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1話・記憶の無い男
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彼が見たその光はとても強い光だった。
視覚で捕えることが出来た時間は極僅かなもので。
彼がその光を認識したと自覚できた時には、彼はその光に包まれ、そして、意識を奪われていたのだった。
真っ暗な視界がほのかな光を感じた。
瞼を閉じていても光を感知することは可能なので、そのおかげで周囲は明るいと言う事を知ることが出来た。
そして、聴覚もなにかの音…いや、声を感知していた。
「…大丈夫ですか?意識はありますか?」
安否を確認する声だ。
若い女性の声で、小鳥がさえずるような可愛らしく高い声。きっと、この声の持ち主はその声にふさわしく愛らしい姿をしているに違いない。
右肩に温かい感触と、揺さぶられる圧を感じる。そこまで強くはないが、横たわった身体に振動を感じさせる程度の力が加えられている。
鼻腔は草と土の匂いのほかに、花のような香りを感知している。おそらく自分は屋外…森や草原で横たわっているようだ。
…なぜこのような状況に自分が置かれているのかはわからない。
自分が置かれた状況を彼は冷静に認識すると、ゆっくりと目を開けた。
光を感じると同時に彼は自分が認識していた事項に相違が無かったことを確認する。
自分を見下ろしていたのは、可愛らしい少女だった。やや色の薄い金髪が光をキラキラと反射させているのが美しい。瞳はライトブラウンでとても澄んでいる。その目は大きく、反して鼻と口は小さめだがバランス良く整っている。
絶世の美女とは言えないが、十分可愛らしい少女である。フリルの付いたドレスが似合いそうな彼女だが、今はカーキ色の分厚いマントでその身を包んでいた。
「気がつかれましたか?気分は宜しいですか?お身体に痛みはありますか?」
彼と視線が合うと彼女の潜めた眉が一瞬緩んだ。しかし、また、心配そうな表情に戻って彼に問いかける。
彼は問われたことをゆっくりと理解したのち、言葉を口にする。
「…あぁ、意識はあるし、気分も悪くはない。が、少し、頭が痛いな」
彼の答えに彼女の顔はサッと青ざめた。
その様子を見て、彼は首を軽く横に振る。
「大丈夫だ。ケガの痛みではないから…一時的なものだと思う」
そう答えると、彼は腕に力を入れて上半身を起こそうとする。
「あ、急がず、無理をなさらず…!」
「ありがとう」
差し出された彼女の手を彼が取る事はなかったが、その気持ちがありがたかったので彼が礼を口にした。
彼女に視線を向けると、彼女が頬を淡く染めているような気がした。礼を言うので意識して笑顔を作ったつもりだったが、それの影響と思うのは自意識過剰かと彼は自問する。
身体を起こすと彼は周囲を見渡した。
感じた香りから連想した通り、ここは森の中だった。申し訳程度に整備された道の端に2人はいる。馬車が通る事は出来なく無さそうだが、好んでは通らないだろうと言う道だ。
そんな場所に倒れていた自分の事も気にはなるのだが、森の中にしては明るすぎる事も彼は気になった。
ふと、空を見上げてみれば、光の向こうにある空は暗いように見えた。だが、周囲は明るい。
「ん?」
ちぐはぐな状況に彼が小さく唸ると、彼女が身を乗り出した。
「あ、明りは私の魔法でして。まぶしすぎましたか?」
「いやぁ…不思議な状況だと思って…」
彼女を改めて見てみる。
淡い金色のセミロングの髪を後ろで1つに結んでいる。カーキ色の厚手のマントを前で合わせているが、その留め具に使用されているのは宝石のようだった。おそらく、タリスマンと呼ばれる護り石だろう。そして、彼女の横に置かれた杖が彼女の特性の1つを示していた。
「…魔法使い…なのか…」
その言葉を口にして彼は違和感を覚えた。
魔法使い。多くの魔力をその肉体に宿し、その魔力を源に様々な現象を起こす事が出来る人間の呼び名。出来る事に個人差はあるが、たいていはその能力を生かせる仕事につくことが多い。
頭の中で言葉の意味を羅列したものの、やはり彼にはぬぐい切れない違和感があった。
良く知っている存在のはずなのに、この単語を口にしたのは初めてに近い、そんな感覚だった。
そもそも、意識していなかったが、自分はこんな口調で話をしていただうろうか。
もっと、腰が低く、いつもですます調で話していたような…そんな気がしてならなかった。
「はい。未熟ですが、魔法使いです」
恐縮したように答える彼女を見つつ、彼は自分はなんなのかを考えた。
