君がいる奇跡

トウリン

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帰り道、寂しい気持ち

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 なぎの家からの帰り道、ひびきりょうと並んで歩く。
 暇乞いとまごいをしたのは二十一時を回った頃だ。泊まっていけばいいという伯母の言葉を、明日は仕事があるからと断って、二人は帰路に就いていた。
 久しぶりに凪と過ごして、何をしたわけでもないのだけれど、響の気持ちは何となく浮き立っていた。ここしばらく心の中にわだかまっていたモヤモヤとしたものが、少し薄くなったような気がする。

(わたしばっかり楽しんじゃったけど、リョウさんはどうだったんだろ)
 響はホッと息をつく。
 凪を相手にしても凌は困っているようには見えなかったけれど、お世辞にも人付き合いが良いとは言えない彼が易々とあのひと時を過ごしていたとは思えなかった。
 響は横を歩く凌を見上げる。でも、その表情からは何も掴めない。

「今日はありがとうございました。凪さんのわがままに付き合っていただいて」
 歩きながらペコリと頭を下げた響に、凌は心外そうな顔になる。
「いや……楽しかったよ」
「本当ですか?」
 眉をひそめて響が問い返すと、彼は微かに笑みを漏らした。
「ああ。あの人、笑うとお前に似ている」
「え、そうですか?」
「最初は全然似てないと思ったけどな」
「ふふ、たいていそう言われます。友達なんかには、ホントに伯母さんなのって、いつも言われてました。似てるって言われたのは、初めてかも。……嬉しい」

 響は殆どキッチンにいたから、凪と凌がどんな話をしていたのかはあまり知らない。漏れ聞こえてきた限りでは、当たり障りのない、ただの雑談だけだったように思われる。
「わたしがお酒飲めないから、凪さんいつも一人で晩酌してたんですよね。今日は相手がいてすごく嬉しそうでした」
 そこで言葉を切って、響はチラリと凌を見上げた。
「……わたしのこと、変なこと言ってなかったですよね?」
「――子どもの頃、伯母さんはやめろと言ったのに怖い映画を観たがって、結局夜中になると彼女の布団に潜り込んで来たこととか?」
「そんなこと言ってたんですか?」
「ああ。でも、朝になるまでにまたいつの間にか自分の布団に戻っていたとも言っていた」
「覚えてないですよ、そんなこと……」
 何だか、もっと色々なことを話されていそうだけれど、それを確認するのはやめておいた。別の方向に話を逸らす。

「凪さん、おしゃべりでしょう。疲れませんでしたか?」
「……お前も、よくしゃべっているよ」
 自分の事を棚上げして、と言われたような気がして、響は言葉に詰まる。
「う……それって、わたしといると疲れるっていうことですか?」
 もしもそうなら、ちょっとショックだ。
「まさか。お前の声は好きだ」
「そ、う、ですか」
 平然と、顔色一つ変えずにそんなことを言ってしまえる凌に、響の方が、顔が熱くなる。そして同時に、頭の芯はスッと冷えた。

 こんなふうに簡単に『好き』と言えてしまうなら、その重さはどれほどのものなのだろう。

「どうした?」
 足が鈍った響を、凌が眉をひそめて振り返った。
「何でも、ないです」
 答えながら、彼女は少し目を逸らして俯く。
 どうしてなのだろう、彼の事を何でもかんでも勘繰ってしまう自分が、響は嫌でたまらなかった。
 と、地面を見つめて歩いていた彼女の視界に、差し出された凌の手が入り込む。顔を上げると、穏やかな彼の眼差しが向けられていた。

 大きくて温かなその手に、響はそっと自分の手を重ねる。いつものように優しく包み込んでくるその温もりに、泣きたくなった。

 ――彼は、わたしのことが好き。
 きっと、それは確かなこと。
 けれど、わたしの好きという気持ちと彼のそれとは、多分別のものだ。

 響の中では『好き』という気持ちにも、色々な形がある。
 たとえば、『空』と言っても色々な光景があるように。
 仲のいい友達への『好き』は、良く晴れた夏の空のようにからっとしている。
 凪への『好き』は、帰り道に見上げる茜に染まった夕焼けのよう。
 凌への『好き』は――薔薇色に燃え立つ朝焼けの空みたいだった。とてもきれいで期待に満ちたものなのだけれども、同時に、先の見えない一日が始まるという不安も混じる。

 響は、彼とつながった手を見つめた。
 彼女の手は彼のものよりもずっとずっと小さくて、すっぽりと包みこまれてしまう。彼の手を握り返したいのに――互いに握り合いたいのに、そうできない。
 それは、そのまま、二人の関係を表わしているようだった。

 込み上げてきた想いに、響の胸が詰まる。
「わたし、リョウさんのことが好きです」
 彼を見上げて、気付いたら、ポロリと口からそう零れていた。
 その声が自分の耳に届いてハッと我に返ったけれど、もう遅い。
 暗い夜道でも、凌がマジマジと見下ろしてくるのが感じられた。

「や、あの……」
 本当のことなのだから撤回することもできなくて、響はさっきよりも深く顔を伏せて彼の視線から逃れる。
 凌は、言葉では何も返してくれなかった。ただ、彼女の手を握る力が、ほんの少し強くなった。きつくなり過ぎないように細心の注意を払ってくれているのが、響にははっきりと感じ取れる。

 何故か、その気遣いが少し寂しい。
 もしかしたら、凌の中には『好き』という感情は無いのかもしれない。

 ふと、響はそんなふうに思った。

 好きとか嫌いとかのように胸の奥から抑えきれずに湧き上がるものではなくて、もっと理性的な思考からくるものなのかもしれない。そう、『守るべき者』と『そうでない者』を線引きするような感じで。
 彼の母親や妹がそうであったように、響も彼にとって『守る者』に分類されているだけなのかもしれない。彼にとってその腕の中にいる者は、みんな同じように、大事な存在なのだ。

 群れを護るボスライオン。

 そんな言葉が、凌に重なる。
 確かに彼から大事にされているとは感じられるのだけれど、『特別』に求められているという自信が、響には持てない。

 響に合わせた、ゆっくりとした足取り。
 響の手を、しっかりと、けれど壊れ易い卵を抱くように優しく包み込んでくる手。

 こんなにも大事にされていて、更にこれ以上を望む自分は、きっとわがままなのだ。
 だけど――だけど、みんな等しく大事というのは、何て残酷なのだろう。

(だって、それは、別に『わたし』でなくてもいいということでしょう?)
 大事にされるのは、嬉しい。けれども、ただ守られていたいわけではない。

 ――リョウさんにとって、『わたし』は『必要』ですか?
 響は胸の中でそう問いかけた。

 凌にとって、自分は誰の代わりでもない。響が響だから望まれている。
 そう実感できる何かが、彼から欲しい――あるいは、そんなものを必要としなくてもいいだけの、自信が。

 何故、こんなふうに思ってしまうのだろう。自分の弱さが情けない。

 ジンと目の奥が痛くなって、響は強く目をしばたたかせた。
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