エイミーと旦那さま ② ~伯爵とメイドの攻防~

トウリン

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些細で大きなすれ違い◇サイドC

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 呆然自失のエイミーを首尾よく城に連れ込んで、彼女がもう引き返せないところまで事を運ぶことができた。
 馬車から降ろした彼女の腰に腕を回し、大きく開け放たれたエントランスを通り抜ける。
 だだっ広く煌びやかなホールを前にして、エイミーの足が止まり、心持ち後ずさる。その拍子に、僕の腕に彼女の背中から腰のラインが押し付けられた。

 今回エイミーに用意したドレスは、一見、身体の線を隠してくれる。
 けれど、こうやってほんの少し力が加わると、ふわりとした薄い生地は、途端に彼女の華奢さと柔らかさを知らしめるのだ。
 傍からは判らなくても、触れている僕にだけ、判る。
 それが無性に僕の中の何かを掻き立てた。

 大事な用が控えていなければ、今すぐ馬車に引き返してしまいたい。
 だが、二人きりになりでもしたら、それこそとんでもない結果を招きそうだ。

「エイミー、行くよ」
 小声でそう告げると、大きく見開いた茶色の目が見上げてくる。
 見るからに緊張しているエイミーのこめかみにキスの一つも落としてやりたくなるけれど、それを堪えてそっと背中を押して彼女を促した。

 出迎えの執事に招待状を渡すと、彼は束の間戸惑いの色をその眼に浮かべる。
「エイミー……メイヤー、様――?」
 多分、彼の頭の中に『メイヤー』という家名が入っていないのだ。
 社交界では、名前がすなわち地位を表わすことになる。無名の――貴族ではないエイミーがこの場にいることに、執事は疑問を抱いたのだろう。
「彼女は私の連れだよ」
「は、ボールドウィン様の……さようでございますか。ようこそいらっしゃいました、お嬢様」
 取ってつけたような歓迎の言葉を受け流し、僕はエイミーに笑顔を向けた。
 エイミーは表情を消した顔でジッと見つめてくる。まあ、今の彼女に笑顔を返せというのは、無理な話だ。

 仕方がない。

「さあ、エイミー、こっちだよ」
 彼女の手を取り僕の腕にかけさせる。
 歩き出すと、エイミーはすんなりとついてきた。
 広く長い廊下を歩き、やがて舞踏室へと到着する。
 と、そこで初めて、エイミーに動きがあった。
 目の前に広がる豪華絢爛さに呑まれたのか、真っ直ぐ前を見つめたまま、僕の上着の袖をギュッと握ってくる。

「エイミー、どうかした?」
 そう尋ねると、ぎこちない動作でエイミーが僕の方に顔を向けた。
 顔を向けて、僕を見つめたまま、微動だにしない。

 これは、よほど緊張しているのか。
 と、彼女のこめかみから、一筋の後れ毛がこぼれているのに気付いた。
 ほとんど無意識のうちに、それをすくって耳にかけてしまう。離れ際、そっと柔らかな耳朶を撫でて。
 その瞬間、彼女が大きく身震いした。見れば、露わになっている二の腕は粟立っている。

「寒い?」
「ちょっと、寒気が……」

 ――寒気?
 僕に触れられて、寒気がしたのか?
 それは、どういう意味に受け取ったらいいのだろう。
 まさか、寒気がするほど嫌だった、というわけではないはずだ――そうではないと、思う。
 ……思いたい。

 多分、緊張し過ぎているからだ。この場の空気に慣れれば、大丈夫。
 僕は自分自身にそう言い聞かせ、束の間愕然としてしまったのを何とか立て直し、小さく咳払いをする。

「取り敢えず、一番大事な用件を終わらせてこようか」
「用件……?」
 そう、今日この舞踏会に来たのは、王と交わした約束を果たしてもらう為だ。そして、それを一つのきっかけにして、滞っていたエイミーとの関係を押し進めていくつもりだった。

 エイミーの背中に手を置いて、少し急ぎ足で、人混みを縫う。
 時々顔見知りから声をかけられたが、おざなりに会釈をしてかわした。
 そうしながら、視線を巡らせる。
 こういう場で、王ご自身が踊られることはない。一番室内を見渡せる場所にいて、皆を観察されているのが常だった。

 そのお姿を捜しながら進むと――いらっしゃった。
 すぐ隣に、月光のような金髪に新緑の色の瞳をした若い女性も佇んでいる。少しムスッとしているその方は、マリアンナ・ラ・ローシェ様だ。人質のようなお立場だからにこやかにしているのは難しいだろうが、微笑まれればさぞかし美しいだろうにと少し残念に思う。

