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神様はいない-2
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二階にある売店でお菓子とペンを買って、帰ろうとしたところだった。
(あ、瀧先生)
キラは廊下を歩くひときわ大きな身体に目を留めて、口の中でこっそりとその名を呟いた。目を留めたというよりも、目を引かれたと言った方がいいかもしれない。
そそっとさりげなく陳列棚の陰に隠れて、大股に廊下を歩く彼を窺う。
その姿にすぐ気付いてしまったのは、きっと大きいからだ。彼は物理的に、目立つから。
キラは言い訳がましく内心でそう自分に言い聞かせる。
こうやって清一郎の姿は時々見かけるものの、会話はずいぶん交わしていない。秋の始まりに話し過ぎるほど心の内を話してしまってから、キラは何となく彼を避けていた。
(だって、なんか、気まずいっていうか……)
話しているうちは大丈夫だったのだけれど、しばらく日にちが経ったら、急に恥ずかしさが押し寄せてきた。
話さなければ良かった、とは思っていない。
自分の思っていることを清一郎に知ってもらうのは、恥ずかしくて、でも、同時にどこか嬉しい事だったから。一番、そして唯一の友人でもある桃子にも、あんなに突っ込んだ話はしたことがない。
きっと、清一郎が医者だからだろう。
もっとも、岩崎にも同じように打ち明け話をするかと問われると、そうでもないのだが。岩崎には何となく気を使ってしまって、あまり心の内は話せない。
清一郎に愚痴めいたことを話せてしまうのは、これまでのキラを知らないからではないかと思う。
今までのキラを知らないから、変に気構えなくて済むのではないかと。
ある意味、気軽な相手。
だから、話せた。
でも、誰にも話したことがないことを話してしまったから、照れくさい。
(そう、顔を合わせたくないとか、そういう訳じゃないんだけど……)
もう少し、逃げておこう。
そう思ったキラだったけれど、もう一度清一郎の背中を見やって、ふと首をかしげた。
何だろう。何かがいつもの彼と違う気がする。
(まさか、落ち込んでるとか、そんなわけないよね?)
肩の辺りにいつもよりも力がないように思われたのは、キラの気のせいだろうか。
その違和感の正体を見抜こうとしてジッと見つめているうちに、他の人をグングン追い抜くスピードで足を運ぶ清一郎は、あっという間に非常階段に続く扉へと消えていってしまった。
二階から階段へ向かったということは、循環器内科の外来から出てきたところなのだろう。
(じゃあ、これから病棟に行くのかな)
きっとそうだと結論付けて、キラも自分の病棟に戻ろうとした。エレベーターに乗って、小児科病棟のある四階のボタンを押そうとして――手が止まる。
やっぱり、さっきの清一郎の姿が心に引っかかってならない。
キラの指は何かに引かれるようにして、最上階である十二階を選んでいた。
エレベーターは殆ど各階で止まって、一人、二人と降ろしていく。
二階で乗った十数人の患者たちはそれぞれの階で降りていき、やがて十二階に着いた時にはキラの他に男性患者が一人残っているだけだった。
キラは彼を先に行かせて箱から出ると、脇にある非常階段ヘ向かう。屋上に出るには、最後の一階分を階段で上らなければならなかった。
九月に屋上で清一郎と話をしてから、ちゃんと彼に対峙するのは初めてだ。
彼と会うのが気まずかったから、というのも確かにあるけれど、それだけではない。実は一度行こうとした時があったのだが、階段を四分の一ほど上ったら少し息切れがしてきたから止めたのだ。
キラは一段一段足を止めるようにして、階段を上がっていく。
踊り場に着くといったん休憩を入れた。
手首に指先を当てて、脈を確かめる。速まっているのはほんの少しだけだ。
入院した頃には、ゆっくりとは言え、こうやって休む必要はなく上りきれたのに。
来週には、また一通りの検査がある。
(もしかして、屋上に来られるのはこれが最後かもなぁ)
キラは胸に――微かに鼓動が触れるその場所に手のひらを押し当てた。
規則正しいリズムが時折乱れる、ポンコツの心臓。だけど、それが彼女の心臓なのだ。
前回の検査の結果を聞いたのは、二週間ほど前のことだった。その時、微かだったけれど、岩崎の眉根が寄っていたのだ。
彼から聞かされた内容は、楽天的なものだった。
(でも、何かいつもとは違ってたんだよね)
岩崎の表情を注意深く見て、その言葉を深読みすれば、彼が見込んでいたような結果ではなかったのだということが、伝わってきた。
その時は、それでもまだ、種々の行動制限は強められなかったのだけれども。
「時間の問題だろうな」
声に出して呟いて、キラは苦笑した。そうすると、何となく諦めがついて。
彼女は大きく一つ深呼吸をして、また階段を上り始める。
途中でまた一休みをして、ようやく扉に辿り着いた。
微かな軋みをあげるそれを押し開けると、爽やかな風が身を包む。
やっぱり、外の空気は気持ちが良い。特にこの時期は匂いまで違う気がする。
キラは胸いっぱいにそれを取り込んでから、屋上を見渡した。
(あ、いた)
すぐに目に付く白衣姿。手には煙草を持っている。
音にでも気付いていたのか、清一郎は扉の方を向いていて、キラが彼の姿を認めると同時に目が合っていた。
顔なんて合わせられないと思っていたのに、何故か反射的に笑顔になってしまう。
と、まるで意表を突かれたかのように彼は姿勢をただし、キラが歩み寄る間に取り出した携帯灰皿の中に煙草を捻じ込んでいた。
「こんにちは」
「ああ……」
キラは清一郎の目を見上げて、邪魔をされてうっとうしがっているような色がないかどうか、確かめる。
――どうやら、大丈夫なようだ。
清一郎はジッとキラを見つめてきたかと思ったら、重々しく口を開いた。
「君は、屋上への散歩は禁止になったのかと思っていた」
その台詞は検査結果を踏まえてのことなのか、それともしばらく会わなかったからのことなのか。彼女がここにいることを苦々しく思っているのか、それとも多少は逢えて嬉しいと思ってくれているのかも、判らない。
判らないままに、キラは取り敢えず笑顔を返した。
「まだですよぅ。岩崎先生からは、ダメとは言われてません」
彼女の返事に、清一郎の目が微かにすがめられる。
やっぱり、いつもと少し違うなとキラは思った。彼は前回の検査結果を知っている筈だから、きっといつもなら、行動制限が強められていないことに文句を言う。
おかしいな、と思ったから、そのまま訊いてみた。
「先生、元気ないね。どうしたの?」
「僕が?」
眉をひそめた彼は訝しげにそう返してくる。
その様子は心の底から心外そうで、自分の気のせいなのだろうかと、キラは首をかしげた。
と、その時。
わずかに変わった風向きに、しげしげと清一郎を見つめていたキラの鼻腔に、微かな臭いが忍び込む。
(タバコ……)
何度か顔を合わせているうちに、清一郎について、気付いたことがある。
普段、彼から煙草の臭いはしないのだ。
「あれ」と最初に思ったのは、海でおんぶをされた時だった。いや、その時は気付かなかったのだけれど、後になって何かの拍子に思った――ごっつい男の人のくせに、いい匂いだったな、と。その時に、彼から煙草の臭いはしなかったことに、そして普段はしないことに、気付いたのだ。
多分、時々、彼には煙草が必要になるのだろう。
それがどんな時なのか。
考えてみて、母の裕子のことを思い出した。
彼女も、時折煙草を吸う。
夜中、キラが寝付いた――ことになっている――時間に、キッチンで換気扇を回しながら裕子は煙草を口にする。
たまたまそれを見かけたのは、キラが七歳か八歳の頃だった。
夜中に喉が渇いて足音を忍ばせてキッチンに行ったら、裕子は暗い中で独り佇んでいた。父の正孝は煙草をやらない人だし、裕子は「キラの心臓に悪いから」と常々喫煙者を目の敵にしていたのだ。だから、最初は、微かに漂っていた臭いが何のものなのか、キラには判らなかった。
