君がいる奇跡

トウリン

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出逢う前・響

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 そこは不夜城新宿の一画。
 深夜を回っても人通りの絶えない繁華街にあるコンビニの中の一軒だった。

藤野響ふじの ひびきと言います、よろしくお願いします!」
 響は少々緊張で硬くなった声でそう言って、肩までのストレートの髪を揺らして勢いよく頭を下げる。
 彼女の隣にいる店長は橋本といい、気が良さそうな初老の男だ。一方、たった今彼女が挨拶と共に頭を下げた相手は、四十絡みの小太りの中年で、今日から時々シフトが重なることにもなる『バイト仲間』だった。

「よろしく。ボクは小暮ね」
 間延びした口調で、小暮が名乗る。おっとりした雰囲気で、響は少しホッとする。
「じゃあ、さっそくレジに立ってよ。判らないことがあったら、小暮さんに訊いて」
 店長はそう言って、あとは任せたとばかりに奥に引っ込んだ。彼の姿が消えると、小暮が響に訊いてくる。
「レジ打ち、初めて?」
「はい……研修で、練習はしましたけど」
「まあ、コンビニのレジはそんなに品物持ってこないからね。スーパーとか程、慌てなくていいと思うよ。取り敢えず、お客さんに『待たせた』感を持たせなきゃいいから」
 のんびりとした口調で、小暮は大雑把なことを言う。
「わかりました」
 頷いて、響はレジを見つめた。何度か打たせてもらったから、使い方は判る。問題は、レジを通して品物を袋に入れてお釣りを返して――という一連のことをスムーズにできるかどうかだった。

(やっぱり緊張するな……)
 響は人見知りをあまりしない方だけれど、流石にこの状況はいつも通りに笑える自信がない。早く実践してみたいようなしたくないような、複雑な気分だ。
 彼女はドキドキと高まってきた鼓動を抑えようと、こっそりと深呼吸を繰り返す。
 そんな彼女に、小暮が質問を投げてきた。
「でもさ、女の子がこんな時間にバイトって、親御さん心配しないの?」
「実は、ナイショなんです。この春から独り暮らししてるので、今のとこ、ばれてません」
 響は笑いながら答える。

 実際のところ、過保護な彼女の保護者が知ったら速攻で辞めさせられるだろう。
 響にとって、このコンビニが初めてのバイトだった。
 十歳の時に響を引き取り、それからずっと世話をしてくれているのは、伯母の遠山凪とおやま なぎだ。
 彼女は「学生の本分は勉強と遊び」という主義で、響は無事高校に入学した時、せめて自分の小遣いくらいは自分で稼ぎたいと主張したのだけれど、頑として首を縦に振ってはくれなかったのだ。

『伯母的』義務教育である高校も無事卒業し、いよいよバイト解禁となったのはこの三月のこと。凪には内緒で前々から段取りを付けておいて、早速四月から働くこととなった。
 独り暮らしをしてみたいのだと凪を説き伏せ、住み慣れた家を出てアパートも借りた。ワンルームの狭い部屋だけれども、家賃は破格の安さだ。そうしておいて、凪の目がないのをいいことに、バイトも他にいくつか掛け持ちしている。

「大丈夫なの?」
 心配そうに訊いてくる小暮に、響は笑って返す。
「ばれたら殺されちゃいますね」
「ボクだって、自分に娘がいて内緒で深夜のコンビニバイトなんかしてたら、絶対辞めさせるよ。しかもこんな所だしね。どんな客が来るか、判んないしね」
「そんなヘンなヒトが来るんですか?」
「まあ、色々だねぇ」
 そう答えた小暮は、腕を組んで深々と頷いている。
「あ、そうだ」
 と、不意に小暮が「忘れてた」と言わんばかりに声を上げた。響が顔を上げると彼はいかにも面倒そうにため息をつく。
「あそこの電球を取り換えなきゃだったんだ」
「どこですか?」
「あそこの、左の通路の真ん中くらいの奴。蛍光灯は時期を決めて一括で取り換えてるんだけど、電球の方は切れたら交換してるんだよ」

 響は小暮が指差した辺りに目をやった。
 蛍光灯が煌々と照らしているから気付かなかったけれど、確かに一つ、電球が切れている。もっとも、有っても無くても、どちらでも良さそうなものだが。

「じゃあ、わたしやります」
「え、でも高いよ?」
「大丈夫です。家でもやってますから」
 そう言って、響は胸を張って見せる。
 凪は独身で、家には男手がない。たいていのことは、凪か響でこなしていた。

「そう? じゃあ、脚立持ってくるから」
 そう言って、小暮はバックヤードに入っていく。さほど待たずに、彼は脚立と新しい電球を手に戻ってきた。その脚立を通路にセットし、響に電球を差し出す。
「じゃ、お願いね」
「了解です」
 ビシッと答えた響に、小暮は笑ってレジへと戻っていった。

 残った響は天井を見上げ、そして脚立に目を移す。
 改めて見てみると、天井は自宅よりもずいぶん高そうだった。
 響はあまり大きくないので、脚立の一番上に立っても、結構ギリギリかもしれない。

(届く、よね?)
 深夜だというのに客足は結構あるから、いつまでも脚立を出しっ放しにしておいたら邪魔もいいところだろう。それに、早くレジの仕事もしてみたい。

「よし、やるか」
 呟き、響はステップに足をかけた。いざ上ってみて、彼女は「あれ?」と思う。交換する電球は、意外と離れた所にあったのだ。
 一度下りて脚立を置き直しても良いのだけれど――面倒くさい。まあ、それでも、やってやれないこともないかと、響は身体を傾けるようにして作業を開始した。
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