上 下
5 / 13

第五話

しおりを挟む
「ねぇ、あなた、最近うなされているわよ」
 朝食の時間に、妻の美沙がめずらしく起きて来てテーブルにつく。長い髪が綿毛のように膨らんで、どうやら卓の寝言に悩まされている様だった。
「棋士はやめたんでしょ?」
 卓は美沙の前にコーヒーを置いて頷き、「寝言がうるさいか、すまんな」と謝った。
 美沙と卓は同じ部屋で寝ている。小海が中学生になったのをきっかけに、美沙は自分の部屋を小海に譲り、卓の部屋に移動している。
「なら、どうしてあんなに、うなされてるのよ」
「……就職先が決まらんから、夢にでてきたのかもな」
「うそでしょ」
 美沙は話にならないとそっぽを向いて、食パンを一口食べる。
「将棋のときと同じような寝言をつぶやいてたわよ。『ああその手があったか』とか」
 ぎょっとして、卓はコーヒーを持ち上げた手が止まった。美沙は起きたばかりとは思えない鋭い目つきをしている。徹底的に問い詰める気だ。
 もう闘争心を隠しきれないと思った。
 将棋はやめたと思っていたが、何十年も続けていた棋士としての精神はそう簡単に消すことができるものではなかった。今でも新聞の隅や、中づりの広告、テレビ実況など、将棋を見れば思考はそのことでいっぱいになる。その根底にあるのは、貪欲な勝利の渇望――試合で勝つことを卓は欲していた。
 平等な立場で、相手を絶望の淵に追いやり、負けを認めさせ、圧倒的に勝つ。卓の生まれながらの本能で、抗うことはできなかった。
 そしてあの大舞台で勝つ自分を想像すると、卓は覚醒してしまって寝れなくなるのだった。
「美沙」と卓は強く言葉を発すると、今度は美沙がぎょっとして食パンを持ったまま固まる。
「パートをして、家事も今ぐらいはするから、空いた時間にゲームをしていいか?」
 美沙は眉間に皺を寄せて、卓を下から睨みつけた。
「……なに言ってんのあんた」
「じつはな、小海がテレビゲームの大会に参加して負けたんだよ。俺がもし参加してたら、絶対勝てた大会だった。それが、後からになって悔しくて。……俺、ほら、将棋負けたらずっと根に持つタイプだろ、その大会のこともさ、ずっと忘れられなくて。やればできるかもしれないのに、踏みだせない葛藤が、寝れなくしてんだよ」
 美沙はコーヒーを片手に首をかしげると、「好きにしたら」とつぶやいた。
 卓は耳を疑った。もう一度聞こうとしたが、さすがにそれはやめた。すぐに『離婚』という二文字が頭に浮かんだ。
 しかしまぎれもない自分の意思がある限り、『離婚』は受け入れなければいけない。どちらか一つなのだ。いやそれも楽観的な考えだ。
 ――美沙には、今までも散々迷惑をかけてきた。
 プロ棋士であっても収入は少ない。本職を別にもって、副業として将棋をやっているプロ棋士がほとんどだった。美沙に甘えていたと言えばそのとおりだが、新人王戦の決勝まで昇りつめた傲りがあった。
 タイトル戦でも、ずっと優勝はできなかったが、手が届きそうな距離にはいる。しかしその距離は、生半可な努力では縮めることのできない、近いようで遥かに遠い距離だった。

 卓はディスカウントストアのパートの募集があったので面接に行った。面接した店長は採用を即決して、さっそく明日から仕事に入るため雇用手続きまで済ませた。ついでにその店でシチューの食材を買って、夕食の準備をする。
 料理、風呂、洗濯物をたたみ終えると、すでに夜の七時前になっていた。
 小海が帰ってくると、夕食を一緒に食べる。ゲームショウの試合のあと、コスプレを辞めさせることはできなかったが、その代わり防犯ブザーを必ず持ち、夜七時までには帰ってくるよう小海と約束した。
「小海、サッカーのゲーム。あれ、なんていうゲームなんだ」
 卓は目の前でシチューを食べる小海に尋ねた。
「え、おっさん、タイトルも知らないでやってたの?」
 卓はおどけてみせると、小海は部屋からゲームのパッケージを持ってきて渡した。
 夜、借りたサッカーゲームのパッケージと説明書を見て、パソコンで該当しそうな大会を検索した。
 ――ゲーム会社アシアーが開催する国内最大のeスポーツ大会、賞金一千万円。
 これだ。
 卓は意味なく玄関とパソコンとの間を行き来して、猛る心をなだめた。

***

 卓はディスカウントストアで開店前に商品を陳列していた。飲料水コーナーの陳列が開店までに間に合わず、初日から店長に怪訝な顔をされた。慣れるまでは、という猶予付きの簡単な作業と店長は考えていたようだった。
「バックヤードから物を持ってきて、並べるだけだよ。誰も遅れたことはないよ。いままで」
 もともと腕力がない卓は、ビール二十四缶が梱包された段ボールを並べると、汗が滝のように流れる。若いバイトの子に混ざると、肉体面で劣るので何をさせても遅い。
 開店と同時に客が店内に入ってくるなか、通路を塞ぐ2台の台車に乗せられた飲料品を、店長と一緒に陳列した。
 卸が入荷し納品書を受けると、商品を陳列しに行ったり、ワゴンに入れて運ぶことを日中繰り返す。やがてバイトの終了時刻が来ると、卓は店長に呼ばれた。
「レジ打ち、覚えよっか。いまから」
 店長は空いているレジの前に立って、基本的なレジの打ち方を教え始めた。
「あの、私は三時あがりなんですが……」張り切る店長の横で卓はつぶやく。
「でも、レジ打てないと、仕事できないじゃん。で、レジ開設はまだ早いから誰かにしてもらって。それで……」店長のレジ教育は四時まで続いた。

 卓は自分で修理したガタガタの自転車をこいで自宅に戻る。夕食の準備を急ピッチでしていると玄関のチャイムが鳴った。
「こんにちは、小海ちゃんのお父さん」愛華がリビングで挨拶して小海の部屋に入る。
本当は夕食を仕上げてから説明するつもりだったが、料理はいったんストップして、卓は小海の部屋に続いて入った。
「愛華ちゃん、わざわざごめんね」
愛華は携帯を持っていないため、小海が学校で場所と時間を伝えておいてくれたのだ。
「いえ、全然。私も小海ちゃんと遊ぼうと思っていたので」
 愛華は頬や唇に赤味がはいって、うっすら化粧をしているように見える。
「おっさん、愛華と遊ぶ時間を使っているんだから、早く説明して」
 今日の小海の瞳は白に縁取られた青で、卓にはゾンビのように見えた。
「わかった。率直に言う。前回、ゲームショウで負けてしまったサッカーゲームだが、もう一度挑戦しないか。私と小海と愛華ちゃんで」
 ゲームのパッケージを手にして、写真撮影のように作り笑いを二人に見せる。続けて、ノートパソコンを持ってきて、画面を見せた。
「目標は……これ。ゲーム会社アシアーが開催する国内最大のeスポーツ大会、賞金一千万円」
「一千万」愛華と小海の声が重なった。互いに顔を見合わせる。目を見開いたせいか、小海の片目のコンタクトが落ちて、片方が黒目になり、よりゾンビらしくなった。愛華はエメラルドグリーンの瞳を輝かせて、卓の手を取る。
「ぜひ、やらせてください」
 ジェノワーズのスポンジのような、しっとりした肌の感触に、思わず卓は握り返しそうになるが、ゾンビの顔を見て思い止めた。どうも外国の母の影響なのか、愛華は会う日ごとにボディタッチの回数が増えている気がする。
「ほらほら、愛華。おっさんに触らない! おっさん勘違いするから!」
 横から現れたゾンビが、愛華の手を奪っていった。
「一千万とか、絶対ムリだから。そんな大会に出場する人達って無茶苦茶ゲームやってるから」
「小海は、やる前から無理だって諦めるのか」
「だって、勉強とかしないで、ゲームだけやってる人たちに勝てるわけないじゃん」
「俺はそう思わない」
「はあ?」
「このゲームは他のアクションゲームやパズルゲームと異なり、ストラテジーに重きを置いた、ボード性の高いゲームだ」
「……はあ」
「つまりプレイの経験差はそれほど重要ではない。実際に、俺は初めてプレイしても操作に慣れたし、勝つこともできた。以前開催された試合内容をチェックしたが、ストラテジーが根幹を成す。いわば、リアルタイムで動く指しの攻防……すべてを想定した駒の割り振り……」
「ハイハイ。まぁ分かったよ。おっさんの力もあって、大会に出れたし。時間があえば一緒にやってもいいよ」
 床に屈んだ小海はまだコンタクトを諦めきれていない。
「そこで、チーム名は『竜王』にしようかと」
「だっさ」
「もしかして、竜王戦の『竜王』ですか?」愛華が天啓を受けたように、顔を上げる。
「お、よく知ってるね、愛華ちゃん。将棋で最も賞金が高い竜王戦からとったんだよ。それと、小海」
「うん?」
「お前はディフェンダーな。俺が監督する」
「ええっ? 嫌だよ!」
「いや。俺は戦略を今時点でいくつか考えている。それを飲み込んで、実戦で磨き上げていくには時間がかかりすぎる」
「……」小海は黒目を半ば白目にして小さく頷いた。
「じゃあ、チーム『竜王』結成ですね! 目指せ一千万!」
 愛華は右手を天井に突き上げると、小海は「イェーイ」とテンション低めに床に語りかけた。
しおりを挟む

処理中です...