暗い中に時折ふわりと立ち上る、白い煙。裕子の肩がため息をつくように上下する度、それは現れた。
思い出したように鼻をすする母の背中に声をかけることはできなくて、その時キラは、黙って部屋へ引き返したのだった。
翌朝キラがキッチンに下りてみると、煙草の臭いはおろか灰の一欠けらも落ちてはいなくて、裕子はいつも通り満面の笑みで「おはよう」と声をかけてきた。全く変わった様子のない母の態度に、子ども心に何も見なかったことにした方が良いのだと思ったものだ。
それからも時々母のそんな姿を目にしたけれど、未だに、キラは知らないふりをしている。
多分、清一郎も裕子と同じように、何か思うところがある時にだけ煙草を口にするのだろう。
キラは少し考え、また清一郎を見上げた。
彼は、とても大きい。大きくて、強そうで、自信がありそうで。
でも。
「あの、そこに座ってもらえますか?」
彼女が指差したのは、フェンスの足を支えるコンクリートのでっぱりだ。
清一郎は一瞬怪訝な顔になったものの、黙って腰を下ろした。そうすると、立ったままのキラの方が少しだけ目線が上になる。
(人を慰める時って、やっぱアレだよね)
そう胸の中で呟いて、彼女は腕を伸ばして清一郎の頭を抱え込んだ。触れた瞬間、ピシリと彼の肩が固まったのが感じられて、キラは「あれ?」と思う。
裕子や正孝はキラに何かあった時にはすぐに抱き締めてくるし、桃子《とうこ》も何かにつけギュッとしがみついてくる。
そうされると、キラは何とも言えない、ふわっと和やかな気分になれるのだけれども。
「……何をしている?」
胸元から、低い声が響いてきた。それがあまりに近いことに今更ながら気付いて、キラは少しドギマギする。
「えっと……先生、何か落ち込んでるみたいだったから……」
そう説明してはみたものの、清一郎は短い一言の後は微動だにしない。
しゃべってもくれないので、仕方なくそのままキラは続けた。
「こうされると、何だか和みませんか? ほら、漫画とか映画なんかでもよくやってるじゃないですか」
また、沈黙。
そして、小さな忍び笑い。キラは一瞬気のせいかと思ったけれど、確かに彼は笑った筈だ。
身体を離して清一郎の顔を見ようとした彼女のウェストの両脇に、彼の手が添えられた。掴まれたのではない。ただ、触れるくらいの力で、そこに置かれただけだ。背が高い清一郎は手ももちろん大きくて、両手で包まれるとキラの腰はぐるりと覆われてしまいそうなほどだった。力は込められていなくても、薄いパジャマの生地を通して、その温かさは伝わってくる。
自分の行動が一般的なものではないようなのは清一郎の反応から判ったけれど、どうやら拒まれてもいないらしい。
キラはそう結論付けて、そのままジッとしていた。
彼女の腕の中から、再び声がする。
「漫画は知らないが――映画は洋画で、だろう? 普通の日本人は、簡単にこんなふうにはしない」
清一郎に微かな苦笑混じりでそう言われ、一瞬離れた方がいいのかと思ったものの、彼の肩から力が抜けているのが感じられて、キラは肩の上から滑らすようにして彼の背中に手を置いてみた。
動きのない時間が、心地良い。
見上げれば、真っ青な空に浮いている霞のような白い雲が、ゆっくりと流れていた。
首の辺りに触れている清一郎の髪は、キラのクセ毛の猫っ毛と違って真っ直ぐで硬い。薄い彼女の肌に、その感触をしっかりと伝えてくる。
(なんか、髪にも性格出てるかも)
そんなふうに思ってしまって、つい、キラの口から小さな笑いが漏れてしまった。
それがきっかけになったかのように、清一郎の手が離れる。そうするとそこにあった彼の体温はあっという間に秋風に奪われて、何となく、触れられる前よりもひんやりとしているように感じられた。
身体を起こして背筋を伸ばした清一郎は、真っ直ぐにキラを見つめてくる。
その視線を受けて、彼はいつでも真っ直ぐだ、とキラは思った。
真っ直ぐで、融通が利かなくて、多分不器用。
不意に、みぞおちの辺りがキュッと痛んだ。
いつもの、心臓の痛みとは、違う。奇妙で不慣れな痛みだった。
(何だろう?)
