君がいる奇跡

トウリン

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最後のピース②

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「知った口叩くんじゃねぇよ」

 ギラリと怒りに目を光らせて、彼が呻く。響の首を掴んでいる手に力がこもって、息が詰まった。抑えられている手首も、砕かれそうに軋みを上げている。
 それでも響は目を見開いて虎徹を見つめ続けた。彼も食い入るようにして彼女を見下ろしている。
 響も虎徹も互いにのみ注意を向けていたから、いつしか物音が止んでいたことに気付いていなかった。ロックの大音量は消え、争う音も消えている。

 ふと虎徹の力が弱まり、彼は状況を確認しようとしたのか、首を巡らせかけた。

 が。

 唐突に――本当に唐突に、虎徹の身体が浮き上がる。
 何が起きたのかを響が把握するより先に、彼は部屋の真ん中へと放り投げられていた。
 彼女の上から消えた虎徹の代わりに覗き込んでくるのは、凌だ。

「響」
 彼女の名を呼びながら手を差し伸べてくる凌は、全身傷だらけだった。顔は腫れ、あちらこちらに血がにじんでいるというのに、彼は平然としている。
 彼のどこに触れても、痛い思いをさせそうだった。響に向けて差し出された手も、指の一本は不自然に曲がっている気がする。見ている彼女の方が痛くなって、思わず泣きそうになってしまう。
 それなのに、凌の目には響の方が余程壊れやすいもののように映っているようだった。
 その傷だらけの手でもろい卵でも持つかのように響の手をそっと取り、彼女をソファから引き起こす。そのまま動けずにいる響を凌は束の間抱き締めて、すぐに彼女の両肩に手を置いて身体を離す。

「お前、だな?」
 固い顔で見つめてくる凌にそう問われ、響は一瞬何のことかと首をかしげた。

「お前のまま、だよな?」
 二度目で、凌の言わんとしていることを理解した。
 彼の目が、不安そうに揺れている、理由も。

「だいじょうぶ、わたしは『響』のままです」
 微笑んでそう答えると、強張っていた凌の顔がわずかに緩んだ。そうして、指の背で響の頬を撫ぜる。

「ここを出よう」
 凌がそう言った時だった。
「ばぁか、出すわけねぇだろ」
 背後からの声に凌はハッと身を翻し、響を後ろに押しやりながらその声の主に向き直る。

「まったく、本職相手にお前おかしいよ。普通は勝てねぇだろ」
 呆れたような声でそう言った虎徹の目は、口調とは裏腹の憎々しげな光を含んでいた。彼の周りでは二人の男が床に伸びていて、三人が身体のどこかを庇いながら起き上がろうとしている。
「けどまあ、その辺のチンピラよりかは、もうチョイ手強いんだよな。簡単にKOってわけにはいかないぜ。お前も骨の二本や三本、やられてんだろ?」
 彼の台詞に、響は目の前の凌の大きな背中を見つめた。どこもかしこもボロボロなのに、虎徹との間に強固な壁のように立ちはだかっている。
 再び三人の男たちが響たちの方へ近付いてきた。凌の背に、緊張が走る。
 凌は、殺されるまで――いや、殺されても、響を守ろうとするかもしれない。
 男たちが一歩近づくたびに、凌は後ろ手に響を抱えながらジリ、と下がる。
 じきに響の背中が壁に当たった。

「どうするよ、もう後がないぜ?」
 愉しげな声で判りきったことを言う虎徹は、喉を鳴らさんばかりだ。そうして、にんまりと嗤う。
「なあ、響ちゃん。お前が自分でこっちに来るなら、凌のことは放っておいてやるよ」
「聞くな、響」
 即座に凌が鋭い声で制した。響は彼のジャケットの背中を握り締め、きっぱりと返す。
「わかってます」
 彼女は信頼を満たした眼差しで凌を見上げ、もう一度繰り返す。
「わかってます」
 こんな状況だというのに、凌は微かな微笑みで彼女に応えてくれた。響も思わず口元を緩ませてしまう。

 けれど。

「……お前ら、状況解かってんのか?」
 温かなものでつながった二人の間に、苛立ちを隠さずに虎徹が割って入った。
 彼が小さく顎をしゃくると、男たちの手に、人を傷付けることを目的としているのが明らかな代物が現れる。
「警棒にブラックジャックにナックル。どれも経験済みだよな。けど、素人とは腕前が違うぜ?」
 にんまりと笑った虎徹はがらりと声を変えて男たちに告げる。
「女にも、多少は傷が付いても構わねぇよ。死ななきゃな。凌はもうどうでもいい」
 冷ややかな虎徹の命令に、男たちが互いに顔を見合わせた。そうして、また、凌たちに目を戻す。そこには、先ほどとは違う光が宿っていた。
 身構えた凌の背中に、力が入る。

