君が目覚めるその時に

トウリン

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神様はいない-3

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(何故僕は、こんな子どもと真面目に話をしようとしているのだろう)
 清一郎は心の中でそう呟きながら、一心に彼を見上げてくるキラの大きな目を見つめ返す。
 そう、キラは子どもだ。知識も経験も、清一郎の方が遥かに上回っている。
 だが今、いつかと同じように、彼には答えが出せないことについて、彼女の言葉を聴きたいと思っている。彼女なら、彼が答えを掴む為の何かを与えてくれるような気がして。
 清一郎はキラから目を逸らし、ゆったりと形を変えつつ流れていく霞のような雲に移した。

「……僕は、間違えたかもしれない」
「そう、ですか」
 小さな声でそう言ったキラが足を進め、清一郎の隣に立ってフェンスに寄りかかった。彼女との距離は手のひら一枚分ほどで、微かな温もりが感じられる。
 キラはそれきり何も言わない。
 俯き加減の彼女の頭のつむじを見下ろし、清一郎は少し考えてから目を上げ、また口を開いた。
「僕は彼を生かしたかった。彼は生きるべきだと思った。治療もせずに死なせるなど、論外だった」
 確かに、彼が持ち直す可能性は高くはなかった。むしろ病院のベッドで亡くなる可能性の方が、高かった。だが、日常生活を営める程度に回復する可能性も、ちゃんとあったのだ。

 沈黙。
 そして。

「先生は、諦めたくなかったんですね」
 静かに言われ、清一郎はその通りだと思った。
 清一郎は、諦めたくなかった。だがそれは『彼が』諦められなかっただけだ。
(ならば、これは僕のエゴに過ぎないのか?)
「病院には、助けを求めて来るのだと思っている。だから、ここに来た者は手を尽くして助けるべきだと。しかし彼らはそうではなかった。何度も帰りたいと言っていたんだ。僕は、それを拒んだ」
 彼が医者になってから十年にはなるが、手を尽くしても力が足りず喪うことになった患者の家族から詰られたことは、何度もある。だが、治せる見込みのある治療を拒まれたり、手を尽くしたことを責められたりしたことは今まで一度もなかった。

「僕は、やめるべきだったのかもしれない」
 たとえ彼の信条に反するとしても、家族の意志を尊重して自然の流れに任せるべきだったのかもしれない。
 その方が、彼らに穏やかな時間を与えられたのであれば。
 不意に、キラが顔を上げた。

「後悔してるんですか?」
(後悔?)
 清一郎は、その言葉を胸の中で繰り返してみた。そしてかぶりを振る。
「いや……後悔はしていない。悔やんでいるわけではない。だが、僕が最善だと思ってしたことは、彼らにとっては最悪の結果になってしまった。それが――」
 それが、何なのだろう。
 残念なのだろうか。腹立たしいのだろうか。それとも、悔しいのだろうか。
 彼が口をつぐむと、下からおずおずと小さな声がかかる。
「だけど、先生は助けようとして頑張ったんだし……」
「過程は関係ない。結果が全てだ。僕の選択は、彼の命を救うこともできず、彼の家族の心も救えなかった」
 気遣うような笑みを向けてくるキラに、淡々と、清一郎は答える。
 彼女は微かに眉根を寄せて小さく首をかしげた。

「でも、神さまじゃないんだから、いつも完璧っていう訳にはいかないでしょう?」
 問いかけられて、清一郎は肩をすくめる。
「そうだな。だが、医者は可能な限りそうあるべきだし、患者は医者が強く、迷いがなく、完璧であることを望んでいる。……君のように考えている者の方が稀だ」
 もう少し若かった頃は、神になれるものならなりたいと思ったこともあった。三年も働くと、そんな埒もないことを考えることは無くなったが。
「君たち患者にとって、医者は神でなければならないのだろう。そうでなければ、自分の命を委ねられない」
「そんなこと……」
 キラがパッとフェンスから身体を起こし、清一郎に向き直る。

「お医者さんが神さまなんかじゃないってことは、判ってます。どうにもならないこともあるんだって。でも……でも、信じてるんです。今の力でできる限りのことはしてくれてるんだって。だから、命を委ねられるんです」
「どんなに力を尽くそうが、結果が伴わなければ同じだろう?」
「同じじゃないです、全然、違う」
 きっぱりと言ったキラが、眩暈を起こすのではないだろうかと思ってしまうほどに勢いよくかぶりを振った。そして清一郎に真っ直ぐな眼差しを向けてくる。

「先生は、ホラー映画なんかで、どんなことが一番怖いんだと思います?」
「何?」
 それまでの話とキラのその問いとがつながらず、清一郎は思わず眉根を寄せた。そんな彼に微かに笑って、彼女は続ける。
「わたしは、何もできないことだと思うな。為す術もなくやられるばっかりっていうの」
 キラは言葉を選んでいるかのように、わずかに目を伏せた。

「あのね、わたしのママを、知ってるでしょう?」
「ああ、あの……」
 問われて、清一郎の脳裏には目の前の少女によく似た、そして少し危うげな女性の姿がよみがえる。彼の些細な言葉に過剰に反応して、取り乱していた姿が。
 清一郎の表情から彼が考えていることを読み取ったらしく、キラは小さく頷いた。

「ママにとっては、わたしが『世界』なの。その『世界』は、本当なら十年以上も前に終わってるはずだった。でも、先生たちは、ママに『世界』を救うために戦う術を与えてくれたの。――もしも……もしもわたしを喪うことになっても、何もできずにいたのとできる限り戦ったのとでは、全然違うでしょう? わたしの為に力の限りに戦えた、ママにはそれが大事なの」
 切々と説くキラ。
 彼女が口にしているのは、医者の――清一郎の力の無さを擁護しようとしてくれている台詞だ。それが伝わってくるのに彼女の言葉はしきりにチクチクと彼の胸の辺りを刺してきて、ムッと眉間に皺を寄せた。
 そんな清一郎に気付かず、キラは彼を見上げて大人びた笑顔を向ける。

 その表情は、見覚えがあった。
 いつ、どこでだったろうと記憶を探って、清一郎は思い出す。
 キラの母が彼と話していて取り乱した時だ。あの時、母親をなだめる間、彼女はこんなふうに穏やかで優しげで大人びた笑みを浮かべていた。
 その笑顔のまま、キラが言う。

「先にごめんなさいって、言っておきますね」
「は?」
「もしもわたしが死んだら、多分ママはすごく先生を責めると思うの。だけど、その言葉の十分の一もホントじゃないんです」
「何を言っている」
「わたしを助けられなかったって、どんなに怒っても恨んでも、本当は、ママの中では感謝の方が大きいんです、絶対」
「ちょっと待て!」
 荒い声で制止して、清一郎はキラの両肩を掴んだ。肉の薄い細いそれは、彼の手の中にすっぽりと入ってしまう。危うく乱暴に揺さぶってしまいそうになるのをこらえて彼女の目を覗き込んだ。

「君は――君は、自分の死を前提に話をしている」
「わたしはこう見えても現実的なんです」
 おどけた口調でそう返してきたキラを睨み付けると、彼女はほんの一瞬目を揺るがせて、そして真っ直ぐに清一郎を見返してきた。彼と同じくらい――いや、それよりも強さを秘めた眼差しで。
「わたしはまだまだ死にません。三十歳、四十歳……もしかしたら、五十歳。でも、両親より長くは、生きられない――間違ってますか?」
 けっして、悲観的ではない。しっかりした口調で、はっきりと訊いてくる。
 肯定も否定も返さない清一郎の前で、キラは笑った。明るく、屈託なく。

「よく、世界が滅びるって、映画とか小説とかであるでしょう? でも、あれって、意外にハッピーエンドなんじゃないかなって思うんです。だって、誰も置いていかないし、置いてかれないんだもの。みんな一緒におしまいになるの」
 そこで初めて、キラの目が翳りを帯びた。そして小さな声がその口から零れ落ちる。
「物語の中の大きな絶望なんかより、現実の中の小さな絶望の方が、遥かに残酷だよ」
 その呟きで、清一郎は彼女の『死ねない理由』を思い出す。

「キラ……」
 名を呼ばれ、ハッとキラは顔を上げる。
 見下ろす清一郎の目の中に何を見たのか、彼女は胸を突かれたかのように一瞬息を呑んだ。そうして、花が開いたように明るく笑う。

「あのね、わたしは生きるの。とことんまで。最後の最後まで、できる限り足掻きたいの。可能性が一パーセントでもあるなら、諦めたくないんです」
「だが、君は、一年生き延びる為に五年を無為に過ごしたくはないと言った」
「それも、わたしの真実。矛盾してるのは解かってるんです。正反対のことを言ってるって。でも、わたしはちゃんと生きて、そしてギリギリまで頑張りたい。欲張りだけど、両方取りたいんです」

 清一郎の手に力がこもる。

 君は死なない、と言いたかった。だが、不確かなことは、彼には口にすることができない。
 そんな清一郎の中のジレンマを感じ取ったかのように、キラは肩に置かれた彼の手に自分のそれを重ねた。ひんやりとした細い指の感触に、彼の胸が何故か痛んだ。

「結局、先生は、先生が良いと信じたことをするしかないんだと思います。だって、結果っていうのはその時にならなくちゃ判らないんですから。未来は見えないんですよ? だから、その時にやれることをやるだけなんです」

 澄んで輝く瞳。
 そこに迷いはない。

 何故――何故、この少女はこんなに強くいられるのだろうと清一郎は思った。
 死を目前にしている者、死から生還した者――今まで、死に近い患者を、彼は数多く見てきた。
 キラは、その誰とも違っている気がする。

 自分の身体を軽んじて楽観的になってもいない。
 どうせ長くは生きられないしと諦めてもいない。
 今生きていることに感謝し満足しきっているというわけでもない。

 清一郎は、彼女の目を見つめる。
 その中にあるのは、渇望、かもしれない。
 さっきはああ言ったが、キラは自分が二十歳まで生きられる確率がどれほどのものか、承知しているのだろう。にも拘らず、彼女は生きることに真摯だ。
 キラは自分の限界を知っているけれど、そのラインで終わらせるつもりはないのだということが、彼女に近付けば近付くほど、伝わってくる。

 キラに生きて欲しいと、清一郎は思った。とても、強く。殆ど祈りのように。
 長く生きれば、より良い治療法が見つかるかもしれない。五十歳、六十歳、七十歳まで、彼女を生かせる治療法が。

 彼のその考えを後押しするように、キラは言う。

「わたしは、生きます」

 そう断言した彼女の、儚くも強い微笑み。彼女の強さは、頑健な壁のようなものではなかった。言うなれば、風に煽られながらもけっしてくじけない、小さな花のようなものだ。
 彼女の笑顔を目にした瞬間、清一郎の心臓が、何かに掴まれたような気がした。そして、キラの華奢な身体をもっと自分の傍に引き寄せたくなる。
 それは、彼には馴染みのない衝動だった。
 この先も、清一郎は何人もの患者と出会う。
 だが、きっと、彼女の今のこの笑みは一生忘れない――忘れられない。

 清一郎は心の底からキラを死なせたくないと思った。彼女自身の為に、そして誰よりも彼自身の為に。
『患者』ではなく『雨宮キラ』という名のこの少女を、喪いたくない。
 彼にとって患者というのは生かすべき存在で、そこにあるのは医者としての義務だった。だが、彼女のことは瀧清一郎として生きて欲しいと願っている。
 そこにあるのは、今まで彼が行動の規範としてきた理性や合理性ではない。

(感情……? 僕が、感情で動こうとしているのか……?)
 キラに生きていて欲しい。
 キラと言葉を交わしたい。
 ――キラを抱き締め、支え、護りたい。
 小柄な少女を見下ろす清一郎は、泡のように自分の中に次々と浮かんでは消えていく欲求に、戸惑う。
 ――そんなふうに感じたのは、初めてのことだった。
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