82 / 85
スピンオフ
extra10 陽の射す方へ〈1〉
しおりを挟む
その人に会えたらいい一日になる、そういう夢がホセこと布施剛久にはあった。かつて愛した女性であるビアンカの出てくる夢だ。
十年前にセルビアのノヴィ・サドで別れたきり、以来彼女とは一度も会っていない。だから夢の中で会うビアンカはいつでも昔のままだった。まるで女神のように綺麗なままだった。
しばらく夢の余韻に浸っていたかったホセだが、やけに冷えこんだ室温がそれを許してくれない。「おお寒っ」と体を震わせつつちらりとベッド脇の置時計に目を遣った。時刻はちょうど五時になったところで、まだアラームの鳴る前だ。
「たまには早起きもいいか」
自分に言い聞かせるようにして温かい布団から抜け出し、LEDに替えたばかりの部屋の明かりをつけた。そしてすぐに暖房のスイッチをオンにする。太陽が顔を出すにはしばらく時間がかかるので、とりあえずカーテンは閉めたままにしておく。
ホセが暮らしているのは1Kの単身者用マンションだ。手狭ではあったが、しかし一人で生活するには何の問題もなかった。
浴室に併設されている小さな洗面台でまず顔を洗おうとするもさすがに水が冷たい。それでも意を決してそのまま水で洗顔をすませる。
フェイスタオルで丁寧に水気を拭きとった彼は、備え付けてある鏡でまじまじと自分の顔を見た。
「まったく、誰だよこのおっさんは」
とてもじゃないがさっき夢で会ったばかりのビアンカとはまったく釣り合いがとれていない。十年も経てばその歳月は否が応でも外見に刻みこまれてしまう。ホセの口から出てくるのが自嘲気味な言葉になるのも無理はなかった。
早起きは三文の徳とはいえ、特別にやることも思いつかなかったためいつも通り朝食の準備に取りかかる。といってもホセが作る朝食はとても適当なものだ。
現役のプロサッカー選手だった頃はそれなりに気を遣っていた。ミネラルを多く含んだ雑穀米を毎朝用意し、他の栄養素のバランスもちゃんと整えるのが常だった。
だが現役引退後の海外を放浪する生活で考え方は大きく変化した。どこの国に滞在しているかにも左右されたが、きちんとした朝食がとれるだけでもとてもありがたいことなのだと実感する日々だったのだ。やはり日本は恵まれている。
そんなわけで今、ホセが用意しているのは胃を温めてくれる大根の味噌汁、メープルシロップたっぷりのパンケーキ、昨夜スーパーで買っておいたコロッケ、そしてコーヒー。
今朝は何と豪勢なモーニングであろうか、とホセは一人悦に入りながらそれぞれの皿をテーブルへと並べていく。
いただきます、の代わりに無言でテレビのスイッチを入れる。こんな時間でもCSのスポーツチャンネルであればサッカーの試合を放送してくれているのだ。
まず大根の味噌汁をすすりつつ、視線は画面へと向けたまま動かさない。今の時間帯はプレミアリーグ上位進出を狙うチーム同士の直接対決の録画放送となっていた。観だしてからいくらも経たないうちに片方のチームがゴールを決める。
得点したのが売り出し中である二十歳のベルギー人フォワードだったため、ホセも思わす「おっ」と声を漏らしてしまう。近いうち、彼は巨額の移籍金を積まれてさらなるビッグクラブへとステップアップしていくことだろう。
クレープ専門店である〈サニーサイド〉を営みながら、鬼島少年少女蹴球団というサッカークラブで子供たちを育てていく。それが最愛のビアンカと別れて日本に戻ってきたホセの選んだ人生だった。
日本人は恵まれすぎているからハングリーさに欠ける、などという言説は今でもまことしやかに語られている。悔しいが、肌でそのことを理解してきたホセにとって否定しきれない部分を含んでいるのも事実だ。
だが同時に彼は知っている。海の外の誰にも負けないほど勝利に飢えた少年たちを。敗北の歴史を変えるほどの可能性を秘めた少年たちを。
