『パタヤ日本人殺人事件〜消えた線路の幽霊〜』

十夢矢夢君(とむやむくん)

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第一話 失踪

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1.パタヤの熱い風 

 未明の歓楽街パタヤは、数時間前の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 

 淫靡なネオンの消えたビーチロードは、湿った熱気だけを残して束の間の眠りについている。 

 遠くで、酔いつぶれた西洋人観光客の男がレディボーイに絡み、怒鳴り合う声がかすかに響いた。   

 海からの風が高層コンドミニアムのベランダを撫で上げていく。 

 沖合ではレジャーボートや高級クルーザーが、夜明けの海に浮かぶ妖獣のように波間で揺れていた。  

  坂本刑事は警察バッジを首にかけ、日本大使館邦人保護課の職員・小林と共に室内を見渡した。 

 失踪した日系企業の駐在員が住んでいた、32階の角部屋。 

 一人暮らしには広すぎる部屋の間取りに、ひんやりとした大理石の床。 

 開け放たれたベランダから潮の匂いが流れ込み、籐のテーブルセットが常夏の虚無感を静かに演出していた。   

 壁にはタイの風景画、隅には美術館にあるような仏陀の彫刻が、不在の主を見守るように佇んでいる。 

 坂本の目は、ウォールナットのテーブルに向けられた。 

 飲みかけのシンハビール、数本の吸い殻が残る灰皿、そして一冊のよれたノート。 

 坂本はノートを手に取り、ページをめくった。   

 日本語とタイ語が入り混じった走り書き、几帳面に貼られた名刺、そして太い赤線で引かれた地図のような手書きの模様——。  

「何かの地図か……? 小林さん、どう思う?」  

「地図かどうかも分かりませんが、山岸さんが向かおうとしていた場所かもしれませんね……」   

 小林が困惑したように眉を寄せたその時、背後で部屋のドアが勢いよく開いた。 

 海風にカーテンがふわりと舞い、乾いたヒールの音が近づいてくる。  

「地元のギャングが関わっている可能性があるわ。日本大使館には連絡済みよね?」   

 聞き覚えのある、少しハイキーで甘えた響きのタイ語。 

 振り返ると、そこにはタイ公安警察の日本語通訳官・リサが数人の警官を従えて立っていた。 

 赤いバンダナで高く結んだポニーテール、ブルーのスキニージーンズに白いカウボーイブーツ。 

 ひと目で彼女だと分かる装いだった。  

 「คุณซากาโมโตะ! 坂本さん? なんでここに? 休暇でチェンマイにいるんじゃなかったの?」  

 彼女は赤いバンダナを揺らしながら、驚いた顔で言った。  

 ベランダから差し込む朝焼けの光が、彼女の褐色の肌を浮かび上がらせる。  

 坂本は眉を上げ、肩をすくめた。 

「それはこっちの台詞だよ。なんで君がここに?」  

「私は仕事ですよ。日本人が消えたっていうから…坂本さんこそどうしてここに?」  

「……大使館に呼び戻されてね、せっかくのチェンマイ温泉リゾートは台無しだよ。ああ、こちら、休暇中の僕を引っ張り出した小林さんだ」   

 坂本の皮肉交じりの紹介に、小林は慌ててタイ語で挨拶し、合掌(ワイ)を返した。 

 リサは呆れたように息をつく。  

「休んでいればいいのに。この事件はタイ警察の管轄よ。邪魔しないでくださいね」  

「日本人が絡む事件だ。協力させてくれ。……まあ、君とは腐れ縁だが」  

「ほんと、嫌な言い方しますよね。協力してあげないわよ」 

「今回はややこしい話になりそうだ。まぁ、仲良くやろうじゃないか」 

「だったら最初から“お願いします”って言えばいいのに!」 

 軽口で一瞬だけ和らいだ空気を、現場の静寂がすぐに飲み込んだ。 

 坂本は手帳を開き、事実を確認する。  

「山岸達也、四十二歳。大手商社のパタヤ支店勤務。三日前から連絡が取れなくなり、支店長が通報した。日本に妻子を残した単身赴任。五年の駐在歴があり、仕事ぶりは真面目で評判もいい。典型的な企業戦士だ」   

 坂本は胸ポケットに手帳をしまい、低く言った。 

「そんな男が、突然姿を消す理由がない。……普通ならな」 

 リサは部屋を見渡す。 

「でも、夜は毎晩バーをはしごして酔いつぶれていたそうよ。ロビーの守衛の話だと」  

 リサが窓の外を見つめながら補足した。  

「昼は模範的駐在員、夜はパタヤの酒場を漂流する酔っ払い日本人。二つの顔を持つ男ね」   

 坂本はノートをリサに差し出した。  

「これを見てくれ。タイ語は書けないはずの山岸が、何かを残している。もしかすると、読み書きもできたのかもしれない。で、何が書いてある? 失踪の手がかりになりそうなことは?」   

 リサが文字をなぞる。 

「不自然な綴りだけど、なんだか、戦時中の日本兵の鉄道建設について書いてあるわ…。失踪とはあまり関係なさそうだけど…」 

 坂本が覗き込み眉を寄せた。 

 リサは赤い線が引かれた地図に目を留め、ある一点を指で軽く叩いた。 

「地名と時間を急いで書き留めたみたい。“W.H ๒๒.น.”……W.H、午後十時。倉庫(Warehouse)の略かしら。この地図の印、パタヤ郊外のレムチャバン埠頭にある倉庫群のことかしら」  

