君がいる奇跡

トウリン

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陽だまりに落ちた影

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 仕事中にもふとした拍子に昨日の夕食後のりょうの行動が思い出されて、ひびきの手はつい止まりがちになってしまった。幸い一緒にシフトに入っていた金島には気付かれずに済んだようだけれども、こんなことではいけないと、彼女は自分を戒める。
「でもリョウさんがいけないんだよ……ナナさんいるのに、あんなことするんだもの」
 コンビニからの帰り道、駅を出て家に向かう道中で響はため息混じりに呟いた。
 凌とのキスそのものは、イヤではない。決してイヤではない――というよりむしろ嬉しいけれど、あの状況では困ってしまう。
「もう……」
 またあのことを思い出してしまって、響はほてりを帯び始めた頬に手のひらを当てた。
 誰かがいる前でのキスは、当然恥ずかしい。その上更に、その『誰か』はナナだったのだ。彼女は前に凌のことが好きで――もしかしたら今も好きなのかもしれない。

 響が凌に対するナナの気持ちを聞かされてから、まだひと月も経っていない。
 しかもそれはとても強いもので。

(あんなに強く想っていたんだもの。そう簡単にはなくならないよね……)
 そう思ってしまうから、ナナはよく響のアパートに来るけれど、響と凌が一緒にいるところを見て悲しくならないのだろうかとついつい案じてしまう。ニコニコしているナナが少しもつらそうには見えなくても、やっぱり気になる。

「リョウさんに来ないで欲しいなんて、絶対言えないし。でも、だいたいリョウさんもリョウさんだよね」
 そう呟いて、ムッと唇を尖らせる。
 少し前までの凌は響と距離を取っていたのに、最近はまたそれが無くなって、よく触れてくるようになっていた。
 確かに彼の好きなようにしていいと言ったのは彼女自身だけれど、ナナがいる時は控えて欲しい。
 何となく、凌もナナも響を間にして張り合っているような気がする――そんなふうに思ってしまって、驕った自分の考えに、彼女はまた赤面した。

「だって、やっぱり、何だか変なんだもの」
 見えない誰かに言い訳するように、響はボソリと呟いた。
 最近の凌は、前と少し違う。いや、出会って以来、彼がジワジワと変わり続けているのは、響も日々感じてはいた。
 初めて会った頃は、何だか超然としていて色々な意味で揺らがない人だと思っていた。迷いもなくて、感情を露わにすることもなくて、大事にされていても何故そうしてくれるのか、判らなかった。

 最近の彼は、何というか――

「……子どもっぽい……?」
 口にしてはみたけれど、それは正しい言葉ではない気がする。
 だとしても、この間のようにすがるように響を抱き締めてきたり、昨日のようにイタズラめいたことをしたり、そういう彼をどう表現したらいいのだろう。彼女を戸惑わせたり、困らせたりする彼を。

「でも、今の方が好き、だな」
 そう言葉にしてみて、響は微笑んだ。

 と。

「へえ、何より、だ?」
 突然かけられた声に、響はビクリと肩を震わせた。咄嗟にバッグの中に手を突っ込んで、入れてある防犯グッズを探る。
「ちょっと待ってくれよ。何もしやしねぇよ」
 そう言いながら暗がりからフラリと身体を起こしたのは、凌の友人だというあの男性だった。名前は何と言っただろうかと、響は記憶を掘り起こす。
「えぇっと、コテツ、さん?」
「あ、覚えててくれたんだ」
 虎徹は響をなだめるように両手のひらを見せる形で肩の高さに上げながら、彼女に近付いてくる。響は思わず数歩後ずさった。
 最後に会った時、彼には車の中に引きずり込まれたのだ。そうして、凌を返すようにと迫られた。その先の事は、実は覚えていない。それから何を話したのか、どうやって車から降りたのか、さっぱり記憶になかった。多分、必死だったからだろう。

 チラリと虎徹の後方に目を走らせると、あの時のバンが停められていた。何とも言えない怖気が背筋を走り抜け、響は身を竦ませる。部屋は目と鼻の先だけれど、辿り着くには彼の横を通り抜けなければならない。
「それ以上、近付かないでください。大声出しますよ」
 引きつった喉から出たその声はかすれていて、威勢のいい台詞も台無しにしてしまう。そんな響の虚勢をせせら笑うように、虎徹は更に近付いてきた。響は後ろを向いて駆け出してしまいたいのを辛うじて堪える。

