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熊と犬
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カイネが、捕まらない。
この三日間、シィンは毎日彼を追い掛けているのに、いつも逃げられてしまう。ちゃんと話をしないといけないのに、カイネはシィンの言葉を聞こうとはしてくれなかった。
シィンは、神殿に戻るべきなのだ。
本当は、アシクからあの話をされた時、ほとんど迷うことなく、心は決まっていた。
それは、長い時をかけて染み込まされた『神の娘』という意識のせいかもしれない。『神の娘』なのだから、私《し》を捨てて、皆の為に何かしなければという義務感とも言える気持ち。
あるいは、神の力を信じさせたのは、自分の所為でもある。そういう、罪の意識。
もしかしたら後者の方が強いかもしれない。自分には特別な力なんて何もない、ただの人間なのだということを、はっきりと解ってしまった、今は。
自分が本当に『神の娘』で皆を癒してこられたならまだ良かったかもしれないけれど、シィンがしてきたことは何の意味もなかったことなのだ。皆には何も与えず、ただ受け取ってきただけだった。
シィンは立ち止まり、当たりを見渡す。
道の右側には小麦畑が、左側には季節に応じていろいろな野菜が植えられている畑が広がっている。その中では、子どもから大人まで、汗を流しながら働いている。
しっかりと動けるようになってから、シィンも手伝うようになったから、その大変さは身に染みていた。天候や虫や獣、そんなものから守り育て、実ればその収穫で身体のあちこちが悲鳴を上げる。そんなふうに得た貴重な作物を、その苦労も知らずに、シィンは受け取っていたのだ。至極当然のこととして。
(恥ずかしい)
自分の無知と、傲慢さが。
綺麗に着飾っていた我が身を思い出すと、身がすくむような羞恥心と罪悪感に、シィンは駆られる。
そして、そんな自責の念の他にも、彼女を突き動かすものがあった。むしろ、こちらの方が、思いが大きいかもしれない。
教会の外の、ヒトが実際に生きている世界のことを知って、シィンは、自分の頭で考えて、動きたいと思ったのだ。
(やっぱりわたしにはなんの力もなくて、何もできないかもしれないけれど、それでも、やってもいないのに最初からあきらめたくない。何もしないで、このままここで暮らしていくわけにはいかないもの)
シィンの頭に浮かび上がってくるのは、アシクに呼ばれて初めてリュウと会った時と、その後、彼がカイネたちに武器を披露した時のことだった。
(怖かった)
剣と剣が立てる、甲高い音が。
あんなに大きな身体をしているのに、普段、シィンにはとても穏やかに接してくれるカイネが発していた、ものが。
彼が傷付くところを、見たくなかった。いつも、まるでシィンが壊れ物ででもあるかのように優しく触れてくる彼の手が誰かを傷つけるところを、見たくなかった。
けれど、もしも戦いになれば、カイネや、ローグや、他の里の人たちだって、傷付くのかもしれないのだ。
大事な二人が血を流して倒れ伏す姿を脳裏に描く。
ゾッとした。
(イヤ。絶対、イヤ)
カイネとローグがいたから、シィンは自分を取り戻せた。その二人を守るためにできることがあるなら、何でもする。自分が動くことで何かが変わる可能性があるのなら、そこに賭けてみたかった。
なのに……。
「シィン様?」
小さくため息をついたシィンに、ラスが視線を下げる。再会してから、彼は以前と同じように、常に彼女の傍にいてくれた。それは嬉しいことなのだけれども、どうも彼とカイネはあまり馬が合わないようで、二人が一緒になるとなんだか空気がピリピリする。
熊と猟犬のように睨み合うカイネとラスにローグは呆れたような眼差しを向けるけれど、シィンはいたたまれなくてならなかった。ただでさえカイネには避けられているのにラスがいるとそんな感じだから、ゆっくりと話ができない。
一度、ラスにもっとカイネと仲良くできないかと言ってみたら、善処しますという答えが返ってきた。けれど、シィンが見る限り、あまり変化はない。
神殿にいた頃の記憶は靄がかかっているようではっきりしたものではないけれど、元々、ラスは他の神官たちとも少し距離を置いていたように思えた。もっとも、彼はシィンにつきっきりだったから、他の者と親しくなろうにもなれなかったのかもしれないけれど。
(わたしには、とても優しいのに)
鋭角で端正なラスの顔をジッと見つめながらそんなことを考えていると、彼が眉根を寄せた。
「シィン様?」
「何でもないよ」
