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<指輪の意味>
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颯斗が中学校に入学して、そろそろ一学期も終わろうとしている。
数ヶ月を過ごしてみて、小学校も中学校も、やってることは大差はないよな、というのが、彼の正直な気持ちだ。
毎朝登校して、授業を受けて、帰る。宿題も授業の合間の休み時間にほとんど終わらせてしまうから、家に持ち帰るのはたいした量じゃない。
部活動は強制なので、取り敢えずパソコン部に入った。別にパソコンが好きなわけじゃない。ただ、ろくに参加していなくても誰も何も言わないからだ。運動は他の生徒よりもできるが、ガツガツした運動部には入りたくない。部活なんかで時間を潰すくらいなら、少しでも早く綾音のところに行きたかった。
家での生活も、小学校の時と同じ。
母親は、息子が中学生になったからといって勉強しろと尻を叩いたり、始終男を連れ込むのをやめたりはしなかった。
唯一小学校の頃と違うのは、友人と呼べるものができたことかもしれない。
友人――今井隆は、入学当初から颯斗の後ろの席に座っていたけれど、会話らしい会話を交わしたのは、ゴールデンウィークが明けて更にしばらく経った頃だった。
休み時間、颯斗の足元に転がってきた消しゴムを拾ってやったのが、きっかけ。
颯斗の手によって自分の机に置かれたその消しゴムを、まるで世にも奇妙な代物ででもあるかのように、隆はじっと見つめていた。
颯斗の方も別に何も言うことはなかったので、そのまま無言で前に向き直ろうとしたのだが、そこで隆が口を開いたのだ。
「オレ、有田と――お前と同じ小学校だったんだけど、覚えてる?」
悪いが、まったく覚えていない。
そんな台詞を口にした覚えはなかったが、どうやら伝わったらしい。
「やっぱりな。お前の方はなんつぅか目立ってたけど、オレは一般人だからな」
「目立ってた?」
颯斗としては、何をした覚えもない。
眉をひそめた彼に、隆がニッと笑った。
「こう、一匹狼的な? ココウの存在っていうかよ」
そう言って、隆はしげしげと颯斗を見つめた。
「なんか、有田、変わったよな」
「どこが?」
確かに、背はずいぶんと伸び始めていた。最近は綾音と並ぶとちょっと見下ろす感じになっていて、それに初めて気付いた時には何だかやけに嬉しかったのを覚えている。背ばかりがグングン伸びているだけにちょっとヒョロッとした感じなってしまっているが、それは仕方がない。
「ううん、こう、雰囲気、みたいな? 前のお前だったら、消しゴムが足元に転がってきたって気付かないで踏み付けて歩いて行っちまいそうだった」
言いながら、隆は指先で拾ってもらった消しゴムを転がした。
「こんなふうに、落し物を拾ってくれる、とか、全然想像もできなかったし」
指摘されて、確かにそうかもしれないと、颯斗は思ったものだ。
以前は、とにかく周りから自分を遮断していた。
何もかもがうっとうしくて面倒だった。
全ての音はノイズのようで、視界に入るものもモノクロに感じられた。
それがいつから変わったのかと自問してみれば、答えはすぐに出る。
たった一人の存在で、世界の全てが変わることがあるんだよとか、一年前の自分だったら鼻で笑い飛ばしていただろう。けれど、颯斗はそのたった一人に巡り逢えたのだ。
もしかしたら、この今井隆という人間だって、颯斗にとって何らかの意味のある存在になるのかもしれない。
それは、以前の颯斗では頭をかすめさえしなかっただろう考えだった。
「まあ、とにかくさ、今さらなんだけど、これからよろしく」
そんなふうに隆が言って。
――それから何となく付き合いが始まり、今では休日に一緒に出掛けるようなこともある仲になった。
隆が言ったように颯斗の何かが変わったのか、それとも屈託のない隆が傍にいる為なのか、次第に颯斗に話しかける同級生が増えてきて、教室の中でちょっとした雑談を交わすことすらある。
相変らず饒舌とは程遠いけれど、それでも、一日中窓の外を眺めていた小学校の頃とは大きな違いがあることは確かだった。