そして、浮かばなかった。
彼女に問いかけたところで、彼女は自分の事を知らないだろうと思った。今のように魔法使いである事を彼が知らなくても当然と言う答え方では、初対面なのだろう。
なにから判れば良いのかすら、彼はわからなかった。
顎に手を当てたまま沈黙する彼を見て、彼女がおずおずと声をかける。
「あの…気分がすぐれませんか?」
その言葉に彼は自分が考え込んでしまっている事に気が付いた。
「あ、あぁ。すみません。気分は大丈夫です」
彼のその返事に彼女は僅かに目を大きく開いた。
彼が自分に違和感を抱かない話し方をしたら口調が大分変ってしまったので、それに驚いたのだろう。
1人で考えていても判らないので、彼は腹をくくることにした。
「今、考えてみたんですけど…俺、記憶があいまい…いや、忘れてしまっているみたいで。申し訳ないんですけど、色々と教えてもらえますか?」
「記憶が…。あ、頭が痛いと言われていたのはやはり何かあったのでは!?」
彼女がハッとして彼に問いかけるが、彼は苦笑するだけだった。
「なにかあったのか、無かったのか、それすらも覚えていませんね…」
力なく言う彼を少しの間見つめると彼女は彼に問いかけた。
「それでは、いくつか質問をしてもよろしいですか?」
「あぁ、お願いします」
彼女は良い人だと思った。そして、慌てず冷静に物事を判断できる、冷静な人で良かったと思う。
「あなた自身のお名前はわかりますか?」
彼女の最初の問いは基本中の基本だった。
その問いに応えるように彼の頭の中には名前が浮かんだが、何故か2つ名前がそこにはあった。どちらも毛色が違う名前で、どちらかが自分の名前なのだろうが正解はわからない。
ただ、片方の名前がしっくり来たのでそちらを彼は口にした。
「カノエ アスカ…だと思う」
名前を言葉にしてしっくりくる感覚が彼にはあった。しかし、彼女は不思議そうな顔を見せていた。
「カノエアスカですか。あまり聞かないタイプのお名前ですね。遠い地域の方なのでしょうか」
「あ、カノエとアスカで分かれているんです」
「苗字をお持ちなのですか?」
「ん?」
彼女の反応に彼の思考が色々とこんがらがっていた。
自分ではしっくりくると感じていた名前だが、どうやら正解ではなかったらしい。
「あ、いや、実はもう1つ名前が浮かんでいまして…テュフォンと言う名前なんですが」
慌ててもう1つ浮かんだ名前を伝えると、今度は彼女の反応が薄かった。ありふれた名前なのだろうか。
「テュフォン…そうですね、こちらのお名前がきっとあなたのお名前ですよ」
「そうなのか」
テュフォン…自分の口が言いなれているとはとても思えなかったが、彼女が肯定するのならこちらが正解なのだろう。
腑に落ちていないテュフォンをよそに彼女は自らの名を告げる。
「申し遅れてすみません。私の名前はリュンクスと言います。先ほども伝えた通り、一応魔法使いです。今は帝都の大図書館に行くための道中になります」
自己紹介を聞いてテュフォンの頭は特になにも動かされなかった。
判らないことが多すぎる今では考える資料にもならない。ただ、彼女の名前であるリュンクスと言う響きが彼女の見た目と合って可愛いらしいとは思っていた。
リュンクスが帝都に向かう途中だとして、この道は絶対に通る道なのか。そうだったら、テュフォン自身も帝都に関係する可能性はあるが…。
どうやって質問をすれば効率よく状況がわかるのか思案するテュフォンだったが、リュンクスの提案の方が早かった。
「テュフォンさんは身分証明書をお持ちではありませんか?」
「身分証明書?」
おうむ返しをしたテュフォンにリュンクスはうなずき、自分のカバンから木片を取り出した。彼女の手のひらよりも大きいそれには文字が焼きつけられている。
それは名前と在住都市と身分と犯罪歴、そして、発行した都市とそれを保証する紋様だ。
シンプルだがとりあえずは信頼できる人間か判らなくはない情報が記載されていた。特に、犯罪歴の有無がわかるのは信頼できる相手か見定めるのには便利かもしれない。
「私は一番シンプルなものですけれど…。長旅をする場合は持っていた方が便利な事も多いので、大抵の人は役所に発行してもらっています。テュフォンさんもお持ちでしたら色々とわかるかもしれません」
「確かに」
リュンクスの提案にテュフォンは納得して、自分の荷物を手に取る。荷物があると言う事は、彼は物取りなどに襲われたわけではないと言う事を理解できた。
一抱えある背負いカバンの中を調べてみる。
カバンの中には数着の着替えと携帯食料と日用品、あと、路銀とそれくらいしかなかった。