 リサの声が確信めいて響き、坂本は少し興奮気味に息を吐いた。 

「倉庫なら、レムチャバン国際港の近くだろう。しかし夜はギャングの溜まり場と聞いているが、山岸がそんな場所に近づく理由が思いつかない」 

 リサが首をかしげながら地図を見ていると、部屋の奥を調べていた小林が声を上げた。 

「……あれ? これは何ですかね?」   

 小林がベッドの下を指差した。 

 リサが命じた捜査員が、白い手袋を嵌めてしゃがみ込み、慎重に引き出す。  

 薄く埃をかぶった黒いダッフルバッグだった。 

 ずしりと妙に重い。 

 ジッパーを開けると、古びた紙の匂いと共に、輪ゴムで束ねられたタイバーツ、日本円、米ドルの高額紙幣が溢れ出した。  

「……こんな大金、どこから? 何に使うのかしら?」  

 リサの呟きに、坂本は沈痛な面持ちで札束を透かした。 

「うむ、一体なんの金だ……? 給料や貯金じゃ説明できない額だな…」 


2.地図と携帯 

 坂本はバッグの中を改めて探ると、指先に硬い角が触れる。 

「……まだ何か入ってるな」 

 取り出したのは、古い型の携帯電話だった。  

 黒い樹脂のボディは擦り傷だらけで、画面には細かいひびが入っている。 

「こんな古い携帯、今どき使ってる人いないわよ。山岸さん、スマホも持ってたはずなのに……」 

 リサが訝しがっていると、坂本が電源スイッチを押すと、驚くことにまだバッテリーは残っていた。  

 聞き慣れた起動音が短く鳴り、画面がゆっくり明るくなる。 

「懐かしいな、この携帯の画面。今なら骨董品屋に並んでいそうだな…」 

 坂本は携帯電話を持ちながら、その手感を懐かしんでいた。 

「もう、坂本さんったら! そんなことより通話記録を見てください、早く!」 

 ぎこちない指先で通話履歴を開くと、四日前の記録を最後に、通話は途絶えていた。  

 しかも——すべて同じ携帯電話からの番号だ。 

 リサが画面を覗き込み、眉を寄せる。 

 坂本は通話履歴の横にある、小さなアイコンに気づいた。 

「録音機能が作動してるな……」 

 坂本が再生ボタンを押すと、スピーカーから雑音混じりの声が流れ出す。   

 最初に聞こえてきたのは、男の低く落ち着いた声だった。 

《心配するな。全部、俺がやる。ただ……あの場所には近づくな》 

 タイ語の発音こそネイティブではないが、内容は明解で淀みがない。   

 リサが隣で小さく息を呑む。 

「……嘘でしょ。山岸さん、タイ語はカタコトだって聞いていたけど……。これ、明らかに使い慣れている人の話し方よ」 

 驚きを隠せないリサの声をかき消すように、録音から別の音が聞こえてきた。 

 速いビートの音楽、男の笑い声、そして女の甲高い叫び。 

「……ゴーゴーバーのカウンターかしら。かなりの喧騒ね」 

 リサが音に耳を澄ませる中、続いて若い女性の甘えたような声が入る。 

《ヤマギシさん、昨日の話……本当に大丈夫なの?》 

 その言葉を最後に、通話はぷつりと切れた。   

 再生が終わり、部屋全体を暫しの沈黙が支配した。 

 坂本はリサと視線を合わせ、小さく頷く。 

「 “山岸さん”と呼んでいたな……。相手の女は、山岸と関係のある人物か…」  

「しかも、『昨日の話』って。単なる遊び相手じゃなさそうね。この辺りで山岸さんと深く関わっていた女といえば……。ゴーゴーバーの女性かしら?」   

 リサは腕を組み、何かを思案するように目を閉じた。 

 坂本もまた、山岸の裏の顔を思い描いていた。 

 真面目な企業戦士の皮を被った男が、流暢なタイ語を操り、危険な香りのする女性と秘密を共有していたとすると――。 

 その落差に、言い知れぬ、不吉な予感が坂本の胸をざわつかせる。 

「この男の声が山岸だとすると……。山岸達也には、別の顔が隠されているようだな」 

 坂本は携帯電話をゆっくりとテーブルに置いた。 

 坂本が何か言いかけたそのとき—— 

 小林のスマホの着信音が、静まり返った部屋を鋭く切り裂いた。 

 電話を受けた小林の顔から血の気が引いていく。 

「どうしましたか?」 

「坂本さん……山岸さんの遺体が見つかりました。レムチャバン埠頭の倉庫です」   

 部屋の空気が一気に凍りついた。 

 坂本は低い声でリサに告げた。 

「山岸達也の遺体が見つかったようだ。場所は……そのノートにある港の倉庫だ」 

 リサの目が大きく見開かれる。 

「港…あの倉庫群の?」 

「そうだ。 さっき地図で見た、赤い線が集中していたあたりだろう」 

 遠くでパトカーのサイレンの音がこだましている。 

「じゃあ……この録音の会話の後に事件に巻き込まれたのかしら……」 

 坂本は短く頷いた。 

「山岸は、何かに巻き込まれたんじゃない。自分から踏み込んでいったんじゃないかな。その結果が……これだ」 

 リサは唇を噛み、視線を窓の外へ投げた。  

「じゃ、すぐに現場へ行きましょう!」 

「よし、急ごう!」

 坂本は警察バッジを握り直し、部屋を後にした。  

 ベランダからの潮風が、まるで何かを告げるように二人の背中を押していた。 

 ――車のドアが閉まる音。   

 大使館の公用車とリサの警察車両は、パタヤの市街地を抜けて首都バンコクへと続く幹線道路をひた走る。

 二十分ほどで、タイ湾に面した広大な埠頭のコンテナヤードが見えてきた。  

 容赦なく照りつける太陽の下、巨大な貨物船の船体が重苦しい熱気を跳ね返している。

 えた潮の香りに、焼けた鉄の匂いが混じって鼻を刺した。

 並び立つコンテナは灼熱を帯び、触れれば火傷しそうなほどだ。 

 その一角、錆びたトタン屋根の倉庫から伸びる、雑草に埋もれた線路の上に、見放されたような空のコンテナ車両が静かに停まっていた。  

 周囲にはタイ語で「立入禁止」と記された黄色いテープが張り巡らされ、鑑識課員が放つフラッシュの光が、重苦しい空気を断続的に切り裂いている。

 灼けつく日差しがコンテナの鉄壁を白く照らし出す一方で、開け放たれた倉庫の奥は、昼の光を拒むような深い闇に沈んでいた。 

 その半開きのドアから、潮と鉄と腐敗の匂いが漏れ出している。   

 坂本は首筋の汗を拭い、タイ人の鑑識課員に警察バッジを示し、丁寧にお辞儀をした。  

“ผมคือซากาโมโตะ จากสำนักงานตำรวจนครบาลญี่ปุ่น ขอให้ผมดูศพด้วยครับ”《日本警視庁の坂本です。遺体を確認させてください》

 鑑識が道を空けると、薄暗いコンテナに足を踏み入れた。

 坂本は静かに手を合わせ、亡き同胞に頭を下げた。

「ここが、山岸の最期の場所か…」 

 天井の小さな破れ目から差し込む光が、残酷にその輪郭を浮き彫りにしている。 

 コンテナの中央の壁にもたれかかるようにして、山岸達也の腐乱死体が横たわっていた。 
 
 熱気で膨張した遺体は、土気色の皮膚が異様に突っ張り、見開かれた瞳は今も何かを恐れるように闇を凝視している。    

 その時――コンテナの奥、光の届かない闇の中で、白い霧のような人影がゆらりと揺らめいた。   

 坂本は息を呑み、わずかに震える指先を隠すように握りしめた。  

「……何だ、今のは」  

 坂本は瞬きをし、もう一度闇を凝視した。 

 だが、そこにはただ、山岸の遺体が放つ死臭と、熱気に澱んだ沈黙があるだけだった。 

(第ニ話に続く) 
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