*
「なあ、なんでお前運動部に入らねぇの?」
体育で百メートル走のタイムを測り終え、颯斗の記録を聞き付けた隆がいかにももったいなさそうにそう言った。
部活にこそ入っていないが、毎晩颯斗は運動を欠かさない。多分、体力測定の殆どの記録は運動部に入っている同級生を上回っているだろう。
「お前だったら何でも来いだろ? 何ならうちでもいいぜ? ていうか、来てくれよ、サッカー部」
「めんどくさい。時間がもったいない」
芝居がかって手を組んで懇願してくる隆を一蹴し、颯斗は水飲み場に向かった。
梅雨が明けたばかりの体育は、暑いし汗は出るしはっきり言ってウザい。ジメジメした空気も嫌だったけれど、ギラギラと照り付ける太陽には頭が痛くなりそうだ。
水道の水を頭にバシャバシャとかけて汗を洗い流すと、多少はすっきりする。
「お前さぁ、綾音さん一筋なのもいいけど、もうちょっと視野広げねぇ? 部活は青春よ? 中学生ってのは一度きりなんだからさぁ」
水場まで追いかけてきてそう言った呆れたような隆の声は、耳から耳へと通り抜けさせた。
隆を綾音の店に連れて行ったのはひと月ほど前のことだったが、その日店を出る頃には、颯斗にとって綾音がどんな存在なのかを理解したらしい。
「結構、裏でモテてんだぜ、お前。顔良いし、勉強も運動もできるし……まあ、タッパはもうチョイだけど」
「ほっとけ」
ああ、もったいない、と嘆く隆を置き去りにして、颯斗はムッと顔をそむけて歩き出した。
自分の顔が『良い』ことは知っている。
母は面食いで、そして何かにつけ、「お前はアイツによく似てきた」と言う。この上なく、憎々しげに。子どもまで作った男相手に、よくぞそこまで憎悪を抱けるものだと、ある意味感心する。
多分、颯斗が母親似の女の子ででもあれば、親子の関係はもっと違っていたのだろう。だが、そんなことは颯斗にはどうしようもないし、どうにかしようとも思わない。
母親が颯斗の顔を気に入らないのは、自業自得というものだ。
「なあ、なんか怒ってる?」
追い付いてきた隆が、颯斗の顔を覗き込むようにして訊いてきた。
「別に」
「そうか?」
自分と母親の関係を説明しても、隆には理解できないだろう。
肩をすくめて素っ気なく返した颯斗に、彼は少しためらってから、続けた。
「お前に告りたいって子が、いるんだけどさ」
「はあ?」
「いや、クラスの女子になんか興味の欠片もないってことは重々承知なんだけどさ――」
「ムリ」
「話だけでも――」
「聞けない」
受け入れられないものを聞かされて、不快な思いをするのはまっぴらだ。
「学校でもイチャイチャできるぜ?」
「いらない」
ものすごい特典であるかのような目を輝かせた隆の台詞を、速攻で切り捨てる。
颯斗が触れたい、触れられたいと思うのは、綾音だけだった。『クラスの女子』なんて、男子生徒とたいして違いはない。
隣で、盛大なため息が聞こえる。
「まったく……そんなこと言ったって、綾音さん、彼氏いるんだろ?」
「……なんでそう思うんだ?」
そう問い返した声は、無意識のうちに尖ってしまう。
隆は、荘一郎のことなど知らないはずだった。もちろん颯斗は『そういちろう』の『そ』の字も口にしていないし、隆が綾音や利音と颯斗抜きで話しているところも見たことがない。彼の情報など仕入れようがなかったはずだ。
ギロリと睨み付けた颯斗に、隆が首をすくめる。
「だってさ、左手の薬指に指輪してるじゃん。オレの知り合いがさ、そこにはめるのは特別な人からの指輪なんだって――」
言われて、颯斗の脳裏には綾音の細い指におさまった小さな真珠の指輪が浮かんだ。彼女は時折それを見つめて、微笑んでいる。
颯斗の胸が、キリ、と痛んだ。
綾音が荘一郎のものだということは百も承知だけれども、こんなに離れているのにまるで彼女の隣にいるかのような存在感を誇る荘一郎に、なんだか胸が焼けるような気持ちを抱く。
「悪い……オレ、余計な事言ったよな」
「別に」
