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君の目覚めを待ちながら-2
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もうじき、除夜の鐘が鳴る。
キラの容体が急変したクリスマスイブのあの日、慌ただしく人工心肺を装着した。彼女の状態の悪さに渋る心臓外科と麻酔科の医者を説き伏せ、許容できるレベルにまで感染症が落ち着くのを待って手術を行ってから、五日。
キラは、集中治療室にいた。
まだ五日というべきだろうか、それとも、もう五日というべきだろうか。
キラが収容されているブースの入り口に立った清一郎は、束の間そこで立ち止まり、ベッドの上に横たわる彼女を見つめた。
小さい。
ここに来るたび真っ先に感じるのは、それだ。
周りを様々な機器で埋め尽くされたベッドの上で眠る彼女は、とても小さく見える。
小さくて、華奢で、もろそうで。
心臓外科医も麻酔科医も――岩崎も、清一郎以外の者は皆、キラが手術を乗り越えられるとは思っていなかった。手術の最中にその命の灯が消えてしまうだろうと、半ば以上覚悟しながらの、手術だった。
多分、両親も少なからぬ諦めの念を抱いていただろう。
キラが必ず生き延びると信じていたのは、恐らく清一郎だけだったに違いない。いや、『信じる』というよりも、それが確かな事実だと、判っていたのだ。
そして、彼が思っていたとおり、キラは生き延びた。
小さく脆弱な肉体の中に潜む、強靭な生命力。
清一郎がキラの中に感じていたそれは、見事彼女をこの世に引き止めてくれたのだ。
(君がそう簡単に死ぬわけがない――違うか?)
心の中でそう呟いて、清一郎は彼女に歩み寄る。
清一郎は、彼女の周りに所狭しと置かれたモニターや計器の数値を淡々とチェックしていく。
何も問題はない。
キラの生命兆候も、彼女に接続している機器の設定も、良くも悪くも、変りが無かった。
(今は、変化がない事が一番だ)
チリ、と胸を焦がした焦燥を、清一郎はそう自分に言い聞かせて押し潰す。
改善していない事よりも、悪化していないことを喜ぶべきだ。悪化さえしなければ、希望を持ち続けることができるのだから。
今のところは何の合併症も認めておらず、術前のキラの状態の悪さを考えれば、それはほとんど奇跡といってもいいほどのものだった。
まだ人工心肺装置は外せていないが、経験から言えば、遅くとも一週間以内には呼吸器だけにできる筈だ。このまま何も悪いことが起きず、彼女自身の力で肉体が回復することを妨げられなければ。
「年を越してしまうな」
ベッドサイドに立ち、キラの寝顔を見下ろしながら、清一郎はそっと呟く。
きっとキラは、紅白を見て、除夜の鐘を聴いて、初詣をして、お節を食べて――そういった『俗っぽい』ことをしたかったのだろうと、清一郎は小さく笑った。
「昨日から、雪も降っている。外はすごく寒い」
思い付くまま、彼は返事がない相手に向けて語りかける。
「交通機関は混乱している。たいして積もってはいないが、一応、『雪化粧』の範疇には入っている。君が目覚めていたら、こんな窓のない部屋は嫌だと言うだろうな」
その文句を聴きたいと、清一郎は思った。切実に。
あれをしたい、これをしたいと目を輝かせて『わがまま』を口にするキラを、見たかった。そんな彼女を見ている時に感じていたものが『喜び』という感情だったのだと、清一郎は今さらながらに気付かされていた。
彼はベッドの柵に両手を置いて、キラを見つめる。
機械の力を借りて眠りの中で命をつないでいるその顔は、とても穏やかだった。
最後に言葉を交わした時のような苦しさは、微塵も感じさせない。首や口に様々なチューブが取り付けられていなければ、とても心地よい眠りの中にいるように見えるだろう。
そんなふうに考えて、彼は眉根を寄せた。
『眠る』という言葉に、『睡眠』ではなく、もう一つの含みの方がふと頭をよぎってしまったからだ。
清一郎は、目蓋を閉じたキラを見下ろす。
(キラが眠っているのは、薬のせいだ)
昏々と眠り続けているのは強い鎮静剤のせいで、それさえ切れば、また目覚める。睫毛の先、指の一本も動かないほどの深い眠りは、敢えてそうする為に薬を用いているからだ。
清一郎は自分自身にそう言い聞かせたが、一度心に引っかかってしまうと、無性に落ち着かない気分になってしまう。鎮静をかけている相手を揺さぶって起こしたくなる衝動に駆られるなど、初めてのことだった。
栄養は点滴からだけだから、丸かった頬は少し薄くなった。清一郎は無意識のうちにその頬に手を伸ばしかけていたことに気付いて、それを抑えこむように指先を握り込んだ。
(別に、何もおかしいことはない。定型的な治療だ)
だから、いつも通りにしていれば、キラだって他の患者のように目を覚ます。
(必ず)
彼は半ば脅しつけるように、自分の胸に向けてそう呟いた。そうしないと、妙な胸騒ぎが込み上げてきて、何でもいいから大声で喚いてしまいそうだった。
清一郎には知識があって、彼女の中で起きていることも、彼女に対して行っていることがどんな効果があってどんな経過を辿るのかも、解かっている。
解かっているのに、こうやって目を閉じたまま微動だにしないキラを見下ろしていると何かジリジリと焼けるような不快感が腹の底から這いあがってくる。
(これが、不安というやつなのだろうか)
清一郎には馴染みのない感覚だった。
知識がある者ですらこんなふうに感じるのなら、知識がない者は、いったいどれほどの不安を抱え込むことだろう。
清一郎は苦笑する。
「まったく、君と出逢ってから、自分が何を知らなかったのかを随分と突き付けられた」
きっと、まだまだたくさんある筈だ。
少しためらってから、彼女に手を伸ばした。指先で額の髪をそっとどかす。
「早く、君の声が聴きたい」
そうして、また、様々な事を気付かせて欲しい。
自分の声がキラに届いているとは思わない。理屈的には、解かっている。
けれども清一郎は、そう囁かずにはいられなかった。
キラの容体が急変したクリスマスイブのあの日、慌ただしく人工心肺を装着した。彼女の状態の悪さに渋る心臓外科と麻酔科の医者を説き伏せ、許容できるレベルにまで感染症が落ち着くのを待って手術を行ってから、五日。
キラは、集中治療室にいた。
まだ五日というべきだろうか、それとも、もう五日というべきだろうか。
キラが収容されているブースの入り口に立った清一郎は、束の間そこで立ち止まり、ベッドの上に横たわる彼女を見つめた。
小さい。
ここに来るたび真っ先に感じるのは、それだ。
周りを様々な機器で埋め尽くされたベッドの上で眠る彼女は、とても小さく見える。
小さくて、華奢で、もろそうで。
心臓外科医も麻酔科医も――岩崎も、清一郎以外の者は皆、キラが手術を乗り越えられるとは思っていなかった。手術の最中にその命の灯が消えてしまうだろうと、半ば以上覚悟しながらの、手術だった。
多分、両親も少なからぬ諦めの念を抱いていただろう。
キラが必ず生き延びると信じていたのは、恐らく清一郎だけだったに違いない。いや、『信じる』というよりも、それが確かな事実だと、判っていたのだ。
そして、彼が思っていたとおり、キラは生き延びた。
小さく脆弱な肉体の中に潜む、強靭な生命力。
清一郎がキラの中に感じていたそれは、見事彼女をこの世に引き止めてくれたのだ。
(君がそう簡単に死ぬわけがない――違うか?)
心の中でそう呟いて、清一郎は彼女に歩み寄る。
清一郎は、彼女の周りに所狭しと置かれたモニターや計器の数値を淡々とチェックしていく。
何も問題はない。
キラの生命兆候も、彼女に接続している機器の設定も、良くも悪くも、変りが無かった。
(今は、変化がない事が一番だ)
チリ、と胸を焦がした焦燥を、清一郎はそう自分に言い聞かせて押し潰す。
改善していない事よりも、悪化していないことを喜ぶべきだ。悪化さえしなければ、希望を持ち続けることができるのだから。
今のところは何の合併症も認めておらず、術前のキラの状態の悪さを考えれば、それはほとんど奇跡といってもいいほどのものだった。
まだ人工心肺装置は外せていないが、経験から言えば、遅くとも一週間以内には呼吸器だけにできる筈だ。このまま何も悪いことが起きず、彼女自身の力で肉体が回復することを妨げられなければ。
「年を越してしまうな」
ベッドサイドに立ち、キラの寝顔を見下ろしながら、清一郎はそっと呟く。
きっとキラは、紅白を見て、除夜の鐘を聴いて、初詣をして、お節を食べて――そういった『俗っぽい』ことをしたかったのだろうと、清一郎は小さく笑った。
「昨日から、雪も降っている。外はすごく寒い」
思い付くまま、彼は返事がない相手に向けて語りかける。
「交通機関は混乱している。たいして積もってはいないが、一応、『雪化粧』の範疇には入っている。君が目覚めていたら、こんな窓のない部屋は嫌だと言うだろうな」
その文句を聴きたいと、清一郎は思った。切実に。
あれをしたい、これをしたいと目を輝かせて『わがまま』を口にするキラを、見たかった。そんな彼女を見ている時に感じていたものが『喜び』という感情だったのだと、清一郎は今さらながらに気付かされていた。
彼はベッドの柵に両手を置いて、キラを見つめる。
機械の力を借りて眠りの中で命をつないでいるその顔は、とても穏やかだった。
最後に言葉を交わした時のような苦しさは、微塵も感じさせない。首や口に様々なチューブが取り付けられていなければ、とても心地よい眠りの中にいるように見えるだろう。
そんなふうに考えて、彼は眉根を寄せた。
『眠る』という言葉に、『睡眠』ではなく、もう一つの含みの方がふと頭をよぎってしまったからだ。
清一郎は、目蓋を閉じたキラを見下ろす。
(キラが眠っているのは、薬のせいだ)
昏々と眠り続けているのは強い鎮静剤のせいで、それさえ切れば、また目覚める。睫毛の先、指の一本も動かないほどの深い眠りは、敢えてそうする為に薬を用いているからだ。
清一郎は自分自身にそう言い聞かせたが、一度心に引っかかってしまうと、無性に落ち着かない気分になってしまう。鎮静をかけている相手を揺さぶって起こしたくなる衝動に駆られるなど、初めてのことだった。
栄養は点滴からだけだから、丸かった頬は少し薄くなった。清一郎は無意識のうちにその頬に手を伸ばしかけていたことに気付いて、それを抑えこむように指先を握り込んだ。
(別に、何もおかしいことはない。定型的な治療だ)
だから、いつも通りにしていれば、キラだって他の患者のように目を覚ます。
(必ず)
彼は半ば脅しつけるように、自分の胸に向けてそう呟いた。そうしないと、妙な胸騒ぎが込み上げてきて、何でもいいから大声で喚いてしまいそうだった。
清一郎には知識があって、彼女の中で起きていることも、彼女に対して行っていることがどんな効果があってどんな経過を辿るのかも、解かっている。
解かっているのに、こうやって目を閉じたまま微動だにしないキラを見下ろしていると何かジリジリと焼けるような不快感が腹の底から這いあがってくる。
(これが、不安というやつなのだろうか)
清一郎には馴染みのない感覚だった。
知識がある者ですらこんなふうに感じるのなら、知識がない者は、いったいどれほどの不安を抱え込むことだろう。
清一郎は苦笑する。
「まったく、君と出逢ってから、自分が何を知らなかったのかを随分と突き付けられた」
きっと、まだまだたくさんある筈だ。
少しためらってから、彼女に手を伸ばした。指先で額の髪をそっとどかす。
「早く、君の声が聴きたい」
そうして、また、様々な事を気付かせて欲しい。
自分の声がキラに届いているとは思わない。理屈的には、解かっている。
けれども清一郎は、そう囁かずにはいられなかった。
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