にはちょっとゴテゴテし過ぎているかもしれない。石も、血のように紅いルビーは彼女らしくない。
 もっとエイミーに似合う、普段使いの指輪も作らせておこう。

 そんなふうに上の空でいたら、無意識のうちに指と指を絡み合わせたその小さな手を僕の膝の上に置いてしまった。

 まずい。
 つい、いつものようにしてしまった。

 恋愛遊戯に慣れたご婦人方であれば、こんなふうにすればすぐに僕の方にしなだれかかってくる。
 けれどもちろん、エイミーにそんなことができるはずもなくて。
 彼女は、僕に奪われている方の腕を不自然に伸ばして、背筋はまるで板が入っているかのようだ。
 そんなふうに無理な体勢を取り続けていたら、あとでさぞかし身体が強張ることだろう。
 あくまでもエイミーの為に、そっと身体をずらして彼女との距離を詰めた。
 ぴたりと寄り添った部分から温もりはしっかりと伝わってきたけれど、例え馬車が揺れてもほんの少しも重みは加わらない。
 ちょっとくらい寄りかかってくれてもいいのになと思いつつ、そんなふうに気を張っているエイミーがいかにも彼女らしくて、こっそりと笑いを噛み殺した。

 まったく。
 こんなにも色気のない逢引きは初めてだ。
 心持ち尖らせられた唇を見ていると、つい、キスでそれを和らげてやりたくなってしまう。だけど、そんなことを実行したら、僕的にもエイミー的にも、これからの予定がぶち壊しになってしまうだろう。

 そんなことには、させない。
 何としてもエイミーを城の舞踏会に連れて行き、王と会わせ、彼女が僕の大事なひとだということを公然たる事実として知らしめるのだ。
 もちろん、エイミーを妻にすること自体には誰の許可も必要としていない。何があろうと、彼女と結婚する。
 だが、王が認めたとなれば、エイミーにとって色々な面で有利になる。
 だから、この舞踏会に連れて行くのだ。
 今日が終われば、本格的にエイミーとの話を進めていける。
 そう考えれば、今の我慢なんて些細な苦行だ。

 覚悟を強めた僕を乗せ、馬車はあっという間に目指す場所に到着してくれた。
「エイミー、おいで」
 目的地は、ここ数年の間に人気が出てきた仕立て屋だ。
 流行りのデザインだけでなく、斬新なアイデアも取り込んでくれる店で、ここから新しい流行が始まることも、しばしばだった。

「ほら、エイミー」
 促すと、エイミーは心許なげな眼差しで見上げてくる。そんな彼女の背中に手を置いて、店の中へと足を踏み入れた。
 店主には前々から今日のことを伝えてある。
「ボールドウィン様、ようこそいらっしゃいました。その方が、例の?」
 店内に入ると同時に、待っていましたとばかりに群がってきた店員たちが、興味津々の視線をエイミーに向けてくる。
 不安げな目で僕を見るエイミーににっこりと笑いかけ、彼女たちへと引き渡した。
「じゃあ、よろしく頼むよ」
「ええ、お任せを。では、お嬢様はこちらへ。ボールドウィン様はしばしお寛ぎを」
 もの言いたげな様子で肩越しに振り返るエイミーは、問答無用で店の奥にある部屋へと運ばれていった。

「よし、じゃあ、こちらも取りかかろうか」
 エイミーを見送って、店主に向き直る。
 彼女が飾り立てられている間に、僕にもやることがあるのだ。
 僕のその言葉に、店主はいそいそと店の一画へと向かう。
「伯爵様からお聞きしていたイメージで、ひと通りのドレスを作らせていただきました。ご本人を拝見して、ご用意したもの全て、お気に召していただけると確信いたしましたわ」
 そう言って店主が手を薙いだ先には、ずらりとドレスが飾られている。十着はあるそれらはどれも柔らかな色合いで、清楚で可憐なデザインばかりだ。

 前回エイミーに求婚した時から、用意させておいたものだった。
 一着一着確かめていく僕を、自信に満ちた店主の視線が追いかけてくる。
 確かに、どのドレスも、その自信に値する出来だった。
 どれも皆、エイミーによく似合うだろう。もう少し仕立てさせなければならないが、当座はこれだけあれば間に合うだろう。
 これからのエイミーは、メイド服とモップの代わりに、ドレスと宝石を身に着けることになる。
 いや、服装だけではない。今晩屋敷に帰った時には、エイミーを取り巻くものは何もかもが一変しているはずだ。
 部屋もこれまでの使用人用のものから生前母が使っていたものに移動させることになっている。正式に結婚するまでは続きの間にシェリルを住まわせるから、倫理的にも後ろ指刺されるようなことはない。
 まだエイミーには何も言っていないが、環境を整えてやればいずれ彼女の気持ちも変わってくるだろう。

 一度目の求婚の後、ひたすら待ったが何も変わらなかった。
 だから今回は、もう少し積極的に働きかけることにしたのだ。

 メイドの仕事を取り上げてしまえば、嫌でも僕とのことを考える時間ができるはず。
 暇な時間を作って一日中甘やかせば、さすがに何か変わってくるだろう。
 ――変わると思いたい。

「今夜のうちに屋敷に運んでおいてくれ」
「どちらのドレスになさいます?」
「全部だ」
 一瞬、間が空いた。
「――全部、ですか?」
「ああ、どれも気に入った。ああ、あと二十着ほど用意して欲しい。彼女を見たのだから、どんなものが良いかはもう判っただろう? 残りのデザインは任せるよ」
「は……それは、ありがとうございます。ええ、もう、大至急、手配させていただきます」
 一転して満面の笑みとなった店主が、両手を握り合わせて何度もうなずいた。

 さて、ドレスは良いとして、あとは宝石だ。
 新しく作ったものもあるし、屋敷にあったものを直したものもある。
 今日の為に持ってきたのは、新しく手に入れたものだ。

 用意してもらったドレスと似ている色合いの、真珠。
 最初に見た時、まるでほんのり染まったエイミーの頬のようだと思ったものだ。珍しい色のその真珠のネックレスは確かに値が張ったが、惜しいとは全く思わなかった。

 エイミーを着飾らせるのには、二つ目的がある。
 一つは、僕の目の保養。
 もっとも、確かにドレスや宝石でエイミーを着飾らせるのは楽しみだが、実際のところ、僕としては彼女が何を身に付けていようがどうでもいい。

 もう一つの目的の方が、より大きな意味を持つだろう。
 社交界には外側だけでしか人を判断できない者が、溢れかえっている。そんな輩から彼女を守る為には、ドレスや宝飾品が必須なのだ。

「あら、伯爵様。終わられたようですわ」
 ふと店主が僕の背後に目をやって、微笑んだ。
 その微笑みに釣られるようにして、振り向く。
「エイミー」
 ――準備ができたかい?
 そう声をかけようとして、固まってしまう。
 固まって、呆然と見つめるばかりになってしまう。

 僕の視線が向いた先にいたのは、この上なく愛らしい、女性だった。
 こめかみの辺りはそれ自身が飾りになるように金色のリボンと一緒に編み込まれているけれど、僕が予め伝えておいたように、緩やかに波打つ巻き毛は下ろされて華奢な腰のあたりまで届いていた。
 淡い薄紅色のドレスは胸のすぐ下でスカートに切り替わっていて、ふわりとした柔らかそうな生地にはギャザーが細かく寄っている。二重になっているようで、外側の透ける生地に金糸で刺繍された小花が散らされていた。
 昨今のぎりぎりまで胸の谷間を露わにするデザインと違って身頃は鎖骨を見せている程度なのに、それでもエイミーは不安そうに喉元に手をやっている。

