58 / 113
第五章:それぞれの思い
体温②
しおりを挟む
――自分が、消えていくんだ。すごく怖い。助けて、助けてよ。
――お前はアレの対なる者だろう?
――お前にはそうする義務がある。
――お前は……
――お前の……
――……ピシカ? ねえ、ピシカ?
怯えた声、冷淡な声、はねつける声――それらに混じって、柔らかな声が彼女の名前を呼んでいる。
(……誰?)
ピシカはピクピクと耳を震わせ、そしてゆっくりと目を開けた。まるで泥沼の中で泳いでいたかのように、身体がだるい。
(ああ、なんだ、夢か)
無秩序に襲ってくる記憶の波から逃れ出て、ピシカは小さく身震いした。
次第にぼんやりとしていた焦点がゆっくりと絞られてきて、暗闇の中で気遣わしげに彼女を見つめている目と視線が合った。星を宿したその瞳に、はからずも安堵の念が胸に湧く。
(何で、こんな気持ち……)
自分の胸の中が相手に伝わった筈はないけれど、何だか弱みを見せてしまったような気がしてならない。
重い頭を一振りして、ピシカはうっとうしそうに彼女の名前を口にする。
「何よ、ルゥナ」
「何って……」
ムスッとしたピシカの声に怯むことなくルゥナは彼女の背に手を置いてきて、そこが、じんわりと温かくなった。そういう肉体的な感覚はない筈なのに、確かに、温もりを感じる。
遥か昔に、同じような感じが常にピシカのすぐ傍に存在していた――それは失われてしまって、もう二度と戻ってはこないけれど。
「ピシカ、震えてたよ?」
ひそひそとそう囁かれながらそっと撫でられて、ピシカは初めて自分が小刻みに震えていたことに気が付いた。
「何でもないわよ」
「だけど――」
更に言い募ろうとするルゥナを、ピシャリと遮る。
「夢! ――そう、夢見が悪かったんだわ」
「夢?」
問い返しながら、ルゥナの手がゆっくりとピシカの毛並みを撫でる。それが、やけに気持ち良かった。
ルゥナの手に自分を委ねそうになって、ピシカはハッと我に返る。
「大きな金色熊に食べられそうになる夢だったのよ」
「金色熊?」
「そう。だから、もう平気。それより、アンタの方は、何の話だったの? エデストルは何だって?」
「え――えっと……うまく、説明できないの。でも、すごく迷ってた。力になれたら良かったんだけど、多分、全然ダメだったんだと思う」
「ふうん……」
鼻を鳴らしてみたけれど、別に興味はないのだ。
「まあ、アイツの問題はアイツのモノだから。アンタに何もできなくても、仕方ないんじゃないの? アンタも余計なこと考えてないで、さっさと寝なさいよ」
そう言ってさっさとルゥナに背を向けて丸くなる。ピシカとしては「もう終わり」と言う意思表示のつもりだったのに、ルゥナの手はまだ彼女を撫で続けていた。
それが気持ち良くて、イライラする。
「何なのよ?」
軽く毛を逆立てて、フゥッと唸りながらピシカはルゥナを睨み付けた。
確かに、ルゥナの手は心地良い。もしかすると、無意識のうちに癒しの力を使っているのかもしれない。
けれど、それに甘んじているのは、ピシカの望むところではなかった。
ピシカに怒られて、ルゥナの手が一瞬止まる。
「何って……何となく……」
「アンタに労わられるほど、アタシは落ちぶれちゃいないわよ。さっさと寝なさいよ」
「だけど、夢、怖かったんでしょう?」
「夢は夢よ。現実じゃないわ」
にべもなくはねつけたピシカに返事はなくて、背中に手は置かれたままだったけれど、撫でてくることはなかった。これで終わりかと彼女はまた腹の辺りに鼻面を突っ込む。
しばらくは、静寂。
宥めるように毛並みを撫でる手も、止まったままだった。
それが何となく寂しく感じられて、ピシカはそんな自分に胸の中で罵りの声をあげる。
が、彼女の心の揺れを感じ取ったかのように、また、その手がゆっくりと動き出した。
「アンタね――」
パッと顔を上げてルゥナに食ってかかろうとしたピシカを、静かな声が制する。