おずおずと声をかけてきた隆に、颯斗はボソッと返した。隆は気まずそうに押し黙り、さすがにその雰囲気ではないと悟ったのか、『颯斗に告白したい女子』のことはそのまま立ち消えになった。それがこの会話の、唯一のメリットだったかもしれない。
それからは、授業を聞いていても全然身が入らなかった。
念仏か異世界の言葉かのように教師の声を聞き流し、放課後になったらいつものように店へと向かう。
扉を開けると、耳に馴染んだカウベルの音。
颯斗の姿を認めて、テーブルを拭いていた綾音が笑顔になる。利音は買い出しにでも行っているのか、店内には綾音と他に二組の客がいるだけだった。
「あ、おかえり」
家でも聞いたことがないこの一言をここでかけられるのが、いつの間にか当然のことになっている。たった四文字の言葉を耳にするたび、彼の胸に心地良さが滲み渡った。
「ただいま」
そう返しながら、颯斗は彼の定位置になっているカウンターの一番奥の席に座る。
予習の為の教科書やノートを出していると、水が入ったグラスが置かれた。ただの水なのは、利音からのお達しだ。客ではないのだから、水で充分、と言って。
「ありがとう」
言いながら、颯斗はトレイを胸に抱えた綾音の左手に目を走らせた。
確かに、薬指に指輪がはまっている。
真ん中に小振りのパールを置いて、周りを薄いピンクの花びらみたいな飾りが囲んでいる、指輪が。
「……それ、いつから着けてたっけ?」
「え?」
唐突な颯斗の問いかけに、綾音がパチパチと瞬きをした。
「それ、その指輪」
颯斗が目で彼女の左手を示すと、綾音はトレイを右手に持ち替えて、左手を見つめた。
一瞬置いて、じわじわと彼女の頬が色付いていく。
「あ、えっと……ほら、荘一郎さんが出発する、前の日にもらって……」
「ふうん?」
いつもは可愛いと思うばかりの彼女のはにかむ様子が、何故か今は面白くない。
「そこに着けるのって、アレだろ?」
それ以上聞いても自虐にしかならないのに、颯斗はそうカマをかけてしまった。
遠回しな訊き方に、綾音がハッと息を呑む。
「知ってた、の?」
「ああ」
頷くと、もとから赤くなっていた綾音の頬が、更に赤くなった。
「そっか、知ってたの、か……」
綾音のその照れっぷりに、さすがに颯斗も違和感を覚える。彼女と荘一郎が付き合っていることなんて、隠していることではなかったはずだ。少なくとも荘一郎の方は、おおっぴらに彼女にちょっかいを出していたのだから。
「あんなの、バレバレだよ」
胸のひり付きを押し隠して軽い口調でそう答えると、綾音の喉が、「フグッ」とか何とか、変な音を立てた。
「バレバレ……そっか……えっと、その、ね、ちゃんと決まってから話そうと思ってたんだけど……」
なんだかさっぱり要領を得ない。『バレバレ』な恋人関係を改めて公言するのに、なんでこんなに照れているのだろう。
訳が判らないままに、辛抱強く、颯斗は彼女の台詞を待った。
「荘一郎さんが帰ってきたら、お嫁さんになるの」
綾音の口から出た文章が、颯斗には一瞬理解できなかった。いや、したくなかった、のかもしれない。
「……荘一郎が?」
うつむいていた綾音が、パッと顔を上げる。
「違うよ! わたしが! 荘一郎さんの! だよ」
「ああ、そっか。おめでとう」
颯斗は、かろうじてそう答えた。
我ながら、平坦な声だった。けれど、綾音は気付いていない。真っ白になった颯斗の頭の中なんて知る由もなく、幸せそうに微笑んでいる。
「荘一郎さんが海外勤務を志願したのは、あれを受けたら本社勤務になれるからっていうのもあるの。本社勤務になったら転勤とかないから、その方がわたしにはいいだろうって」
「ふうん」
つまり、三年近く前から、ということだ。
颯斗が綾音と出逢う、ずっと前から。
「わたしが高校卒業したらって、もうずっと前から約束してくれてたんだ。で、今回の出張に行く前に、くれたの」
綾音が、まるでそれがかけがえのない宝物であるかのように、指輪を撫でる。
キラキラしい宝石ではなくて、可愛らしい花をかたどった、指輪。
綾音にとてもよく似合っている。
きっと、荘一郎は綾音のことをよく知っていて、綾音らしくて綾音が一番喜ぶものを選んだのだ。
綾音は幸せそうだ。
この上なく。
それが、颯斗の全身をキリキリと締め付けた。
荘一郎が戻れば、綾音は彼のものになる。
その、厳然たる事実。
(帰ってこなければいいのに)
――一瞬、ほんの一瞬だけ、颯斗の胸の中をそんな考えがよぎって、消えた。
数ヶ月を過ごしてみて、小学校も中学校も、やってることは大差はないよな、というのが、彼の正直な気持ちだ。
毎朝登校して、授業を受けて、帰る。宿題も授業の合間の休み時間にほとんど終わらせてしまうから、家に持ち帰るのはたいした量じゃない。
部活動は強制なので、取り敢えずパソコン部に入った。別にパソコンが好きなわけじゃない。ただ、ろくに参加していなくても誰も何も言わないからだ。運動は他の生徒よりもできるが、ガツガツした運動部には入りたくない。部活なんかで時間を潰すくらいなら、少しでも早く綾音のところに行きたかった。
家での生活も、小学校の時と同じ。
母親は、息子が中学生になったからといって勉強しろと尻を叩いたり、始終男を連れ込むのをやめたりはしなかった。
唯一小学校の頃と違うのは、友人と呼べるものができたことかもしれない。
友人――今井隆は、入学当初から颯斗の後ろの席に座っていたけれど、会話らしい会話を交わしたのは、ゴールデンウィークが明けて更にしばらく経った頃だった。
休み時間、颯斗の足元に転がってきた消しゴムを拾ってやったのが、きっかけ。
颯斗の手によって自分の机に置かれたその消しゴムを、まるで世にも奇妙な代物ででもあるかのように、隆はじっと見つめていた。
颯斗の方も別に何も言うことはなかったので、そのまま無言で前に向き直ろうとしたのだが、そこで隆が口を開いたのだ。
「オレ、有田と――お前と同じ小学校だったんだけど、覚えてる?」
悪いが、まったく覚えていない。
そんな台詞を口にした覚えはなかったが、どうやら伝わったらしい。
「やっぱりな。お前の方はなんつぅか目立ってたけど、オレは一般人だからな」
「目立ってた?」
颯斗としては、何をした覚えもない。
眉をひそめた彼に、隆がニッと笑った。
「こう、一匹狼的な? ココウの存在っていうかよ」
そう言って、隆はしげしげと颯斗を見つめた。
「なんか、有田、変わったよな」
「どこが?」
確かに、背はずいぶんと伸び始めていた。最近は綾音と並ぶとちょっと見下ろす感じになっていて、それに初めて気付いた時には何だかやけに嬉しかったのを覚えている。背ばかりがグングン伸びているだけにちょっとヒョロッとした感じなってしまっているが、それは仕方がない。
「ううん、こう、雰囲気、みたいな? 前のお前だったら、消しゴムが足元に転がってきたって気付かないで踏み付けて歩いて行っちまいそうだった」
言いながら、隆は指先で拾ってもらった消しゴムを転がした。
「こんなふうに、落し物を拾ってくれる、とか、全然想像もできなかったし」
指摘されて、確かにそうかもしれないと、颯斗は思ったものだ。
以前は、とにかく周りから自分を遮断していた。
何もかもがうっとうしくて面倒だった。
全ての音はノイズのようで、視界に入るものもモノクロに感じられた。
それがいつから変わったのかと自問してみれば、答えはすぐに出る。
たった一人の存在で、世界の全てが変わることがあるんだよとか、一年前の自分だったら鼻で笑い飛ばしていただろう。けれど、颯斗はそのたった一人に巡り逢えたのだ。
もしかしたら、この今井隆という人間だって、颯斗にとって何らかの意味のある存在になるのかもしれない。
それは、以前の颯斗では頭をかすめさえしなかっただろう考えだった。
「まあ、とにかくさ、今さらなんだけど、これからよろしく」
そんなふうに隆が言って。
――それから何となく付き合いが始まり、今では休日に一緒に出掛けるようなこともある仲になった。
隆が言ったように颯斗の何かが変わったのか、それとも屈託のない隆が傍にいる為なのか、次第に颯斗に話しかける同級生が増えてきて、教室の中でちょっとした雑談を交わすことすらある。
相変らず饒舌とは程遠いけれど、それでも、一日中窓の外を眺めていた小学校の頃とは大きな違いがあることは確かだった。
*
「なあ、なんでお前運動部に入らねぇの?」
体育で百メートル走のタイムを測り終え、颯斗の記録を聞き付けた隆がいかにももったいなさそうにそう言った。
部活にこそ入っていないが、毎晩颯斗は運動を欠かさない。多分、体力測定の殆どの記録は運動部に入っている同級生を上回っているだろう。
「お前だったら何でも来いだろ? 何ならうちでもいいぜ? ていうか、来てくれよ、サッカー部」
「めんどくさい。時間がもったいない」
芝居がかって手を組んで懇願してくる隆を一蹴し、颯斗は水飲み場に向かった。
梅雨が明けたばかりの体育は、暑いし汗は出るしはっきり言ってウザい。ジメジメした空気も嫌だったけれど、ギラギラと照り付ける太陽には頭が痛くなりそうだ。
水道の水を頭にバシャバシャとかけて汗を洗い流すと、多少はすっきりする。
「お前さぁ、綾音さん一筋なのもいいけど、もうちょっと視野広げねぇ? 部活は青春よ? 中学生ってのは一度きりなんだからさぁ」
水場まで追いかけてきてそう言った呆れたような隆の声は、耳から耳へと通り抜けさせた。
隆を綾音の店に連れて行ったのはひと月ほど前のことだったが、その日店を出る頃には、颯斗にとって綾音がどんな存在なのかを理解したらしい。
「結構、裏でモテてんだぜ、お前。顔良いし、勉強も運動もできるし……まあ、タッパはもうチョイだけど」
「ほっとけ」
ああ、もったいない、と嘆く隆を置き去りにして、颯斗はムッと顔をそむけて歩き出した。
自分の顔が『良い』ことは知っている。
母は面食いで、そして何かにつけ、「お前はアイツによく似てきた」と言う。この上なく、憎々しげに。子どもまで作った男相手に、よくぞそこまで憎悪を抱けるものだと、ある意味感心する。
多分、颯斗が母親似の女の子ででもあれば、親子の関係はもっと違っていたのだろう。だが、そんなことは颯斗にはどうしようもないし、どうにかしようとも思わない。
母親が颯斗の顔を気に入らないのは、自業自得というものだ。
「なあ、なんか怒ってる?」
追い付いてきた隆が、颯斗の顔を覗き込むようにして訊いてきた。
「別に」
「そうか?」
自分と母親の関係を説明しても、隆には理解できないだろう。
肩をすくめて素っ気なく返した颯斗に、彼は少しためらってから、続けた。
「お前に告りたいって子が、いるんだけどさ」
「はあ?」
「いや、クラスの女子になんか興味の欠片もないってことは重々承知なんだけどさ――」
「ムリ」
「話だけでも――」
「聞けない」
受け入れられないものを聞かされて、不快な思いをするのはまっぴらだ。
「学校でもイチャイチャできるぜ?」
「いらない」
ものすごい特典であるかのような目を輝かせた隆の台詞を、速攻で切り捨てる。
颯斗が触れたい、触れられたいと思うのは、綾音だけだった。『クラスの女子』なんて、男子生徒とたいして違いはない。
隣で、盛大なため息が聞こえる。
「まったく……そんなこと言ったって、綾音さん、彼氏いるんだろ?」
「……なんでそう思うんだ?」
そう問い返した声は、無意識のうちに尖ってしまう。
隆は、荘一郎のことなど知らないはずだった。もちろん颯斗は『そういちろう』の『そ』の字も口にしていないし、隆が綾音や利音と颯斗抜きで話しているところも見たことがない。彼の情報など仕入れようがなかったはずだ。
ギロリと睨み付けた颯斗に、隆が首をすくめる。
「だってさ、左手の薬指に指輪してるじゃん。オレの知り合いがさ、そこにはめるのは特別な人からの指輪なんだって――」
言われて、颯斗の脳裏には綾音の細い指におさまった小さな真珠の指輪が浮かんだ。彼女は時折それを見つめて、微笑んでいる。
颯斗の胸が、キリ、と痛んだ。
綾音が荘一郎のものだということは百も承知だけれども、こんなに離れているのにまるで彼女の隣にいるかのような存在感を誇る荘一郎に、なんだか胸が焼けるような気持ちを抱く。
「悪い……オレ、余計な事言ったよな」
「別に」
おずおずと声をかけてきた隆に、颯斗はボソッと返した。隆は気まずそうに押し黙り、さすがにその雰囲気ではないと悟ったのか、『颯斗に告白したい女子』のことはそのまま立ち消えになった。それがこの会話の、唯一のメリットだったかもしれない。
それからは、授業を聞いていても全然身が入らなかった。
念仏か異世界の言葉かのように教師の声を聞き流し、放課後になったらいつものように店へと向かう。
扉を開けると、耳に馴染んだカウベルの音。
颯斗の姿を認めて、テーブルを拭いていた綾音が笑顔になる。利音は買い出しにでも行っているのか、店内には綾音と他に二組の客がいるだけだった。
「あ、おかえり」
家でも聞いたことがないこの一言をここでかけられるのが、いつの間にか当然のことになっている。たった四文字の言葉を耳にするたび、彼の胸に心地良さが滲み渡った。
「ただいま」
そう返しながら、颯斗は彼の定位置になっているカウンターの一番奥の席に座る。
予習の為の教科書やノートを出していると、水が入ったグラスが置かれた。ただの水なのは、利音からのお達しだ。客ではないのだから、水で充分、と言って。
「ありがとう」
言いながら、颯斗はトレイを胸に抱えた綾音の左手に目を走らせた。
確かに、薬指に指輪がはまっている。
真ん中に小振りのパールを置いて、周りを薄いピンクの花びらみたいな飾りが囲んでいる、指輪が。
「……それ、いつから着けてたっけ?」
「え?」
唐突な颯斗の問いかけに、綾音がパチパチと瞬きをした。
「それ、その指輪」
颯斗が目で彼女の左手を示すと、綾音はトレイを右手に持ち替えて、左手を見つめた。
一瞬置いて、じわじわと彼女の頬が色付いていく。
「あ、えっと……ほら、荘一郎さんが出発する、前の日にもらって……」
「ふうん?」
いつもは可愛いと思うばかりの彼女のはにかむ様子が、何故か今は面白くない。
「そこに着けるのって、アレだろ?」
それ以上聞いても自虐にしかならないのに、颯斗はそうカマをかけてしまった。
遠回しな訊き方に、綾音がハッと息を呑む。
「知ってた、の?」
「ああ」
頷くと、もとから赤くなっていた綾音の頬が、更に赤くなった。
「そっか、知ってたの、か……」
綾音のその照れっぷりに、さすがに颯斗も違和感を覚える。彼女と荘一郎が付き合っていることなんて、隠していることではなかったはずだ。少なくとも荘一郎の方は、おおっぴらに彼女にちょっかいを出していたのだから。
「あんなの、バレバレだよ」
胸のひり付きを押し隠して軽い口調でそう答えると、綾音の喉が、「フグッ」とか何とか、変な音を立てた。
「バレバレ……そっか……えっと、その、ね、ちゃんと決まってから話そうと思ってたんだけど……」
なんだかさっぱり要領を得ない。『バレバレ』な恋人関係を改めて公言するのに、なんでこんなに照れているのだろう。
訳が判らないままに、辛抱強く、颯斗は彼女の台詞を待った。
「荘一郎さんが帰ってきたら、お嫁さんになるの」
綾音の口から出た文章が、颯斗には一瞬理解できなかった。いや、したくなかった、のかもしれない。
「……荘一郎が?」
うつむいていた綾音が、パッと顔を上げる。
「違うよ! わたしが! 荘一郎さんの! だよ」
「ああ、そっか。おめでとう」
颯斗は、かろうじてそう答えた。
我ながら、平坦な声だった。けれど、綾音は気付いていない。真っ白になった颯斗の頭の中なんて知る由もなく、幸せそうに微笑んでいる。
「荘一郎さんが海外勤務を志願したのは、あれを受けたら本社勤務になれるからっていうのもあるの。本社勤務になったら転勤とかないから、その方がわたしにはいいだろうって」
「ふうん」
つまり、三年近く前から、ということだ。
颯斗が綾音と出逢う、ずっと前から。
「わたしが高校卒業したらって、もうずっと前から約束してくれてたんだ。で、今回の出張に行く前に、くれたの」
綾音が、まるでそれがかけがえのない宝物であるかのように、指輪を撫でる。
キラキラしい宝石ではなくて、可愛らしい花をかたどった、指輪。
綾音にとてもよく似合っている。
きっと、荘一郎は綾音のことをよく知っていて、綾音らしくて綾音が一番喜ぶものを選んだのだ。
綾音は幸せそうだ。
この上なく。
それが、颯斗の全身をキリキリと締め付けた。
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