凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<叶う筈のなかった夢、そして……>

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 綾音あやねは、圧倒的な破壊力を持って、颯斗はやとの前に立っていた。

 その姿は、メイドだとか猫耳だとか、そういう代物ではない。
 颯斗が着ているような時代錯誤なものでも、たかしがまとっているどこの世界の人間だよ、というものでもない。
 ある意味、この上なくありふれた格好だと言ってもいいだろう。
 多分、そのまま校内を歩いても、誰も気にしないに違いない。

 ――ただ一人、颯斗を除いては。

 あまりに似合い過ぎているその『仮装』に、彼は絶句したまま立ち竦む。
 そんな彼に、綾音の笑顔が曇った。

「颯斗くん? これ、おかしい? 変?」

 おずおずとそう訊いてきた彼女に、颯斗はとっさに返事をすることができなかった。代わりに答えたのは、隣にいた隆だ。

「いやいや、全然。すっげ、似合ってる。なあ?」
 同意を求められても、颯斗はまだ反応できずにいた。そんな彼を、隆が肘で小突く。

「あ、ああ……似合ってる」

 辛うじて、それだけ答えた。
 実際、よく似合っているのだ。彼女が身に着けているその衣装――この学校の制服は。
 まるで、今現在ここの生徒であるかのように、全く違和感がない。
 嘘偽りなく正直なところを言えば、綾音がこうやって同級生として自分の傍にいるところを、颯斗は妄想――いや、想像したことはある。
 登下校で挨拶したりとか、同じ教室で授業を受けたりとか、昼を一緒に食べたりとか。
 そりゃ、想像するに決まっている。
 自分があと三年早く生まれていれば、と何度願ったことか。
 そうすれば、同級生はムリだとしても、同じ学校に通うことはできていた筈だ。
 だが、それはあくまでも夢想に過ぎなくて、まさか実現するとは夢にも思っていなかった。

「ちょっと、有田君? 何呆けてんのよ」
 固まっていた颯斗を、飛び込んできた声が解く。

 全く気付かなかったが、いつの間にか木下が綾音の後ろに立っていた。彼女は背後から綾音の両肩に手を置いてにんまりと笑う。

「ふふ、どうよ、あたしのチョイス」

 どうよと言われても、どう答えたらよいものか。
 口ごもっている颯斗に助け舟を出してくれたのは、やはり隆だった。

「まあ、感想は後でじっくり聞くとして、取り敢えず校内周ってくれば? 有田、予定じゃ休憩午後だったっけ? 適当に調整しとくから、行ってこいよ」
 彼の台詞に、木下もうんうんと頷いている。

 颯斗はチラリと綾音に目を走らせた。制服を着た彼女は、キョトンと彼を見ている。
 果たして自分は、綾音と一緒にいたいのだろうか。
 この、同級生にしか見えない綾音と。

 ――正直、判らない。

 夢は夢のままなら安心して見ていられるが、それが現実になると戸惑うばかりだ。

「でも――」
「いいからいいから」

 渋る颯斗の背中を、隆がグイグイと押してくる。気付けば廊下に追いやられていて、隣に綾音が立っていた。

「もしかして……わたしと歩きたくない? そうだよね、こんな格好だし……颯斗くん、恥ずかしいよね」
 そんなことを言われてうつむかれたら、それ以上颯斗に何が言えようか。

「……行こう」

 颯斗は綾音を促し、歩き出す。横目で彼女を窺えば、フワッと嬉しそうな笑顔を浮かべたのが視界の隅に映った。

(やっぱ、嬉しい、か)

 心境は複雑だが、嬉しいことは嬉しい。その気持ちはごまかしようがない。
 何だか有耶無耶のうちに踏み出してしまった一歩から始まったが、にぎやかな校内を歩いているうちに、颯斗の胸の中からはモヤモヤしたものが抜けていく。

