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本編
野良犬どもは餌に群がる
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「世界一のクラブを目指します」
それが二年前、新たに姫ヶ瀬FCのオーナーとなったハニウラ・セラミックス会長である羽仁浦慧の宣言だった。
サポーターもマスコミもサッカーにあまり興味のない一般市民も、誰もが金持ちの道楽、夢物語の類だと受けとった。当然といえば当然だ。だが羽仁浦会長は大真面目に本気なのだとわかるまでに、それほどの時間はかからなかった。
国内のプロクラブにおいて下から数えたほうがはるかに早かった運営資金は一気に最上位クラスへと引き上げられ、地方の目立たないチームだった姫ヶ瀬FCに全国区の注目が集まっていく。
とりわけ羽仁浦会長の本気度がうかがえたのは、トップチームのむやみな選手補強に走らなかった点だろう。オーナー交代によって巨額の資金を手にしたクラブがビッグネームを獲りにいくのはサッカー界の恒例といっていい。
羽仁浦会長はそこをぐっとこらえ、まずはクラブハウスやグラウンド、スタジアムなど環境の整備、それと育成システムの充実から手をつけた。土台の基礎をまずはしっかり固めようとの腹づもりらしい。
これらの内容はすべて、わざわざ自宅まで暁平の勧誘に訪れたスカウトから悠里が聞いた話だ。父と母と悠里、それに主役である暁平が揃っての話し合いだった。悠里の両親は乗り気だったのだが、当の本人にまるでそのつもりがないのではどうしようもない。あの暁平がサッカーエリートへの興味など示すはずもなかった。
それに、突如としてビッグクラブへの道を歩みだした姫ヶ瀬FCはいらぬ副産物を産み落としてもいた。それが通称ドッグスと呼ばれる、暴力的な過激さを売りとするサポーター連中だ。羽仁浦会長が剥きだしにする野心はとてもわかりやすく、鬱屈した若者たちを惹きつけずにはいられなかったのだろう。
上半身裸で応援する各人には思い思いの犬のタトゥーが入っており、発煙筒を焚き、対戦相手のサポーターとの揉めごとは日常茶飯、敵味方を問わず気に入らない選手には徹底的にこき下ろすコールを送る。
なかでもドッグスの一派閥であるケルベロスはよりタチが悪い。中高生を中心として十代の少年だけで構成されており、ただ暴れるための口実がほしい奴らの集まりだとしか悠里には思えなかった。
強い者の後ろをついていくだけの、金魚の糞が。
はしゃぐようにブーイングを繰り返している彼らを悠里は内心で罵倒する。前半終了直後に会場へとやってきたケルベロスたちが、後半の開始から執拗なほどブーイングを行っているのだ。対象は暁平だった。
「おら、潰せ潰せ!」
「その綺麗なツラに肘でも入れろ!」
暁平がボールを持つたび、鬼島中学ゴール裏に陣取った彼らの親指は下へと向けられ罵声が飛ぶ。前半とはうって変わって、およそ中学生同士のサッカーの試合らしからぬ異様な雰囲気となっていた。
「なーんかえらい楽しそうね、あちらさん」
そこへ空気をまるで読んでいない、間延びした声がした。
「やー、悪い悪い。すっかり寝坊しちゃってよう」
声の主は四ノ宮亮輔だった。悠里が二年生のときのクラスメイトだ。
「は? こんな時間にどちらさんですか。どなたかとお間違えではないですかね」
ささくれだっている悠里の心がつい嫌みを口から言わせてしまう。
「うおーい、そうつんけんするなよ、謝るからほれ、このとおり」
拝むような格好で四ノ宮が頭を下げる。
「ちょっとやめてよ。ただでさえあんたは目立つんだから。何かあたしがバカみたいに怒ってるような感じになるじゃないの」
「お、なら遅刻を許してくれるんだな」
「許すも何も、あんたと試合を観るって約束した覚えはない」
そんな悠里の棘のある返事にも顔をあげた四ノ宮はにこにこと笑っている。
180センチを越える四ノ宮だが、身長は暁平とさほど変わらない。違うのは体の幅だった。痩せた狼のような印象を与える暁平とは異なり、四ノ宮はさながら熊だ。しかもグリズリーだ。それほどに肩の筋肉が盛り上がっている。
四ノ宮から悠里の携帯に「一緒に試合を観よう」とメールが来たのは昨晩寝る寸前のことであり、悠里としても起きたときには失念していた。返信すらしていないのだから本来ならそう責められる立場ではない。