「しゃがんで、小さくなってろ」
 響にそう声をかけ、凌は一歩踏み出した。その彼に、男が手にした棒を振り上げる。映画などで警察が持っているような、黒い棒だ。凌に向けて繰り出されたそれを、彼は無造作に腕で受ける。
 ミシリ、と、嫌な音が聞こえたのは響の気のせいではない筈だ。けれども凌は全く気にせず、反応のない彼に一瞬怯んだ男の顔に逆の拳を叩き込み、その手から棒をむしり取る。
 自分の身を一つも顧みない凌の戦い方が、響には痛かった。目を閉じ、耳を塞いでしまいたいけれど、唇を引き結んで堪える。

 ――彼があんな目に遭っているのは、自分のせいだ。
 ともすればそんなふうに考えてしまいそうになるのを、懸命に打ち消す。
 バカの一つ覚えみたいに全てを自分のせいだと卑下してみても、それで事態が好転するわけではないのだ。

 瞬きもできずに目を見張る響の前で、男の一人が振り回した何かが詰まった袋のようなものが重い音を立てて凌の腕に直撃した。そこは先ほど棒で殴られた場所で、それが当たると同時に、今まで響が耳にしたことのないような音が彼女の鼓膜に突き刺さった。
 そして、凌の腕は曲がるべきではないところで折れ曲がる。

 呻き声一つ漏らさない彼の手から力無く落ちた棒が、カラン、と、空々しい音をたてた。

 響は悲鳴を懸命に呑み込む。

「勝負はついたか、な」
「まだだ」
 折れた腕を庇う素振りも見せない凌に肩を竦めた虎徹に、凌は無事な方の手で落ちた棒を拾って応じた。

(――リョウさんは、まだ傷付くの?)
 その瞬間、響の頭の中が真っ白になった。思わず立ち上がって、悲鳴混じりの声を上げる。

「やめて! わたし――」
 ――あなたと行くから。

 そう言いかけた響を、凌の鋭い一瞥が制する。

「でも、だって……」
 言い募ろうとする彼女に、凌は微かに笑んで、首を振った。
「大丈夫だ。やっと来た」
「え?」
 何が、と問い返す間はなかった。
 バタン、と大きな音を立てて唐突に扉が開け放たれ、そこからドカドカと数人の男たちが雪崩込んでくる。雰囲気は、虎徹が連れている男たちと似ている。けれど、真っ先に飛び込んできた人物に、響は見覚えがあった。

「……福井、さん?」
 虎徹もすぐに彼らが誰なのかを悟ったらしく、信じられないという思いを含んだ眼差しを凌に向ける。
「チクッたのかよ」
「ああ。ここに来る前に、ナナに報せるように頼んだ」
 平然と頷きを返した凌に、虎徹の顔から表情が抜け落ちる。
「お前が、誰かを頼るのか」
 ポツリと呟いた虎徹の腕を刑事の一人が捉えて、後ろ手に手錠をかけた。彼は全く抵抗する素振りを見せず、されるがままになっている。他の男たちもすぐさま武器を捨てて、おとなしく拘束されていった。

 グルリと辺りを見回して片が着いたことを確認し、福井が響の方へやってくる。
「やあ、響ちゃん、無事かい?」
 絶句したままの彼女に、福井はいつも通りの気が良さげな笑みを浮かべる。その笑顔に、響の全身から力が抜けた。
「遅くなってごめんな、怖い思いさせたね」
 その場にへたり込んだ響の傍にひざまずいて、福井は幼い子どもにするように、彼女の頭をクシャクシャと撫でる。その手は温かくて大きくて、不意に、響は自分の中で何かがプツンと切れるのを感じた。
 途端、ボロボロと涙が勝手にこぼれてくる。

「響」
 隣に来た凌が名を呼び、そっと、彼女の頬に触れた。ついさっきまで、響を守ろうと戦っていた、傷だらけの手だ。

「リョウ、さん」
 響は渾身の力を込めて彼にしがみ付く。もしかしたらアバラとかも折れたりしているかもしれなかったけれど、抑えられなかった。

 凌は動く方の手を持ち上げて、響の背に置いてくれる。その温もりで、また、涙が溢れた。
「しかし、無茶なことするな、お前は」
 響を宥める凌に目を移してそう言った福井に、彼は肩を竦める。
「もう少し早く来てくれるかと思っていた」
 凌の台詞に、福井は微かに目を見張る。そうして、フッと目元を和ませた。
「悪かったな、外に出てたんだよ」
「いや……助かった」
「それはつまり、ありがとう、ということだな」
 ニヤリとして、福井が立ち上がった。