「現実でも、わたしがピシカを守るよ」
「は?」
ピシカは、思わず頓狂な声を出してしまう。そんな彼女に、ルゥナが囁き声で続けた。
「わたし、昔も今も、みんなに守られてばっかり。でも、ピシカはわたしが守るから」
「アンタなんかに守られるほど、アタシは情けなくないわよ」
「うん、そうなんだけど……でも、何かあっても、わたしがピシカを抱いて、逃げるから。ほら、わたしは死なないんでしょう?」
死ななくても、怪我したら動けなくなるじゃない。
そんなふうに言ってやりたかったけれど、ピシカの口は動かなかった。
彼女の背を撫でる手の動きは、次第に緩慢になっていく。
「ソワレも、わたしが守ってあげれば良かった……」
小さな呟きを最後に、ルゥナの手が完全に止まる。
微かに重みを増してからも、彼女の手は、ピシカの背に置かれたままだった。ちょっと身じろぎすれば、それから逃れることができる。けれど、身体の上にあるその温もりを振るい落とすことが、ピシカにはできなかった。
――お前はアレの対なる者だろう?
――お前にはそうする義務がある。
――お前は……
――お前の……
――……ピシカ? ねえ、ピシカ?
怯えた声、冷淡な声、はねつける声――それらに混じって、柔らかな声が彼女の名前を呼んでいる。
(……誰?)
ピシカはピクピクと耳を震わせ、そしてゆっくりと目を開けた。まるで泥沼の中で泳いでいたかのように、身体がだるい。
(ああ、なんだ、夢か)
無秩序に襲ってくる記憶の波から逃れ出て、ピシカは小さく身震いした。
次第にぼんやりとしていた焦点がゆっくりと絞られてきて、暗闇の中で気遣わしげに彼女を見つめている目と視線が合った。星を宿したその瞳に、はからずも安堵の念が胸に湧く。
(何で、こんな気持ち……)
自分の胸の中が相手に伝わった筈はないけれど、何だか弱みを見せてしまったような気がしてならない。
重い頭を一振りして、ピシカはうっとうしそうに彼女の名前を口にする。
「何よ、ルゥナ」
「何って……」
ムスッとしたピシカの声に怯むことなくルゥナは彼女の背に手を置いてきて、そこが、じんわりと温かくなった。そういう肉体的な感覚はない筈なのに、確かに、温もりを感じる。
遥か昔に、同じような感じが常にピシカのすぐ傍に存在していた――それは失われてしまって、もう二度と戻ってはこないけれど。
「ピシカ、震えてたよ?」
ひそひそとそう囁かれながらそっと撫でられて、ピシカは初めて自分が小刻みに震えていたことに気が付いた。
「何でもないわよ」
「だけど――」
更に言い募ろうとするルゥナを、ピシャリと遮る。
「夢! ――そう、夢見が悪かったんだわ」
「夢?」
問い返しながら、ルゥナの手がゆっくりとピシカの毛並みを撫でる。それが、やけに気持ち良かった。
ルゥナの手に自分を委ねそうになって、ピシカはハッと我に返る。
「大きな金色熊に食べられそうになる夢だったのよ」
「金色熊?」
「そう。だから、もう平気。それより、アンタの方は、何の話だったの? エデストルは何だって?」
「え――えっと……うまく、説明できないの。でも、すごく迷ってた。力になれたら良かったんだけど、多分、全然ダメだったんだと思う」
「ふうん……」
鼻を鳴らしてみたけれど、別に興味はないのだ。
「まあ、アイツの問題はアイツのモノだから。アンタに何もできなくても、仕方ないんじゃないの? アンタも余計なこと考えてないで、さっさと寝なさいよ」
そう言ってさっさとルゥナに背を向けて丸くなる。ピシカとしては「もう終わり」と言う意思表示のつもりだったのに、ルゥナの手はまだ彼女を撫で続けていた。
それが気持ち良くて、イライラする。
「何なのよ?」
軽く毛を逆立てて、フゥッと唸りながらピシカはルゥナを睨み付けた。
確かに、ルゥナの手は心地良い。もしかすると、無意識のうちに癒しの力を使っているのかもしれない。
けれど、それに甘んじているのは、ピシカの望むところではなかった。
ピシカに怒られて、ルゥナの手が一瞬止まる。
「何って……何となく……」
「アンタに労わられるほど、アタシは落ちぶれちゃいないわよ。さっさと寝なさいよ」
「だけど、夢、怖かったんでしょう?」
「夢は夢よ。現実じゃないわ」
にべもなくはねつけたピシカに返事はなくて、背中に手は置かれたままだったけれど、撫でてくることはなかった。これで終わりかと彼女はまた腹の辺りに鼻面を突っ込む。
しばらくは、静寂。
宥めるように毛並みを撫でる手も、止まったままだった。
それが何となく寂しく感じられて、ピシカはそんな自分に胸の中で罵りの声をあげる。
が、彼女の心の揺れを感じ取ったかのように、また、その手がゆっくりと動き出した。
「アンタね――」
パッと顔を上げてルゥナに食ってかかろうとしたピシカを、静かな声が制する。
「現実でも、わたしがピシカを守るよ」
「は?」
ピシカは、思わず頓狂な声を出してしまう。そんな彼女に、ルゥナが囁き声で続けた。
「わたし、昔も今も、みんなに守られてばっかり。でも、ピシカはわたしが守るから」
「アンタなんかに守られるほど、アタシは情けなくないわよ」
「うん、そうなんだけど……でも、何かあっても、わたしがピシカを抱いて、逃げるから。ほら、わたしは死なないんでしょう?」
死ななくても、怪我したら動けなくなるじゃない。
そんなふうに言ってやりたかったけれど、ピシカの口は動かなかった。
彼女の背を撫でる手の動きは、次第に緩慢になっていく。
「ソワレも、わたしが守ってあげれば良かった……」
小さな呟きを最後に、ルゥナの手が完全に止まる。
微かに重みを増してからも、彼女の手は、ピシカの背に置かれたままだった。ちょっと身じろぎすれば、それから逃れることができる。けれど、身体の上にあるその温もりを振るい落とすことが、ピシカにはできなかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
酒好きおじさんの異世界酒造スローライフ
天野 恵
ファンタジー
酒井健一(51歳)は大の酒好きで、酒類マスターの称号を持ち世界各国を飛び回っていたほどの実力だった。
ある日、深酒して帰宅途中に事故に遭い、気がついたら異世界に転生していた。転移した際に一つの“スキル”を授かった。
そのスキルというのは【酒聖(しゅせい)】という名のスキル。
よくわからないスキルのせいで見捨てられてしまう。
そんな時、修道院シスターのアリアと出会う。
こうして、2人は異世界で仲間と出会い、お酒作りや飲み歩きスローライフが始まる。
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私
とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
異世界へ行って帰って来た
バルサック
ファンタジー
ダンジョンの出現した日本で、じいさんの形見となった指輪で異世界へ行ってしまった。
そして帰って来た。2つの世界を往来できる力で様々な体験をする神須勇だった。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
異世界召喚に条件を付けたのに、女神様に呼ばれた
りゅう
ファンタジー
異世界召喚。サラリーマンだって、そんな空想をする。
いや、さすがに大人なので空想する内容も大人だ。少年の心が残っていても、現実社会でもまれた人間はまた別の空想をするのだ。
その日の神岡龍二も、日々の生活から離れ異世界を想像して遊んでいるだけのハズだった。そこには何の問題もないハズだった。だが、そんなお気楽な日々は、この日が最後となってしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる