凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<囚われた想い>

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 颯斗はやとがいくら悶々としていても鬱々としていても、時間は勝手に過ぎていく。

 十一月はあっという間に通り過ぎ、十二月がやってきて、二学期最後のイベントである期末試験も終わってしまった。
 何もしなければ己がしでかした大失態を思い出して死にそうな気分になってしまうから、颯斗はいつになく勉強にのめり込み、この試験ではこれまでにない高得点を記録した。

「お前さぁ、これちょっとおかしくね?」

 たかしが頬杖を突きながら、ずらりと並んだ九十点を下ることのないテスト結果の紙切れを振る。そこにある名前は彼のものではなく、颯斗のものだ。

「今回の期末、どれも平均点六十行かなかったんだぜ? なのに何これ、数学九十八点? 逆に何をしくじったんだよ」
「……一問、最後で解答欄に答え書き忘れた」
「はあ?」

 隆が感心と呆れの入り混じった声をあげる。

「ほっとけよ」
 ボソリと颯斗は返した。

 数学は試験期間最後の科目で、この問題を解き終えたら他にすることが無くなるのだと思ったら、つい綾音あやねのことが頭をよぎってしまったのだ。途端、手が止まって動かなくなった。

「お前って、ほんとに、他の事は完璧なのに……」

 言外に滲ませているのは、綾音のことだろう。

「うるさい」
「はいはいわかった何も言いませんよ」

 肩をすくめた隆が、首を振りつつそう言った。そうして昨夜観たテレビの内容を話し始めた彼の声を、颯斗は耳から耳へと聞き流す。

 ――彼女にしてしまったことを、隆には話していない。

 けれど、颯斗を見ていて、何かあったのだということには気付いているのだろう。実際、毎日欠かさず入り浸っていた利音りねの店に、もう一ヶ月以上行っていないのだから、おかしいと思われない筈がない。
 むっつりと黙り込んでいる颯斗に、不意に隆がはぁ、とため息をこぼした。

「……なんだ?」
「もうじき冬休みだけどさぁ、お前、どうすんの?」
「ん、ああ……」
 問われても、うやむやな声しか返せない。

「……年が明ける前にさ、一回行っといた方がいいんじゃないのか?」

 隆は『どこに』とは言わなかったが、颯斗には通じた。
 そうするべきなのは、彼にも解かっている。
 だが、自分が綾音にしたキスを、拒まれるのも、無かったことにされるのも、どちらも耐えられなかった――颯斗には、そのどちらかの反応しか、想像できないというのに。

「……」

 無言を貫く颯斗の耳に、また、小さなため息が届いた。

「まあ、あんまりこじれさせるなよ?」

 そうしたいのはやまやまだ。
 颯斗は、苦々しく胸の中でそう隆に返した。


   *


 滅多に鳴らない電話のベルが部屋の静寂を破ったのは、隆とそんな遣り取りをしてから三日後、颯斗が黙々と独りで夕食を平らげている時だった。
 時計を見れば、二十時を回ろうとしている。
 こんな時間に誰だろう、という以前に、そもそも、いったい誰が電話などしてくるのだろう。

「……有田です」
 首をかしげながら受話器を取ると、聞こえてきた声に、彼は一瞬ドキリとした。

「颯斗?」

 聴きたい声に、とてもよく似た声。
 けれど、彼女は、こんなふうには彼を呼ばない。

「――利音?」
「久し振り」

 利音は、ある日突然ふっつりと颯斗が姿を見せなくなったことなど、まるで気にしていない口調だった。

「……どうかしたのか?」
「えっとさ、すぐに来てくれないかな」

 利音自身に何か困りごとがあって颯斗を呼ぶことなど、まず有り得ない。用があるとすれば、それは――

「わかった」

 颯斗は短く答えて、放り投げるようにして受話器を置く。食べかけの食事をそのままに、上着を取った。
 走り通して駅前に着き、息を切らせた颯斗が乱暴に店のドアを開けると、閉店時間をとうに越した店内には利音の他に誰もいなかった。

 ――もう一人、いるべき者も。

「綾音は?」

 途切れ途切れに颯斗がそれだけ口にすると、利音は無言で立てた指を颯斗の背後に向ける。釣られるようにしてそちらを振り返ると、目に入るのは駅前に植えられている大木だ。それには、三日ほど前からイルミネーションが飾り付けられている。
 だが、それだけではない。
 よくよく見れば――

「……綾音?」

 大きな木の脇に、小柄な姿がポツンと立っている。

「あれが点き始めてから、毎日、消えるまでああやってるのよ」
「でも、消されるのって十時くらいじゃ?」
「そ。店が閉まってからだけどね。毎晩毎晩、二、三時間よ。私が言っても生返事すらくれなくてね」

 十二月も半ばになって、冷え込む晩が続いている。今日も確か、この冬一番の寒さだとか天気予報で言っていた筈だ。

「……行ってくる」
「よろしく」

 短いけれども、切実な響きが込められた、利音の声。それに背を押されるようにして、颯斗は店を出た。

 辿り着く前に綾音の目が向けられると、自分がどんなふうになるのか判らない。
 だから彼は、意識して足音を殺して彼女に近付いた。
 が、あと三歩ほどのところで綾音の頭が動く。
 首をかしげるようにして颯斗を見た彼女と、視線が絡まった。
 綾音は、確かに彼を視界に入れている。けれど颯斗は、彼女の中には入れていないような気がした。
 そのうつろな眼差しに、彼の胸がキリキリと痛む。

 彼女に触れたい。
 肩を掴んで揺さぶって、俺を見てくれ、と声を大にして要求したい。
 あるいはきつく抱き締めて、自分の温度を彼女に伝えたい。

 ――そんな欲求を、颯斗は両手を固く握り締めて抑え込む。

 今の綾音にそうしてみても、彼女はいっそう硬い殻の中へと閉じ籠ってしまうことが判りきっていたから。
 綾音の眼差しは束の間颯斗に留まり、またイルミネーションへと戻される。
 そして、彼から視線を外したまま彼女は呟いた。

「毎年、このイルミネーションが点くとね、荘一郎さんと一緒に眺めたの」

 その台詞が颯斗に向けられているようには思われず、彼は黙ってポケットの中に両手を突っ込んだ。
 綾音はまるで颯斗など存在していないかのように、ジッと輝く大木を見つめている。
 冷たい空気がしんしんと身に沁み込んでくるけれど、颯斗も、彼女にかける言葉を見つけられずにその傍に佇んでいることしかできなかった。

 しばらくそうやって黙り込んだままイルミネーションをぼんやりと眺め続ける。
 綾音の吐息は口元に白く漂って、頬は寒さで紅くなっている。もう一時間以上もこの場に立っているのだから、きっと身体の芯まで冷気に侵されているだろう。

 初めて彼女と出逢ったのは、この場所だ。
 あの時彼女は凍える颯斗の手を取り、温もりを与えてくれた。
 今、冷え切った綾音の身体を温めてやりたいのに、颯斗は指先一つ動かせずにいる。ただ、こうやって、隣に立ち竦むだけで、かける言葉一つ見つけられずにいるのだ。

 唇を固く結んだ颯斗をよそに、また綾音が呟く。

「嫌なこととかもあった筈なのに、楽しかったことしか思い出せないの」
「え?」

 あまりに漠然とした台詞に、颯斗は眉をひそめた。そんな彼に答えたふうでもなく、ポツリと綾音が続ける。

「どんどん、荘一郎さんを忘れていってしまうの」

 そう言った綾音の声は震えていて、思わず颯斗は手を伸ばしてしまう。けれど彼女は、それから逃れるように微かに身を引いた。
 拒まれて固まった颯斗に目を向けることもなく、綾音はぼんやりと続ける。

「荘一郎さんの温度も、声も、前みたいには思い出せない……」

(荘一郎、荘一郎って――)

 俺が、ここにいるのに。
 どうやっても、自分の声は彼女には届かないのか。

「アイツは、もう戻ってこない」

 歯ぎしりをするように、唸るようにそう言った颯斗に、綾音の肩がビクリと震えた。
 再び伸ばした颯斗の手が、今度はしっかりと綾音の両の二の腕を掴んだ。イルミネーションから引き剥がすようにして自分の方に向き直らせた綾音の目を、彼は覗き込む。

「綾音。荘一郎は、もういないんだ」
 きっぱりとそう言い切ると、綾音の唇が震えた。

「綾音、俺を見て」
「いや……」
「綾音!」

 綾音の腕を掴んだ手に力を込めると、彼女は激しくかぶりを振る。

「いや! だって、みんな、颯斗くんに変わってしまうんだもの!」
「……え?」

 思わず、颯斗の手から力が抜けた。彼から逃れた綾音が、後ずさった。
 そして、血を吐くように、言葉を吐き出していく。

「颯斗くんのせいよ。颯斗くんのせいで、わたしの中の荘一郎さんが、どんどん消えていっちゃう。わたしは、いやなのに! わたしは荘一郎さんを消したくないのに! 荘一郎さんはいるのよ! ずっと!」

 子どものように声をあげる綾音を、通り過ぎる人々が振り返っていく。だが、颯斗にはそんな他人の視線など全く目に入らなかった。

「綾音……」
「いや! わたしは荘一郎さんの笑顔を忘れたくない! 忘れたくないの! 荘一郎さんがどんなに優しかったかとか! どんなふうにわたしに触れてくれたかとか! ……わたしは、荘一郎さんを消したくない……」

 ボロボロと、綾音の丸い頬を滴が零れ落ちていく。

「なのに、いつの間にか、思い出そうとして出てくるのは、颯斗くんばっか……なんで……なんで、荘一郎さんじゃないの……」

 手を伸ばした颯斗に綾音はまた身体を引こうとしたが、それを赦さず彼は彼女を捉える。抵抗を封じて腕の中に包み込んだ。

(俺の気持ちは、ちゃんと届いているんだ)

 今、彼女が吐露したのは、そういうことなのだ。
 それは、嬉しい。
 とてつもなく、嬉しい。
 だが、その颯斗の想いが、こんなにも彼女を苦しめてしまっている。
 それは辛くてたまらなかった。

 颯斗はもがく彼女の背中と頭の後ろに手を置いて、自分の身体に押し付ける。そうして、冷えた柔らかな髪に頬を埋めた。

 綾音は、まるで、荘一郎という名の氷に囚われているようだ。
 颯斗は彼女を抱き締めている腕に力を込める。
 そうやって自分の熱を与えれば、その氷を解かせるような気がして――そうなることを切実に望んで。

「荘一郎はいないけど、消えやしない。昔言っただろ、荘一郎が綾音を変えてくれたんだって。だったら、今の綾音があることが、荘一郎がいたっていうことになるんじゃないか?」

 綾音は、何も言わない。
 拒まないことを肯定だと捉えて、颯斗は続ける。

「それに、俺だってそうだ。俺は、荘一郎が変えたっていう綾音に変えられたんだ。今の俺があるのは、今の綾音がいたから――荘一郎がいたからなんだ。綾音がいること、俺がいることが、荘一郎がいたっていう証拠になる。俺や綾音がいる限り、荘一郎は消えないんだ。アイツのことを綾音が忘れてしまっても、綾音の中にはちゃんとアイツが残ってるんだ」

 きつく抱きすくめると、華奢な方がヒクリとしゃくりあげた。寒さのせいではない、小刻みな震えが颯斗に伝わってくる。

「綾音……?」

 口元にある耳朶に向けて名前を囁くと、彼女の身体は微かに強張った。
 そして、震える、か細い声。

「おねがい……おねがいだから、わたしの『特別』にならないで」
「嫌だ。俺は綾音の『特別』になりたいんだ」

 いない者を胸の中の神殿に掲げていつまでも崇めているなんて、それが良いことだなどとは颯斗には思えない。
 このまま荘一郎の思い出に囚われていることが、綾音にとっての幸せなのだとはとうてい思えなかった。

「俺のこと、『真冬に拾った可哀相な子ども』として見るの、やめてくれよ。もう、俺は全然子どもじゃないし、可哀相でもないんだから」

 颯斗は腕を緩めて少し身体を離し、また、綾音の顔を覗きこむ。うつむかれそうになって、両手で彼女の顔を包み込んで閉じ込めた。

「俺は、綾音のことが好きなんだ。触りたいとか抱き締めたいとかキスしたいとか、そういうふうに思ってる」
「いや……」
「綾音」
「いやだよ」
「綾音、逃げないでくれよ」
「いや。わたしは、そんなふうに思いたくない。もう、二度と……」

 震える声。
 揺れる眼差し。
 ガラスのようにもろく見える綾音の中にあるものは、混乱と怯えの色だ。
 けれど、その手は、多分綾音自身も気付いていないのだろう、硬く颯斗の上着を握り締めている――まるで、天から垂らされた細いクモの糸にすがりつくように。

(やっぱり、離れているなんて無理だ)
 颯斗は諦めの境地とともに胸の中でそう呟く。

 傍にいても距離を置いても彼女が同じように苦しむのなら、傍にいる方がいい。
 彼は、もう一度綾音を腕の中へと包み込む。

「俺は、離れないからな」

 その宣言に漏れた綾音のため息が安堵に因るものだったのか、拒絶に因るものだったのか。
 颯斗にはどちらでも構わなかった。
 いずれにしても、彼が取る行動は、変わらないのだから。

 決意を新たに、颯斗は凍えても柔らかさを失わないその髪へと頬を埋めた。
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