十年前にセルビアのノヴィ・サドで別れたきり、以来彼女とは一度も会っていない。だから夢の中で会うビアンカはいつでも昔のままだった。まるで女神のように綺麗なままだった。
しばらく夢の余韻に浸っていたかったホセだが、やけに冷えこんだ室温がそれを許してくれない。「おお寒っ」と体を震わせつつちらりとベッド脇の置時計に目を遣った。時刻はちょうど五時になったところで、まだアラームの鳴る前だ。
「たまには早起きもいいか」
自分に言い聞かせるようにして温かい布団から抜け出し、LEDに替えたばかりの部屋の明かりをつけた。そしてすぐに暖房のスイッチをオンにする。太陽が顔を出すにはしばらく時間がかかるので、とりあえずカーテンは閉めたままにしておく。
ホセが暮らしているのは1Kの単身者用マンションだ。手狭ではあったが、しかし一人で生活するには何の問題もなかった。
浴室に併設されている小さな洗面台でまず顔を洗おうとするもさすがに水が冷たい。それでも意を決してそのまま水で洗顔をすませる。
フェイスタオルで丁寧に水気を拭きとった彼は、備え付けてある鏡でまじまじと自分の顔を見た。
「まったく、誰だよこのおっさんは」
とてもじゃないがさっき夢で会ったばかりのビアンカとはまったく釣り合いがとれていない。十年も経てばその歳月は否が応でも外見に刻みこまれてしまう。ホセの口から出てくるのが自嘲気味な言葉になるのも無理はなかった。
早起きは三文の徳とはいえ、特別にやることも思いつかなかったためいつも通り朝食の準備に取りかかる。といってもホセが作る朝食はとても適当なものだ。
現役のプロサッカー選手だった頃はそれなりに気を遣っていた。ミネラルを多く含んだ雑穀米を毎朝用意し、他の栄養素のバランスもちゃんと整えるのが常だった。
だが現役引退後の海外を放浪する生活で考え方は大きく変化した。どこの国に滞在しているかにも左右されたが、きちんとした朝食がとれるだけでもとてもありがたいことなのだと実感する日々だったのだ。やはり日本は恵まれている。
そんなわけで今、ホセが用意しているのは胃を温めてくれる大根の味噌汁、メープルシロップたっぷりのパンケーキ、昨夜スーパーで買っておいたコロッケ、そしてコーヒー。
今朝は何と豪勢なモーニングであろうか、とホセは一人悦に入りながらそれぞれの皿をテーブルへと並べていく。
いただきます、の代わりに無言でテレビのスイッチを入れる。こんな時間でもCSのスポーツチャンネルであればサッカーの試合を放送してくれているのだ。
まず大根の味噌汁をすすりつつ、視線は画面へと向けたまま動かさない。今の時間帯はプレミアリーグ上位進出を狙うチーム同士の直接対決の録画放送となっていた。観だしてからいくらも経たないうちに片方のチームがゴールを決める。
得点したのが売り出し中である二十歳のベルギー人フォワードだったため、ホセも思わす「おっ」と声を漏らしてしまう。近いうち、彼は巨額の移籍金を積まれてさらなるビッグクラブへとステップアップしていくことだろう。
クレープ専門店である〈サニーサイド〉を営みながら、鬼島少年少女蹴球団というサッカークラブで子供たちを育てていく。それが最愛のビアンカと別れて日本に戻ってきたホセの選んだ人生だった。
日本人は恵まれすぎているからハングリーさに欠ける、などという言説は今でもまことしやかに語られている。悔しいが、肌でそのことを理解してきたホセにとって否定しきれない部分を含んでいるのも事実だ。
だが同時に彼は知っている。海の外の誰にも負けないほど勝利に飢えた少年たちを。敗北の歴史を変えるほどの可能性を秘めた少年たちを。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる