鈍色の先へ

上野たすく

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 大学を卒業したあと、一度だけ、その友人と当時の話になったことがあった。
 友人がいうには、佐伯英治を見る俺の目は、恋する乙女そのものだったとのことだ。
 友人は俺をホモだと馬鹿にはしなかった。
 自分もそういうのわかるぜ、と仕事のできる上司の話をしてくれた。

「また、会えるといいな」
「うん」

 だが、その可能性はかなり低いと思っていた。
 なぜなら、佐伯にとって、俺は記憶にすら残らない人間だからだ。

 同人誌を買った日も、佐伯は俺を初対面の人間だと信じていた。
 そんなものかと思おうとし、どうにかやり過ごしたのだが、四年生のとき、余裕ができたことで受講した一般教養で、幸島と佐伯と一緒になった俺は、佐伯が俺に関することを、いっさい覚えていないことに、今度こそ傷ついた。
 彼は、俺がカフェに行ったこと、そこで水を溢したこと、同人誌を買ったことも、過去として留めていなかったのだ。
 だから、偶然、バーで会って、アパートに連れ帰ったあの日、本当は、佐伯が俺のことを覚えていないかもしれないという恐怖があった。
 生前、幸島は、佐伯に対する俺のトラウマを、よく笑い飛ばしていた。
 俺が働くバーに、しょっちゅう顔を出していた男は、ダイキリを何杯も喉に通し、べろべろのくせに、「佐伯がお前のことを忘れるはずがない」と言い切った。
 俺が曖昧にかわそうとしても、幸島は引き下がらず、自論を展開させた。

「佐伯はお前のことを覚えている。なぜなら」

 小説家として大成した大先生には申し訳ないが、佐伯は俺を必要としていない。
 必要がないということは、忘れても支障がないということだ。
 幸島は俺を落ち込ませまいとして、リップサービスをしてくれたのだろう。

 佐伯にとって、ハンカチを誰かの手に巻く行為は小さなことで、佐伯にとって、俺はその他大勢の内の一人で、佐伯にとって、俺は……。

「今日は弾かないの?」

 スーツの女性がカクテルを飲みながら、俺に微笑む。
 レコード会社に勤めている、洋子さんだ。
 午後七時半。
 バイト先のバーに、俺はいた。

「ええ……」

 グラスを拭きながら、洋子さんに応える。

「弾いてよ。ねえ、いいでしょ」

 彼女は猫なで声を出した。
 無下に断ることもできないから、困ったように笑んで、彼女から引き下がるのを待ってみる。

 だが。

「いいんじゃないか。久しぶりに、弾いてこい」

 隣にいた年配のバーテンダーが洋子さんの話にのっかた。
 逃げられそうにないな。

「……じゃあ、少しだけ」

 客は、洋子さんと数組のカップル、白髪の男。

 照明をつけ、グランドピアノを足元から照らす。
 漆黒の鍵盤蓋をあけ、椅子に座った。
 鍵盤に指を置き、優しく押していく。
 静かな空間に、ピアノの音が響き、瞼を閉じた。
 ショパンのノクターンを弾き終わり、洋子さんからリクエストがとぶ。

 ムーン・リバー。

 ゆっくり、丁寧に、弾いていく。
 洋子さんの欲を満たすために。

 ムーン・リバーを弾き終り、鍵盤蓋を閉める。
 わずかばかりの拍手をいただき、お辞儀をして、元の仕事へ戻った。

「なにか、作ってくれる?」

 洋子さんが艶めかしく足を組む。
 月によって変わるネイルアートは、彼女の仕事の士気を高めるためになくてはならないものらしい。
 バーボン、グレープフルーツジュース、コアントローをシェイクする。
 オレンジ色のカクテルを差し出すと、洋子さんは「ムーン・リバー?」と唇を伸ばした。

「はい」
「ありがとう」

 引っ込みそこなった手に、洋子さんの指が絡みつく。
 もう一人のバーテンダーは俺と洋子さんに背を向け、グラスを磨いた。

「今夜、いい?」

 洋子さんに初めて声をかけられた日から、俺は彼女の肉体を喜ばす役目を、甘んじて受け入れてきた。
 歌手としてデビューできるよう、会社に働きかけてくれると言う言葉は、蜜以外のなにものでもなかったからだ。
 夢が叶うなら、チャンスを掴めるのなら、体を売るくらい、なんでもないと自分に言い聞かせてきた。
 プライドより大切なものはある。
 口を開く。
 いつものように受け入れようとし、

「……すみません」

 別の言葉が出た。
 洋子さんは俯いた俺に苦笑した。

「体調が悪い?」
「すみません。こういうことは、もう」

 洋子さんの長く綺麗な爪が、皮膚に食い込んでくる。

「いいの? デビューしたいんでしょう? 今、社長にあなたのことをかけあっているところなのよ」

 洋子さんは、自分が二年も同じことを口にしていることに、気づいているだろうか。

「すみません」

 洋子さんの顔が曇っていく。

「今のままで、デビューできると思っているの? コネを作っておくことは、この業界では大切なのよ」
「すみません」

 脳裏には、必死に作品を捻り出そうと格闘する、佐伯の姿があった。

「そう」

 洋子さんはカクテルに手を付けず、財布を手にした。
 年配のバーテンダーに支払いをし、立ち上がる。

「残念ね。あなたにはこちらに来て欲しかったのに」

 ガラガラと、積み上げてきた過去が崩れる音を、聴いた気がした。

 今日は帰れ、と年配のバーテンダーに言われ、帰路に着こうとし、自宅とは別の方向へ足を向けた。
 誰かにぶつかり、反動で尻餅をつく。
 肩掛け鞄の中身がコンクリートに叩きつけられ、大きな音を出した。
 ぶつかった相手からは暴言を吐かれた。
 まばらな街灯が灰色のコンクリに光を与えている。

 立ち上がれない。

 見上げた夜空に、星はなかった。
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