夜を越えて巡る朝

トウリン

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それぞれの中にあるもの

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 少女との再会を翌日に控え、省吾しょうごは妙に冴えた頭を持て余していた。
 夜も更け、突撃に備えて休まなければならないということは解っているのだが、どうしても眠る気にはなれない。
 ぼんやりと夜空を見上げた省吾の目に、猫の爪のような三日月が映る。触れれば皮膚を切り裂きそうな冴えた輝きが、どこかあの少女を思い出させた。

 目を閉じ、面影を辿る。脳裡を占めたのは、真紅の瞳だった。

 一目見ただけのその姿は、記憶から薄れていくどころか、むしろ時と共に鮮やかになっていくような気がする。
「明日には、逢える……」
 口にすれば現実になるように思えて、省吾はそう呟いた。
 彼女に逢い、そして自分の存在を認識させることができるのならば、この命すら惜しくないとさえ思える。
 彼自身、何故こんなにも彼女に固執してしまうのか、解からない。
 だが、どうしても、どうしても、彼女に逢いたくてならない。
 そんな衝動的な部分が己の中にあるとは、夢にも思っていなかった。

 制御できない感情に、省吾は深く息を吐く。

 そんな溜め息をこぼす省吾を陰から見守る二人の男──ロイと勁捷けいしょうは、少年の心中を手に取るように理解し、互いに視線を交わした。
 数十年昔のこととは言え、彼らもかつて経験した感情である。その後何度も他の女性に想いを寄せたこともあったが、最初の女というのは、一つ次元の違うところに存在している。その上、省吾のように自分のことだけで生きてきた者にとって、突然誰かが至上の存在になってしまうということは、まさに驚天動地の出来事に違いない。

「明日はヤバい事になりそうだな、こりゃ」
 ぼやく勁捷に、ロイが苦笑を浮かべて頷く。
「確かに。私たちが手綱を取ってやらないと、何処に走り出すことやら」
「いや、鎖で縛り付けててもぶっ千切って行きかねないぜ。熱くなった橇犬並だ。意気込みだけが空回りしちまうよ」
 省吾の耳には届かないのをいい事に、勁捷は肩を竦めて好きなことを言う。
 ロイはそれに対して同意も否定もせずに、静かに笑った。その笑いは未だに若さを残す勁捷にも向けられているように思われた。
 初老の男のその笑みを見つめて、勁捷はふざけた色を消して己の疑問を口にする。
「なあ、あんた。ホントのところ、どうして急に俺たちに付く気になったんだ? あの夜、うちの大将に言っていたことは――国に対する想いは、紛れも無く本心だった筈だ。そうすんなりと切り替わるもんじゃない。あの兄さんは、頭は切れるが単純だから、すんなり受け入れちまったようだが、俺はどうも合点がいかねぇ」
 勁捷の目の色には、疑惑が見え隠れしている。彼の右手はロイの返答次第でどうにでも動かせるように、油断無く構えられていた。

 勁捷が発する張り詰められた空気に、ロイは一度は消した笑みを刻む。
 思いもよらず穏やかなそれに、拍子抜けしたように、勁捷の身体から力が抜ける。
「おい、ちょっと……笑ってる場合じゃねぇだろうよ。俺は、あんたがあっち側から送り込まれた奴じゃないかと疑ってるって言ってんだぜ?」
 勁捷の台詞に、ロイはより一層、笑みを深くした。
「密偵かと訊かれて、そうだと答える密偵はいないよ。君には向かない仕事だな」
 そう言われて、勁捷は心中でぎくりとする。
 ――尋問することが向いていないと言われたのか、それとも、密偵という仕事が向いていないと言われたのか。
 勁捷の焦りを知ってか知らずか、ロイはまだ月を見上げている省吾へと視線を移した。勁捷の立ち位置からは見て取ることはできないが、彼の目には深い悲しみと、そして、温もりとが、ない交ぜになっていた。

 言葉を選びかねていた勁捷に、ロイは省吾を見つめたまま、問いへの答えを返す。
「私の息子は、人生の喜びも、苦しみさえも、知ることなく逝ってしまった。幼くして死んだ者は神の元へ行けるというが、私には神を信じることができない。神の元で息子が安らかに暮しているというふうに思うことができないのだ。未だにあの子が私の傍らにいて、私のすることをじっと見ているのではないかと感じることがある」
 ロイの目が、立ち上がり、自分の寝床へと向かった省吾の背中を追う。
 途切れた言葉を促すことなく、勁捷は続きを待った。
「私は……省吾に何かをしてやることで、息子にしてやれなかったことを補おうとしているのかもしれないな。……ただの、自己満足だよ」
 自嘲が含まれたその台詞に、勁捷は無言を返しただけだった。そうではないと言ったところで、ロイが頷く筈もない。
「まあ、それがあんたの理由だってんなら、それで構わないさ。俺だって、俺だけの理由ってもんがあるしな。そんじゃ、すっきりしたところで俺は寝させてもらうよ」
 片手を振って、勁捷は背を向けて歩き出した。他人の背負った十字架の重さはその人にしか判らないものであるし、何も知らない人間の言葉一つでそれが軽くなるものでもない。当人が、どうにか折り合いを付けていくしかないものだと、勁捷は知っていた。

 一人残されたロイは、息子を看取った時からほんの少しも色褪せてはいない後悔を胸に抱き締めた。
 彼の中の何かは、あの時から凍り付いてしまった。
 を忘れ、身を粉にして、ただひたすら村の為に尽くしてきた。
 そうすることで、息子への償いを果たしているような気になっていた。
 ただ自己憐憫に浸っているだけではないかと、自らを罵ったことも数え切れない。しかし、自分の選んだ道が結局は間違いだったという明確な事実を忘れることはできなかったのだ。
(今、省吾の為にと動いたことも、自己満足に過ぎない)
 そうやって、償っているような気になっているだけだ。
 何をしても、過去の失態をなかったことにはできない。

 だが、しかし。

 省吾が見つめていた三日月を見上げて、ロイは心の中で、何度も繰り返した還らぬ者への懺悔を呟いた。
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