欠けゆくもの、満ちゆくもの

トウリン

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神官長キンクス

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 豪奢な大神殿の中でもひと際贅をつくした執務室で。

 神官長であるキンクスは、腹心の上級神官であるナムからの報告に、その優美な眉を微かにひそめた。
 キンクスの怜悧で線の細いその容貌は、女性と見まがう美しさだ。よく手入れされた艶やかな髪はこの国では珍しい淡い茶色で、腰ほどまでも伸ばされている。スラリとした長身、長い手足は、説教の時に聴衆の眼を釘付けにした。

「これは、どういうことだ? 昨年よりも、更に寄進が減っているようだが」
 鋭く冷ややかな漆黒の眼差しに射抜かれて、報告をもたらしたナムは身をすくませた。一度唾液を呑み込んで喉を潤した後、問われたことへ回答する。
「は、それが……どうやら蛮族の襲撃が増えているようなのです。以前から報告はありましたが、特にこの一、二年、南から東の方で被害が増しておりまして。村が丸々潰されてしまっては、貢物を出せる者もおらず……」
「蛮族、か……」
 キンクスは吐き捨てるような口調でその忌々しい存在を呟いた。

 この国は、最高神アーシャルが住むという、悠久のアシャルヌ川に与えられる肥沃な大地で富み栄えている。時にアシャルヌ川の氾濫で水害を被ることはあったが、気候も穏やかで、人が住むには最高の場所だ。
 そんなこの地を狙う者どもが頻繁に出没するようになったのは、比較的最近のことである。遥か昔から、北の方では時折異民族の襲撃を受けてきたが、ここ数年は平穏だった南方でもアーシャルの助けを乞う声が増えてきたのだ。

「下賤の輩にこの地を侵されるとは、何とも嘆かわしい」
 冷やかな声でそう呟けば、すかさずナムが首振り人形よろしく幾度も頷いた。
「は、神のご威光も恐れぬ不届き者で」
「……」
 キンクスの射抜くような一瞥から逃れるように、ナムは口をつぐみ頭を垂れる。

 神殿に身を置く者にとって、神官長であるキンクスは、神と同等に――いや、もしかすると神以上に、恐れるべき相手かもしれない。彼の不興を買っていつの間にか姿を消していった者の数は、両手の指を使っても足りない筈だ。

 キンクスは、今から十年と少し前、『神の娘』を抱いてこの大神殿の扉を叩いた。生まれは北の方とのことだが、己のことはあまり語らない為、詳細は不明だ。あの当時でようやく成人したかどうかという年齢だったように見えたから、今は三十前後というところだろう。だが、ナムには、あの頃からまるで年を取っていないように見える。
『神の娘』の庇護者ということもあって、神官となったキンクスは瞬く間に神殿内での地位を上げていき、若くして神官長の座に就いた。人目を引く容姿故か、他を圧する風格故か、彼は民の気持ちを捉えて放さない。その上『神の娘』が巫女として儀式を行うようになってからは、彼の地位は不動のものとなっていた。

 『神の娘』。

 ナムは、その類稀なる存在に思いを馳せる。キンクスがその赤子を大神殿に連れてきた時のことを、初めて尊顔を拝した時のことを、彼は未だに鮮明に覚えていた。
 この国ではまず目にしたことがない月の色の髪と、星明りのような煌きが散りばめられた夜明けを迎える空の色の瞳。
 その色から想起された月の女神の名を取って『シィン』と名付けられた乳飲み子は、十六年が経った今、まさに夜空に浮かぶ月のような娘へと成長している。六年前から彼女を『巫女』として始めた儀式は、神殿が人心を籠絡するのに、これ以上はないというほどの威力を発揮してくれた。

 だが、最近になって、そこに不協和音が忍び込み始めているのだ。

 蛮族ども。

 ナムは、忌々しげに内心で吐き捨てる。

 神の力を恐れぬ不届き者どもが南の方の僻地の村々を襲うようになったのは、ここ数年のことだった。襲撃者は一晩にして村の全てを奪い尽し、燃やし尽くして姿を消す。いずれ奴らには神罰が下るに違いないのだが、まだ、その時は訪れていないようだ。儀式を始めてからというもの増える一方であった寄進の量は、徐々に減りつつあった。
 そんな腹立たしい物思いにふけっていたナムは、自分に呼びかけるキンクスの声に気付いてハッと我に返る。

「は、何でしょうか」
「儀式の用意をするように。明日、執り行う」
 響きの良い声でそう告げられ、ナムは眉根を寄せた。
「え、しかし……」
「何か?」
「その……」
 サラリとした視線を向けられ、ナムは口ごもる。遥かに格上の者に対して意見をしても良いものだろうかと迷いながらも、意を決して先を続ける。

「その、一昨日も、儀式を行ないました。あれを使うのは、少なくとも五日はあけるようにと、薬師から言われているかと……」
「シィンは神の子だ。人の子とは違う」
「それは――」
 そうなのだろうか。
 ナムは口ごもる。だが、確かに、月の女神の化身でもあるシィンは、自分達とは違うのかもしれない。神官長であるキンクスがそう言うのならば、きっと、正しいのだ。

「……承知しました。では、明日にでも」
 そうかしこまったナムに、キンクスは鷹揚に頷きを返す。その様は、彼はこの世の全てを承知しているのだと信じさせるに充分な、泰然とした態度だった。
「早速、支度に取り掛かるよう、他の者にも伝えます」
 ナムは頭を下げて、執務室を後にする。入室前、野蛮な輩どもに侵されつつある脅威にかき乱されていた彼の心は、今は穏やかに凪いでいた。この国は、キンクスとシィンに任せておけば、大丈夫なのだ。二人がいる限り、最高神アーシャルの加護は約束されたものなのだから。
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