君が目覚めるその時に

トウリン

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君の目覚めを待ちながら-4

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 個室のドアを開け、部屋の中に足を踏み入れた途端、清一郎せいいちろうは目を丸くした。
 白い筈のキラのベッドの上に、鮮やかな色彩が溢れ返っている。

「これは……何事ですか」
 思わずそう言うと、ベッドサイドに座って顔を伏せてそれらに見入っていたキラの母親――裕子ゆうこが、パッと顔を上げた。
「あら、たき先生」
 そう言って、彼女はチラリと散らかったベッドの上に視線を走らせ、少し恥ずかしそうに微笑みを浮かべる。そんなふうに笑顔になると、やはり彼女はキラに良く似ていた。

 ようやくキラの人工呼吸器が外れて集中治療室から一般病棟に移ることができたのは、三日ほど前のことだった。
 病棟は、六階の循環器内科のフロアだ。心臓の術後ということもあるし、何より、真冬のこの時期の小児科病棟は感染症の巣窟となる。落ち着いたとはいえ、今のキラにとってはただの風邪も致命傷になるだろう。
 岩崎と話し合い、諸々考えて、小児科病棟に戻るよりも循環器内科の病棟の方がいいだろうという結論に至ったのだ。
 そうやって、電子機器に囲まれた非人間的な部屋から窓もある普通の病棟の個室へと移動してから、三日。

 当初の予測では、人工呼吸管理の為の鎮静薬を終わりにすれば、遅くとも一両日中にはキラは目覚める筈だった。
 だが、その見込みが外れ、彼女は未だに昏々と眠り続けたままである。脳波にも頭のCTにも何も異常はないのに、キラには全く覚醒の兆しがなかった。

(身体的に問題はないのだから、後は待つしかない)
 そうは思っても、落ち着かない。
 つい気になって、清一郎は空き時間ができるたびに病室を覗くようになってしまったのだが――普段は整然と片付いているベッド周りに散乱する色とりどりの写真に、彼はもう一度しげしげと目をやった。

「それは、カタログですか? 着物……?」
 何故そんなものがこんなにこんな所に、と言わんばかりの清一郎に、裕子が笑う。
「その、先週、成人式だったでしょう? 病院に来る途中で綺麗なお振袖の子たちをたくさん見かけて、羨ましくなってしまって」
「ああ……」
 言われて、その日に恒例のふざけた『成人』たちの話題がニュースで流れていたのを横目で見ていたことを、清一郎は思い出した。
 彼は改めて着物の写真を見た。最近は突飛な振袖もあるようだが、一見したところ、ベッドの上に並べられているのは普通のものばかりのようだ。薄紅色から藤色へのグラデーションの地に桃か桜の花が散っているものに目が留まり、何となく、キラに似合いそうだな、と思う。

 頭の中で、それを彼女に着せてみる。
(成人式というより、七五三と言った方が良さそうだけどな)

 本人が耳にしたら確実にへそを曲げそうなことを考えてしまい、次いでそう言われてむくれる彼女の顔が思い浮かんでしまって、清一郎はとっさに笑いを噛み殺した。
 彼のそんな空想に気付く由もなく、裕子が言う。

「キラにも、買ってあげようかなって思ったんです。本当はレンタルの方がいいのかもしれないですけど、何となく、形を残しておきたくて。でも、ほら、お着物は高いから、ローンを組まないとでしょう? だから、ちょっと早いけど、今から見ておこうかなって」
 彼女の言葉に、清一郎は微かに眉根を寄せた。
 確か、キラはまだ十七歳、二十歳になるのはまだまだ先だ。

(ローンを組むとしても、さすがに早過ぎないか?)
 彼は無表情のまま胸の内で呟いたが、その心の声が聞こえたかのように、裕子が微笑みを深くした。
「気が早いのは判ってるんですけど、思い立ったら我慢ができなくなってしまって」
 はにかむ裕子の表情は、穏やかだ。
 そんな彼女を見て、ふと、彼女はこのままキラが目覚めないという考えが頭をよぎったことはないのだろうかと、清一郎は思った。

 もちろん、清一郎自身はキラの目覚めを確信している。
 だが、心配性の彼女の母親は、眠ったままの娘に不安を覚えないのだろうか。
 流石に声に出してそれを尋ねることはできず、清一郎は複雑な心境で写真の数々に目を戻した。
 と、その中の一つを手に取った裕子が、ポツリと言う。