そっと痛みのあった辺りをさすったキラに、一瞬にして清一郎の目が鋭くなる。立ち上がり、彼女の頭の天辺からつま先まで視線を走らせてきた。
「どうした?」
「あ、いえ、何でもないです」
「胸痛じゃないのか? 動悸は?」
立て続けに問いかけながら、彼はキラの手を掴むと、指先で彼女の手首の内側に触れてくる。
「どっちも違います。だいじょうぶです。そういうのは、慣れてるからすぐに判りますよ。もしかしたら、お腹空いてるのかも……」
ほら、と売店で買ったお菓子を掲げてみせた。
彼はしばらくまるでスキャナにでもなったかのような眼差しをキラに注いでいたけれど、彼女の様子に問題がないことに納得したのか、やがて小さな息をついた。
「なら、いいが……」
そう言いながらも、まだ脈が気になるのか、キラの手を放そうとはしなかった。その触れ方はこの上なく事務的だ。
見るからに『医者』になってしまった清一郎に、キラは何となく面白くない気分になる。
ついさっきまでは、キラの方が清一郎を抱き締めていて、彼を包み込めているような気がしていたのに。
今はすっかり、尊大な、いつもの瀧清一郎に戻ってしまっている。
別に落ち込んでいる彼を見て喜んでいたわけではないけれど、キラの胸の中には『残念』という気持ちに近いものがあった。
(違うでしょ、いつもみたいになって良かった、でしょ?)
半歩後ずさりながら、キラは自分にそう言い聞かせる。そうして、笑顔を浮かべた。
「で、なんで落ち込んでたんですか? また、言うこと聞いてくれない患者さんとか?」
努めて明るい口調でそう訊いたキラを、清一郎が無言で見下ろしてきた。笑顔のままで見返した彼のその目の中には何かがちらちらと見え隠れしていて、キラの笑みは焼けた石の上に落ちた淡雪のように消え失せてしまう。
(何だろう……不安――?)
まさか、と思った。
いつも自信に溢れている清一郎に、迷いや不安など、似合わない。
眉をひそめ、首をかしげて清一郎を見上げているキラの前で、彼は口を開いた。
(あ、瀧先生)
キラは廊下を歩くひときわ大きな身体に目を留めて、口の中でこっそりとその名を呟いた。目を留めたというよりも、目を引かれたと言った方がいいかもしれない。
そそっとさりげなく陳列棚の陰に隠れて、大股に廊下を歩く彼を窺う。
その姿にすぐ気付いてしまったのは、きっと大きいからだ。彼は物理的に、目立つから。
キラは言い訳がましく内心でそう自分に言い聞かせる。
こうやって清一郎の姿は時々見かけるものの、会話はずいぶん交わしていない。秋の始まりに話し過ぎるほど心の内を話してしまってから、キラは何となく彼を避けていた。
(だって、なんか、気まずいっていうか……)
話しているうちは大丈夫だったのだけれど、しばらく日にちが経ったら、急に恥ずかしさが押し寄せてきた。
話さなければ良かった、とは思っていない。
自分の思っていることを清一郎に知ってもらうのは、恥ずかしくて、でも、同時にどこか嬉しい事だったから。一番、そして唯一の友人でもある桃子にも、あんなに突っ込んだ話はしたことがない。
きっと、清一郎が医者だからだろう。
もっとも、岩崎にも同じように打ち明け話をするかと問われると、そうでもないのだが。岩崎には何となく気を使ってしまって、あまり心の内は話せない。
清一郎に愚痴めいたことを話せてしまうのは、これまでのキラを知らないからではないかと思う。
今までのキラを知らないから、変に気構えなくて済むのではないかと。
ある意味、気軽な相手。
だから、話せた。
でも、誰にも話したことがないことを話してしまったから、照れくさい。
(そう、顔を合わせたくないとか、そういう訳じゃないんだけど……)
もう少し、逃げておこう。
そう思ったキラだったけれど、もう一度清一郎の背中を見やって、ふと首をかしげた。
何だろう。何かがいつもの彼と違う気がする。
(まさか、落ち込んでるとか、そんなわけないよね?)