 黙りこくった僕にその不安が増したのか、エイミーの眉間に微かなしわが刻まれた。
 そんな彼女にハッと我に返って、慌てて安心させる為の笑みを浮かべて歩み寄る。
 一歩離れた所で立ち止まって、改めてエイミーの装いを眺めた。
 ドレスに包まれた彼女は、確かに可愛らしい。
 だが、それ以上に、不安そうに僕を見上げてくるその表情が、たまらない。
 思わず微笑むと、途端にエイミーの全身から強張りが消えた。
 僕の小さな反応一つでそんなふうに変わってしまう彼女が愛おしくて愛おしくて、人目もはばからずに思う存分抱き締めてキスをしたくなってしまう。その欲求を何とか呑み込んで、代わりに言葉を吐き出した。

「とてもよく似合っているよ」
 そう告げて、エイミーの小さな手を取った。
 まずは右手に。
 指先にキスをして、店主から受け取っておいたレースの手袋をつける。
 左手は、薬指に触れた。
 もうすぐそこにはめられるものを思い浮かべながら。
 顔を上げてエイミーと目を合わせると……なんだか渋い顔をしている。

「どうかした? 手袋がきついのかい?」
 サイズはぴったりだと思うのだが。
「いいえ、ちょうど良いです」
 エイミーの表情は答えと裏腹だ。
 どう見ても、何かある。
「もしかして、突然こんなふうに連れ出したことを怒っている?」
「いいえ、まさか。わたしは旦那さまのなさることに対して怒れるような立場にはおりません。ただ、旦那さまが何をお考えなのか、さっぱり解かりかねますので」
「ああ、それは……」
 答えかけて、ハタと思い出した。
 彼女の為に用意しておいた、もう一つのものを。

 僕がポケットからそれを取り出すと、何故かエイミーは怯んだような顔になった――まるで僕が持っているものがとぐろを巻く大蛇か何かであるかのような顔に。
 逃げるように後ずさりかけた彼女の機先を制して、サッと細い首に腕を回す。女性にネックレスを付けてあげるのは慣れたものだ。全く手古摺ることなく留め金を留める。
 ――そんなことができる距離まで近付くと、エイミーだけの甘い香りが鼻をくすぐった。
 どうしても我慢できなくて、離れ際にそっとエイミーのこめかみのあたりにキスをしてしまったけれど、呆然としている彼女は全然気付いていない。

 もしかしたら、唇にしてもバレなかったのではないか?
 ほんの少しだけそんなふうに思ってしまった自分をいさめつつ、二歩ほど下がってエイミーと距離を取った。
 そうして、最後の仕上げを施した彼女をマジマジと見つめる。

 うん、思った通り、この色はドレスにも彼女の髪にもよく合っている。

「やっぱりその色がいいね。真っ白な真珠でも良かったのだけど、ドレスと色を合わせたかったから、今日はそちらにしたんだ」
 もちろん純白の真珠もいいと思うけれど、それはウェディングドレスの為に取っておく方がいいだろう。ああ、そうだ。そちらも頼んでおかなければ。
 レースをふんだんに使ったものが良いか、それとも、シンプルな方が良いか。
 いずれにしても、色は白だ。
 他の色は一切含まない、純白。
 ――それを身に着けたエイミーを早く見たくてたまらない。
 その為にも、今夜は成功させなければ。
 もう何度目になるか判らないけれど、また、自分にそう言い聞かせた。
 そうして、まだ呆然としているエイミーに言う。

「ああ、そうだ。今晩はこれから城に行くからね」
 パチリ、とエイミーが大きく瞬きをした。
「それはもちろん、旦那さまだけですよね?」
「何を言っているんだ。もちろん君も一緒だよ」
 にっこり笑って頷いたけれど、エイミーは何も言わない。
 おかしいな。
 てっきり絶対に行かないと言われると思ったのに。
 まあいいか。
 彼女が抵抗しないのなら、それに越したことはない。

「じゃあ、ドレスのことは頼んだよ」
 肩越しに店主を振り返ってそう念押しをして、エイミーの腰に腕を回す。
 ほとんど彼女をかっさらうようにして、二人で馬車に納まった。
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