けれども誘った側が遅刻してくるのはいかがなものか、と勝手ながら悠里は思っていた。多少冷たくするくらいはかまわないだろう、と。
ただでさえ不愉快な連中の耳障りな声に苛ついているのだから。
そんな悠里の態度にはおかまいなく、しばらく試合の様子を目で追っていた四ノ宮があきれながらも褒めているような感想を口にする。
「しかしあれだな、キョウヘイのやつはしれっとして平気の平左ってな感じだな。まったく動揺ってもんを知らないのかね」
「そうでもないんだけどね。ああみえて意外と気持ちの余裕をなくすことが多いのよ、あいつは」
特に女の子のこととか、そう言った悠里の脳裏には片倉凜奈が楽しそうに躍動している姿が浮かんでいた。
「女の子って、女子か!」
目をかっと見開いた四ノ宮はわけのわからないことを口走る。
「いや、そりゃそうでしょ。あんた頭大丈夫? やっぱり春だから?」
「お、おう、ついおれの方が動揺してしまった。何せあのサッカー以外にごま粒ほどの興味も持ってなさそうなキョウヘイが、女子のことで心を痛めたりしているのかと想像するとなあ……面白すぎるぞ」
「あのね、知ってるとは思うけどキョウはもてるよ。あんたと違って」
「だからじゃないか。そんなあいつの心の中で、がっちりと鍵を掛けられた恋のゴールをこじ開けた幸運な女子っていったい誰だよ? ついでに教えてくれたりしないか。ぜひともからかってやりたい」
「恋ってあんた、そういうのとは違うって。それにそのことで茶化されるとキョウは間違いなく激怒するよ。そういう相手なの」
「ふーん。あんまり甘酸っぱい感じでもなさそうだな」
「もしそうならどれだけよかったか。それこそみんなでいじり倒してからかいまくってたはずだしね。止まったままの彼女との関係が動きださないかぎり、あいつは誰とも恋愛するつもりはないでしょ。というか、きっとできない」
難儀だねえ、と四ノ宮がうめいた。
難儀なのよ、と悠里も応じる。
「不器用なやつってのはそこかしこにいるもんなんだな」
「ああ、そういやあんたのお友達もそんな感じよね」
話しながらも視線はずっと試合に向けていた悠里が、ピッチでパスを受けたばかりの衛田令司を指差した。
いつでも鷹揚な四ノ宮も、話題が衛田のこととなると途端に殊勝な一面を見せる。
「レイジがまたサッカーをするようになったのはキョウヘイたちのおかげだ。あいつらには本当に感謝しているよ」
衛田に対する悠里の心境にはやや複雑なものがあったが、彼の存在がきっかけとなって四ノ宮と親しく話をするようになったのは事実だ。
その大きな身体のせいか、彼がそばにいると不思議な安心感があった。
常に敵か味方かを峻別するようなところがある悠里にとって、そこまで気を許すのはとても珍しい。だからこそ遠慮容赦なくきつい物言いになってしまう側面もあるのだが。
眼前のピッチでは、ボールをキープしている衛田が前と後ろから二人の相手に激しいチェックを受けていた。そのうちの一人はフォワードの久我だ。前半からここまで攻撃面で貢献できていない分、走り回って守備で奮闘している。
次の瞬間、久我がわざと体を当てにいった。少し離れてはいたが、悠里と四ノ宮のいるところからはその場面がはっきりと見えた。
衛田は勢いよく転倒し、覆い被さるようにして久我も倒れこんだ。
「サッカーってショルダータックルありなの?」
「なわけないでしょうが」
暢気な四ノ宮の感想を悠里は一言で切って捨てる。
さすがに今の久我のプレーに対しては、審判から非紳士的行為としてイエローカードが提示された。
この試合で久我はまだ何も得点に結びつく仕事をさせてもらえず、しかも相手は昔の仲間たちで、目の前にいたのが因縁のある衛田令司とくれば、積もった苛立ちが刹那に噴きだしてしまったのもわからなくはない。
だが、それは同時に彼の成長のなさも露呈していた。
先に起きあがった久我は、衛田の体を大きくまたいで自らのポジションへと戻っていく。衛田に手を差し伸べることも、詫びを入れることもなく。
「わざと、かねえ」
「たぶん、ね」
四ノ宮と悠里は顔を見あわせて、お互いため息をついた。
久我のなかにはまだ消化し切れていない想いが澱のように深く沈殿しているのだ。凜奈と同じく、彼もまた鬼島の仲間たちの元を去っていった。だがその意味合いは、凜奈と久我とでは決定的に異なる。
彼の場合、それは「決別」を意味していた。
それが二年前、新たに姫ヶ瀬FCのオーナーとなったハニウラ・セラミックス会長である羽仁浦慧の宣言だった。
サポーターもマスコミもサッカーにあまり興味のない一般市民も、誰もが金持ちの道楽、夢物語の類だと受けとった。当然といえば当然だ。だが羽仁浦会長は大真面目に本気なのだとわかるまでに、それほどの時間はかからなかった。
国内のプロクラブにおいて下から数えたほうがはるかに早かった運営資金は一気に最上位クラスへと引き上げられ、地方の目立たないチームだった姫ヶ瀬FCに全国区の注目が集まっていく。
とりわけ羽仁浦会長の本気度がうかがえたのは、トップチームのむやみな選手補強に走らなかった点だろう。オーナー交代によって巨額の資金を手にしたクラブがビッグネームを獲りにいくのはサッカー界の恒例といっていい。
羽仁浦会長はそこをぐっとこらえ、まずはクラブハウスやグラウンド、スタジアムなど環境の整備、それと育成システムの充実から手をつけた。土台の基礎をまずはしっかり固めようとの腹づもりらしい。
これらの内容はすべて、わざわざ自宅まで暁平の勧誘に訪れたスカウトから悠里が聞いた話だ。父と母と悠里、それに主役である暁平が揃っての話し合いだった。悠里の両親は乗り気だったのだが、当の本人にまるでそのつもりがないのではどうしようもない。あの暁平がサッカーエリートへの興味など示すはずもなかった。
それに、突如としてビッグクラブへの道を歩みだした姫ヶ瀬FCはいらぬ副産物を産み落としてもいた。それが通称ドッグスと呼ばれる、暴力的な過激さを売りとするサポーター連中だ。羽仁浦会長が剥きだしにする野心はとてもわかりやすく、鬱屈した若者たちを惹きつけずにはいられなかったのだろう。
上半身裸で応援する各人には思い思いの犬のタトゥーが入っており、発煙筒を焚き、対戦相手のサポーターとの揉めごとは日常茶飯、敵味方を問わず気に入らない選手には徹底的にこき下ろすコールを送る。
なかでもドッグスの一派閥であるケルベロスはよりタチが悪い。中高生を中心として十代の少年だけで構成されており、ただ暴れるための口実がほしい奴らの集まりだとしか悠里には思えなかった。
強い者の後ろをついていくだけの、金魚の糞が。
はしゃぐようにブーイングを繰り返している彼らを悠里は内心で罵倒する。前半終了直後に会場へとやってきたケルベロスたちが、後半の開始から執拗なほどブーイングを行っているのだ。対象は暁平だった。
「おら、潰せ潰せ!」
「その綺麗なツラに肘でも入れろ!」
暁平がボールを持つたび、鬼島中学ゴール裏に陣取った彼らの親指は下へと向けられ罵声が飛ぶ。前半とはうって変わって、およそ中学生同士のサッカーの試合らしからぬ異様な雰囲気となっていた。
「なーんかえらい楽しそうね、あちらさん」
そこへ空気をまるで読んでいない、間延びした声がした。
「やー、悪い悪い。すっかり寝坊しちゃってよう」
声の主は四ノ宮亮輔だった。悠里が二年生のときのクラスメイトだ。
「は? こんな時間にどちらさんですか。どなたかとお間違えではないですかね」
ささくれだっている悠里の心がつい嫌みを口から言わせてしまう。
「うおーい、そうつんけんするなよ、謝るからほれ、このとおり」
拝むような格好で四ノ宮が頭を下げる。
「ちょっとやめてよ。ただでさえあんたは目立つんだから。何かあたしがバカみたいに怒ってるような感じになるじゃないの」
「お、なら遅刻を許してくれるんだな」
「許すも何も、あんたと試合を観るって約束した覚えはない」
そんな悠里の棘のある返事にも顔をあげた四ノ宮はにこにこと笑っている。
180センチを越える四ノ宮だが、身長は暁平とさほど変わらない。違うのは体の幅だった。痩せた狼のような印象を与える暁平とは異なり、四ノ宮はさながら熊だ。しかもグリズリーだ。それほどに肩の筋肉が盛り上がっている。
四ノ宮から悠里の携帯に「一緒に試合を観よう」とメールが来たのは昨晩寝る寸前のことであり、悠里としても起きたときには失念していた。返信すらしていないのだから本来ならそう責められる立場ではない。
けれども誘った側が遅刻してくるのはいかがなものか、と勝手ながら悠里は思っていた。多少冷たくするくらいはかまわないだろう、と。
