4 / 133
第一章:戦乙女の召還
来訪者①
しおりを挟む
宿として借りている納屋の扉を開けて入ってきたフリージアは、グルリと中を見回し、オルディンに目を留めるなり、言った。
「ねえ、スレイプを貸してくれないかな」
乏しくなりつつあった旅の物品を仕入れに行っていた彼女は、干し肉やら硬く焼しめたパンやらが入っている袋をどさりと下ろす。
「何だ、突然」
手入れをしていた剣の曇りをもう一度確かめてから鞘にしまい、オルディンはフリージアに胡乱な眼差しを向けた。ちょっと空の散歩を楽しみたいからなど、可愛らしい理由ではないことは明らかだ。
小さく首をかしげたフリージアが、続ける。
「あのさ、このパン焼いてくれるように頼んだ子、いただろ? ほら、三軒向こうの家の子。ネルっていうんだけどさ」
フリージアに言われて、オルディンは記憶をたどる。確か、彼女よりも二つか三つほど年上の娘だ。気立てが良さそうだったという印象は残っているが、顔だちまでは覚えていない。
「彼女が何か?」
「うん。そのネルのお父さんがさ、腰痛持ちなんだって。でも、痛み止めの薬草が切れちゃってるんだ」
「だから?」
「スレイプなら、薬草が生えてる山頂まで、ひとッ飛びだろ? ちょっと行って、採ってこようかなって」
「何で」
「何でって、痛いのって、イヤじゃないか」
「何でお前が行くんだよ。そのうち、行商人が来るだろう?」
「そんなの、いつ来るかなんて判らないよ。それを待たせるのか? 今、痛いのに?」
フリージアは、目に非難の色を漲らせてオルディンを睨んでいた。
オルディンはフリージアのことを大方理解しているつもりなのだが、時々、どうしても解からないことが出てくる。今のような彼女の言動も、その一つだった。
ネルは、別に長年の友達でもなんでもない。フリージアとオルディンは三日前にこの村に到着したばかりで、たまたま、保存のきくパンを焼いてくれるように頼んだというだけの相手だ。そんな相手の父親が腰痛持ちだろうが頭痛持ちだろうが、どうでもいいことではないかと、オルディンは思う。だが、フリージアにとっては、それは解消すべき問題事項なのだ。
オルディンは半ば呆れながら、彼女を見やる。
拳を握って仁王立ちになっているフリージアは、彼が反論しようものなら徹底抗戦する構えのようだ。いや、あるいは、こっそり夜中にでも抜け出すかもしれない。
今は晩夏で、獣たちが冬眠準備に入るには、まだ間がある。ここいら辺には先日の牙狼《きばおおかみ》のような凶暴なものはいなそうだし、そもそも、スレイプを連れていけば、たいていの獣は近寄ってはこないだろう――並みの警戒心を持つ獣は、飛竜の気配が漂うだけでも逃げ出す筈だ。
それに何より、今日訪れる予定の『客』から、まずはフリージアがいない状態で話を聞きたいと彼は思っていたところだった。
短い間にオルディンはそんなことを考え、そして、頷く。
「まあ、いい。気を付けて行ってこい」
フリージアが置いた荷物に手を伸ばしながらそう答えたオルディンに、彼女は逆にきょとんと目を丸くした。
「……いいの?」
「ああ」
「独りで?」
「無謀なことはするなよ。ほら、竜笛だ」
言いながら、彼が無造作に笛を放る。それを受け止めて、フリージアは一瞬怪訝そうに眉をひそめた。彼女としては、オルディンもついてくると言い出すと思っていたのだろう。
「何か、調子悪い?」
「いや、別に」
「でも……――まあ、いいや。じゃ、行ってくる」
下手につついたら、「やっぱりダメ」と言われるかもしれない。
そんな警戒が透けて見える。
フリージアは手にした笛を背中に隠すように後ろに回すと、ジリジリと後ずさる。そして、クルリと身を翻して駆け出した。
オルディンは彼女の背中が見えなくなるまで見送る。相変らず華奢だけれども、それは子どもから大人に変わりつつある背中だった。
旅を始めたばかりの頃は、オルディンにとって、フリージアはただの厄介者だった。自分では何もできないくせにこまっしゃくれて、何かと彼に云々した。ハッと気付くと彼の背よりも高い木に登っていたり、自分の図体よりも大きな野良犬に喧嘩を売っていたりしたこともあった。
その行動の理由は、枝の上に下りられなくなっている仔猫を見つけたから、だとか、野良犬に襲われそうになっている子どもがいたから、だとかなのだ。生まれ持った性格で看過できないのかもしれないが、その状況を見つけた時のオルディンの心中も多少は察して行動してくれと、何度思ったことか。
さすがに昔ほど無鉄砲ではなくなったが、それでも、先日の牙狼の件のように、忘れた頃にしでかしてくれる。
――まあ、今回も、黙って出て行かなかっただけ、まだマシか。
オルディンはため息混じりで、胸の中でそう呟く。
身体だけではなく、中身も多少は成長してくれているのだろう。
