ジア戦記

トウリン

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第二章:大いなる冬の訪れ

遭遇③

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「灰色大熊……」

 呟いたのは、地面に転がったままの赤目の男だ。

 ウルとエイル、そしてフリージアの向こう側に見えるのは、巨大な獣だった。グランゲルドでよく見かける大爪熊よりも二回りは大きな、熊。オルディンよりも遥かに大きく、後ろ足で立ち上がり戦闘態勢を取っているその姿は、フリージアの倍の背丈はあるだろう。

「あの小娘、マジかよ」

 赤目の男の呆れたような、感心したような声で発せられた台詞は、そのままオルディンの心情を表わしていた。

 フリージアはウルとエイルを庇うように、剣を抜いてその灰色大熊に対峙しようとしている。その太い腕の一払いで彼女は木の葉のように飛ばされ、爪の一裂きで真っ二つにされてしまうだろう。

「チッ」

 舌打ちと共にオルディンは走る。

 一歩、二歩、三歩。

 そうして、殆どひったくるようにしてフリージアの腰を掻っ攫うと、自分の後ろに回す。

「オル!」
 彼の名を呼ぶその声にホッとした響きが含まれているのは、多少は危険の程が解かっていたからか。

「あいつらと下がってろ」
「あ……うん……」

 その返事と共に背中から温もりが消えるのを待って、オルディンは目の前の巨体を睨み上げた――常には見せぬ、殺気を漲らせて。彼の目に射抜かれ、灰色大熊は一瞬びくりと身を竦ませる。

 どちらも、爪の先一つ、動かさなかった。
 ただ、互いの目を見据え、その一挙手一投足を見張る。

 熊がほんのわずかでも動こうものなら、オルディンは一撃のもとにその首を落とすつもりだった。手負いの獣ほど、厄介なものはない。中途半端に命を助けようとしては、この場の皆が――フリージアが、危うくなる。

 だから、オルディンは、手加減をするつもりは微塵もなかった。

 凍った時間。
 その場の誰もが、息をひそめていた。わずかな動きが張りつめた糸のような均衡を崩してしまうことを恐れて。

 やがて。

 ゆっくりと灰色大熊が頭を下げ、前足を地に着ける。そうして数歩後ずさり、のそりと踵を返すと、ゆっくりと木々の影の中へと消えていった。

「良かったぁ……」

 完全に、その影すら見えなくなって、間の抜けた声を上げたのは、ウルだ。それに応じて、フリージアも頷く。

「ホント、良かったよ。あの熊、死なせたくなかったし」
「ええ? そんなのんきな。危なかったのは僕たちの方でしょう?」

 心配どころが間違っているとばかりに、ウルがフリージアに言う。だが、そんな彼に、彼女は笑顔で返した。

「オルと熊だったら、断然、オルの方が強いよ」
「まさかぁ」
「ホントだって。牙狼だって、一撃だもん」

 信用されているのはいいのだが、頼むから多少の危機感は持ってくれと、オルディンは心の底から思う。ここは、彼を置き去りにしてでもさっさと逃げて欲しかったところだ。グイとフリージアの頭を掴み、自分の方に向き直らせる。

「お前な……熊とやり合おうとは思うな、熊と」
「でも、後ろ向いて逃げたら、追いかけられるだろ? いつも言うじゃないか。獣と鉢合わせしたら、目を逸らすなって」
「それは、一人きりの時だ。俺と交代した時点で、さっさと逃げるべきだったんだよ」
「オルを置いて? それはないな」
「ありだ」
「無理、できない」
「しろ」
 キッパリと断言したオルディンは、目でそれ以上の反論を封じ込める。

 口を尖らせたフリージアは不満そうだが、オルディンとしても譲るわけにはいかない。
 睨み合う二人を、ウルはおろおろと、エイルは無表情で、見守っている。
 と、そこに、すっかり存在を忘れられていた第三者が参入した。

