『パタヤ日本人殺人事件〜消えた線路の幽霊〜』

十夢矢夢君(とむやむくん)

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第二話 陽炎の工兵伍長

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1. 藤堂一馬とうどうかずま 

 坂本は気を取り戻し、小林を呼んで山岸の遺体を調べ始めた。 

 小林が怪訝な顔つきで、遺体の傍らに落ちている小さな布片に目を落とした。 

 赤地に金の縦線、そして中央に一つの金星。 

 旧日本陸軍、伍長の階級を示す肩章だ。   

「坂本さん、これは……戦時中の日本兵の肩章じゃないでしょうか?」     

 大使館員の小林が、神妙な顔つきで、なにか嫌な気配を感じ取ったようだった。   

「日本兵の…? よくご存じで…。 でもなぜこんなものが……」   

 坂本が小林から、その布片を受け取った瞬間、その手をぎゅっと掴まれたような錯覚に陥った。

「坂本さん……?」    

 小林の声が、消え行くエコーのように遠のいていく。     

 なんだ、この感覚は…?  

 坂本の吐く息が白く濁り、足元から這い上がってきた冷気が、灼熱のコンテナ内に漂ってくる。 

 不意に、鼻を突く火薬の焦げた臭い、泥、そして重油と焼けた鉄が混じった匂いが漂い、坂本は思わずしゃがみこんでしまった。  

 その時、コンテナの奥から澱んだ空気が、激しい震えとなって内側の壁を這ってきた。    

 だが、すぐ傍にいるリサも小林も、その異変に全く気づかない。   

 彼らは平然と、死体の検分を続けている。 

 坂本だけが、現実から切り離された空間に囚われていた。   
 その澱みの向こう側から、ゆっくりと重厚な靴音が響いてきた。 

 一歩、また一歩。  

 誰もいないはずの床が、ぎしりと沈み、視界が急激にセピア色に染まっていく。  

 昼の光が差し込んでいるはずなのに、その一角だけが、墨をこぼしたような真っ黒な闇に沈んでいる。 
 
 フウフウと湿り気を帯びた、重苦しい呼吸音が聞こえる。  

「……誰だ?」   

 坂本が声を絞り出す。   

 白い霧の中から、ゆっくりと影が染み出してきた。   

 軍帽の輪郭ー左胸が赤く染まり、泥を被った軍服姿。  

 そして、坂本が手にしている肩章に視線を落とすように、一つの顔が浮かび上がった。   

 軍帽のひさしの下で、爛々と輝く二つの眼光。     

 男は、欠けた自らの左肩をゆっくりとさすり、坂本を射抜くように見据えた。   

『……貴様、俺が見えるのか』 

 コンテナの壁に反響する低い声が、坂本の脳に直接語りかけてきた。    

『わしは藤堂一馬、大日本帝国陸軍工兵隊伍長こうへいたいごちょうだ』     

 藤堂は坂本を見下ろし、ゆっくりと敬礼をした。  

 その眼には、時代を超えてきた者の凄まじい圧があった。  

 藤堂は腕を下し、山岸の遺体を冷たく指差した。 

『愚かな男よ…』 

 藤堂は一歩、坂本へ歩を進めた。   

 たわむ床が、坂本の平衡感覚を奪う。   

「ちょ、ちょっと待ってください。あなたは一体誰ですか? てか、え?」 

 坂本は気が動転し、目の前の光景に理屈が追いつかず、ただ唇を震わせるしかなかった。  

『坂本と云ったな、なかなか肝の据わった男だな。普通は、泡を吹いて転がるか、腰を抜かして這いずるものだが……、それとわしを“藤堂伍長”と呼べ』 

 藤堂はそう言って不敵な笑みを浮かべ言葉を切った。   

『貴様、この線路が飲み込んだすべての事実、知りたくはないのか?』 

 藤堂はゆっくりと歩を進め、坂本の耳元で囁くように続けた。  

『この男、わしが教えた「線路の地図」を私利私欲のために利用しおった。かつてわしが地図にない線を刻み、命を賭して敷設したあの道を、ただの欲の道具に変えおったのだ。挙げ句、ようやく辿り着いたというところで無様に殺され、この場所を血で汚しおった……』

「……山岸を殺した犯人を見たのか?」 

『ああ、見ておった。だが……』

 藤堂は悔しげに顔を歪め、港のさらに先、遠い水平線を睨みつけた。 

『わしの足はこの港の、このコンテナの周辺までしか届かぬ。山岸の命を奪った奴らが、奪い取った「荷」をどこへ運んで消えたのか……そこまではわしにも見えんのだ』 

 坂本の背筋に、再び鋭い寒気が走った。 

 藤堂は軍帽の庇を指先でクイと上げ話を続けた。

『山岸という男の死も、わしの誇りを踏みにじった者たちの正体も、未だ闇に紛れておる。だが、案ずるな。この一件、わしが協力する。貴様らの手に負える相手ではないからな』

 藤堂は不敵に唇を吊り上げると、今度はコンテナの奥、闇が深くなっている一点を指さした。 

『いいか、坂本。まずは、この“消された線路”がどこへ向かっているのか……。貴様の眼で、正しく見届けることだ』

 指し示された先には、蜃気楼のように壁の空気が割れて、線路の影が揺らめいて浮かび上がった。  

『すべてが終わった時、わしもようやく祖国日本へ『帰還』できる……。そういうことだ』 

「祖国へ帰還…?」 

『左様。わしはこのコンテナで八十年、ずっと見ておったのだ。人間の欲というのはいつの時代も同じだったがな…わしが成仏できないのもそれが原因かもしれぬ』 

 

2. 陽炎かげろうの伍長 

 藤堂はふんぞり返るようにしてコンテナの壁に背を預けると、擦り切れた軍装から古びた紙箱を取り出した。   

 表書きには『興亜』の二文字――戦時中の兵士が喉を鳴らした配給煙草だ。   

 藤堂が慣れた手つきでマッチを擦ると、小さな火花が散った。 

 くゆる煙は、白く消えるのではなく、セピア色の霧となって天井へねっとりと這い上がっていく。 

『ふう……やはり『興亜』は喉にくる。貴様も一本どうだ、坂本。……と言いたいが、現代の軟弱者には皇軍の味は重すぎるか?』  

「……結構だ。それよりここは禁煙だぞ、伍長」 

 消える気配のない幽霊に、坂本は頭を抱えた。 

 藤堂は俄かに無邪気な笑みを浮かべ、坂本の肩を(透けるような感触のまま)叩いた。  

『そう硬いことを言うな。まずはあの小娘のところへ戻るか。あやつ、なかなか良い勘をしておる』 

 コンテナを這い出してきた坂本の顔は土色だった。 

 その後ろを、鼻歌でも歌いそうな足取りで藤堂が続く。 

 もちろん、リサにはその姿は見えない。  

「坂本さん! 顔色がかなり悪いですよ!」   

 駆け寄るリサに、坂本は震える指で背後を指さした。  

「……リサ。そこに、場違いなほど古臭い軍服の男がいないか?」 

 リサは目をパチパチさせて、虚空を凝視した。  

「変な格好? ……ああ、ソムチャイ警部のことですね! あの人、体型を無視して数号下の制服を無理やり着るから、お腹が弾けそうで……まるで歩く太鼓ですよ!」  

「違う、ソムチャイではない! もっと古い兵隊のような……」 

 遮るように、藤堂がリサの目前まで大股で歩み寄った。  

『坂本! この女子兵曹、今なんと言った。わしの気高い軍服を、その太鼓野郎と一緒くたにしたのか!』   

 憤慨した藤堂が服をパッパとはたくたび、セピア色の埃が舞う。  

「いや、落ち着いて……藤堂さん。彼女はリサ警部補、私の相棒だ」   

 紹介された藤堂は、一つ咳払いをして胸を反らした。  

『ほう、今時のタイの女兵か。目力が強いな、わしの好みだ』  

「よせ! セクハラだぞ、伍長!」  

『セキ・ハラ……? 案ずるな、坂本。わしは至って健勝だ。赤痢セキりにもかかっておらんし、ハラの具合も快調である!』 

 噛み合わない掛け合いに、リサはそっと二歩、後ずさりした。  

「坂本さん……さっきから誰と話してるんですか? 暑さで脳がバグっちゃったんじゃ……」  

「待て、リサ! こいつが……いや、この藤堂伍長がだな……!」   

 必死に説明しようとするが、あまりの異常事態に言葉が続かず、坂本は金魚のように口をパクパクさせるばかりだった。 

 その横で、藤堂はリサのスマートフォンを食い入るように覗き込んだ。  

『なんだこの光る板は! 文箱ふみばこか、それとも新型の通信機か!』   

 透ける指先がかすめるたび、画面に不気味なノイズが走り、周囲の気温がすうっと下がる。  

『おい、坂本! ぼうっとするな。八十年ぶりのパタヤだ。大東亜随一と謳われる大歓楽街をじっくり見物してみたい。案内を頼む!』 

「ま、待て……。本気でついてくるつもりか?」 

 ようやく絞り出した坂本の声に、藤堂は心外だと言わんばかりに目を見開いた。 

『当たり前だ。貴様一人では、この事件は解決できぬだろう。……これもわしに許された、日帰賜暇にっきしかと思えばよいのだ』 

 藤堂は不敵に笑うと、コンテナの暗がりを離れ、白く焼けつく真昼の光の中へと悠然と踏み出した。 

 だが、その背中が強烈な直射日光にさらされた瞬間――。 

 激しい陽炎の彼方へ溶け去るように、藤堂の姿はかき消えた。   

 同時に、まとわりついていた冷気が霧散し、せき止められていた倉庫の熱気が、爆発するように戻ってきた。 

「……消えた?」   

 坂本は、眩暈めまいを覚えるほどの白光の中、誰もいないアスファルトの上で、ただ呆然と立ち尽くした。 

 
3. ビーチロードの聖域 

 繁華街のど真ん中にある、ビーチロード沿いのパタヤ警察署の正面玄関をくぐると、むせ返るような熱気が坂本を待ち構えていた。 

 受付の待合席には、ビーチサンダルにアロハシャツという格好の観光客が溢れかえっている。 

 財布を盗まれたと喚く白人男性、連行されてきた派手なドレスの女、そしてそれらを適当にあしらう制服姿の警官たち。 

 天井で回る巨大なシーリングファンは、生ぬるい空気をかき回すだけで、何の涼ももたらさない。 

 事務室に入れば、今度は使い古されたエアコンが「ガタガタ」と激しい異音を立てながら、冷気というよりは湿った風を吹き出している。 

 喧騒極まる事務室の壁、ひときわ高い場所には、現タイ国王の肖像画が厳かに掲げられている。 

 金色の重厚な額縁に収められたその御影は、埃っぽく雑然とした署内の混乱を見下ろすかのように、静謐な威厳を放っていた。 

 その前を通り過ぎる警官たちは、どんなに忙しくとも一瞬だけ居住まいを正す。 

 南国の強烈な陽光を遮るブラインドの隙間から、一筋の光がその肖像を照らし出し、そこだけが周囲の泥臭い現実から切り離された聖域のように見えた。 

 坂本はその凛とした眼差しを仰ぎ見ると、どこか落ち着かない心地で、自らの乱れた襟元をそっと直した。 

 指名手配犯たちの色褪せたポスターが壁を囲み、デスクの上には、飲みかけの甘いタイティーのカップと、乱雑に積まれたタイ語の書類、そして誰のものか分からないバイクのヘルメットが転がっている。 

 窓の外からは、甘ったるい遅い午後のパタヤ特有の喧騒――トゥクトゥクの排気音と、付近のゴーゴーバーから流れる重低音の音楽が、湿気を含んだ風に乗って絶え間なく流れ込んでくる。 

 坂本は、リサにデスクを借りて座り、ベタつくシャツの袖を捲った。   

 このあまりにも「現実的すぎる」混沌とした風景の中にいると、つい先ほどコンテナの中で出会った、あの凍てつくような藤堂伍長の存在が、ますます悪い夢だったのではないかと思えてくるのだった。 

 坂本は、山岸の部屋から押収された「大金の入ったバッグ」と、現場で回収された「よれたノート」、その他の所持品をデスクに広げた。 

 リサは冷えたコーラの缶を首筋に当てながら、山岸のスマホの着信履歴をチェックしている。 

 リサが何かを言いかけた時、署内の喧騒をかき分けるようにして、部下の警察官が部屋に飛び込んできた。 

「リサ警部補、例の『バーの女』のアタリが付きましたよ! 山岸の携帯の通話記録にある番号の持ち主です、これです」 

 リサは、早口で喋る若い警官から報告を受け、タブレットを器用に画面をスワイプし、監視カメラの粗い静止画とSNSのプロフィール画面を並べて表示させた。 

「名前はマイ。ウォーキングストリートの裏手にある、古びたゴーゴーバー『ブルー・ラビリンス』のホステスです。店員の話だと、“ヤマギシ”と名乗る男は、ここ数ヶ月、毎日この店に通い詰めては彼女を指名して、店の片隅でイチャついていたらしいですよ…」 

 リサは呆れたように肩をすくめ、画面をスワイプした。 

「酒を奢り、マイの膝を枕にして、鼻の下を伸ばして。……周囲からは、絵に描いたような『タイの女に骨抜きにされた、カモネギ日本人オヤジ』だと思われていたみたいですね」 

「……イチャついていただけか。深刻な話をしていた形跡は?」 

「店員に言わせれば『甘ったるい言葉以外、何も聞こえてこなかった』そうで。坂本さん、コンテナで見つかったあの鋭い目つきの死体が、この店でデレデレと鼻の下を伸ばしていた姿……想像できます?」 

 坂本は、証拠写真の「死んだ男」の冷酷な顔と、リサが語る「道楽男」の姿を交互に思い浮かべ、激しい違和感に眉をひそめた。 

「……あり得んな。どう考えても、あの死体の男がそんな腑抜けた真似をするとは思えない」 

「ですよね。でもマイ本人は、電話の相手を確かに『ヤマギシさん』と呼んでいた。……これ、彼女に会って確認した方がよさそうよ」

「よし、夕方のシフトが始まる前に店に行ってみよう。彼女、山岸が死んだことをまだ知らないはずだ。まずはそこから始めよう」 

 リサは赤いバンダナをきゅっと結び直すと、さっと立ち上がった。 

 その勢いに押されるように、坂本も腰を上げる。 

 二人が騒然とした事務室を出ようとした、その時だ。   

 部屋の窓ガラスに映るセピア色の輪郭。   

 消えたはずの藤堂が、ガラス越しに薄笑みを浮かべてこちらを見ている。 

「……ッ。まだいたのか…」   

 開け放たれた入り口から、ねっとりとした熱気が流れ込んでくる。   

 坂本は震える肩をリサに悟られぬよう拳を握り、パタヤの喧騒へと踏み出した。 

 (第三話に続く)
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