 僕の方から声をおかけするより先に、僕たちに気付かれた王が満面の笑みになる。
「おお、ようやく来たか」
「は、遅くなりまして。マリアンナ様もご機嫌麗しゅう――」
 笑顔を向けたらギラリと光る眼で睨まれた。
 王からは彼女の顔は見えないはずだが、気配で察したらしい。肩をすくめて苦笑される。
 そうしておいて、僕の隣に立つエイミーへと目を移した。

「その娘が、例の――?」
「はい。エイミー・メイヤーです」
 頷くと、王は考え込まれるように顎ひげに手をやった。
 正直なところ、王に髭はお似合いではないのだが、それがないと非常にお若く見えてしまわれるのだ。もしかすると、僕よりも年下ではないかと思ってしまうほどに。
 王位に就いた頃、見た目で侮られないようにと伸ばし始めたそうだが、今ではそんな小細工など必要ないのではないかと思う。

 王はしげしげとエイミーをご覧になって、おっしゃった。
「『許可』な。必要ないように見えるが?」
「私個人としては不要なのですが、王の一言をいただければ口さがない雲雀達の囀りが少しは静かになるかと思いまして」
「ああ、まあ、それはそうかもしれぬな。取り敢えず、約定通り、余は何でも認めてやるぞ? ああ、何なら、今この場で余から皆に知らしめてやっても良いが」
 髭の下でにんまりと笑う王は、とても胡散臭い。
「そこまでは結構です」
 きっぱりと断ると、王は珍しい玩具を取り上げられた子どものように眉を下げられた。
「遠慮せずとも良いのだぞ?」
「遠慮ではありません。では、陛下。私たちはこのあたりで」
 駆け引き上手な王が相手だ。長居をすれば、なんだかんだ言って結婚式の段取りまでつけられてしまいそうで、早々に会話を切り上げることにする。
 そもそも、まだ本人から求婚に対する返事ももらえていないのだ。有耶無耶のうちに流されていつの間にか夫婦になっていた――などという事態は避けたい。
 絶対に。
 取り敢えず、余計な横槍を入れられる前に婚約だけは果たさなければ。
 そう決意する僕の心中を見透かしたように王は人の悪い笑いを浮かべる。

「ああ、そうだな。仲睦まじいところを皆に見せつけていってやれ」
 僕に対してはからかい満載の笑みを浮かべていた王だったが、次いでエミリーに向き直った時にはそれをきれいさっぱり拭い去っていた。

 王はエイミーの正面に立ち、真摯な眼差しで頭一つ下にある彼女の顔を見下ろす。
 エイミーの顔は緊張に強張り、背筋はいつも以上にピンと伸びている。
 そんな彼女を和らげるように、王は穏やかに微笑まれた。
「エイミー、そなたの父上とは、余も幾度か言葉を交わしたことがある。確かに位は高くなかったが、素晴らしい軍人だったよ。軍人としてだけではなく、ヒトとして、若い者の道標となる男だった。彼の下についた者は皆、今でも彼を尊敬している。彼らも今では上に立つ立場になっていてな、かつてクレイグ・メイヤーから教えられたことをまた受け継ぎ伝えているよ」
 そう伝えられたエイミーの眼差しに浮かんだものは、戸惑いが勝っていた。
 まだ、父を褒め称えられることの嬉しさよりも、喪ったことの悲しさの方が、大きいのだろうか。
「……ありがとうございます」
 小さな声でそう答えたエイミーに注がれる王の眼差しは、温かい。
 多分、彼女の複雑な心境を理解してくださっているのだろう。

 その温かな眼差しのまま、王は僕に命じられる。
「幸せにしてやれよ」
「もちろんです」
 他者に言われなくとも、必ずそうする。たとえまだ目途が立っていなくても、必ず成し遂げてみせる。
「さあ、行こう、エイミー」
 エイミーの背中に手を置いて攫うように王の前を辞退する僕らを、忍び笑いが追いかけてきた。王にからかわれているのだということも自分が大人げない反応を示しているということも判るけれど、そういう自分をエイミーに見せたくない。
 愛している女性の前ではいつでも泰然としていたいというのは、男の性《さが》だ。
 まあ、取り敢えず、一番やらなければならないことは終わらせた。
 後は屋敷に戻って二人でゆっくりと過ごすというのもありだが、せっかくだからエイミーに客として参加する舞踏会の空気を味あわせておきたい。

