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第三話 二人のヤマギシ
しおりを挟む1. 迷宮の『ブルー・ラビリンス』
「……あそこに座っている女です」
リサが指差した先、『ブルー・ラビリンス』のカウンターの隅に、マイと思われる女と一人の男が肩を寄せ合っていた。
リサと坂本は無言で歩み寄り、カウンターのスタッフに警察バッジを提示し二人に歩み寄った。
「パタヤ署です。マイさん、あなたに話を聞きたいのですが…。隣の男性はどなたですか?」
マイは驚いたように顔を上げ、少し怯えたような、それでいて、どこか見せつけるような仕草で男の腕に絡みついた。
「な、何よ急に。……彼は私のボーイフレンドよ。日本人の、ヤマギシさんよ」
坂本とリサの動きが止まった。
「……ヤマギシ、だと?」
坂本の脳裏に、コンテナで見つかった死体の、あの青白く痩せこけた頬が浮かぶ。
あの仏こそが「山岸」であるという確信を持ってここへ来たはずだった。
だが、目の前の男は――首元にたっぷりとした脂肪を蓄え、だらしなくボタンを外したアロハシャツから突き出た太鼓腹を揺らしている。
どこにでもいそうな、脂ぎった小太りの中年男だ。
死んだ男とは、似ても似つかぬ別人である。
「……何か? 確かに私は山岸、山岸達也ですが…。日本の警察の方が、私に何か御用で?」
男は不思議そうに、卑屈な笑みを浮かべて会釈した。
コンテナで冷たくなっていた「山岸」と、目の前で生きている「ヤマギシ」。
そのあまりの乖離に、坂本の指先が震えた。
「ヤマギシ…さん。あなたのパスポートは、今どこにありますか?」
リサが努めて冷静な声で尋ねると、小太りの男は露骨に視線を泳がせた。
「あ、ああ。あれね。……実は数日前、盗まれちゃいまして。ほら、これはバンコクの日本大使館で発行してもらった渡航証明書です。明日にでも日本に帰る予定でしてね」
男が広げて見せたのは、五七桐の紋が記されたベージュの表紙――「帰国のための渡航書」だった。
(……盗まれたんじゃない。こいつ、売ったな)
坂本は舌打ちをし、マイへの質問をリサに任せて席を外し、急いで大使館の小林に電話をかけた。
「ああ、小林さん、至急調べてください。例の山岸達也の件ですが、大使館にパスポート紛失を届け出た経緯と、外務省へ原本との照合を経伺してください。……ええ、恐らく死んだ「山岸」のパスポートは、写真を張り替えた偽造旅券かもしれません…」
坂本は直感した。この道楽男は、女への遊び金を作るために自身の「身分」を裏社会へ売り払ったのだ。
買い取った側は、本物の山岸が公的に「存在」している期間を利用し、死ぬ運命にあった「偽の山岸」にその名前を着せた。
そうすれば、死体が発見されても地元警察は「道楽にふけった日本人がトラブルで死んだ」と処理し、真の死者の正体には辿り着けない。
だが、誤算があった。
身分を売った当の本人が、女への未練から大人しく帰国するどころか、口止めされていたはずの店に、のこのこと顔を出してしまったことだ。
坂本は、眩暈に似た戦慄を覚えた。
死んだ「偽・山岸」の正体は、依然として闇の中。
そして、その名前を死体に被せ、工作した「誰か」が、すぐ近くで自分たちを監視している。
突如、店内の照明が不規則に明滅し、スピーカーから鼓膜を刺すようなノイズが走った。
2. 日本陸軍工兵部隊
坂本の背後で、店内の湿った熱気が一瞬にして凍りつき、セピア色の霧が渦巻く。
その中から、あの不遜な軍人が軍靴の音を響かせて現れた。
藤堂は、トップレスのダンサーがポールを掴んで踊るステージカウンターの縁に、事も無げにどっかと胡坐をかいて座った。
頭上では半裸の女子が舞い、目の前では酒が運ばれる。
