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2巻
2-1
ミッション① 子ども達の保護
ここは、大陸でも端に位置するカルヴィア国。その国でも、更に端の方に位置するエントラール公爵領とケルミート男爵領、そして隣国と接するウォールガン辺境伯領の、三つの領に接する森の中。その中心辺りにある洞窟の前だ。それほど危険な生き物はいないが、唐突に飛び出してくる小型の魔獣や魔物はいる。
それでも問題なくいられるのは、この場に、二本の角を持つ馬、バイコーンがいるからだろう。
「ビズ。悪いが、帰りは少しゆっくり頼むな」
《ブルル》
少年が呼びかけると、いつもより少し小さめの返事があった。ビズと呼ばれた彼女――その馬は、バイコーンの中でも亜種である、神から祝福を受けた『守護獣』だ。土地を守護する獣という意味で守護獣と呼ばれる。国内で見つかれば王侯貴族が欲しがるものだ。彼らは人の言葉を理解するほど賢い存在。そんな彼女と少年が出会ったのもこの森だった。
立派な馬具を身に着けるビズの、その首元を撫でるのは、相棒の少年。冒険者であるフィルだ。本来の名はフィルズ・エントラール。公爵家の次男だ。第二夫人である実母が踊り子と吟遊詩人をしていた流民のため、第一夫人に嫌がらせを受け、離れの屋敷に半ば閉じ込められて育った。
しかし、幼い頃から、地球の日本で生きた前世の夢を見ていた影響もあり、卑屈になることはない。時折、特徴的な髪色と瞳の色を魔導具で変え、屋敷を抜け出して冒険者フィルとして活動するようになった。
そんな気ままな活動の中でビズとも出会い、まだ子どもの三匹のフェンリルの亜種である守護獣を見つけた。彼ら三匹の守護獣には森に捨てられた赤子を拾ってくる癖があり、フィルズはその様子を確認するために今回、この森に出かけていたのだ。尚、彼が今いる洞窟は、フィルズが彼ら三匹の住処とした場所だった。
案の定、フェンリル達が赤子を拾っており、フィルズはその赤子を人里まで連れて行くことにした。
そんなわけで現在彼の傍らには、取っ手の付いた大きめの箱があり、中には三人の、生まれて半年も経っていない赤子が眠っていた。それを見下ろして小さな声でビズに告げる。
「悪いな。こんなに人が増えるとは……」
《ブルル……》
赤子のことを思ってだろう。尚も小さい返事をするビズを、フィルズが微笑みながら撫でていれば、これに応える者があった。
「すみません、フィルさん……」
「別に、お前が謝ることじゃねえよ。拾い癖は困りもんだが、結果的にお前も助かったんだからな」
少々乱暴な言葉だが、フィルズはそう返しながら振り返る。若干ぽっちゃり体型の少年が、赤子が三人入ったもう一つの箱を慎重に持って歩み寄ってきていた。赤子の数は全員合わせて六人だ。
今回、フェンリル達によって赤子達と一緒に拾われていたのが、毒を受けて死にかけていたこの少年、男爵家の長男であるマグナだった。
「はいっ。そこは、本当に感謝していますっ」
「ならいい」
フィルズはクスリと笑った。
「っ、はっ、はいっ」
母親似であるフィルズは黙っていれば美人の少女に見える。その微笑みに何人の男達が惚れ、女性達が思わず頬を染めたか分からない。だが、本人はそれほど影響があるとは自覚していなかった。
「ん? 顔が赤いが、大丈夫か?」
「っ、大丈夫です!」
「ならいいが……」
フィルズは、赤子の眠っている箱をそっと持ち上げる。この箱は、フィルズの手作りだ。それも森で木を切り出して、この場で作り上げたもの。工作など、作ることが大好きなフィルズの腰にあるマジックバッグには、工具などが入っており、いつでもどこでも思い立った時に、好きな作業をすることが可能だった。因みに、このバッグもフィルズの手作りだ。
マジックバッグを作るまでには、紆余曲折あった。フィルズは、長い間祝福の儀を受けていなかった。貴族の子どもなら七歳の時に教会で受けるべき儀式だが、第一夫人による妨害もあって、その機会を逃したまま十二歳まで成長したのだ。
そして公爵領の領都にある教会をまとめる神殿長により、この儀式を半ば無理やり受けさせられたのが、数週間前のこと。
その時に、意図せず神々との面会が叶った。そこで、フィルズは自分が『神の愛し子』であると教えられ、この世界の改革をお願いされたのだ。