「何もしねぇって言ってんだろ? 渡すもんがあるだけだって」
 軽い口調で言いながら、虎徹がA4サイズの茶封筒を差し出した。いったい何が入っているのか、マチ付きのそれはずいぶんな厚みがある。
「何ですか?」
 虎徹に目を据えながら、響は顎を引いて問う。彼は薄く笑いながらグイと彼女の胸元にそれを押し付けてきて、響は反射的に受け取ってしまう。手を伸ばされたら届いてしまう距離が、嫌だった。けれど、逃げ出すのも、怖い。
 顎を引いて彼を睨み付けている響の緊張などまるで気にしたふうもなく、虎徹は言う。

「多分、響ちゃんが欲しがってるもんじゃないかなぁ」
「わたしが?」
「そ」
 薄暗い街灯の下でにんまりと笑う彼は、笑顔にも拘らず、全然優しそうには見えない。響は封筒を抱き締めて、息を呑む。あと三分彼の傍にいたら、叫び出してしまうかもしれない。
 そんな彼女を、虎徹はジッと見つめてくる。その眼差しは響の奥深くを探ろうとしているかのように細められていて、彼女は蛇に睨まれた鼠はこういう気分になるに違いないと確信した。

 冷えた空気が薄氷のように張りつめる。
 と、不意に、彼が片手を伸ばした。唐突な動きに反応できなかった響の頬を、その指先がかすめる。唇の端に引っかかっていた髪を払われて、思わずビクリと肩を震わせた。
 そんな彼女に、虎徹が嗤う。そこには嘲笑の他に、何か――失望のようなものも滲んでいるような気がした。彼は薄い笑いを唇に貼り付けながら、響に向けて言葉の爆弾を落とす。

「あんたの過去だぜ、それ。失くしちまった、あんたの過去」
 それは、虎徹の口から聞かされる筈がないことだった。彼女は一瞬息を呑み、次いで裏返った声を上げる。
「何で、あなたが!」
 それほど大きな声ではなくても、早朝のしじまを切り裂くには充分だった。
「ヒビキ?」
 響のアパートの二階、ちょうど彼女の部屋がある辺りの外廊下から、ひょこりとナナが顔を出す。そうして、眠りに就いているひともいるだろう早朝にも拘らず、ヒールの音を響かせながら階段を駆け下りてきた。
 そちらに響が気を取られている隙に、虎徹は踵を返して停めてあるバンの中へと姿を消してしまう。呼び止める間もなくエンジンがかかり、車は走り去って行った。

「あれ、あの車って、もしかして……」
 響の隣に来たナナが、角を曲がろうとしているバンを振り返りながら呟いた。が、すぐに響に目を向けて、ふと眉をひそめる。
「どうかした?」
「いいえ、何でも……何でも、ないです」
 そう答えながら辛うじて笑みを作り、首を振る。
 けれど、何でもなくはなかった。
 響は虎徹から受け取った封筒を、きつく胸に抱き締める。
 彼の言葉を鵜呑みにするわけにはいかない。虎徹が響の過去を知っている筈がないし、知ることができる筈もない。きっと、凌を奪った彼女に対するただの嫌がらせか何かに違いないのだ。

 そんな封筒など、見る価値はない。さっさと捨ててしまえ。

 響の理性はそう声高に主張するけれど、彼女の両腕は、ズシリと重いそれをより一層強く胸に押し付けていた。

    *

 低いエンジン音を身体に感じながら、虎徹は深々とシートに寄り掛かった。
 種は蒔いてみたが、さて、どう転ぶだろう。
 藤野響に関するあの報告書を受け取ってから、虎徹は何度もそれを読み返してみた。そうして、どうやったら最も効果的に響にダメージを与えられるのかを考え続けていた。
 そう、『響』を消して『奏』を作り出す為の方法を。
 先ほどの彼女の目を覗き込んで、やはりこのままでは駄目だと実感した。
 ビクビクと尻込みをする今の響には、これっぽっちもそそられない。全然、ダメだった。

「お前は、いらないんだよな」
 声に出してそう呟いた虎徹に、運転していた男が律儀に振り返る。
「はい? なんか言いましたか?」
「何でもねぇよ、前見て運転しとけ」
「はあ……」
 犬でも追いやるように運転手をあしらって、虎徹は彼女に思いを馳せる。彼に怯えた目を向ける『響』ではなく、温かな微笑みを浮かべる『奏』を。