 文化祭の非日常的な雰囲気が良かったのか、単純に人混みの中にいるから油断しているのか、ここしばらく綾音が鎧のように身にまとっていたぎこちなさが消え失せている。
 次々と現れる奇抜な模擬店に目を丸くする綾音を見ているのは、単純に楽しかった。
 オーソドックスなものもあるが、どちらかというとイロモノが多い出店の数々に、クスクスと笑いながら綾音が言う。

「颯斗くんの学校って、ほら、『エリート』っていうイメージあるから、なんか、意外」
「どいつも外面はいいよな」

 久しぶりに――実に久しぶりに目にする自然な綾音の笑顔から視線を外すことに脳の八割を割きながら、颯斗は上の空で答えた。

 颯斗が通っているのは全国模試では各学年、誰か一人は上位十人に入り、品行方正、文武両道を個々人が首からぶら下げているような高校だが、一歩校内に足を踏み入れれば全然違う。今が文化祭だから、というわけではなく、割と普段からこんな感じなのだ。

「なんかね、研究発表とか、そういうのやってるのかと思ってたの」
「ああ……一部のコアな部活とかがやってないこともないけどな……」
 ただ、その研究内容はかなりマニアックだが。

 一般客をビビらせるから、と、彼らには生徒会命令が下されて、うっかりノーマルな人が足を踏み入れることがないように最上階に集められていた。そこに至る階段には立札が置かれていて、逆に変な好奇心をそそってしまうのではないかという注意書きが貼り出されている。
 その立札を横目で見ながら綾音が呟く。

「……ちょっと見てみたいかも……」
「いや、えっと……綾音は、やめておいた方が」
「そうなの?」

 怖いモノが苦手な綾音には絶対見せられないような代物もあるから、それ以上突っ込まれると返事に困ってしまう。颯斗は話題を変えることにする。

「なあ、綾音。綾音の学校はどんなだったんだ?」

 無難な質問の筈だった。
 だが、何故か綾音はフツッと黙り込む。

「綾音?」
「あ、ううん。えっと、わたし……あんまりこういう催し物に参加しなかったから……」

 苦笑に近い笑みを浮かべた綾音に、颯斗はああ、そうだったと思い出す。
 学生だった頃の綾音は、人と交わらないようにしていたのだった。
 綾音には、今も『友達』がいない。少なくとも、数年ほとんど毎日一緒にいても、彼女の友達だと紹介された人物はいない。
 綾音のコミュニケーション能力に問題があるというわけではないと思う。店での客への態度を見る限り、彼女がその気になりさえすれば、誰とでもすぐに親しい仲になれただろう。きっと、十人中八人は、彼女といれば心地良くなれる。

(綾音がもっと世界を広げようとすれば、きっと、色んな奴と知り合って、仲良くなる)

 そうしたら、彼女に惚れる男だって出てくる筈だ。
 店の常連にも若い男がいるが、何となく暗黙の了解で綾音には『そういう意味』で手を出そうとはしない。中には、「こいつ、絶対彼女に気があるよな」という男も二、三人いるが、アプローチしてくることはなく、一歩引いて見守っている感じだった。

 多分、荘一郎《そういちろう》のことがあるからなのだろう。
 確かに彼はいなくなったけれども、常連は皆、綾音がどれほど彼の事を想っていたか知っているから、二の足を踏んでしまうのだ。

 だが。

(俺は、諦めやしない)
 颯斗はきつく拳を握り締めた。

 たとえ何年かかっても、綾音をこちら側に引っ張り出して見せる。
 見守る彼らの方が『大人』の対応なのかもしれないけれど、颯斗にはそんなことはできなかった。
 荘一郎がいない今、むしろ綾音に世界を見せる人間が必要なのだ。そうしなければ、益々彼女は閉じこもってしまうに違いないのだから。

 だが、もしも荘一郎が今も彼女の傍にいたとしたら――
 ふと、颯斗は考える。
 自分は、綾音の幸せの為ならば、と自分の想いを諦めていただろうかと。

(無理だ)

 まだ子どもだった頃のぼんやりとした憧れ程度であれば、できただろう。
 だが、今の颯斗には無理だった。
 綾音の幸せを願う気持ちは変わらない――いや、育つ一方だ。
 しかし、子どもの頃には荘一郎に委ねようとしていた役割を、今は自分のものにしたい。彼女を幸せにするのは自分のこの手でありたいのだ。

「颯斗くん?」

 名前を呼ばれて、颯斗は我に返る。
 と、黙りこくっている彼に首をかしげた綾音のすぐそばのドアから、突然、五、六人の男子生徒が塊で出てきた。
 とっさに颯斗は彼女の腕を掴んで自分に引き寄せる。

「あ、ゴメン」

 危うくぶつかりそうになった男子の一人が、ペコンと頭を下げる。綾音が笑ってかぶりを振ると、そのまま立ち去るはずだったろう彼はふと足を止めた。

「あれ、君、一年? オレもなんだけど……何組?」
「あ、違うんです、この服、借り物で。もうとっくの昔に高校は卒業してるの」
「へえ。そうは見えないなぁ――じゃなくて、見えないですね。……同級生だったらよかったのに」
 そう言った彼の目が、何となく颯斗は気にくわない。

「綾音、行くぞ」
 つないだ手を引っ張って歩き出そうとした颯斗たちに、しつこく声が追い掛けてきた。

「あ、それ、何組の出し物?」
「さ――」
 肩越しに振り返りながら答えかけた綾音の台詞を奪って、颯斗は答える。
「三組」
 投げつけるようにそれだけ言って、あとはチラリとも目もくれずに大股に歩き出した。

「颯斗くん?」
 ほとんど小走りになった綾音が、戸惑ったように呼びかける。

 そこでようやく足を緩め、颯斗は一度小さな深呼吸をした。そうやって、胸の中のざわめきを抑え込む。

「ごめん。あいつら、馴れ馴れしくて」

 ナンパもどきのあの男子生徒の態度のことを謝るふりをして、颯斗は綾音の様子を探った。
 彼の苛立ちの原因が解かってホッとしたのか、彼女は小さく微笑んでかぶりを振った。

「あ、ううん。別に気にしてないよ」

 気にしろよ。
 そんなふうに、颯斗は心の中で突っ込んでしまう。
 一度は抑えた胸の中のさざ波が、また、大きくうねった。
 軽く流されているあの生徒の姿が、自分に被る。

(俺もアイツも、『子ども』だからなのか?)

 いつまで経っても、範疇外のままなのだろうか。
 再度湧いた苛立ちは、今度は鎮められそうもなかった。

(もう、限界だ)
 颯斗はまた歩き出す。綾音の手を、きつく掴んだままで。

「颯斗くん、こっちって入っていいの?」

 人が少なくなり、模擬店の看板もなくなってくると、綾音がいぶかしげな声で訊いてきた。それを無視して、颯斗は歩き続ける。
 辿り着いた先は、物置代わりにしている空き教室だった。中に綾音を引っ張り込むと、引き戸を閉めて鍵をかける。

「颯斗くん? ここ……」

 使われていない椅子や机が放りこまれた部屋の中を見回した綾音の声に、心許なげな響きがにじむ。
 颯斗はつないだ手を放さず、もう片方の手も握り締めて、彼女を見下ろした。
 ジッと見つめると、綾音は微かに肩を強張らせた。手を引きたそうにするのを、握った手に力を増して止める。

「俺、この間綾音のことを愛してるって言ったよな?」

 唐突に切り出した颯斗に、綾音は固まった。大きな目をさらに大きく見開いて、彼を凝視してくる。
 本当は、こんなふうにするつもりじゃなかった。
 もっと彼女の気持ちを和らげて、時も場所も吟味して、準備万端整えてからにしようと思っていたのだ。

(でも、そんなの無意味だよな)

 颯斗は半ば諦め、半ば理解し、胸の中でそうつぶやく。

 いつ、どんなふうに告白しようと、きっと綾音にとっては大差ない。
 ――そう、颯斗が何をどうしようとも、彼女はこんなふうに「信じられない」という顔をするだけなのだ。

 曖昧な笑みを浮かべ、おずおずと綾音が彼を見上げてくる。

「だって、アレは……そういう意味、じゃ、ないでしょ? からかっただけだったんだよね?」
「そうやって逃げるなよ」
 恐る恐るの問いかけに鋭い声でそう返すと、彼女は小さく息を呑んだ。

「逃げる……って、わたし、そんなこと……」
「してるだろ。綾音はいつも逃げてる」
 綾音の指先がひんやりとしてきたのを感じて、颯斗は少し手の力を緩めた。

「けど、俺も、逃げてた。今の状況を変えたくなくて。今よりも悪くなることが怖くて。でも、駄目なんだ。もう、無理なんだ」

 綾音の目が、「何が?」と問いかけている。けれども、答えを知りたくはないという気持ちもあるのか、言葉では訊ね返してこようとしない。
 ふい、と目を逸らすように俯いた綾音の、つむじが目に入る。

 いつの間にか、頭半分以上、彼女よりも背が高くなっていた。
 こうやって間近に立って、彼は改めてそれを実感する。

(綾音は解かってんのかな)

 もちろん、解かっているに決まっている。
 声が低くなっていることだって、綾音よりもずっと大きくなっていることだって、彼女は気付いていた筈だ。

 ただ、見ないようにしていただけで。

 綾音は、確実に時は流れているのだということを直視したくないのだろう。
 颯斗の外見がどんなに変わろうとも、彼女はそれを見ようとしない。
 彼女は、『あの時』から世界が何一つ変わらずにいることを望んでいるから。
 だが、変わらないものなど、存在しない。
 全てのものは、常に変化する。
 颯斗だって、見てくれなどというはた目にも明らかな部分だけでなく、変わっていく。いつまでも『綾音が拾った子ども』ではいられないのだ。
 それを、綾音に解からせなければならない。
 たとえ彼女が永久にそうであることを望んでいるのだとしても、それは絶対に不可能なのだということを。

 少し待って、颯斗は大きく息を吸い込んだ。
 そのわずかな気配で、綾音はビクリと身をすくませる。
 溜めていた息を吐き出すようにして、颯斗は告げる。

「俺は、綾音を好きなんだ」

 真っ直ぐに綾音の目を見つめている彼に対して彼女がかぶりを振ったのは、反射的なものだったのか、それとも否定の意思の表明だったのか。

 逃げようとする綾音の気持ちを引き留めるように、颯斗は彼女の手を握った手に力を込めた。そうして、丸い頭の天辺を見つめながら、続ける。

「綾音がどんな返事をよこしても、この気持ちは変わらない。変えられないんだ。俺は多分、死ぬまで綾音しか好きになれない」

 きっぱりと断言した颯斗に、綾音の肩が強張った。
 こんなふうに言うことが、綾音を逃れようなく追い詰めてしまうことは解かっている。けれど、颯斗にはそうとしか言えなかった。
 顔を上げた彼女の目は、まるで颯斗が初めて会う人間であるかのような戸惑いに満ちていた。その目は、口よりも雄弁に、「この人は誰?」と言っている。

 いっそ、そう思ってもらった方がいいのかもしれない。
 まっさらな状態に戻した方が、軌道を修正する余地が出てくるのだろうから。

「そろそろ、戻らないと」

 最後にもう一度力を込めてから、颯斗は彼女の手を放す。静かな声での彼の言葉に、綾音はぎこちない仕草で小さく頷いた。
 表情の抜けた綾音の顔に、颯斗は自分が彼女の中の何かを壊してしまったことを悟る。
 そのことに胸が締め付けられたが、もう後戻りはできなかった。

 颯斗は彼女の背中に手を添えて促し、部屋を出る。
 扉を閉める時、ふと、この部屋が二度と見たくない場所になるのだろうか、それとも喜びをよみがえらせてくれる場所になるのだろうかと、颯斗は考えた。
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