上 下
7 / 13

第七話

しおりを挟む
 平日のパートは店長が愛華の父親という特殊なコネができて、こちらも順調だった。作業は格段楽になり、苦手なレジも店長が気を利かせて応援に来てくれる。土日のシフトも断られたことがなく、優遇状態が続いていた。
 しかし生活を考えると、決して安泰できるものではない。
 今の生活を続けるだけなら問題ないが、美沙が夜の仕事をしなくても済むようにしたい。
他にも、小海が大学に行くための教育資金や、美沙や卓自身の老後の貯蓄は必要だ。もしかしたら急な出費もあるかもしれないし、怪我や病気になったときのことも考えると、今の貯蓄では安心できなかった。
 卓は夕食を片づけると、パソコンを開いて次の対戦相手の前回試合をリビングで見ていた。どちらのチームのパラメーターも画面には表示されておらず、分からないようになっている。しかしボールを奪い合った結果を表にして、実戦で比較できるように頭に入れる。 そうすることで、敵の全選手のパラメーターを芋づる式に丸裸にできた。
 パラメーターは試合を重ねるごとに予想しやすくなる。決勝に上がるときには、お互いのパラメーターはほぼ分かったうえで、プレイしなければいけない。
 卓は比較表を書き上げ、鉛筆を転がす。次の相手はオフェンスにだいぶん偏りがある。前回の試合相手より戦略に長けているかもしれない。卓は警戒した。
 三位内に入り大会に招待されるためには、負けは許されない。最低で引き分け。常勝チームでなければ数多のチームがエントリーしているランキングには、絶対入れないのだ。
 卓は目を閉じて有効そうな戦略を考えた。
 サッカー場を将棋盤に見立てると、どうしても王将となるゴールを癖で動かしてしまう。ゴールを担いで走る筋肉粒々のゴールキーパーを想像して、卓は苦笑した。将棋の戦法はヒントを与えてはくれるが、まったくルールも異なるため、どちらかといえば思考の邪魔になることの方が多かった。
 棋士としてのスキルは、戦略という直接的なものではなく、長年で培われた感覚的なものが生かされている気がした。敵の性格の予想や、慎重すぎる前準備といったところだ。敵の攻守を分析して、敵の姿を思い描いてみると、ふと将棋をやめる決意をさせた童顔の青年の顔が浮かぶ。
 ――勝ちたい。そして一千万円手に入れて、美沙を開放したい。

 公式戦二戦目の相手は『ライトニング』というチームだった。日曜日の昼三時に愛華と小海は部屋に集合し、卓はライトニング戦について戦略を伝える。
「今回の相手は前回の相手より戦略に長けている。過去の大会でライトニングというチームが八位にランクインしていて、おそらく同じチームなんじゃないかと思う」
 小海は床に寝そべって、吸血鬼のような真っ赤な目を半月型にして笑う。
「そんなメジャーな名前いっぱいあるって。同じかどうか分かるわけないじゃん!」
「まあまあ」と卓は小海を落ち着かせて、イスに座った。「少しうちの戦法と似ていてね。敵のウイングの十一番に大きなスタミナの偏りがあると思われる。なので、ディフェンダーの層を厚くするようにしたい」
 小海は部屋のフィギュアの棚を見ていて、聞いていないように見えるが、前回試合のときも同じ調子で大活躍したので、卓は放置した。一方、愛華の様子を見ると大きな目を輝かせてはいるが、固まった蝋人形のようで、三つ編みにした横髪から編み損ねた十数本の栗毛が、服の静電気でふわふわと舞い上がっている。
「愛華ちゃん、敵の十一番のスタミナが分かれば、守備を最小限にして、小海が操作するミッドフィルダーを投入するから、絶対的エースの八番を起点に攻めに転じよう」
「ハ、ハイ」
 愛華はフリーズする。
「愛華ちゃん、大丈夫かな? まずはいつも通り、ミッドフィルダー八番とセンターフォワードのセットで攻めるよ。ボールを取られても焦らないでね」
「ハ、ハイ」と言って愛華は小さく頷いた。