 響に渡したのは、先ほど彼女に言ったとおりのものだ。
 手下が集めてきた、彼女に関する記録の数々。
 だが、ほんの少し、中身をいじってあった。より大きな効果を与えられるように。

 虎徹は窓を開け、白み始めた空に目を向ける。
 彼自身、自分が一番何を望んでいるのか、よく判らなくなる時がある。
 彼との関係を何のためらいもなく無造作に切り捨てた凌に対する腹いせなのか。
 それとも、凌にそんな行動を取らせた響に対する報復なのか。
 多分、両方なのだろう。
 『響』という存在を消し去って、『奏』という女になった彼女を凌の目の前で自分のものにする。そうすれば、全てをぶち壊すことができるだろう。きっと、この数ヶ月の鬱屈した気分を吹き飛ばし、清々しい気持ちにしてくれるに違いない。きっと、それこそが自分の望んでいる結末だ。

「早く、オレの手の中に堕ちてこい」
 虎徹は今はその場にいない者達に向けて、そう囁いた。

   *

 夢見が、悪かった。
 目覚めてからも響は布団に包まったまま、ジッとしていた。
 虎徹と会って、ピリピリした気分のまま、仮眠に入ったせいだろうか。
 どんな内容だったかは覚えていないけれど、何か、とても嫌な気分になる夢だった。

「起きなきゃ」
 布団の中でそう呟く。と、それを聞き止めて、ナナが覗き込んでいたスマートフォンから顔を上げた。
「あ、起きた?」
 普段はかしましいのに、彼女はそうしようと思えばまるでそこにいないかのように、静かにしていられるようだ。夕方に響がコンビニバイト前の仮眠をとる時も、まるで猫のようにおとなしくしている。

「おはようございます」
 起き上がり、笑顔を浮かべながら、ナナに向けてそう言った。が、彼女はジッと響の顔を見つめるばかりだ。
「あの?」
「途中で起きた?」
「はい?」
 響は思わずパチパチと大きく瞬きをした。六時少し過ぎに寝て、今は九時半を回ったところ。だいたい三時間ほどの仮眠だったけれど、目覚めた記憶はない。
 キョトンとしている響に、ナナが続けた。

「あのさ、途中でムクッて起き上がったんだよね」
「え……わたしが、ですか?」
「そう。急に起き上がって、『わたしはダレ?』って訊いてきた。で、アタシが『ヒビキでしょ』って言ったら『本当に?』って訊くから、『当たり前でしょ』って答えてやったよ? そしたら、またストンって寝ちゃったけど。やっぱ寝ぼけてたんだ。スゴイはっきりした声だったから、てっきり起きたのかと思った」
「そう、ですか……そうですね、きっと、寝ぼけてたんです」
 響は頷き、笑顔を作る。それが笑顔に見えているといいのだけれどと願いつつ。

 多分、またアレになった――いや、なりかけたのだ。

 もしもナナがいてくれなかったら、今頃、自分はベッドの中にいなかったかもしれない。
 そんなふうに考えて、響はフルリと身体を震わせる。

「ありがとうございました」
「え、何が?」
 唐突な響の感謝の言葉に、ナナが怪訝そうな顔になった。
「ナナさんがいてくれて、良かったです」
 心の底から響がそう言うと、彼女は一瞬目を丸くし、そして笑った。この上なく嬉しそうに。ナナは、いつの間にかそんなふうに笑えるようになっていた。屈託なく、自分自身の為に笑えることが、増えていた。
 彼女のその笑顔に胸の中を温められながらも、響は自分の中の問題は何一つ解決していないことを痛感していた。

 そう、何一つ。

 凌やナナはどんどん前に進んでいっているのに、響は少しも動けていない。
 彼女は本棚代わりのカラーボックスに目を走らせる。そこには、虎徹から受け取った封筒が押し込められていた。
 彼が寄越したものなど、きっと、見るべきではない。
 そう思うのだけれども。

 ――何でもいいから、自分自身のことを知りたい。

 その願いは切実で、目を逸らせることができない。
 響の目に、何の変哲もない茶封筒がまるで手招きをしているかのように映っていた。
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