「じゃあ、僕たちは行かないと」
 そう残し、彼は手錠をかけられたまま部屋の真ん中に立ち竦んでいる虎徹の元に向かう。福井が彼の背中に手を回して動くように促すと、虎徹は逆らうことも無く足を踏み出した。が、二、三歩で不意にまた立ち止まる。そうして凌と響を振り返った。
「お前は、死ぬ時も独りだろうと思っていたよ。ノラ猫みたいにな。たとえその女がいても、根っこのところは、ずっと独りだと思ってた。それは変わらねぇとな」

 低い声でそう言った虎徹のその目に潜むものは、何だろう。

 ――羨望……?

 響は咄嗟に凌を押しのけて身を乗り出した。
「人は誰だって変わります!」
「は?」
「過去だけじゃなくて未来も見たら、コテツさんだってきっと変わります。過去を振り返る為じゃなくて、これから先を一緒に歩いて行きたいと思えるような人に逢えたら、きっと……」
「オレはいらねぇよ、そんなの……オッサン、行くんだろ」
 言うなり虎徹は踵を返し、福井より先に立って出口に向かって歩き出した。
 そうして、もう振り返ることなく姿を消す。手錠などないように、堂々とした足取りで。

 置いて行かれた福井が、ため息をつく。
「まったく、ヒネたガキだよねぇ。まだお子様なんだよ、あいつは。……まあ、年はコドモじゃないから、今度こそ実刑は免れないかな。今回は親父さんの手下使ってるからねぇ……前々からあいつに目を付けてたウチの奴らが、手ぐすね引いて待ってるよ」
 と、ふと言葉を切って、彼は改めて凌を頭のてっぺんからつま先までしげしげと眺めまわした。 そうして、顔をしかめる。

「しかし、派手にやられたな。まあ、玄人五人相手にしたんだからこれで済んでラッキーなくらいだけど……取り敢えず、救急車来てるから病院行っとけよ」
「いや、俺は――」
「リョウさん!」
 きっと、いつものように『大丈夫』という言葉を口にしようとしたのだろう彼を、響はピシャリと封じる。涙はとうに引っ込んだ目で睨み付けた。凌は何か言いかけて、結局口を噤む。

「あはは。素直に聞いといたほうが良さげだぞ? じゃあな、救急隊、あんまり待たせるなよ」
 福井は凌の背中をポンと一つ叩くと、あとは響の仕事だと言わんばかりにウインクを投げ、そそくさと出て行ってしまう。
「ほら、リョウさん早く立って」
 立ち上がった響が折れていない方の手を引くと、彼は何故か嬉しそうに小さな笑みを漏らした。
「何ですか?」
「いや……お前だな、と思って」
 そう言いながら、凌は指の背でそっと響の頬を撫でた。
 何かを確かめるように。

「?」
 怪訝な顔をする響に、凌はもう一度微笑む。と、不意に彼女を引き寄せた。
 バランスを崩した響は彼の胸に抱き止められる。

「何を――」
 顔を上げ、抗議しようとしたその唇を、温かなものが塞いだ。そっと優しく触れて、離れる。
 キスはほんの一瞬で、我に返った響は彼を睨み付けた。

「リョ――」
「救急隊を待たせたら悪いだろう?」
 真面目な顔で、けれどもその目に笑いを含ませて、凌は彼女に手を差し出す。
「もう……」
 響は文句を言おうとして言葉が思い浮かばず、結局黙ってその手を取った。しっかりと握り返してくる力強さに、また目の奥が熱くなる。

 ――このひとは、わたしの大事なひと。

 不意にこみ上げてきた想いを、響は胸の中で呟く。
 決して誰かの代わりではなく、誰かに代えることもできない、ただ一人のひと。
 けれどきっとそれは、全てのひとに言えることなのだ。

 誰も皆、他の誰かの代わりにはなれない。
 そのひとは、そのひと自身として生きていく。誰かに拒絶されても、否定されても、それでも自分で自分を受け入れて、自分で自分を認めてやって、そうして生きていくのだ。
 時にそれはつらいことかもしれないけれど、こうやって手を取ってくれるひとがいれば、きっとだいじょうぶ。

「そう、きっと」
 響は凌を救急隊に引き渡しながら、小さく囁いた。
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