肩の辺りにいつもよりも力がないように思われたのは、キラの気のせいだろうか。
その違和感の正体を見抜こうとしてジッと見つめているうちに、他の人をグングン追い抜くスピードで足を運ぶ清一郎は、あっという間に非常階段に続く扉へと消えていってしまった。
二階から階段へ向かったということは、循環器内科の外来から出てきたところなのだろう。
(じゃあ、これから病棟に行くのかな)
きっとそうだと結論付けて、キラも自分の病棟に戻ろうとした。エレベーターに乗って、小児科病棟のある四階のボタンを押そうとして――手が止まる。
やっぱり、さっきの清一郎の姿が心に引っかかってならない。
キラの指は何かに引かれるようにして、最上階である十二階を選んでいた。
エレベーターは殆ど各階で止まって、一人、二人と降ろしていく。
二階で乗った十数人の患者たちはそれぞれの階で降りていき、やがて十二階に着いた時にはキラの他に男性患者が一人残っているだけだった。
キラは彼を先に行かせて箱から出ると、脇にある非常階段ヘ向かう。屋上に出るには、最後の一階分を階段で上らなければならなかった。
九月に屋上で清一郎と話をしてから、ちゃんと彼に対峙するのは初めてだ。
彼と会うのが気まずかったから、というのも確かにあるけれど、それだけではない。実は一度行こうとした時があったのだが、階段を四分の一ほど上ったら少し息切れがしてきたから止めたのだ。
キラは一段一段足を止めるようにして、階段を上がっていく。
踊り場に着くといったん休憩を入れた。
手首に指先を当てて、脈を確かめる。速まっているのはほんの少しだけだ。
入院した頃には、ゆっくりとは言え、こうやって休む必要はなく上りきれたのに。
来週には、また一通りの検査がある。
(もしかして、屋上に来られるのはこれが最後かもなぁ)
キラは胸に――微かに鼓動が触れるその場所に手のひらを押し当てた。
規則正しいリズムが時折乱れる、ポンコツの心臓。だけど、それが彼女の心臓なのだ。
前回の検査の結果を聞いたのは、二週間ほど前のことだった。その時、微かだったけれど、岩崎の眉根が寄っていたのだ。
彼から聞かされた内容は、楽天的なものだった。
(でも、何かいつもとは違ってたんだよね)
岩崎の表情を注意深く見て、その言葉を深読みすれば、彼が見込んでいたような結果ではなかったのだということが、伝わってきた。
その時は、それでもまだ、種々の行動制限は強められなかったのだけれども。
「時間の問題だろうな」
声に出して呟いて、キラは苦笑した。そうすると、何となく諦めがついて。
彼女は大きく一つ深呼吸をして、また階段を上り始める。
途中でまた一休みをして、ようやく扉に辿り着いた。
微かな軋みをあげるそれを押し開けると、爽やかな風が身を包む。
やっぱり、外の空気は気持ちが良い。特にこの時期は匂いまで違う気がする。
キラは胸いっぱいにそれを取り込んでから、屋上を見渡した。
(あ、いた)
すぐに目に付く白衣姿。手には煙草を持っている。
音にでも気付いていたのか、清一郎は扉の方を向いていて、キラが彼の姿を認めると同時に目が合っていた。
顔なんて合わせられないと思っていたのに、何故か反射的に笑顔になってしまう。
と、まるで意表を突かれたかのように彼は姿勢をただし、キラが歩み寄る間に取り出した携帯灰皿の中に煙草を捻じ込んでいた。
「こんにちは」
「ああ……」
キラは清一郎の目を見上げて、邪魔をされてうっとうしがっているような色がないかどうか、確かめる。
――どうやら、大丈夫なようだ。
清一郎はジッとキラを見つめてきたかと思ったら、重々しく口を開いた。
「君は、屋上への散歩は禁止になったのかと思っていた」
その台詞は検査結果を踏まえてのことなのか、それともしばらく会わなかったからのことなのか。彼女がここにいることを苦々しく思っているのか、それとも多少は逢えて嬉しいと思ってくれているのかも、判らない。
判らないままに、キラは取り敢えず笑顔を返した。