「成人式に出席しているあの子の姿を、夢で観たんです」
「え?」
 唐突な切り出しに顔を上げて裕子を見れば、彼女はキラの頬に片手を伸ばして、愛おしそうにそれを撫でていた。
「今まで、この子のことを夢で観る時は、いつも昔のこと――昔の、苦しかったことばかりだったんです。でも、この間の夢は、未来のこの子でした」

 夢に、深い意味など存在しない。
 ただ単に、昼間に見た成人式の光景が強い印象を残し、普段から気にかけているキラと重なって、そんな夢になっただけのことなのだろう。
 清一郎だったら、そう結論付ける。
 だが、細い藁にもすがりたい気持ちの裕子は、その夢に何らかの兆しを読み取ろうとしたのかもしれない。
 裕子の弱さを知る清一郎はそんなふうに思ったが、キラの寝顔に注がれる彼女の眼差しに、ふと首をかしげた。

 以前の裕子とは、何かが違う。
 キラの容体が落ち着くまでは、その母親のことをあまりじっくりと見る余裕がなかったが、こうやって穏やかな時間を共に過ごしていると、彼女の中に、明言できない、けれどはっきりとした変化が感じられた。
 それが何かを探ろうとして目を細めた清一郎には気付かず、娘の髪を撫でながら裕子が続ける。

「私、思ったんです。私は、この子を失うことだけを恐れていたんだなって。この子がいなくなったらどうなるか、とか、そういうことには全然考えが及んでいませんでした。ただ、『この子を失う』という、そのことだけを恐れていたんです……すみません、どういう意味か、よく解かりませんよね」
 彼女が顔を上げ、清一郎を見た。その顔に浮かんでいるのは、苦笑だ。
「私は、この子のカタチしか見ていなかったんじゃないかと思うんです。この子が何を考えて、何を感じて、何を望んでいるのか――自分の不安で手一杯で、大事なことをみんな脇に押しやってしまってたんですね、きっと。だから、いざという時、決断を迫られても私には決められなかった……」

「雨宮さん」
 自責に肩を落とす裕子にかけた声には、そっとかぶりを振られた。
「本当は、私が――私と夫が、どうするか決めるべきだったんです。だって、十七年一緒にいて、誰よりもこの子のことを見て、誰よりもこの子のことを知っているのは、私たちだった筈なのですから。自信を持って、キラが望んでいる道を選んであげられなければいけなかったんです」
「近いからこそ選べない、というのは良くあることです。それに、何より、僕には知識がある」
 清一郎の返事に、裕子は考え込むように口を閉ざした。そして、そっと首を振る。
「そう……いえ、いいえ。やっぱり、私たちがやるべきことだったんです」
 きっぱりと、まるで自分に判決を下すかのような口調でそう言って、裕子はまたキラへと目を戻した。
「だから、決めたんです。これからは、ちゃんとこの子を見ようって。キラに、自分の人生を歩ませようって。私の為に、私を怯えさせない為にどうすればいいのかを考えてすることを決めるんじゃなくて、ちゃんと、キラ自身が望んでいることを、させようって。そういうこの子を見て、次にこの子に代わって何かを決断しなければならない時には、今度こそ私たちで決めようって」

 裕子の手が、キラの頬を包み込む。
 ジッと娘を見つめる彼女の眦から、ぽとりと雫が落ちて、白いシーツに丸い染みを作る。
 そうして、彼女は清一郎を見上げた。
「でも……こうやってこの子が眠っている間は、まだ、私のキラで、いいですよね……?」
 ちらりと、かつてのもろい裕子の顔が覗く。
 彼女はとっさに答えを見つけ出すことができなかった清一郎の返事を待たずに、またキラへと目を戻す。

 大事に想うから、手の中に留めておきたい。
 大事に想うから、手を放してやらなければならないと思う。

 震える指先から、彼女の中でそんな想いがせめぎ合っているのが見て取れた。

(早く、何か言ってやれよ)

 母と娘の間に踏み込むことはできなくて、目覚めぬキラに胸の中でそう呟いて、清一郎は静かに部屋を後にした。
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