どうやら、フィルズの前世での趣味が愛し子に選ばれる決め手だったらしい。それがパズルやプラモデルなど、細かい何かを作り上げる趣味。これによる忍耐強さや凝り性なところを神がお気に召したようだ。
今後も、地球で得た知識を使って便利な物を作り、地球の知識と発明品をこの世界に広げていってくれとのことだった。そして、面会のお土産としてもらったのが、このマジックバッグの作り方だったというわけだ。神々の期待通り、フィルズは問題なくこのバッグもすぐに作り上げ、その後、一緒にもらった研究書を使って、懐中時計も完成させた。
この研究書を書いたのは、かつて賢者と呼ばれた転生者達だ。彼らはフィルズと同じようにこの世界を発展させる使命を負っていた。しかし彼らがもたらした恩恵の多くは戦乱で失われ、この時代に残っていない。古代の遺跡に、戦火を逃れた設計図や日記が人知れず隠されているのみだ。
今や神々しか知らないその隠し場所を教えてもらい、古代の魔導具を現代に蘇らせるのも、神々に課されたフィルズの役目である。懐中時計もそうした魔導具の一つだった。
そうして、着々と作り上げ、趣味を増やしていくフィルズは、一方で冒険者としての実力も上げていた。それは、守護獣達を権力者達から守るためでもある。
「早いとこ、エン達も町に連れて行ってやりたいんだがな……」
《ヒヒィィン……》
本来なら、幼くともフェンリルであるエン達は、人の手など借りずとも育っていくだろう。だが、見つけて一度世話を焼いたからには、責任を持つべきだと、フィルズは思っている。
何より、賢いからこそ、寂しさも感じるものだ。三匹が自分達で独り立ちすると決めるまでは、目一杯可愛がってあげたい。そうすることで、エン達は嬉しいことや好意を持つことを知り、その土地を愛して生きていく術を学んでいってくれるだろう。
同じ守護獣であるビズも、寂しいと思って生きていた頃がある。だからこそ、彼らにはフィルズと一緒にいて欲しいと願っているようだ。しかし、まだ幼い三匹を町に連れて行くには、場所も環境も準備が足りていない。今回はまだ見送るしかなかった。
フィルズは、フェンリルの亜種であるエン、ギン、ハナの三匹の今後についての迷いを振り払うように、洞窟に背を向けながら、近付いて来たマグナを見る。
マグナが男爵領の方を必死で見ないようにしていると、フィルズには感じられた。自分では何もできないと分かっている人の目だ。
マグナは自分の父母が行っている不正や横暴を外部に告発するため、着の身着のままで家を飛び出した。男爵家の中から間違いを正せなかった自分を不甲斐なく思っているのだろう。
フィルズにはそれが分かるから、マグナの旅装とも呼べない姿や、少々早足で駆け寄ってくるその様子を見て、敢えてこの場では関係のないことを口にする。
「お前、アレだな。その剣、合ってないわ。消極的な態度の割に猫背になってないし、体幹も悪くない。重戦士向きだな。剣、軽くて振りにくいんだろ」
マグナは体力の配分もできる。そして自分の限界を知っていた。それは、剣の授業の時に、一般的な基礎訓練や剣を振ることだけしかやらされなかったにもかかわらず、真剣に取り組んでいたからだろう。
体格的なこともあり、肺活量もある。マグナは自分でも知らないうちに、一般的な貴族子息よりも体力をつけていた。これによって今回、毒を受けても生き延びることができたのだ。しかし、本人にその自覚はないようだ。
「っ……え……あ、剣は……才能がないって言われてて、これ以外持ったことないんだけど……その……ほとんど基礎訓練ばかりで……」
フィルズはそれを聞いて分かった。マグナは何もできないわけではないはずだ。そう思わされてきただけだろう。だから、本当はできることが沢山あるのだと、それを知るべきだと思った。
「はっ、偉そうに。その指南役、才能のあるなしを語れるだけの実力者だったのか怪しいな。大体、才能なんてのは、なくて当たり前なんだよ。要は、苦しくても続けられるかどうかだ。何より、たいていのことは努力すればできる。そいつ、どこ基準の才能の話してんだよっ」
フィルズは鼻で笑い飛ばした。それがどうやら、マグナには衝撃だったようだ。
目を丸くする彼を横目に、フィルズは話を続ける。