 彼女を誘ってダンスに興じる人々の中へと向かうと、腕の中から控えめな声が上がる。
「あの、旦那さま……?」
 見下ろせばエイミーは眉をひそめていた。その目の中には不安と緊張が漂っている。
 そんな彼女を安心させるために、笑顔を返した。
「僕たちも少し踊ろうか」
 そう声をかけると同時にエイミーの小さな手を取り細い腰に腕を回した。
 いい感じに、すっぽりと僕の中に納まってくれる。
 ステップを踏み出すと彼女はとても軽やかで、まるで何年も前から僕のパートナーを務めているかのようだ。あまりの軽さに、華奢な背中に翼でも生えているのかと思ってしまう。
 本当はもっとぴったりと身体を引き寄せてしまいたかったが、なけなしの自制心を振り絞って『礼節ある』距離に止めておいた。
 僕が彼女をくるりと回せば、ドレスの裾がふわりと広がり、栗色の髪がしなやかになびく。
 そうやって、何度も舞わせていく中、ふいに、小さな、とても小さな笑い声が、僕の鼓膜をくすぐった。

 ――笑い声?

 思わず自分の耳を疑ったけれど、確かに、僕のこの腕の中でエイミーが顔をほころばせている。
 つい息を呑んでしまったら、その気配に引かれたように彼女が顔を上げた。
 まだ口元に笑みを刻んだままのエイミーと、まともに目が合う。
 丸い頬は薄っすらと上気し、栗色の大きな目は心持ち見開かれて輝いて。

 ――なんて、可愛らしいのだろう。

 胸が締め付けられて、息が詰まりそうだというのに、顔には勝手に笑みが浮かぶ。
 途端に、エイミーの笑顔が固まり消え失せた。
 代わりに彼女の面に浮かんだのは、何やらとても複雑な表情で。
 エイミーの気持ちを読み取ろうとしてまじまじと見つめると、今度は顔を伏せられてしまった。
 それからのエイミーは打って変わってぎこちなくて、ダンスを楽しめていないことがはっきりと伝わってくる。

「エイミー、疲れた?」
 足を止めてそう尋ねると、彼女は一瞬ためらってからうなずいた。
「はい、少し」
「そうか。じゃあ、あちらで休もう」
 ――なんとなくがっかりしたような雰囲気が漂ってきたのは、何故だろう?
 とにかく、何か喉を潤すものでも口にすれば、少し気を取り直せるに違いない。

 エイミーを壁際まで連れていき、そっと頬に触れる。
「ちょっとここで待っておいで。何か飲み物を持ってくるから」
 一人にすると言われて、途端にエイミーの顔が不安に曇った。
 一瞬、彼女も連れて行こうかと思ったが、この人混みの中をまた歩かせるのも可哀想だ。
 心許なげに見上げてくるのがまた愛おしく、微かに開かれた柔らかそうな唇に引き寄せられるように頭が下がる。

 前髪が触れ合うほどに近づいて、はたと自分の行動に気が付いた。

 危なかった。
 こんな人前で我を忘れてキスをしたら、三日は口をきいてもらえなくなるに違いない。
 唇に落としてしまうところだったキスを頬に残し、安心させるために微笑みかける。
「……すぐ戻るからね」
 そう告げて、足早にエイミーから離れた。
 できるだけ早く戻らないと。さりげなくカーテンの陰に立たせたが、できるだけ一人にはさせたくない。

 込み合う人々の間を縫うように進んで飲み物が置かれているテーブルに辿り着こうとしたところだった。
「ボールドウィン様。お久しぶりですのね」
 横からかけられた声に、思わず舌打ちをしそうになる。
 それをこらえ、笑顔を作って振り返った。
 ずらりと並んだ六人の女性は、皆、それなりに深い関わりを持ったことがあるご婦人方だ。もちろん、その関係を終わらせる時に揉めたことはない。今では『友人』として付き合っている。
「これはこれは。皆さんどなたもいつもと変わらず麗しい」
「あら、調子のよろしいこと」
 彼女たちは手にした扇で口元を隠しながらくすくすと笑い合う。
 機嫌が良さそうに見えるが、彼女たちの間で交わされる眼差しが、なんとなく胡散臭い。
 適当にあしらい早くエイミーのもとに戻りたいところだが、今、彼女たちにどう対応するかで今後が大きく変わってくる。