『おい、貴様!坂本!……なんだ、そこの豚のような男は。こやつ、女子の膝で鼻の下を伸ばしおって。 実に嘆かわしい。皇軍の風紀を乱す不心得者め、往復ビンタでもくれてやらねば気が済まん!』
「よせ、藤堂伍長! あんたが手を出したら店ごと凍りつく!」
坂本は慌てて虚空を制止すると、リサが不審げに肩をさすった。
「……坂本さん、さっきから誰と? あと、このお店、クーラーが利き過ぎなのかしら? 急に冷蔵庫の中みたいに冷えてきたんですけど……」
『坂本、この女子兵曹は相変わらず勘が良いな。それより見ろ、この豚野郎を。あれを放置しては日本の恥だ。わしが直接、軍人勅諭でも読み聞かせてやろうか』
「そんなの必要ない! 今は令和の時代だ。というか伍長、あんた、さっき消えたんじゃなかったのか?」
『馬鹿を申せ。日帰賜暇と言ったであろうが。門限までは自由行動だ。……それにしても、なんだこの場所は。酒を出す割には、女子が皆、肌着同然の格好ではないか。ここは……野戦病院か?』
「ゴーゴーバーと言うんだ! 日本語では酒場だ、酒場!」
『さかば……? 今どきの酒場では、若い女子が、裸同然の躍りを見せるのか? 貴様、わしを騙しておるな! さてはここが世に言う、“風紀退廃の極致”か!』
藤堂は、すぐ横で踊るダンサーの脚を、まるで汚物でも見るかのような冷徹な眼光で一瞥した。
憤慨した藤堂が、地団駄を踏むように軍靴をカウンターに叩きつける。
その霊的な衝撃に、並べられたグラスがガタガタと悲鳴を上げた。
「ひ、ひいっ! 地震か!? うわぁ・・・!」
本物のヤマギシは椅子から転げ落ち、全身をわなわなと震わせた。
リサは怯えるマイを庇いながら、坂本のすぐ隣――藤堂がふんぞり返っている「何もない空間」を鋭く射抜いている。
「……リサ。そこに、何か見えないか?」
坂本が尋ねると、リサは目を細め、不審そうに鼻をひくつかせた。
「……いえ、何も見えませんけど、急に古臭いタンスの奥みたいな匂いと、安物の煙草の匂いが鼻に付くんです。それに……」
リサは自分の耳を疑うように首を傾げた。
「さっきから、誰かが耳元で『キサマ!、キサマ!』って、誰かが怒鳴り散らしているような気がして……」
『ほう、わしの声がうっすらと聞こえるのか。なかなか根性のある女子兵曹だ。坂本、貴様にはもったいない相棒だな』
藤堂は少し機嫌を直し、リサのスマホを食い入るように覗き込んだ。
『おい、この板は何だ! 光っておるぞ! 中に小人が入って文字を書いておるのか!? 敵性国家アメリカ製の新型通信機だな!癪に障るわ!』
「触るな伍長! ノイズが走る!」
「坂本さん……。もう正直に言ってください!その“伍長さん”とお友達になっちゃったんですか?」
リサの声は、もはや冗談を言っているトーンではなかった。
「……いいかリサ、説明は後だ。今はマイとヤマギシを確保するのが先だ、パタヤ署へ連れて行くぞ」
坂本が動こうとした瞬間、藤堂が鋭い眼光で空間を射抜いた。
『この男、絶対に帰国させるな。……この“本物”が消えたら、死体の正体を知る術がなくなるぞ』
藤堂の言葉が終わるより早く、店の前に一台の黒い車が静かに停まった。
『坂本、突喊の覚悟をしろ!遊びは終わりだ。……店の外、重い火薬の匂いだ。それも、アメリカ製のやつだ!』
言葉と同時に、店の入り口を黒いシャツの集団が無言で塞いだ。
リサが腰のホルスターに手をかけるより早く、乾いた破裂音が店の天井を突いた。
『坂本ッ! 敵襲だ! 突撃用意! 貴様のその腰の鉄砲は何のためにある!』
藤堂伍長が吠え、実体がないはずの身体から戦慄するような殺気が溢れ出す。
「無理言うな! こっちは二人、向こうは何人いると思ってんだ! リサ、裏だ、裏から逃げるぞ!」
「了解! マイ! ヤマギシ! こっちよ!」
パニックに陥る客の間を縫って、一行は灯りの消えた狭い通路へと駆け込んだ。
リサが裏口の扉に手をかけるが、海風で錆びつきびくともしない。