「まだですよぅ。岩崎先生からは、ダメとは言われてません」
彼女の返事に、清一郎の目が微かにすがめられる。
やっぱり、いつもと少し違うなとキラは思った。彼は前回の検査結果を知っている筈だから、きっといつもなら、行動制限が強められていないことに文句を言う。
おかしいな、と思ったから、そのまま訊いてみた。
「先生、元気ないね。どうしたの?」
「僕が?」
眉をひそめた彼は訝しげにそう返してくる。
その様子は心の底から心外そうで、自分の気のせいなのだろうかと、キラは首をかしげた。
と、その時。
わずかに変わった風向きに、しげしげと清一郎を見つめていたキラの鼻腔に、微かな臭いが忍び込む。
(タバコ……)
何度か顔を合わせているうちに、清一郎について、気付いたことがある。
普段、彼から煙草の臭いはしないのだ。
「あれ」と最初に思ったのは、海でおんぶをされた時だった。いや、その時は気付かなかったのだけれど、後になって何かの拍子に思った――ごっつい男の人のくせに、いい匂いだったな、と。その時に、彼から煙草の臭いはしなかったことに、そして普段はしないことに、気付いたのだ。
多分、時々、彼には煙草が必要になるのだろう。
それがどんな時なのか。
考えてみて、母の裕子のことを思い出した。
彼女も、時折煙草を吸う。
夜中、キラが寝付いた――ことになっている――時間に、キッチンで換気扇を回しながら裕子は煙草を口にする。
たまたまそれを見かけたのは、キラが七歳か八歳の頃だった。
夜中に喉が渇いて足音を忍ばせてキッチンに行ったら、裕子は暗い中で独り佇んでいた。父の正孝は煙草をやらない人だし、裕子は「キラの心臓に悪いから」と常々喫煙者を目の敵にしていたのだ。だから、最初は、微かに漂っていた臭いが何のものなのか、キラには判らなかった。
暗い中に時折ふわりと立ち上る、白い煙。裕子の肩がため息をつくように上下する度、それは現れた。
思い出したように鼻をすする母の背中に声をかけることはできなくて、その時キラは、黙って部屋へ引き返したのだった。
翌朝キラがキッチンに下りてみると、煙草の臭いはおろか灰の一欠けらも落ちてはいなくて、裕子はいつも通り満面の笑みで「おはよう」と声をかけてきた。全く変わった様子のない母の態度に、子ども心に何も見なかったことにした方が良いのだと思ったものだ。
それからも時々母のそんな姿を目にしたけれど、未だに、キラは知らないふりをしている。
多分、清一郎も裕子と同じように、何か思うところがある時にだけ煙草を口にするのだろう。
キラは少し考え、また清一郎を見上げた。
彼は、とても大きい。大きくて、強そうで、自信がありそうで。
でも。
「あの、そこに座ってもらえますか?」
彼女が指差したのは、フェンスの足を支えるコンクリートのでっぱりだ。
清一郎は一瞬怪訝な顔になったものの、黙って腰を下ろした。そうすると、立ったままのキラの方が少しだけ目線が上になる。
(人を慰める時って、やっぱアレだよね)
そう胸の中で呟いて、彼女は腕を伸ばして清一郎の頭を抱え込んだ。触れた瞬間、ピシリと彼の肩が固まったのが感じられて、キラは「あれ?」と思う。
裕子や正孝はキラに何かあった時にはすぐに抱き締めてくるし、桃子《とうこ》も何かにつけギュッとしがみついてくる。
そうされると、キラは何とも言えない、ふわっと和やかな気分になれるのだけれども。
「……何をしている?」
胸元から、低い声が響いてきた。それがあまりに近いことに今更ながら気付いて、キラは少しドギマギする。
「えっと……先生、何か落ち込んでるみたいだったから……」
そう説明してはみたものの、清一郎は短い一言の後は微動だにしない。
しゃべってもくれないので、仕方なくそのままキラは続けた。
「こうされると、何だか和みませんか? ほら、漫画とか映画なんかでもよくやってるじゃないですか」
また、沈黙。
そして、小さな忍び笑い。キラは一瞬気のせいかと思ったけれど、確かに彼は笑った筈だ。