 さて、何を言ってくるかと笑顔の奥で身構えた。
 口火を切ったのは、一番付き合いが古い男爵未亡人だ。
「ボールドウィン様こそ、ずいぶんと可愛らしいお嬢様をお連れでしたわね」
「そうですわね、可憐で――とても無垢な感じで」
 無垢、というのは、幼い、という意味だろう。僕には若すぎる、と言いたいのだ。
「ええ、その通り。彼女はとても愛らしいよ」
 そう言って、にっこりと笑って見せた。
 ご婦人方はまた視線を遣り取りする。
「……で、あの方はどちらのご令嬢ですの? あたくしたち、誰もまだお見かけしたことがなくて」

 そら来た。

 僕は肩をすくめて返す。
「彼女は私の恩師であり命の恩人でもある方のご令嬢だよ。彼女の父上は初陣で何も知らなかった私に一から全てを教えてくれたんだ。それに、それだけではない。彼は、僕たちの部隊を護って命を落とされたんだよ。どれほど言葉を尽くしても表しきれないほどの大恩ある方だ。私は彼と、必ず彼女を幸せにすると約束してね」
「恩師……恩人……?」
 男爵未亡人が戸惑ったようにつぶやく。
「では、軍人の――その、……まあ」
 絶句しているのは、エイミーが『平民』だからだ。
 眉をひそめているのは男爵未亡人だけではない。他の五人も同じように上っ面に浮かべていた笑みを消して、控えめながら眉間にしわを刻んでいる。

 これは、予想通りの反応だった。
 エイミーが貴族でないと知れば、こういう態度を見せる者が大多数だろう。

「でしたら、恩人の娘さんだからお付き合いなさってらっしゃるの?」
「そうなのでしょう?」と言いたげな、取り繕うような笑みを浮かべて男爵未亡人がそう問うてきた。
 僕は悠然と微笑んで見せる。そんなふうに言われることこそ心外だ、と言わんばかりに。
「まさか、それを抜きにしても、私自身にとって、彼女は世界で一番大事な宝だよ――傷一つ付けたくない、大事な。彼女の全てが愛おしくてたまらない、私の最愛の人だ」

 ご婦人方は唖然として僕を凝視している。
 彼女たちにも、「愛している」と言ったことがある。だがそれは戯れに過ぎなかった。お互いにそれを承知で偽りの恋愛関係を楽しんだのだ。
 今、僕の口から出たこの台詞が、かつて自分たちに向けて発せられたものとは全く異なるものだということが、彼女たちにも判っているはずだ。

「まあ、それでは、いずれ彼女を……?」
 曖昧に濁されても、男爵未亡人の言いたいことは判る。
「もちろん」
 にっこり笑ってうなずいた時だった。

 トントン、と、肩を何かで叩かれる。
 振り返った先にいたのはセレスティアで、僕の肩を叩いたのは彼女が手にしている扇らしい。

「やあ、久しぶり、セレスティア」
 彼女が舞踏会にいるのは珍しい。
「お元気そうですわね、セドリック様」
 艶やかな笑顔は――何か含んでいる。
 だが、それは、何だ?

 眉をひそめた僕を、セレスティアはヒンヤリとした眼差しでねめつけてきた。
「今のお言葉、エイミーに聞かれましてよ?」
「え?」
「つい先ほどまで、ここに、エイミーもおりましたの。ほら、今はあちらに」
 そう言って、彼女は扇を動かした。それが示す先に、エイミーの背中が見える。
 まるで逃げ出すように彼女が向かっているのは、バルコニーだ。

「エイミーが? 僕の話を?」
 全て聞かれてしまったのだろうか。
 僕が彼女に向けている想いの告白も――?
 だったら、何故、彼女はあんなふうに僕から遠ざかろうとしているんだ?
 普通、愛を告げられた女性はその相手に抱き付きこそすれ、逃げ出しはしないだろう?

 訳が解からない。

「失礼」
 混乱する頭でかろうじてその一言だけ捻り出し、人を掻き分けるようにしてエイミーを追いかけた。
 辿り着いたバルコニーは暗く、人気がない。左右に目をやると、右の奥の方に小柄な姿があった。
 こちらに背を向けているエイミーは、欄干に手をつき、うなだれている。

「エイミー?」
 そっと名前を呼んでも、振り向いてくれなかった。
 ――僕と目を合わせたくないのか?
 僕の告白が嫌だったから?
 それとも、ただ気まずいだけ?

 少し迷って、微かに震えているエイミーの肩に手を置いて、こちらに振り向かせた。
 震えているのは、寒いせいだと思いたい。

「エイミー、こんな所にいたら冷え切ってしまうじゃないか」
 作り笑顔でそう言って、僕の上着を着せてやる。
「こんな場所で独りきりになっては駄目だよ。人目がないとバカなことをしでかす輩が山ほどいるんだからね」
 たしなめながら、彼女の目の中にあるものを探る。
 だが、視線が合ったのはほんの束の間で、すぐに逸らされてしまった。

 いつものエイミーは、僕から目を逸らしたりはしない。むしろ僕の方がこらえきれなくなって、先に視線を外してしまうくらいだというのに。
 僕は苛立ちとも焦燥ともつかないものに襲われて、彼女の頬を両手で包み込んだ。そうして、うつむいた顔を上げさせ、無理矢理に目を合わせる。
 しっかりと彼女の栗色の目を覗き込みながら、問うた。

「エイミー。さっきの僕の考えを聞いていたんだろう? 僕がどうしたいかは、もう解かっているんだよね?」
 僕がエイミーを女性として愛しているということが、さっきの台詞で伝わらなかったはずがない。
 あれで解からないというのなら、どう言葉を尽くしても無理というものだ。

 呼吸三回分ほどの、間。

「はい」
 小さな声での返事に、思わずため息が漏れる。
「なら、僕が求婚したことを覚えているだろう? それを受け入れてくれるんだよね?」
 今度は、沈黙が動かない。
 エイミーのためらいは、何に基づくものなのだろう。
 ――僕の想いを受け入れられないからだという考えは、真っ先に頭の中から消去した。
 だとすれば……そうだ、きっと、身分とか、そんなもので悩んでいるんだ。

 気軽な笑顔を作って、言う。
「身分差というところを考えると誰かの家に養女に入ってもらうという手もあるけれど、君にはクレイグ・メイヤーの娘のまま僕の妻になって欲しいんだ。君にとって、お父さんのことは大きな誇りだと思うから」
 僕は、エイミーが何を大事にしているか解っている。
 できる限りそれを尊重するつもりだし、僕が彼女を想っているように彼女が僕を想っていないというのなら、そうなるまでいくらでも待つつもりだ。
 目を伏せているエイミーを、無言で見つめる。

 とても長い時間が過ぎたような気がした。
 だが、実際にはほんの束の間のことだったのかもしれない。
 ふいに、エイミーの視線が上がった。

 澄んだ目が真っ直ぐに僕を見つめる。

 無意識のうちに息を詰めていた僕に、彼女は告げた。

「そんな必要はありません」

 一瞬、その言葉の意味が解らなかった。
『必要』がない?
 必要って、――どういう意味だ?

「……え?」
 戸惑う僕に、彼女は打って変わってはきはきとした口調で続ける。
「わたしに求婚なんて、必要ありません。旦那さまは、旦那さまにふさわしい奥さまをお迎えください。わたしはずっとお傍にいさせていただければ、ずっとお世話をさせていただければ、それで充分幸せです」

 僕のあの言葉を聞いておいて、何故、そんな答えになるんだ?
 彼女の頬を包んでいる両手に、思わず力を込めてしまう。

「君はそれでも平気なんだ? 僕が誰か他の女性と結婚しても?」
 頼むから、それは嫌だと言ってくれ。
 心の底からそう願ったというのに、エイミーはいとも平然と答えてくれる。

「なぜ、わたしが気にするのでしょう?」

 まるで、太い杭で腹を抉られたかのようだった。

 痛くて、苦しい。
 息もできない。

「僕は本気で君に求婚したのだよ?」
「わたしに対してそんなふうに思って欲しくありません」

 にべもない。
 僕の想いは、エイミーにとって不要なもの――最悪、重荷でしかないのか?
 これ以上、彼女の口から僕を拒む言葉を聞かされたくなかった。
 とにかくそれを塞いでしまいたくて、僕は何も考えることができずに頭を下げる。
 怯えたように後ずさろうとしたエイミーを、欄干が阻んだ。
 右手で細いうなじを掴み、左手でたおやかな腰を引き寄せる。

「だん、――っ」
 奪った唇を、今までさんざん磨いてきた技巧など放り出して貪った。

 彼女は、ああ、なんて……

 長年飢え乾いていた者が贅を尽くした食事を前にしたとしても、これほど我を忘れることはないだろう。
 ほとんど怒りに似た思いから始まった口づけは、次第にエイミーの甘さに溺れたものになっていく。がむしゃらに彼女を蹂躙するのをやめて、ゆったりと味わい、慈しむ。

 いつしかエイミーの身体は力を失い、完全に僕の腕に全てを委ねていた。
 名残惜しく最後に幾度か柔らかな唇をついばんで、ぐったりとした彼女を抱き締める。

「僕は決して、諦めないよ」

 絹のような髪に頬を埋め、小さく、けれどきっぱりと、囁いた。
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