気付けば、フリージアももう十五歳、『子ども』ではなく『娘』と言ってもいい年頃になったのだ。
こうやって、少し距離を置いて彼女を見る時があると、不意にオルディンはその成長に気付かされて奇妙な感覚に陥る。
普段傍にいると、いつまでも出会った頃の、三歳のままのフリージアから頭が切り替わらない。だが、ふとした拍子に、彼女はもう幼子ではないことに気付くのだ。
そのことに、オルディンは戸惑う。
子どもではなくなった彼女は、もう彼の庇護を必要としていないのだということを思い知らされるから。
オルディンは深く息をつく。
もうじき姿を現す『客』がもたらすものは何なのか、彼にはもう察しはついていた。先日唐突に現れ、そして消えたラタは、『彼女』からの使者だ。おそらく、最後の。
オルディンの推測が正しいとすれば、それは、彼にとっても『彼女』にとっても、フリージアには『させたくない』ことなのだが、きっと、彼女が『為さねばならない』ことでもあるのだろう。
オルディンがフリージアと旅に出てから――『彼女』にフリージアを託されてから、時々、忘れたころに『文』が届いていた。中身は、フリージアの様子を尋ねる言葉と、もう一つ「逢いたいな」という一言。だが、何度それを繰り返しても、『彼女』は決して「連れてこい」とは言わなかった。
それは、フリージアを――愛しい我が子を危険から遠ざけておきたいという、親心だった筈だ。
今さらの『迎え』は、果たして『彼女』の心からの意志なのか。
だとすれば、『彼女』が一度こうと決めたことを安易に覆すとは思えないから、よほどの事態が起きているのだろう。
オルディンには、先方から待ち合わせ場所として指示されたこの村を訪れない、という選択肢もあった。フリージアには何も知らせず、これまでと変わらぬ日々を送るという選択肢が。
しかし、最終的にどうするのかは、フリージア自身が決めることだ。オルディンが操作することではない。
彼の取る道はただ一つ、フリージアが選ぶ道だ。彼は、ただそこを歩み、彼女を護っていけばいい。それが、とうの昔から、オルディンの中でピクリとも揺るぎなく、定まっていることだった。
ふと、あの時の『彼女』の台詞を思い出す。
――『生きる理由』。
かつての彼は持っていなかったそれが、今は確かに存在している。すぐ傍に。
『彼女』の宣言は、確かに現実となっていた。
「ねえ、スレイプを貸してくれないかな」
乏しくなりつつあった旅の物品を仕入れに行っていた彼女は、干し肉やら硬く焼しめたパンやらが入っている袋をどさりと下ろす。
「何だ、突然」
手入れをしていた剣の曇りをもう一度確かめてから鞘にしまい、オルディンはフリージアに胡乱な眼差しを向けた。ちょっと空の散歩を楽しみたいからなど、可愛らしい理由ではないことは明らかだ。
小さく首をかしげたフリージアが、続ける。
「あのさ、このパン焼いてくれるように頼んだ子、いただろ? ほら、三軒向こうの家の子。ネルっていうんだけどさ」
フリージアに言われて、オルディンは記憶をたどる。確か、彼女よりも二つか三つほど年上の娘だ。気立てが良さそうだったという印象は残っているが、顔だちまでは覚えていない。
「彼女が何か?」
「うん。そのネルのお父さんがさ、腰痛持ちなんだって。でも、痛み止めの薬草が切れちゃってるんだ」
「だから?」
「スレイプなら、薬草が生えてる山頂まで、ひとッ飛びだろ? ちょっと行って、採ってこようかなって」
「何で」
「何でって、痛いのって、イヤじゃないか」
「何でお前が行くんだよ。そのうち、行商人が来るだろう?」
「そんなの、いつ来るかなんて判らないよ。それを待たせるのか? 今、痛いのに?」
フリージアは、目に非難の色を漲らせてオルディンを睨んでいた。
オルディンはフリージアのことを大方理解しているつもりなのだが、時々、どうしても解からないことが出てくる。今のような彼女の言動も、その一つだった。
ネルは、別に長年の友達でもなんでもない。フリージアとオルディンは三日前にこの村に到着したばかりで、たまたま、保存のきくパンを焼いてくれるように頼んだというだけの相手だ。そんな相手の父親が腰痛持ちだろうが頭痛持ちだろうが、どうでもいいことではないかと、オルディンは思う。だが、フリージアにとっては、それは解消すべき問題事項なのだ。
オルディンは半ば呆れながら、彼女を見やる。
拳を握って仁王立ちになっているフリージアは、彼が反論しようものなら徹底抗戦する構えのようだ。いや、あるいは、こっそり夜中にでも抜け出すかもしれない。
今は晩夏で、獣たちが冬眠準備に入るには、まだ間がある。ここいら辺には先日の牙狼《きばおおかみ》のような凶暴なものはいなそうだし、そもそも、スレイプを連れていけば、たいていの獣は近寄ってはこないだろう――並みの警戒心を持つ獣は、飛竜の気配が漂うだけでも逃げ出す筈だ。