「まあ、体が思ったように動かないってのはある。その理想と現実が離れていれば、上手くいかないのは分かるだろ。けど、体ってのは案外、考えなくても動く時がある。経験ってのは、個人差はあるが、体には蓄積されるものなんだよ。だから、できないと思ってることでも、やってみると意外とできるもんだ」
「……」
フィルズにも覚えのある感覚なのだ。それは恐らく前世のもの。できないと、向いていないと諦めていたことの記憶。
けれど、フィルズとして生きてきて感じたのだ。一度やって、苦手だと避けていたことも、意外とできるものだと。それこそ、魔獣と戦うなんてこと、前世では考えられないことの一つだ。それでもできた。一度やって苦手だと決めつけることの愚かさを思い知った。だが、挑戦を恐れる機会は、大人になるほど多くなる。
やってみて失敗するのは恥ずかしい。やれる人がいるのに自分はできないとなれば尚更だ。だが、何より恥ずかしいのは、挑戦しないことだろう。やりもしないうちから他人の評価を気にしてどうするのか。自分のことも分かっていないのに、他人に自分を知って欲しいと思うこと。それこそ人の持つ傲慢さだ。分かってくれないと嘆くのは、自分のことを理解できた後にするものだ。
だから貴族は余計に、傲慢になる。何も挑戦せずに、プライドだけ育てた彼らは、挑戦することをしない。磨くのは外側の皮だけ。ハリボテしか見せず、夫や妻に、同僚に、上司や部下に、何を分かれというのか。
素直そうなマグナには、そうなって欲しくないし、きっと色々と挑戦できるだろう。
少しグズる様子を見せた赤子のため、フィルズは優しく箱を揺らしながら続ける。
「あれだろ? 一回そう言われて、諦めただろう。ああ、そうかって、納得しちまったんだろ。才能うんぬん言う奴は、最初っからできちまった奴だ。だから、できないところからスタートする奴のことが分からないんだよ」
「あ……」
最初からイメージ通りに動けてしまったから、考えずともたまたまできてしまったから、本人は実はどうしたらそうなるのかよく分かっていないのだ。やったらできたため、感覚だけで説明ができない人は多い。
「だからできない奴を、才能がないって言って遠ざける。教えられねえからな。そんだけ、言うほどそいつ自身も才能ってものがない証拠だぜ」
「っ……凄い考え方だね……けど……なんか、納得できる……かも……」
マグナはうんうんと頷いた。
「別に剣が嫌いならやらんでもいいけど、やってみたいなら、ちゃんとした奴、紹介してやるよ。剣の訓練方法も知っておくといいぜ? 余計なことうじうじ考えちまう時とか、何か集中してできる趣味とか作っとくと楽になるし、無駄がない」
やることがないと色々考え込んでしまって、落ち着かない気持ちにもなるものだ。一つでも暇を潰せる趣味は持つべきだろう。そこで達成感も得られるなら尚良しだ。一気にストレスも吹き飛ぶ。
「これ、俺の持論。まあ、俺の場合は熱中し過ぎてちょっとの気分転換じゃなくなるけどな。気付くと三時間とか四時間とか、平気で続けちまうから」
「それ……寝食忘れたりとか……」
「あ~、夜はなあ、前は気付いたら朝とかあった。食事は運ばれて来てたから、昼間はやめられるんだけど」
寧ろ、夜は長く時間が取れると考えて楽しんでいたものだ。だが、そんな生活もそれほど続けられることではなかった。
「でもな~、夜ちゃんと寝ないと、朝食に毒入ってる時にキツいんだよな。昼間動けんくなる。アレはマジで苛つくし、ヤバかった」
「……え?」
《ブルルっ》
毒と聞いてマグナが目を丸くする。しかしそれは、目の前にビズが割って入ったからだとフィルズは勘違いした。
「あ、コイツはビズ。俺の相棒。めちゃくちゃ美人だろ? その上強えんだぜ? この辺一帯の女王様だ」
「じょっ、あ、え、えっと、き、綺麗です!」
《ブルル》
「ははっ、当然だってよ」
《ブルルっ》
「ああ、俺が梳いたから? 何だよ恥ずかしいのか?」
《ブルルっ》
「ははっ」
むしゃむしゃとフィルズの髪を甘噛みして抗議するビズ。マグナはそれを見て少し安心したようだ。
「そんじゃあ、行くか」
「っ、はい!」
赤子に気を付けながら、マグナと二人でビズに乗り、夕日に染まる森の中、公爵領都へと向かう。ふと後ろを振り向けば、男爵領の上空だけが黒い雲に覆われているのが見えた。
