凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<雪解けの時>

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 並んで座った新幹線の中で、綾音あやねはずっと無言だった。何か考え込んでいるような眼差しを、ずっと、窓の外に向けている。

 朝、颯斗はやとと顔を合わせた時は微かな笑みを浮かべて「おはよう」と言ってくれたけれど、それきりだ。切符を手渡された時も、電車がホームに入ってくるのを待っている間も、だんまりで。
 シャッターを下ろしているかのようにその内部を全く見せない彼女に、颯斗はもどかしさを覚える。
 手持無沙汰で手の中の切符に目を落として、そこに印字されている地名にため息をついた。

(だいたい、なんでこんな所まで行くんだよ?)

 当然抱いて然るべきその疑問も、まだ綾音に投げていない。

 ――綾音から「海に行きたい」と言われた時、颯斗が思い浮かべたのは電車で一、二時間もあれば行ける、太平洋側の海だった。多少の乗り換えはあるけれど、ルートもさして難しくない、メジャーな海水浴場。
 だからいとも気軽にうなずいたのだけれど、彼女が望んだのは、そうではなかった。

「えっと、ね、ちょっと遠いんだけど」

 そう切り出した綾音が挙げたのは、日本海側――しかも本州の西の端、山口県の最西端。

「駅員さんに訊いてみたら、ここで降りたら海岸が近いって」

 そう言って彼女は一つの駅の名を口にし、地図を指差しながらその駅があるらしき場所を示したが、当然、颯斗は耳にも目にもしたことがない。

「……そこ、日帰りできるのか?」
「え、あ、……ごめん、判らない」

 申し訳なさそうにうつむいた綾音に、颯斗はため息をついた。

(もしも日帰りが無理だったら、俺とどこかに泊まる羽目になるんだぞ?)
 そう、胸の中でぼやきながら。

 彼は綾音たちの家――というか店に入り浸ってはいるけれど、当然、泊まったことはない。何度か彼女と出かけた時も、もちろん日帰りだ。
 だが、綾音が言う場所に行って帰ってくるには、日付が変わってしまうのではないだろうか。そう思う、いや確信するほど、遠い。

「じゃあ、調べておくから」
「え、わたしやるよ?」
 そう言った綾音を、颯斗は疑わしげな眼差しで見返した。

 彼女は、ネットどころかメールもろくに使わないのだ。ずっと店に居てテレビもほとんど観ないから、世俗の情報をどうやって仕入れているのか、首をかしげたくなる。

「いいよ、ネット使えば簡単だから。綾音はあんまりやらないだろ」
 颯斗が肩をすくめてそう返すと、彼女はふわりと微笑んだ。
「ありがとう」

 辺りの空気に溶けてしまいそうなその笑顔に、颯斗の理性がぐらりと揺れる。彼女に伸びそうになる手を身体の脇でグッと握り締め、ついでに奥歯も噛み締めた。
 今、綾音を抱き寄せでもしたら、また彼女は警戒心の塊になってしまうだろう。二人きりで遠出をしようという時にそんなことになってしまっては、出かける話が撤回されてしまうかもしれない。
 颯斗はこっそり、深く息を吸って、吐く。

「……明日までには調べておく」
「うん」
 うなずいて、綾音はまた惜しげもなく笑顔を見せた。

 ――電車で隣り合わせに座っている間、こんなふうに無防備な顔をダダ漏れにされたら自分をどこまで抑えていられるか自信がない。

 そう思っていた颯斗だったが、いざその状況になってみると、そんな心配など全く要らなかったことを思い知らされたのだ。
 何せ綾音は、ほんの一瞬たりとも彼の方を見ることさえしないのだから。

(まあ、助かったと言えば、助かったんだけどさ)
 綾音の横顔をチラリと見遣り、颯斗は内心でそうぼやく。

 彼女には聞こえないようにこっそりとため息をついて、颯斗はカバンの中から英単語の本を取り出した。大学受験用のものだが、深く考える必要なく集中できるので、暇つぶしには最適だ。
 時計に目を走らせると、乗ってからまだ三十分ほどしか経っていない。
 新幹線で一旦福岡県まで行き、そこから在来線で山口県に戻ることになっている。少なくともあと四時間は乗り換えなしで座りっ放しだ。
 もう一度綾音の顔を見つめてから、颯斗は本へと目を落とした。