笑みを浮かべて、案じる彼にかぶりを振った。
「カイネ、どこにいるのかなって」
シィンがそう答えると、ラスの眉間の間のしわが気持ち深くなった。
「シィン様に捜させるなど、まったく無礼極まりない」
憤懣やるかたないと言わんばかりの彼を、シィンはチラリと見上げ、そして視線を落とす。
ラスがいれば、神殿には帰れる。
(でも、その前に、カイネとちゃんと話をしておきたい)
カイネと話して、彼女の考えを理解して、受け止めて欲しかった。彼に拒まれたままここを離れるのは、嫌だった。
「シィン様」
うつむいていたシィンは、耳元で囁かれたラスの声で、顔を上げる。彼が目で指示した方向にいるのは、探していたカイネだ。珍しく、ローグの姿はない。
駆け寄ろうとしたシィンをラスが呼び止める。
「あのような下賤の者など、放っておけばよいではないですか」
「下賤?」
「シィン様は神の娘です。下々の者になど、斟酌する必要はありません。あなたがお戻りになると決めたなら、奴の許しなど――」
「違うよ」
ラスの訴えを、シィンはきっぱりと遮った。その口調に、彼はフツリと口をつぐむ。
シィンは、真っ直ぐ彼を見つめながら説く。
「わたしは『神の娘』なんかじゃない。わたしには、何の力もない――ラスだって、本当は判ってるんでしょう?」
「シィン様……」
眉尻を下げたラスに、シィンは微笑みかける。そして、周囲に視線を巡らせた。
「ここでは、誰もアーシェル様にすがらないわ。雨が降らなければ井戸を掘り、川から引いて、次に備えて溜める手段を考える。病が出れば、薬草を探し、精がつくものを食べさせ、付きっきりで看病する。誰も、神になんて祈らない。神に祈らず、自らの力で解決しようと手を尽くすの。その力が及ばない時も、わたしにすがったりなんて、しない」
彼女はラスの目を見つめ、繰り返す。
「わたしは特別なんかじゃないのよ、ラス」
彼は、何と答えて良いのか判らないというように、口を開けかけ、そしてつぐみ、また開く。
「ですが、神殿へはお戻りになると……」
困惑の色をその眼に浮かべているラスに、シィンは小さくかぶりを振った。
「うん、戻る。でも、『神の娘』に戻るためではないの。確かに、そうであったという立場を利用はするわ。でも、わたしは、もう二度と祈らない。わたしの祈りなんて、本当は必要ない――そう伝えるために、戻るの」
シィンは晴れやかな笑みを投げかけ、目を見開いているラスを残して身を翻す。そうして、遠ざかろうとしているカイネを追いかけた。
この三日間、シィンは毎日彼を追い掛けているのに、いつも逃げられてしまう。ちゃんと話をしないといけないのに、カイネはシィンの言葉を聞こうとはしてくれなかった。
シィンは、神殿に戻るべきなのだ。
本当は、アシクからあの話をされた時、ほとんど迷うことなく、心は決まっていた。
それは、長い時をかけて染み込まされた『神の娘』という意識のせいかもしれない。『神の娘』なのだから、私《し》を捨てて、皆の為に何かしなければという義務感とも言える気持ち。
あるいは、神の力を信じさせたのは、自分の所為でもある。そういう、罪の意識。
もしかしたら後者の方が強いかもしれない。自分には特別な力なんて何もない、ただの人間なのだということを、はっきりと解ってしまった、今は。
自分が本当に『神の娘』で皆を癒してこられたならまだ良かったかもしれないけれど、シィンがしてきたことは何の意味もなかったことなのだ。皆には何も与えず、ただ受け取ってきただけだった。
シィンは立ち止まり、当たりを見渡す。
道の右側には小麦畑が、左側には季節に応じていろいろな野菜が植えられている畑が広がっている。その中では、子どもから大人まで、汗を流しながら働いている。
しっかりと動けるようになってから、シィンも手伝うようになったから、その大変さは身に染みていた。天候や虫や獣、そんなものから守り育て、実ればその収穫で身体のあちこちが悲鳴を上げる。そんなふうに得た貴重な作物を、その苦労も知らずに、シィンは受け取っていたのだ。至極当然のこととして。
(恥ずかしい)
自分の無知と、傲慢さが。
綺麗に着飾っていた我が身を思い出すと、身がすくむような羞恥心と罪悪感に、シィンは駆られる。
そして、そんな自責の念の他にも、彼女を突き動かすものがあった。むしろ、こちらの方が、思いが大きいかもしれない。
教会の外の、ヒトが実際に生きている世界のことを知って、シィンは、自分の頭で考えて、動きたいと思ったのだ。
(やっぱりわたしにはなんの力もなくて、何もできないかもしれないけれど、それでも、やってもいないのに最初からあきらめたくない。何もしないで、このままここで暮らしていくわけにはいかないもの)
シィンの頭に浮かび上がってくるのは、アシクに呼ばれて初めてリュウと会った時と、その後、彼がカイネたちに武器を披露した時のことだった。
(怖かった)
剣と剣が立てる、甲高い音が。
あんなに大きな身体をしているのに、普段、シィンにはとても穏やかに接してくれるカイネが発していた、ものが。
彼が傷付くところを、見たくなかった。いつも、まるでシィンが壊れ物ででもあるかのように優しく触れてくる彼の手が誰かを傷つけるところを、見たくなかった。
けれど、もしも戦いになれば、カイネや、ローグや、他の里の人たちだって、傷付くのかもしれないのだ。
大事な二人が血を流して倒れ伏す姿を脳裏に描く。
ゾッとした。
(イヤ。絶対、イヤ)
カイネとローグがいたから、シィンは自分を取り戻せた。その二人を守るためにできることがあるなら、何でもする。自分が動くことで何かが変わる可能性があるのなら、そこに賭けてみたかった。
なのに……。
「シィン様?」
小さくため息をついたシィンに、ラスが視線を下げる。再会してから、彼は以前と同じように、常に彼女の傍にいてくれた。それは嬉しいことなのだけれども、どうも彼とカイネはあまり馬が合わないようで、二人が一緒になるとなんだか空気がピリピリする。
熊と猟犬のように睨み合うカイネとラスにローグは呆れたような眼差しを向けるけれど、シィンはいたたまれなくてならなかった。ただでさえカイネには避けられているのにラスがいるとそんな感じだから、ゆっくりと話ができない。
一度、ラスにもっとカイネと仲良くできないかと言ってみたら、善処しますという答えが返ってきた。けれど、シィンが見る限り、あまり変化はない。
神殿にいた頃の記憶は靄がかかっているようではっきりしたものではないけれど、元々、ラスは他の神官たちとも少し距離を置いていたように思えた。もっとも、彼はシィンにつきっきりだったから、他の者と親しくなろうにもなれなかったのかもしれないけれど。
(わたしには、とても優しいのに)
鋭角で端正なラスの顔をジッと見つめながらそんなことを考えていると、彼が眉根を寄せた。
「シィン様?」
「何でもないよ」
笑みを浮かべて、案じる彼にかぶりを振った。
「カイネ、どこにいるのかなって」
シィンがそう答えると、ラスの眉間の間のしわが気持ち深くなった。
「シィン様に捜させるなど、まったく無礼極まりない」
憤懣やるかたないと言わんばかりの彼を、シィンはチラリと見上げ、そして視線を落とす。
ラスがいれば、神殿には帰れる。
(でも、その前に、カイネとちゃんと話をしておきたい)
カイネと話して、彼女の考えを理解して、受け止めて欲しかった。彼に拒まれたままここを離れるのは、嫌だった。
「シィン様」
うつむいていたシィンは、耳元で囁かれたラスの声で、顔を上げる。彼が目で指示した方向にいるのは、探していたカイネだ。珍しく、ローグの姿はない。
駆け寄ろうとしたシィンをラスが呼び止める。
「あのような下賤の者など、放っておけばよいではないですか」
「下賤?」
「シィン様は神の娘です。下々の者になど、斟酌する必要はありません。あなたがお戻りになると決めたなら、奴の許しなど――」
「違うよ」
ラスの訴えを、シィンはきっぱりと遮った。その口調に、彼はフツリと口をつぐむ。
シィンは、真っ直ぐ彼を見つめながら説く。
「わたしは『神の娘』なんかじゃない。わたしには、何の力もない――ラスだって、本当は判ってるんでしょう?」
「シィン様……」
眉尻を下げたラスに、シィンは微笑みかける。そして、周囲に視線を巡らせた。
「ここでは、誰もアーシェル様にすがらないわ。雨が降らなければ井戸を掘り、川から引いて、次に備えて溜める手段を考える。病が出れば、薬草を探し、精がつくものを食べさせ、付きっきりで看病する。誰も、神になんて祈らない。神に祈らず、自らの力で解決しようと手を尽くすの。その力が及ばない時も、わたしにすがったりなんて、しない」
彼女はラスの目を見つめ、繰り返す。
「わたしは特別なんかじゃないのよ、ラス」
彼は、何と答えて良いのか判らないというように、口を開けかけ、そしてつぐみ、また開く。
「ですが、神殿へはお戻りになると……」
困惑の色をその眼に浮かべているラスに、シィンは小さくかぶりを振った。
「うん、戻る。でも、『神の娘』に戻るためではないの。確かに、そうであったという立場を利用はするわ。でも、わたしは、もう二度と祈らない。わたしの祈りなんて、本当は必要ない――そう伝えるために、戻るの」
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