あの下にいるのは、愚かな貴族に振り回された人々。現在、命の女神であるリューラが、赤子を捨てなければならないほど民を困窮させた領主に怒っているのだ。理不尽に人々を巻き込むのは避けるだろうが、目に見える不気味な黒雲は、見る者を不安にさせるはずだ。
先に教会が警告をするとはいえ、今頃は、大混乱しているだろうなと他人事のように、ゆっくりとフィルズは視線を前に向けたのだった。
◆ ◆ ◆
時間は少し遡る。フィルズが森に出かけた後の冒険者ギルドでのことだ。そこでは、フィルズの母クラルスと、ギルド長のルイリが執務室で改めて再会を喜んでいた。
「十~五年振りくらい?」
「ああ……あれは、お前が十七、八の時だったか……」
現在、クラルスは三十三歳。フィルズを産んだのは二十の時だ。この世界では遅い方だった。けれど、クラルスは見た目があまり変わっていない。フィルズと並べばそっくりだ。
彼女は、今日が結婚してから初めての、お忍びでのお出かけだった。
好かれ、好いて結婚したが、肝心の夫は、第一夫人を嫌って家にあまり帰って来ない。女の戦いには口を挟まないのが貴族の男というもの。夫は夫人同士の仲を取り持つでもなく、クラルスは仕事を理由に放置され、病んでいった。ついこの間まで離れの屋敷の部屋に閉じこもって、町に出ることなどあり得なかった。
だが、フィルズによって目を覚まされ、部屋から連れ出され、フィルズの作るパンの虜になって、ようやくこうして外に出ることができたのだ。そうして連れて来られたのが、冒険者ギルド。そこの長が、若い頃に世話になった冒険者ルイリだと知り、会いに来たというわけだった。
「うん。本当に運が良かったわ。特級冒険者が二年も専属護衛してくれたんだもの」
「……狙ってただろ」
「バレてた?」
普通に特級冒険者を専属護衛として雇うならば、当時一介の流民であったクラルスには支払えない報酬額となる。それも二年。一日でも金貨が何枚も飛ぶのだ。年単位ではそれこそ家がいくつか建つ。
今でこそ、付与魔法を刺繍や織物に施す、加護織の絨毯で大きく稼いでいるクラルスだが、この当時はまさかそこまで高値で売れるとは認識していなかった。仮に知っていたとしても、流民が売るとあっては足下を見られただろう。とにかく、ルイリを雇えるような収入はなかったのだ。
その頃のクラルスは、旅先で出会った王女に舞を気に入られ、話し相手として王宮に招かれていた。彼女が王族や貴族に招待されることはよくあり、密かに友人となる者もあった。クラルスの舞や歌は、それだけ人を惹きつけるものがある。
そしてたまたま参加した夜会で、王族に危機が迫る騒動が起き、王女や近くにいた王達を上手く避難誘導した、という出来事があった。その働きへの褒美として、二年契約で特級冒険者ルイリに護衛をしてもらえることになったというわけだ。
元々、次に通ろうと思っていた国がごたついていたため、良い護衛を王女に紹介してもらおうかなとクラルスが思っていた矢先のことだった。
王女や王達はクラルスが優しさから助けてくれたのだと思っていたようだが、実際には手っ取り早く良い働きを見せる機会があればいいなと、密かにその機会を窺っていたのである。
当時のことを思い出したのか、ルイリはため息を吐いた。
「二年も一緒にいればな。猫の被り具合も分かるようになる……」
「酷いっ。猫なんて被ってないわ。色んな役の皮は被ってたけどね~」
「……お前はまったく……」
クラルスは今のフィルズの年齢の時には親元を離れ、踊り子と吟遊詩人の二つの顔を持って旅をしていた。幼い頃から当たり前のように旅の生活を送っていた彼女には、それが普通だった。
「初めて出会った時のルイリお兄さんのこと、今でも覚えてるわ。めちゃくちゃ美人な侍女さんだったもんねっ」
「忘れろ……」
「え~、アレは衝撃だったんだよ? 父さん並みに美人に化ける人がいるなんてびっくりしたもん」
「……」
ルイリにとっては、未だ恥ずかしい過去なのだろう。
その時、ルイリは公爵令嬢の護衛任務で、侍女に化けていたのだ。これを最後に引退すると宣言して。そのためか、物凄く気合が入っていた。色気も出していたほどだ。
だが、王族の願いで最後の仕事がクラルスの護衛になった。報酬も良かったし、生まれ故郷であるこの国には帰る予定だったから、ついでにもなった。これにより、ルイリは了承したのだ。
「まあ、父さんに女装の仕方を教わったって聞いて、納得したけどね~。さすが私の父さん! 変装の名人! 『幻想の吟遊詩人』の呼び名は伊達じゃないわねっ」
「……リーリルは本当……素の顔が最後まで分からなかったんだが……男だよな……」
「父さんだよ? でもまあそうか~。滞在する町によって、人格や設定も変える人だったし、それを楽しんじゃうしね。裏側は私や母さんにもほとんど見せなかったわ。父さんが本当に町に紛れちゃうと、母さんにしか分からなかったもん」
それがリーリルには嬉しかったのだろう。何者になっても、絶対に妻は見抜いてくれるから。リーリルは妻にベタ惚れだった。
だから、食事処タンラの女将さんが旦那の話を嬉しそうにした時、クラルスは父母を思い出した。あんな夫婦にずっと憧れていた。漂うスープの懐かしい匂いに釣られて、そうして憧れていた時のことを思い出したのだ。
「……お前と別れた後に、一度だけ会った」
「父さんに⁉ いいことあった⁉」
「……まあ……それなりに……」
「ふふふっ」
『幻想の吟遊詩人』リーリルについて、おかしなジンクスがあった。それは、『幻想の吟遊詩人』リーリルだと気付けた場合や、そう知ることができた場合、とても良いことがあるというものだ。得られる幸運は些細なことだが、それでも信じられていた。
ある人はずっと音信不通だった友人に、その場を後にしてすぐに再会できた。ある人はその場で結婚を決められ、またある人は粘り続けていた商談がまとまった。他にも探し物が見つかったとか、失敗続きだった仕事が次の日には上手くいったとか様々だ。
リーリルは、町を後にする時、数人に正体を明かす。そして、幸運をそこに置いて旅立つのだ。だが、後にお礼をしようと探しても、決して見つからない。それが『幻想』と呼ばれる所以だった。
「私ね……父さんと母さんが羨ましかったの……どんな姿でも、どこにいても、二人にはお互いが分かった。唯一の人だったんだと思う。それがとっても羨ましかったの」
「……だから、公爵と結婚したのか……」
「うん……父さんにとっての母さんがそうだったように、私の仮面に気付いて、本当の私を思い出させてくれる人……彼がそうだって思ってた……」
リーリルは言っていた。
『私はね……時々、本当の自分が分からなくなるんだ。周りの感情に取り込まれて、仮面をしたままだって気付かなくなることが……それをね、いつも剥がしてくれるんだよ。気付いてくれるんだ。それが凄く……嬉しい』
自分でも気付かない自分に気付いてくれる。仮面に取り憑かれたままにしないでくれる。それが父リーリルには嬉しくて、唯一安心をくれる人がクラルスの母だったのだ。
「踊り子じゃない、吟遊詩人じゃない私を、あの人は確かに見つけてくれたの。ミリアリア様とも上手くやるつもりだった。やれると思ってた。けどね……いつの間にか第二夫人っていう仮面をつけたまま、取れなくなってた……環境や周りの人の感情に取り込まれて、役に染められたまま……抜け出せなくなってた……」
クラルスは、それに気付かなかったのだ。何より、第一夫人の心の痛みが分かってしまったから、第二夫人に徹しなくてはと思い込んだ。
彼女の望む『第二夫人』という役に染められてしまった。
「相手の……痛みが分かるのは怖いわね……私は、それは役を作る上ではこの上ない能力だって思ってた。だから流民の私でも王女様達の心にも寄り添えたし、子どもの時から独りでも踊り子や吟遊詩人としてやってこられた」
どれだけの人が、望んで踊り子や吟遊詩人として成功できるだろう。役に入り込み、気持ちを知る。共感する能力はどちらにも必要不可欠だ。
クラルスは、罪人を見ても涙を流す子だった。そこに至るまでの苦しみや痛みを感じ取ってしまう子だったのだ。それが普通で、嫌だとは思ったこともなかった。共感し、時に役に溺れる。それはクラルスにとっては誇れる能力だった。
「二人の……父さんと母さんの娘だって自信と誇りがあった。けど、分かってなかったんだと思う……この能力の本当の怖さを……父さんには言われていたのに……」
何かの折に触れ、リーリルは伝えていた。
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