   *


 旅に不慣れな二人だったにもかかわらず、目的地には特にトラブルもなく辿り着くことができた。
 颯斗と綾音は歩道から海岸へと続く階段を下る。
 どことなく湿った感じの砂浜を踏み締め辺りを一望したが、二月の海水浴場に当然人影はなく――そして、寒かった。
 正面から強く吹き付けてくる突風に、颯斗は眉をしかめる。

「綾音、寒くないか?」
 少し前を歩いている彼女は、向かい風によろめきながら、振り向いた。
「だいじょうぶ。風、すごいね」
 そう言った矢先に、唸るような空気の塊に煽られて綾音がたたらを踏む。次いで砂に足を取られて転びそうになった彼女の腕を捕まえて、颯斗は自分の身体に引き寄せた。

「あ、ありがと」

 彼女の腕を取ったまま風上に立って多少の風防になろうとした颯斗に、綾音が微笑みを返す。分厚いコートを通してだから彼女の体温なんて感じるはずがないのに、細い腕をつかんだ手がなんだか温かい。

「気をつけろよ」
「うん……ふふ」
 うなずき小さく笑った綾音に、颯斗は眉根を寄せる。
「なんだよ?」
「……なんでも、ないよ」
 そう言った彼女の表情は、電車の中とは打って変わって柔らかい。まるで、身体中にまとわりついていた見えない糸が、きれいさっぱり消え失せたようだ。

(これは、いい兆候なのか? それとも……)

 ガラリと変わった彼女の雰囲気をどう受け取ったらいいのか、判らない。悶々と悩む颯斗の眉間に刻まれた溝は一層深くなったが、綾音はそれに気付いたふうもなく屈託なく彼を見上げてくる。

「もうちょっと、あっちに行ってもいいかな」
 あっち、と言いながら、彼女が海へと目を向けた。

 うっかり近付くと飛沫で濡れてしまいそうだが、颯斗は肩をすくめて歩き出した。
 それから波打ち際までは、どちらも無言で進む。
 間近で見る冬の海は、荒々しかった。ザン、ザンと何かを放り投げるような波音が繰り返され、少し離れた所からも、岩に砕ける波の音が届く。

(海ってこんなだっけか?)

 曖昧な記憶を辿ってみたが、もっと穏やかだったはず。
 颯斗が行ったことがある海は小学校の時の臨海学校くらいだが、少なくとも、こんなには荒くなかった気がする。
 綾音は颯斗から離れ、つま先が濡れそうなほど、海に近付く。しばらく黙って佇んでいたけれど、やがて口を開いた。

「あっちに、荘一郎さんがいた国があるの」

 ポツリ、とそう言いながら、綾音は腕から指先まで真っ直ぐに伸ばして、真西を示した。釣られるように颯斗もそちらに目をやったけれど、見えるのは緩やかな曲線を描く水平線だけだ。

「荘一郎さんは、川に流されたんだって。ずっとずっと上流だったんだけど、両岸も川の中も河口までたどっても、見つからなかったの」

 呟きは風や波の音にかき消されがちだった。言い終えた綾音は、パタリと手を下ろす。

「この海に、荘一郎さんがいるのかもしれない」

 彼女の声は淡々としていて、何の感情も込められていなかった。少なくとも、颯斗には、悲しみも憧憬も渇望も感じ取れなかった。
 ただ、事実だけを述べた――そんな感じ。
 けれど、その台詞は、颯斗の中に焦燥混じりの不安を掻き立てる。荘一郎を想いながら海を見つめる綾音は、今にもその中へと溶け込んでいってしまいそうだったから。

「綾音……」
 呼びかけても、彼女は振り返らない。

「綾音!」
 声を、強めても。

 颯斗は綾音に駆け寄り、彼女の視線を海から引きはがすように、腕を掴んで自分の方へと向き直らせた。身体から一拍遅れて、大きな目が彼を見上げてくる。

「……わたし、荘一郎さんに会いたい」
 か細い声でのその願いに、颯斗はグッと心臓が縮まる。
「そうだな」

 ――だけど、あいつはもういないんだ。
 どれだけ、そう言ってしまいたかったことか。

 代わりに颯斗は綾音の細い身体を抱き締める。彼女の頭を手のひらで包み込み、自分の胸に押し付けた。
 そうやって、全身で彼女を感じる。

 回した腕に力を入れれば簡単に折れてしまいそうな華奢な腰。
 自分の半分の広さもないのではなかろうかと思うほど細い肩。
 片方の手のひらに収まりきりそうな、丸い頭。
 かつては見上げていた顔が、今は彼の喉元にある。
 いつの間にかすっぽりと腕の中に包み込めるようになっていたその存在が、颯斗の全てだった。

 綾音と初めて逢った時よりも格段に颯斗の世界は広がったが、それでも彼の世界の中心は彼女で、彼女がいなければ、彼の世界は回らないのだ。
 颯斗は、綾音がいればそれで充分だ。綾音がいれば、それでいい。

(綾音も、そう思ってくれればいいのに)
 自嘲と懇願に満ちた思いを、胸の中で呟いた時だった。

「わたしにとって、荘一郎さんは『全て』だったんだ」

 まるで彼の心の中を覗いたような綾音のその言葉に、颯斗は思わず腕に力を込める。だが、彼女は彼の反応には全く気付いていない様子で続けた。

「わたしね、最初に颯斗くんに声をかけた時、多分、颯斗くんに自分を重ねていたんだと思う」
「え?」
「わたし、お母さんとお父さんを亡くして、世界が壊れちゃったみたいだった。何をしても何も感じなくて、何もやる気になれなくて……そんな時に、荘一郎さんがわたしの手を引っ張ってくれた。わたしの手を引っ張って殻から連れ出して、もう一度、世界をくれたの」
 フフッと、小さな笑いが聞こえる。

「颯斗君に声をかけた時、あの頃の自分を助けてるつもりでいたんだ、きっと。あの時あそこに座ってた颯斗君は、寂しそうで、悲しそうで、今にも消えてしまいそうで……わたしが荘一郎さんに助けてもらったように、何かしてあげられたらって、思ったの」
 こぼれた小さな溜息。胸元にある頭が、下を向く。

「わたしに、そんなことができるはずがないのに」

 自分を嘲るその声に、思わず颯斗は彼女をきつく抱き締めた。風に乱されている柔らかな髪に頬をうずめるようにして、伝える。

「助けてもらった。俺は、綾音に助けてもらったんだ」
 あの凍える夜からだけでなく、その後も、ずっと。

 あの時綾音が颯斗の手を取ってくれていなければ、今の彼はなかった。きっと、息はしていても生きてはいなくて、ただ、虚ろな日々を過ごしていくだけだった。
 何の色もない、惰性の日々を。
 ただ『ヒト』として過ごしていた彼を、綾音が『人間』に変えてくれたのだ。
 その想いを、颯斗はそのまま声に出す。
 彼がどれだけ彼女を大事に想っているか、どれだけ必要としているか、どれだけ愛おしいと思っているか、伝わるように願いながら。

「綾音が、俺に世界をくれたんだ。綾音がいるから、俺は生きている」

 腕の中の身体が一瞬強張り、そしてフッと柔らかくなった。颯斗が押さえ付けるようにしていた頭からも力が抜けて、全身で、もたれかかってくる。

「……ありがと」
 小さな声が、彼の胸を温め、そして締め付けた。

 その言葉は、颯斗の方こそ口にしなければならないものだった。そうする代わりに、彼は腕に力を込める。

「わたしも、また、生きなくちゃ」

 そうだよね? と、確かめるように付け加えられた一言は、誰に向けられたものだったのか。

 颯斗はそれを問いかけることなく、ただ、黙ってうなずいた。
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