それに何より、今日訪れる予定の『客』から、まずはフリージアがいない状態で話を聞きたいと彼は思っていたところだった。
短い間にオルディンはそんなことを考え、そして、頷く。
「まあ、いい。気を付けて行ってこい」
フリージアが置いた荷物に手を伸ばしながらそう答えたオルディンに、彼女は逆にきょとんと目を丸くした。
「……いいの?」
「ああ」
「独りで?」
「無謀なことはするなよ。ほら、竜笛だ」
言いながら、彼が無造作に笛を放る。それを受け止めて、フリージアは一瞬怪訝そうに眉をひそめた。彼女としては、オルディンもついてくると言い出すと思っていたのだろう。
「何か、調子悪い?」
「いや、別に」
「でも……――まあ、いいや。じゃ、行ってくる」
下手につついたら、「やっぱりダメ」と言われるかもしれない。
そんな警戒が透けて見える。
フリージアは手にした笛を背中に隠すように後ろに回すと、ジリジリと後ずさる。そして、クルリと身を翻して駆け出した。
オルディンは彼女の背中が見えなくなるまで見送る。相変らず華奢だけれども、それは子どもから大人に変わりつつある背中だった。
旅を始めたばかりの頃は、オルディンにとって、フリージアはただの厄介者だった。自分では何もできないくせにこまっしゃくれて、何かと彼に云々した。ハッと気付くと彼の背よりも高い木に登っていたり、自分の図体よりも大きな野良犬に喧嘩を売っていたりしたこともあった。
その行動の理由は、枝の上に下りられなくなっている仔猫を見つけたから、だとか、野良犬に襲われそうになっている子どもがいたから、だとかなのだ。生まれ持った性格で看過できないのかもしれないが、その状況を見つけた時のオルディンの心中も多少は察して行動してくれと、何度思ったことか。
さすがに昔ほど無鉄砲ではなくなったが、それでも、先日の牙狼の件のように、忘れた頃にしでかしてくれる。
――まあ、今回も、黙って出て行かなかっただけ、まだマシか。
オルディンはため息混じりで、胸の中でそう呟く。
身体だけではなく、中身も多少は成長してくれているのだろう。
気付けば、フリージアももう十五歳、『子ども』ではなく『娘』と言ってもいい年頃になったのだ。
こうやって、少し距離を置いて彼女を見る時があると、不意にオルディンはその成長に気付かされて奇妙な感覚に陥る。
普段傍にいると、いつまでも出会った頃の、三歳のままのフリージアから頭が切り替わらない。だが、ふとした拍子に、彼女はもう幼子ではないことに気付くのだ。
そのことに、オルディンは戸惑う。
子どもではなくなった彼女は、もう彼の庇護を必要としていないのだということを思い知らされるから。
オルディンは深く息をつく。
もうじき姿を現す『客』がもたらすものは何なのか、彼にはもう察しはついていた。先日唐突に現れ、そして消えたラタは、『彼女』からの使者だ。おそらく、最後の。
オルディンの推測が正しいとすれば、それは、彼にとっても『彼女』にとっても、フリージアには『させたくない』ことなのだが、きっと、彼女が『為さねばならない』ことでもあるのだろう。
オルディンがフリージアと旅に出てから――『彼女』にフリージアを託されてから、時々、忘れたころに『文』が届いていた。中身は、フリージアの様子を尋ねる言葉と、もう一つ「逢いたいな」という一言。だが、何度それを繰り返しても、『彼女』は決して「連れてこい」とは言わなかった。
それは、フリージアを――愛しい我が子を危険から遠ざけておきたいという、親心だった筈だ。
今さらの『迎え』は、果たして『彼女』の心からの意志なのか。
だとすれば、『彼女』が一度こうと決めたことを安易に覆すとは思えないから、よほどの事態が起きているのだろう。
オルディンには、先方から待ち合わせ場所として指示されたこの村を訪れない、という選択肢もあった。フリージアには何も知らせず、これまでと変わらぬ日々を送るという選択肢が。
しかし、最終的にどうするのかは、フリージア自身が決めることだ。オルディンが操作することではない。
彼の取る道はただ一つ、フリージアが選ぶ道だ。彼は、ただそこを歩み、彼女を護っていけばいい。それが、とうの昔から、オルディンの中でピクリとも揺るぎなく、定まっていることだった。
ふと、あの時の『彼女』の台詞を思い出す。
――『生きる理由』。
かつての彼は持っていなかったそれが、今は確かに存在している。すぐ傍に。
『彼女』の宣言は、確かに現実となっていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
30
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる