君がいる奇跡

トウリン

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彼女の望み

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 りょうの歓迎会という名目の飲み会の会場となったのは、新宿にある居酒屋だった。
 あんなふうにひとと飲み食いをしたのは、凌にとって初めての事だ。同僚たちは入れ代わり立ち代わり彼の隣にやってきて、少しでもグラスの中身が少なくなっていればなみなみとビールを注ぎ足していった。皆陽気に良くしゃべり、親しげに凌に笑いかけてきた。

 虎徹こてつに引っ張られて彼の仲間が集まる場に足を運んだことは何度もある。音楽と、それに混じる女の嬌声。酒と、たばこと――それ以外の何か。やけにハイな者や、逆にトロンと宙を見つめて者を眺めながら、凌はそれを面白いと思ったことはなかった。
 今日は、多分、楽しかったのだと思う――時間は、いつの間にか過ぎていた。
 二十三時を回った頃にお開きとなり、それぞれ帰路に着いたのだが。

 凌は駅の時計を見上げて逡巡する。
 もう少しで零時になるところで、今からひびきのコンビニに向かえば、彼女がシフトに就いた頃に着けるだろう。
 足を引いて方向転換しようとして――凌の頭の中に、ふと飲みの席での同僚の台詞がよみがえる。
 凌よりも二、三歳年上の同僚から出た、四歳になる娘についてのボヤキだった。

「うちの娘がさ、何でも自分でやりたがるんだよなぁ。でも、やっぱ心配だから、ついつい手を出しちゃうわけ。そうしたら『パパうざい』ってさ。『うざい』だぞ? 『うざい』。まったく……どこでそんな言葉を覚えてくるんだか。愛してるんだから助けてやりたくなるのは当たり前じゃねぇか」

 がっくりと落ち込んだ彼を、年配の男達が苦笑混じりに慰めたものだ。
「まあ、信じて黙って見守るのもまた愛情ってやつでな。娘のやる気を無視したら、それは単にお前の自己満足に過ぎないだろう」
「そうは言っても――」
 その後も彼はグルグルと管を巻き、終いには本気で半泣きになってしまったのだが。
 凌には、耳が痛い話だった。その親子の有り様が、自分と響に重なって。

 ――信じて黙って見守るのもまた愛情。

 その言葉と、先だっての凪の台詞と、いつも響に言われていること。
 ここはグッと堪えて、響を信じて素直に帰るべきなのか。
 多分、それが一番正しく一番普通の行動なのだろう。
 だが、凌の足はその方向に動かない。

 ――外から覗いて、何事もなく働いているのだけ確認するくらいなら……
 これは、響の為にするのではない。自分が安心する為にそうするのだ。だから、彼女を軽んじているわけではない。それに、何も電車を使わなくても家には帰れるのだ。歩いて帰る途中で、ついでに覗くだけだ。

 結局自分にそう言い訳しつつ、凌はコンビニへと向かう。
 零時を回っても相変わらず人は多く、さりげなくコンビニの前を通っても、響が彼の姿に気付くことはまずないだろう。
 ガラス張りの店が近付いてきて、凌は少し歩みを遅くする。そうしながら、横目で店内を窺った。

 が。

 凌は入口手前で足を止める。よく見る小太りの中年男と一緒に彼女が働いている筈なのにその姿は見当たらず、代わりにいつも昼にしか見たことのない初老の男がいた。
 バイトのシフトは二人一組になっていると響から聞いている。レジに二人入っているということは、他に店員はいないということだ。

(響は、どうしたんだ?)
 そのまま素通りすることなどできなくて、凌は店の自動ドアをくぐる。
 選びもせずにペットボトルを手にしてレジに向かった凌に、中年男が「おや」という顔をした。そんな彼に、凌は品を差し出しながらさりげなく訊く。

「響はどうしたんですか?」
 そう訊ねた凌に、中年男が少し困ったような顔になる。
「ああ……彼女ね、今日はもう帰ったんだ」
「一度は来たのか?」
 店員の返事に、凌の胸には不安が込み上げてくる。夕方電話した時にはいつもと変わりのない様子だったが、体調でも悪くなったのだろうか。
「ちょっとね、店の外で揉め事があってね」
「揉め事?」
「ええっと……何だか、女の人が男にぶたれたみたいでね。多分、その人の家に送って行ったんじゃないかな。これ、百四十七円になります」
 言われるままに金を出し、凌はペットボトルを受け取る。

「女……」
「そう。その人、前にこの店でちょっとだけトラブル起こしたんだけどね。まあ、店にっていうよりも、藤野さんに、かな」
「響に?」
「そう、聞いてないかな? 一ヶ月くらい前だったと思うんだけど……ちょっとキツイ感じの美人なんだけどね、何か藤野さんに話があったみたいで、レジに立ってジッと睨み付けてきてね。奥で藤野さんと話をしたら、別に騒ぎになることも無く帰っていったんだけど」
 彼の台詞で、凌はすぐにその女性の正体に思い当たった。

(ナナだ)

 いったい、どういうことだろう。
 偶然、彼女が店の前でもめ事を起こすことなど、どれほどの確率であり得ることか。きっと、ナナがこの店の近くにいたのは何か意図があってのことだ。凌が狙いなのか、あるいは響が狙いなのか。
 凌は嫌な胸騒ぎに襲われて、踵を返して店を出る。
 ナナの住んでいる所は知らなかった。凌は舌打ちをして、取り敢えず響の部屋に向かう。まだ帰っていないかもしれないが、戻ってきたら何があったのか話を聞こう。
 できる限り急いだが、彼の身体では全力疾走とはいかない。うまく動かない脚をもどかしく感じるのは、滅多にないことだった。

 いざ響のアパートへ到着して彼女の部屋を見上げた凌は、眉をひそめる。そこには灯かりが点いていた。彼女の部屋のカーテンは遮光性ではないから、蛍光灯の灯りがそのまま窓を照らしている。
 階段を上がって彼女の部屋の前に行き、呼び鈴を鳴らすと待たされることもなくドアが開かれる。
 外に立っている凌を見て、響の目がいっそう丸くなった。
「リョウさん?」
 何故そこにいるのかと言わんばかりの口調だ。
「帰る途中でコンビニに寄ったら、お前がいなかったから……」
「あ……」
 凌の言葉に、響は気まずげに口ごもる。
「入ってもいいか?」
「え? ……えぇっと……――はい」
 ためらいがちな彼女を押し込むようにして、凌は玄関の中に入る。響は微かに笑んで、彼を見上げてきた。それはどこかぎこちなく、意識して作った笑みだというのが判ってしまう。

「こんな時間だからココアでもいいですか?」
「ああ、構わない」
 飲む物などどうでもいいから、何があったのかを早く知りたい。
 凌はそう言いたいのを抑えて、響に頷いた。
 彼女はじきに湯気を立てるカップを二つ盆に載せて持ってくると、一つを凌の前に置き、自分も腰を下ろす。
 彼女がコンビニにいないことを知って凌がここに来たことがわかっている筈なのに、響は黙ったままだ。説明する気が無いからというよりは、口にするのを迷っているように見える。

 痺れを切らした凌は、彼の方から水を向けた。
「ナナだったんだろう?」
 静寂を破られて、響がヒクンと肩を震わせる。カップの中に注いでいた視線を、凌へと移した。
「え?」
「店の前でトラブッた女を連れ帰ったと――ナナなんだろう? あいつの部屋まで送っていったのか?」
「あ……いえ……ここに、連れてきたんです」
「ここに?」
 ナナは響にあまりいい感情を抱いていない筈だ。それは紛れもなく凌の所為なのだが、一度嫌な思いをしているにも拘らず無防備に彼女に接する響に、彼は何だか腹立たしさを覚える。
 また、傷付けられたら――前は言葉によるものだけだったが、ナナの気性ではもっと実際的なことをしかねないのだ。

「放っておけばよかったんだ」
「はい?」
「前に色々言われたんだろう? お前が助けてやる必要はない。何かされたらどうするんだ」
 突き放した凌の口調に響は一瞬目を丸くし、そして、視線を落とした。
「……そんなの、できません」
「しろ」
「できませんよ!」
 唐突に響がキッと顔を上げる。が、強い口調は彼女自身も意図せぬことだったように、すぐに視線を揺るがせた。

「あの人……男の人に何か言われて、すごくショックを受けていたみたいで――何だか、放っておけなくて……」
「またすぐに笑って別の男のところに行くだけだ」
 響には理解できないかもしれないが、ナナは同時に複数の男と関係を持っているのだ。その中の一人に振られたくらいで、ダメージを受けるとも思えない。
 しかし、凌の言葉に、響は悲しげに笑みを浮かべる。

「笑っているからって言って、その下に何があるかなんて、判らないでしょう?」
 響はテーブルの上に置いたカップに手を伸ばし、触れる。だが、触れただけで持ち上げようとはしなかった。
 ポツリとこぼされた、彼女のその言葉。考えて口にした、と言うよりも、本当にただこぼれてしまった、という感じだ。
 それ故に、その呟きは凌の胸に突き刺さる。

 ――それは、お前自身のことか?

 そんな台詞が口を突いて出そうになるのを堪えた凌の前で、響が続ける。
「ナナさん、何だか寂しそうでした。男の人たちに好かれてるって言いながら、すごく――何て言うか……独りぼっちな感じ。リョウさんは、あの人と一緒にいて、そう感じたことはなかったですか? 今日が、たまたまそう見えただけ?」
 首をかしげて見つめてくる響。だが、そう問われても、凌には答えられなかった。
 何故なら、ナナのことなど、ろくに『見て』はいなかったからだ。
 ただ、彼女から身体の関係を求められたから、応じただけ。それには、別に『ナナ』を見る必要はないのだから。
 笑顔の裏でナナが考えていること、その裏にナナが隠していることなど、凌は想像すらしたことがない。ただ、見えるだけのものを目にしていただけだ。

 不意に、凌は思った。
 ちゃんとした生身の人間として認識した相手が、自分にはいったいどれくらいいるのだろう、と。
 凌は再び顔を伏せてしまった響を見る。
 唐突に、何の考えもなく――欲望すらなく無造作にナナを抱いたことが、どうしようもなくひどいことのように思えた。いや、実際にひどく残酷なことだったのだ。

 凌の胸が、ズキリと痛む。それは肉体的な痛覚は失った筈の彼の身体をあざ笑うような痛みだった。
 無性に、目の前の小さな身体を抱き締めたくなる。そうしてその温もりを分け与えて欲しい。

 奥歯を噛み締めてそんな情けない衝動をやり過ごそうとする凌に気付かぬ響が、再び口を開く。
「わたし、ナナさんに何か言ってあげたかった。でも、何も言葉が見つからなかったんです。わたしは空っぽだから……こんなわたしの言うことなんて、薄っぺらなものでしかないですもの」
「『空っぽ』……」
 思わずその一言を繰り返した。それは、凌にこそふさわしい言葉ではないだろうか。
 しかし、響は自己嫌悪に満ちた彼の呟きを、違うふうに受け取ったらしい。

「空っぽでしょう? だって、生まれてから十年間が、何もないんですから。それからの十年間は、わたしが『意識して』作ったものだもの。『本当のわたし』は、消えちゃった十年間にいたわたしなんです」
 響の口元に刻まれた笑みは儚げでいて、同時に、その目に浮かぶ光は渇望に満ちていた。
 彼女の望みを一蹴することはできなくて、口からこぼれかけた「過去などどうでもいい」という言葉を、凌は無理やり呑み下す。

「わたしは、『これがわたしだ』と胸を張って言える何かが欲しいんです。みんな、つらい過去だから忘れたんだ、思い出す必要はないって言ってくれるけれど、わたしはつらいからってなかったことにしたくない。重荷だからって、投げ出したくない。そんな弱い自分はいやなんです」
「お前は、弱くなんかない」
「ううん、弱かった。凪さんの家を出るまでは、それでもいいと思ってたんです。凪さんが護ってくれて、友達との浅い関係も心地良くて。それを壊すくらいなら、今のままでいいと思ってました」
「別に、今のお前で充分だろう? 何も、変える必要はない」
 嫌な方向に進みそうな響の言葉に、凌は宥めるような声を出してしまう。だが、彼女はきっぱりとそれを拒んだ。