身体を離して清一郎の顔を見ようとした彼女のウェストの両脇に、彼の手が添えられた。掴まれたのではない。ただ、触れるくらいの力で、そこに置かれただけだ。背が高い清一郎は手ももちろん大きくて、両手で包まれるとキラの腰はぐるりと覆われてしまいそうなほどだった。力は込められていなくても、薄いパジャマの生地を通して、その温かさは伝わってくる。
自分の行動が一般的なものではないようなのは清一郎の反応から判ったけれど、どうやら拒まれてもいないらしい。
キラはそう結論付けて、そのままジッとしていた。
彼女の腕の中から、再び声がする。
「漫画は知らないが――映画は洋画で、だろう? 普通の日本人は、簡単にこんなふうにはしない」
清一郎に微かな苦笑混じりでそう言われ、一瞬離れた方がいいのかと思ったものの、彼の肩から力が抜けているのが感じられて、キラは肩の上から滑らすようにして彼の背中に手を置いてみた。
動きのない時間が、心地良い。
見上げれば、真っ青な空に浮いている霞のような白い雲が、ゆっくりと流れていた。
首の辺りに触れている清一郎の髪は、キラのクセ毛の猫っ毛と違って真っ直ぐで硬い。薄い彼女の肌に、その感触をしっかりと伝えてくる。
(なんか、髪にも性格出てるかも)
そんなふうに思ってしまって、つい、キラの口から小さな笑いが漏れてしまった。
それがきっかけになったかのように、清一郎の手が離れる。そうするとそこにあった彼の体温はあっという間に秋風に奪われて、何となく、触れられる前よりもひんやりとしているように感じられた。
身体を起こして背筋を伸ばした清一郎は、真っ直ぐにキラを見つめてくる。
その視線を受けて、彼はいつでも真っ直ぐだ、とキラは思った。
真っ直ぐで、融通が利かなくて、多分不器用。
不意に、みぞおちの辺りがキュッと痛んだ。
いつもの、心臓の痛みとは、違う。奇妙で不慣れな痛みだった。
(何だろう?)
そっと痛みのあった辺りをさすったキラに、一瞬にして清一郎の目が鋭くなる。立ち上がり、彼女の頭の天辺からつま先まで視線を走らせてきた。
「どうした?」
「あ、いえ、何でもないです」
「胸痛じゃないのか? 動悸は?」
立て続けに問いかけながら、彼はキラの手を掴むと、指先で彼女の手首の内側に触れてくる。
「どっちも違います。だいじょうぶです。そういうのは、慣れてるからすぐに判りますよ。もしかしたら、お腹空いてるのかも……」
ほら、と売店で買ったお菓子を掲げてみせた。
彼はしばらくまるでスキャナにでもなったかのような眼差しをキラに注いでいたけれど、彼女の様子に問題がないことに納得したのか、やがて小さな息をついた。
「なら、いいが……」
そう言いながらも、まだ脈が気になるのか、キラの手を放そうとはしなかった。その触れ方はこの上なく事務的だ。
見るからに『医者』になってしまった清一郎に、キラは何となく面白くない気分になる。
ついさっきまでは、キラの方が清一郎を抱き締めていて、彼を包み込めているような気がしていたのに。
今はすっかり、尊大な、いつもの瀧清一郎に戻ってしまっている。
別に落ち込んでいる彼を見て喜んでいたわけではないけれど、キラの胸の中には『残念』という気持ちに近いものがあった。
(違うでしょ、いつもみたいになって良かった、でしょ?)
半歩後ずさりながら、キラは自分にそう言い聞かせる。そうして、笑顔を浮かべた。
「で、なんで落ち込んでたんですか? また、言うこと聞いてくれない患者さんとか?」
努めて明るい口調でそう訊いたキラを、清一郎が無言で見下ろしてきた。笑顔のままで見返した彼のその目の中には何かがちらちらと見え隠れしていて、キラの笑みは焼けた石の上に落ちた淡雪のように消え失せてしまう。
(何だろう……不安――?)
まさか、と思った。
いつも自信に溢れている清一郎に、迷いや不安など、似合わない。
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