ただでさえ不愉快な連中の耳障りな声に苛ついているのだから。
そんな悠里の態度にはおかまいなく、しばらく試合の様子を目で追っていた四ノ宮があきれながらも褒めているような感想を口にする。
「しかしあれだな、キョウヘイのやつはしれっとして平気の平左ってな感じだな。まったく動揺ってもんを知らないのかね」
「そうでもないんだけどね。ああみえて意外と気持ちの余裕をなくすことが多いのよ、あいつは」
特に女の子のこととか、そう言った悠里の脳裏には片倉凜奈が楽しそうに躍動している姿が浮かんでいた。
「女の子って、女子か!」
目をかっと見開いた四ノ宮はわけのわからないことを口走る。
「いや、そりゃそうでしょ。あんた頭大丈夫? やっぱり春だから?」
「お、おう、ついおれの方が動揺してしまった。何せあのサッカー以外にごま粒ほどの興味も持ってなさそうなキョウヘイが、女子のことで心を痛めたりしているのかと想像するとなあ……面白すぎるぞ」
「あのね、知ってるとは思うけどキョウはもてるよ。あんたと違って」
「だからじゃないか。そんなあいつの心の中で、がっちりと鍵を掛けられた恋のゴールをこじ開けた幸運な女子っていったい誰だよ? ついでに教えてくれたりしないか。ぜひともからかってやりたい」
「恋ってあんた、そういうのとは違うって。それにそのことで茶化されるとキョウは間違いなく激怒するよ。そういう相手なの」
「ふーん。あんまり甘酸っぱい感じでもなさそうだな」
「もしそうならどれだけよかったか。それこそみんなでいじり倒してからかいまくってたはずだしね。止まったままの彼女との関係が動きださないかぎり、あいつは誰とも恋愛するつもりはないでしょ。というか、きっとできない」
難儀だねえ、と四ノ宮がうめいた。
難儀なのよ、と悠里も応じる。
「不器用なやつってのはそこかしこにいるもんなんだな」
「ああ、そういやあんたのお友達もそんな感じよね」
話しながらも視線はずっと試合に向けていた悠里が、ピッチでパスを受けたばかりの衛田令司を指差した。
いつでも鷹揚な四ノ宮も、話題が衛田のこととなると途端に殊勝な一面を見せる。
「レイジがまたサッカーをするようになったのはキョウヘイたちのおかげだ。あいつらには本当に感謝しているよ」
衛田に対する悠里の心境にはやや複雑なものがあったが、彼の存在がきっかけとなって四ノ宮と親しく話をするようになったのは事実だ。
その大きな身体のせいか、彼がそばにいると不思議な安心感があった。
常に敵か味方かを峻別するようなところがある悠里にとって、そこまで気を許すのはとても珍しい。だからこそ遠慮容赦なくきつい物言いになってしまう側面もあるのだが。
眼前のピッチでは、ボールをキープしている衛田が前と後ろから二人の相手に激しいチェックを受けていた。そのうちの一人はフォワードの久我だ。前半からここまで攻撃面で貢献できていない分、走り回って守備で奮闘している。
次の瞬間、久我がわざと体を当てにいった。少し離れてはいたが、悠里と四ノ宮のいるところからはその場面がはっきりと見えた。
衛田は勢いよく転倒し、覆い被さるようにして久我も倒れこんだ。
「サッカーってショルダータックルありなの?」
「なわけないでしょうが」
暢気な四ノ宮の感想を悠里は一言で切って捨てる。
さすがに今の久我のプレーに対しては、審判から非紳士的行為としてイエローカードが提示された。
この試合で久我はまだ何も得点に結びつく仕事をさせてもらえず、しかも相手は昔の仲間たちで、目の前にいたのが因縁のある衛田令司とくれば、積もった苛立ちが刹那に噴きだしてしまったのもわからなくはない。
だが、それは同時に彼の成長のなさも露呈していた。
先に起きあがった久我は、衛田の体を大きくまたいで自らのポジションへと戻っていく。衛田に手を差し伸べることも、詫びを入れることもなく。
「わざと、かねえ」
「たぶん、ね」
四ノ宮と悠里は顔を見あわせて、お互いため息をついた。
久我のなかにはまだ消化し切れていない想いが澱のように深く沈殿しているのだ。凜奈と同じく、彼もまた鬼島の仲間たちの元を去っていった。だがその意味合いは、凜奈と久我とでは決定的に異なる。
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