「くそっ、この扉、固まって開かない! 坂本さん、手伝って!」
リサが顔を真っ赤にして扉枠を掴むが、無情にも「ギギッ」と嫌な音を立てるだけだ。
背後のドアには、すでに追手の荒々しい足音が迫っている。
『何をまごまごしておるか! 坂本、わしが奴らの足を止める。その間に脱出しろ!わしは突撃する!』
「いや、待て待て待て! 伍長、あんたが行ったら本当の死人が出るだろ!」
「坂本さん、誰と話してるんですか!? いいから扉を!」
藤堂が通路に仁王立ちになり、敵の持つ拳銃を見て鼻を鳴らした。
『……ふん、あやつらはアメリカ製の「コルト」を持っておるか。忌々しいが、わが軍の南部十四年式とは訳が違う。あの四五口径は、一発掠めるだけで象をも止める威力がある。泥を噛んでも火を吹く、アメ公の象徴のごとき堅牢な鉄砲よ……』
「能書きはいいから早く扉を! 撃たれたら象どころか俺たちが死ぬんだよ!」
『……分かっておるわ! 貴様、大日本帝国陸軍工兵部隊を何だと思っておる。歩兵のように力任せに壊すのではない、構造の弱点を見抜くのだ。どけ、軟弱者め!』
藤堂が扉の取手に触れた瞬間、猛烈な冷気が渦巻いた。
軍靴で鍵穴の「一点」を叩き、同時に鍵の根元を透ける指先で鋭く弾く。
「パキンッ!」
乾いた音とともに、錆びついた真鍮がまるで見えない刃で切り落とされたかのように弾け飛んだ。
「えっ……!? 急に開いた!」
呆然とするリサを、坂本が急かす。
「いいから早く! マイとヤマギシを先に!」
リサが渋るヤマギシを外へと突き飛ばす。
その横で、藤堂は腕組みをして、満足げに鼻を鳴らした。
『見たか。これが工兵の本領よ。……さて坂本、手間賃に一本、「興亜」を貰いたいところだがな』
「後でいくらでも供えてやるよ! 行くぞ!」
3. 不夜城に響く軍歌
一行は店の裏手で客待ちをしていたトゥクトゥクに飛び乗った。
夜風を切り、派手な電飾のトゥクトゥクがパタヤの街を疾走する。
狭い後部座席には、坂本、リサ、マイの三人が肩を寄せ合い、足元の狭い床にはヤマギシが芋虫のように転がっている。
定員オーバーもいいところだが、さらにもう一人、藤堂伍長が「特等席」を構えていた。
「坂本さん……追っ手はもう来ないけど、さっきから車の屋根、ベコベコ鳴ってますよ?」
リサが見上げる先で、藤堂が悠然と胡坐をかき、極彩色の光の河を睥睨していた。
彼は上機嫌な様子で、掠れた声で軍歌を口ずさんでいる。
『♪……守るも攻めるも黒鐵のぉ、浮かべる城ぞ頼みなるぅ……』
「……坂本さん。その『伍長さん』、もしかして屋根の上で歌ってます? さっきから音痴なラジオのノイズみたいなのが頭の上から降ってきて、私のスマホのプレイリスト、日本の軍歌に書き換えられてるんですけど…」
「伍長、頼むから大人しくしててくれ……」
『何を申すか坂本! 凱旋の折には歌は欠かせん。この「とぅくとぅく」なる戦車、見晴らしが良くて気に入ったぞ!』
藤堂が軍靴でリズムを刻むたびに、トゥクトゥクの屋根が派手にたわむ。
リサは深くため息をつき、あきらめたように窓の外へ視線を投げた。
「……まあいいです。私には見えないけど、心強い同僚が増えたと思って諦めます。でも坂本さん、『伍長さん』にパタヤの観光警察に目をつけられないように言ってくださいね」
リサの呆れ顔をよそに、藤堂伍長はネオンの光の河に身を乗り出し、震える声で歓喜を上げていた。
海岸通りの派手なゴーゴーバーのDJの爆音と、天井から降り注ぐ時代錯誤な軍歌。
喧騒のパタヤの街を駆け抜ける一台のトゥクトゥクが、「三人の男女」と「床に転がる男」、そして「屋根の上の幽霊」という、歪な五人組の影を長く引き延ばしながら、混沌の夜の奥へと消えていった。
(第四話に続く)
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