 キックオフのホイッスルが鳴る。愛華は言われた通り八番で攻め上がり、敵を十分引き付けるとセンターフォワードにパスをする。
「やっぱり、抜け目がないな」卓はゴーグルに展開される画面をみて、ライトニングの執拗なマークに対してつぶやく。愛華のボールは敵のディフェンスにあえなくカットされ、敵チームのボールとなった。
「ううっ」得意なスタートダッシュを阻まれ愛華は唸った。
「愛華、大丈夫。作戦通りだから、私に任せて」小海は敵ウイングの十一番に相対する選手に交代できるよう、コントローラーのⅬRに指を添えた。
 敵はセンター付近に攻め上がる。守衛のミッドフィルダーが近寄って、ある程度こちらの守備を引き寄せてから、ウイングにパスをする。
 小海は卓の忠告通り、二重に守衛を置いており十分に警戒していた。敵ウイングは攻めきれないと思い、またセンターへボールを戻した。
 そうして、しばらく膠着状態が続いた。
 0対0、両者無得点のままハーフタイムの休憩に入った。
 敵からのメッセージは何もない。ただの暇潰しでないという雰囲気が、試合中でも伝わってきた。おそらく向こうもそう感じているに違いない。
 卓は未だに敵のすべての選手のパラメーターを特定できず、敵主力のウイング十一番のパラメーターは謎のままで、測りかねていた。
 ハーフタイムに入る前、チームライトニングはディフェンスも攻めに入り始めていた。竜王のオフェンスも同様に守備に入らざるを得ない。パラメーターが分かるきっかけと、早急なカウンターが有効だろうと卓は考えていた。
「結構シビアな戦いだねぇ……おっさん、まだ相手のパラメーター分からないの?」
 卓はゴーグルをつけたまま、考え込んでいた。
「選手を交代して、ディフェンスのパワーを平均的に上げよう。愛華ちゃん、攻撃の形は崩していいから、ボールになるべくアタックしてくれる? 情報が欲しい」
 比較的スタミナが低く、パワーの高い選手へ変更した。
 後半戦のホイッスルが鳴る。
 早速、ライトニングはウイングの十一番にパスを出し、突破を試みる。
 小海の最初のディフェンスが追い付くが、ドリブルで抜けられる。二重の防衛線で用意していたセンターバックが駆け付け、十一番は侵攻を停止した。逆サイドの敵選手にもディフェンスを張り付かせており、打つ手がなく、十一番はバックにボールを戻した。
 愛華のミッドフィルダーがアタックしようとするが、敵はその前にパスをしてフリーな選手がボールを受けると、また膠着状態の雰囲気が漂う。
「おっさん、敵の十一番のカバーを少しの間、外そうか」
 十一番を手厚く防御しているので、ボールが捕れないということだろう。踏ん切りがつかなかった卓は、小海の意見をきっかけに決心した。
「こちらのディフェンスのエースがバレると思うが、二番ひとりで敵十一番を任せよう」
「了解」
 迅速に配置を変えて、ボールを支配しているセンターに猛攻をかけた。サイドバックが、敵のパスを読むように次から次にアタックする。とうとう守備のミッドフィルダーにつかまり、小海がボールをカットした。
 偶然なのか、カットされた敵ミッドフィルダーのスタミナが判明したことで、頭の中にある比較表の値が、パズルのピースのようにはまっていく。
 選手に割り当てられるポイントを補欠も含めて考えても、敵のウイング十一番は、こちらのディフェンスエースの二番より低い、という結果がはじき出された。
 小海は奪ったボールを愛華の八番にパスする。八番は敵を強行突破し、ペナルティエリアまで迫ったが、まだ敵を十分引き付けていない段階でセンターにパスを出してしまった。
「おわっ!」
卓はセンターフォワードを敵から離せていなかったため、スタミナの低いセンターフォワードはあえなくボールを奪われた。
「……ああっ、ごめんなさあい。早くパスを出し過ぎました……」
「愛華ちゃんのせいじゃない、センターにパスする戦法だったからね。……今、やっと敵ウイングのパラメーターが分かった。配置替えする」
「やっと分かったか、おっさん」
 ディフェンスは最低限の壁にして、オフェンスに残りの選手を投入する。
 反撃開始、そう思った瞬間、敵のウイング十一番がドリブルして、ディフェンスのエース二番と対峙する。二番はスライディングでボールを奪おうとするが、十一番は振り切ってシュートを放った。
「え?」卓は予想外の展開に固まる。
 十一番のシュートはゴールネットを揺らして、0対1でライトニングが先制点を入れた。
『ゴール!』
 画面から歓声が聞こえる。
「おおい、おっさん! 大丈夫か!」
「……おかしい。そんなはずはない……」
 計算を間違えた? 比較表が間違っている? もしかすると、俺の知らないルールがあるのか?
 卓は混乱した。
「すまん。とりあえず、もとの陣形に戻す」
 敵十一番に二重の壁を敷き直し、亀のような強固な陣形に戻る。
 サイドのミッドフィルダーが守備に回っているため、左右の攻めを活かせず、愛華の八番は行き詰って、ボールを奪われてしまった。守備の形に戻すのは悪手だった、と卓は反省した。多少リスクがあっても、ゴール後のキックオフは前線にミッドフィルダーも投入すべきだった。しかしもう試合は流れており、取り返しはつかない。
 敵はボールを支配し、のらりくらりと時間が過ぎる。思惑通り終了のホイッスルが鳴り、 チーム竜王は0―1で敗北を喫した。
「負けちゃいましたね。でも、楽しかったです。こんなワクワクしたの久しぶりです」
 愛華は控えめに拍手した。
「まあ、相手もすげー強かったと思うよ、おっさんそんなにフテくされるなよ」
小海は卓の背中を大きく叩いた。ゴーグルをつけたまま頭を抱えた卓は、崩れるように頭を垂れた。
「お父さん可哀想……」愛華が抱擁しようとしたが、小海が引き留める。
「おい! おっさん! 情けない姿、曝してるんじゃないよ。しっかりしろよ!」
 卓の腹にパンチをすると「うっ」と声を出して、卓はゴーグルを取った。
「二人ともごめん……俺が間違っていたかもしれない」
 卓はゴーグルの痕がついた狸のような目を押さえながら、ゆっくりと部屋から出て行った。

 絶対に自信がある試合だった。
 卓は夕食を作りながら振り返る。何が足りなかったのだろうと、大量の味噌を入れる。そして人参を切ると、誤って左手の人差し指を切ってしまった。まな板が赤くなり、乱切りされた人参が別の物体に見えた。

 夕食の時間になり、小海を呼んで一緒に食べると、小海は味噌汁に口をつけてえずいた。
「かっらい! おっさん、ちゃんと味見した?」
 小海は真っ赤な鋭い目で卓を見るが、卓は心あらずで味噌汁を平らげていた。
「おっさん、将棋の時よりヒデーよ」と言って、小海は白ご飯だけ食べると、部屋に戻っていく。「他の大会とかもあるんだからさ、そんな気落ちすんなって」
 娘の気遣いに卓は段々と恥ずかしくなってきた。
「そうだな。すまん……」
 卓は食器を片づけて、パソコンを立ち上げると、次の大会を検索した。いきなり一千万の試合は目標が大きすぎた。もっと慣れてから……。
 しかしどうしても納得ができない。
 負けた要因がはっきりしているのであれば、次の大会にどうつなげていくのか、どれぐらいのレベルの大会に応募するのか、そういった次の行動への指針が定まる。少なくとも将棋は、要因がはっきりしてから新たなスタートを切っていた。
 卓は今日の試合のリプレイをクリックした。 初めから最後まで見終えて、卓は一つだけ思い当たることがあった。
 ――ライトニングはパラメーターの改ざんをしている。
 今日の試合番号と、ライトニングのチームIDをメモして、アシアー大会運営にメールを出した。どうしてもウイング十一番のスタミナがおかしい点も記載した。メールを送った後もそわそわして、卓は玄関先まで意味なく歩いた。自分の考えが誤っていて運営側や対戦相手に迷惑をかけることになるかもしれない。しかしそうしなければ、到底先を見通す気にはなれなかった。

 平日パートを終えて家に着くと、真っ先にパソコンを開いてメールを確認した。その後も家事の合間にチェックするが何も返信はない。
 そうして二日経ち、パートから帰ってきて、すぐにメールをチェックすると、運営から返信が来ていた。卓は自転車を急いでこいだせいでバクバクしている心臓が、口から飛び出るかと思った。中身を開いてみると、質問事項を受けつけたことだけが簡潔に記されているだけで、全身から力が抜けた。

 土曜日に愛華が遊びに来た。
「お父さん、こんにちは。……大丈夫ですか?」
リビングを通ると卓に声を掛ける。
「ああ、あの時はごめんね。もう全然平気だから」と眠そうなふりをして、無関心を装う。
「もし、またやるって決まったら、声かけてください」
「ありがとう」卓は愛華の大人びた笑顔に癒された。
 いつまでも拘っていてもしょうがない、卓は立ち上がり、パソコンを開いた。
 次の大会を探そう――そう思って、画面を見ると未読のメールが一通来ている。
 卓は息をのんだ。
祈りながらメールを開く。
「ライトニングチームは不正な方法で意図的にパラメーターを改ざんした証跡がみつかりました。そのため、竜王チームの前回試合は不戦勝とし勝ち点3に変更します――」
 心の奥底から、安堵と喜びがこみ上げてくる。――やっぱり俺の計算に狂いはなかったんだ。
卓は満面の笑みでパソコンを手に小海の部屋の戸を開ける。部屋では愛華と小海が下着姿で、コスプレの服を試着していた。
「! ……おっさん、何勝手に開けてんの!」
 驚いた小海の顔は怒りの表情に変わる。愛華は脱いだ服で胸を隠して、小さく声を漏らし恥じらいだ。
「あ、いや、鍵がかかってなかったんだなって……」
「コラ! 早く閉めんか!」小海は戸を勢いよく閉めると、部屋で何かが割れる音が聞こえた。そのあとに小海の哀しげな咆哮が続くと、卓は忍び足でリビングに戻った。
しおりを挟む

処理中です...