「ちょっと、お宅ら、オレのことを忘れてねぇ?」

 不満そうなその声に、そう言えば、とオルディンは振り返る。その先には、当然、あの赤目の男が立っていた。

「ああ、すまんな、忘れてた」
「おい……」
 ムッと眉間に皺を寄せた男だったが、すぐにそれを消し去り、続ける。

「まあ、いいや。お宅、すげぇな、ホントに。この時期の灰色大熊を睨みで追い返すって、有り得ねぇよ」

 感心しきりの男だったが、実際のところはそれほどたいしたことではない。熊は意外と臆病だ。怯まぬ様子を見せれば、相手が手強いかどうかを、勝手に判断してくれる。

「まあな、ということで、お前も諦めて、さっさと俺達を行かせてくれよ。こっちは四人だぜ?」

 肩を竦めてそう言いながらも、オルディンは相手が引くとは思っていなかった。また、戦いを挑んでくるのだろう、と予想していたのだ。

 だが。

「いいぜ」
 男は軽い口調で首肯した。

「ああ?」
「あんたらを捕まえる気も報告する気もねぇよ」
「いいのか?」
 半信半疑で、オルディンは確認する。男は再び頷き――代わりに突拍子もないことを言い出した。

「オレも行くから」

「はぁ?」
 思い切り怪訝な声を出したオルディンに、男はにんまりと笑って続ける。

「オレもあんたらについてくわ」
「何言ってんの、お前?」
「オレさ、今の生活に退屈してんのよ。うんざりなわけ。だから、あんたとやり合いたいんだよね。オレがあんたを殺すか、オレがあんたに殺されるかするまで、付いてかせてくれよ」

 言葉で断固拒否するか、それとも手っ取り早くこの場で息の根を止めてやろうか、オルディンは迷った。その横で、フリージアがこそこそと彼に囁く。

「この人……変な人?」
「ああ、そうだな」

 相当変な人間であることは、確かだ。その変な人間が、至極まともなことを口にする。

「なぁ、そうと決まればさっさとここを離れねぇ? こいつら目を覚ますだろ? 寝てる間に距離稼いだ方がいいんじゃねぇの? 目ぇ覚ましたらヘルドに戻って援軍呼んでくるぜ、絶対。あそこにゃ、兵隊わんさかいるからな。逃げるのも一苦労になるぞ?」

 今すぐ、昏倒させてやろうか。
 そんなふうに考えたオルディンだったが、ふと考え付いて、胸中で首を振る。ニダベリルの兵士を連れ帰れば、単なる雑兵だとしても、軍の内情を知るのに多少の役には立つかもしれない。敵の情報を手に入れるのは、戦いの基本中の基本だ。

 利益と不利益を天秤にかけ、オルディンは決める。

「まあ、いいだろう」

 頷いたオルディンに素っ頓狂な声を上げたのは、フリージアだ。

「ええ!? いいの? 連れてっちゃうの?」
「確かに、今は逃げるのが先決だ。バイダルも待ちくたびれて、動き始めちまう」
「そうだけど……うぅん……ま、いっか。オルディンがそう言うなら、あたしも彼の事、信じるよ」
 彼女はそう言うと、屈託のない笑みを赤目の男に向ける。

「あたし、フリージア。君は?」

 男は怯んだように赤い目を瞬かせると、気を取り直したようにニッと唇を歪めて、答えた。
「ロキスだ」
「ふうん。よろしく、ロキス」
「ああ、よろしくな」

 そんな能天気な挨拶を交わす二人を横目に、オルディンの隣に近寄ってきたウルが声を潜めて彼に確認する。

「本当に、いいんですか?」
「まあ、構わないだろう」
 不安そうな少年に、オルディンは肩を竦めて返した。

 そう、構わない。
 もしもこの男がフリージアの不利益になるようなことをするのであれば、その時には即座に消し去ってしまえばいいのだから。ほんのわずかでも怪しい動きを見せたなら、彼自身が望んだように、息の根を止めてやる。

「オルディンさんがそう言うならいいですけど……心配だなぁ」

 オルディンの不穏な考えなどつゆ知らぬウルが呟くのを背中で聞き流し、彼は出発するべく荷物を拾いに向かった。とにかく今は、この場を離れ、一刻も早くグランゲルドへ帰ること。それが何よりも優先されるのだ。
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