「いやです。わたし、外に出て、これまでの十年とは全然違う経験をして、やっぱり、今のままではいけないと思ったんです。もっと、強くならないとって」
「何かあれば、俺が護ってやるから。お前の伯母さんの代わりに――」
「いやです。リョウさんを誰の代わりにするつもりもありません」
 ピシャリと、叩き付けるように響が言う。
 それは、きつく、強張った声だった。
 耳にしたことのない響のその口調に、凌はハッと口を閉じる。

 彼女自身、自分がそんな声を出そうとは思っていなかったようだ。大きく瞬きをして、視線を揺らす。
 沈黙が、しばしその場を支配した。
 やがて、フッと、苦笑に近い笑みを響が浮かべる。

「あの、ね、最近、わたし記憶が跳ぶんです」
「え?」
「ちゃんとパジャマに着替えて寝た筈なのに、目が覚めたら普通の服を着ていたり、朝になったら使った記憶のない食器が洗ってあって、食材も減っていたり」
「どういうことだ?」
「わたしにも、解かりません。気持ち悪いでしょう?」
 彼女の顔は笑っているのに、その笑顔が、凌の胸をキリキリと締め付けた。先ほどとは別の衝動が、彼を駆り立てる。
 二人の間の距離が、そのまま気持ちの距離に感じられた。

 そんな距離など存在しないのだと、彼女にはっきりと教えたい。
 凌は手を伸ばして響の腕を掴み、自らも彼女に近付きつつ、ほんのわずかな力で簡単に粉々になってしまいそうなその身体を自分の胸に引き寄せた。しっかりと包み込むと、目には見えなかった細かい震えが伝わってくる。
 彼の腕の中で、響の背筋が拒むように強張った。
 いつものように自分の懐で寛がせようと抱き締めた力を強めても、彼女の身体から力が抜けることはなかった。

 しばらくして、凌の顎の下から、声が響く。
「こうやって、凪さんとかリョウさんとかに包み込んでもらったら、多分、また、何もなくなって、元のようにやっていけるようになるとは思うんです。でも、それって、本当に問題を解決したことにはならないでしょう? 一時しのぎなだけで」
 響が凌の胸に手を突いて、グッと腕を伸ばす。それを押さえ込むのは簡単だった。響と凌では、明らかに力の強さが違うのだから。

 けれど、凌は、響がそうするのに任せて彼女の身体を放す。

 響は腕を突っ張ったまま、真っ直ぐに彼を見上げてきた。
「わたし、やっぱり記憶を取り戻したいです。凪さんには、言えなくて……だって、お母さんは凪さんの妹だから……思い出したら、悲しいでしょう? ずっと思い出したいって思ってたんです。ずっと思ってましたけど――こんなに強く思ったことは、今までありません」
 彼女の大きな目の中にあるのは、失ったものに対する憧れではない。消えてしまった過去が決していいものばかりではないであろうことは、彼女にも判っているのだ。

 凌は凪から聞かされた響についての話を思い出す。
 あれで彼女の過去が全てわかったわけではない。けれど、あれだけでも、忘れてしまったのならその方がいいのではないかと思わせるのには充分だった。

 過去などなくても、響は幸せになれる。
 凌はそう思う――確信している。生きていく上で、過去など必要ないと。

 だが。

 それは正しいのだろうか。
 こんなにも響が切望しているものを与えずにいて、いいのだろうか。
 凌は響を護りたいと思う。彼女につらい思いをさせたくないと思う。

 けれど、本当にそれだけでいいのだろうか。

 これまで自分の行動に迷いを覚えたことなどなかったのに、凌の中で己の行動に対する自信が揺らぎ始めていた。
 誰かを守るというのは、どういうことなのだろう。

 判らない。
 本当に自分は響を守れているのか、凌は判らなくなった。

 凌は響の背に回していた手で彼女の頬を包み込む。視線を合わせて、彼は言った。
「俺は、お前を守りたいんだ」
「……わかってます。みんな、そう。わたしを守ろうとしてくれる。でも、わたしはそれだけじゃいやなんです」
 その時響の顔に浮かんでいたのは少し悲しげな微笑みで、それは幸せとはかけ離れているようにしか見えなかった。

 凌はもう一度、響を抱き寄せる。今度は彼女も抗うことはせず、小さく丸まって彼の中に納まった。
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