身につけている服も調べてはみたが、少額の路銀をポケットに入れていたくらいで特筆すべきものや身分を証明できるようなものはなかった。
この時になって、テュフォンは自分の事を改めて知った。
服は一般的に出回っているものの上に皮でできたライトメイルを身につけている程度だった。マントも羽織っているが、リュンクスの物より薄いようだった。どうやらテュフォンは金銭に余裕がない人物らしい。護身用なのか、ロングソードを一振り持っていたが安い物であることは刀身を見れば素人目にもわかる出来だった。
「ヒントになるものはありませんでしたね…」
残念そうに言うリュンクスに対してテュフォンは申し訳なっていた。
服も大量に出回っている物なので、地域性すら見いだせなかったのだった。繊維まで鑑定できれば多少は絞り込めるかもしれないが、それでも輸送されてしまえば絶対的な証拠にはならない。
「…あの、身分証明書に書かれるものはどんな内容があるんですか?」
テュフォンは気になったことがあってリュンクスにたずねた。
「身分証明書は記載事項を選べるので、色々あります。私の証明書が最低必須事項なんです。他にも職業とか家族構成とか記載できますが、費用や調査時間がかかったりするので証明の必要が無ければ無理に記載はしないと思います」
「そうなんですね…」
リュンクスの答えを聞いて、テュフォンの中でよぎった嫌な考えが確信に変わりかけていた。
短く息を吐くと、テュフォンはリュンクスから視線をそらし、地面の草を見ながら話し始めた。
「今、俺の事でわかる事は…荷物からそれなりの期間の旅をしていると言う事。そして、身分は高くないだろうし、金も大して持っていない事。さらに、身分証明書も持っていない…。そして、身分証明書には身分や犯罪歴が記載されるって事は…」
そこでテュフォンは言葉を切った。
「俺は…犯罪者なのかもしれない」
吐き出すように言葉を口にするとテュフォンは目を強く閉じた。
身分証明書を持つことで不利益があるとしたら、証明したくない事を知られてしまう事だろう。犯罪歴なんて、知られたくない最たるものだ。
長旅では持っていた方が便利な身分証明書を発行していないと言う事は、発行していない方が物事が有利に進むと言う事なのだろう。
そうだと仮定して考えると、持たない理由が明確になる。
しかし、テュフォン自身には身に覚えがないし、少なくとも犯罪に手を染めるように者ではないと今の自分の感覚では思える。
しかし、記憶が無いからそのように思えるだけなのかもしれない。
いたたまれなくなってしまったテュフォンの手に温かいものが触れた。リュンクスは両手でテュフォンの右手をそっと包み込んだ。
「テュフォンさん、顔を上げてください」
優しいその言葉にテュフォンはうつむくのを止めて、目を開いて彼女に視線を向けた。
慈愛…と言う言葉を表情にしたら、このようになるのだと理解できるほどの笑顔がそこにはあった。
「テュフォンさん。安心なさってください」
リュンクスの小さな口が1つ1つ優しい口調で言葉をテュフォンへ送る。
「あなたはそのような後ろめたい事をなさっていません。私は魔法使いとしては未熟者ですが、人の目の光を見る事に自信があります。あなたの目は良い光をお持ちです。今までもこれからも善良な存在である方の目です。テュフォンさんが進んで犯罪を犯すような人ではない事を私が保証いたします」
まっすぐにテュフォンを見つめるリュンクスの目は迷いが無かった。
お互いに初対面であるが、リュンクスがテュフォンを信じられるように、テュフォンもリュンクスを信頼できる人物だと思えた。
「…ありがとう。リュンクスさんにそんな風に言ってもらえると自信が出てきました」
テュフォンの中から不安は消えなかったが、安心がやってきた気がする。
弱いながらも笑顔を浮かべるテュフォンを見て、リュンクスは安堵のため息をこぼした。
「もし、テュフォンさんがよろしければ、一緒に帝都に向かいませんか?帝都では色々な物があるので思い出すきっかけにも出会いやすいかもしれません。道中でも私の知る限りの事をお伝えしますので、それもヒントになる可能性があります」
リュンクスが草の上で改めて座り直すと、そのように提案をしてきた。その提案をテュフォンが断る理由があるわけがなかった。
「こんな得体のしれない奴にそう言ってもらえてありがとうございます。迷惑をかけますが、よろしくお願いします」
テュフォンも座り直すとリュンクスに答え、頭を深々と下げた。そんなテュフォンにリュンクスが慌ててしまっていた。
「迷惑だなんて…!そんな、私なんか…あのぉー」
頬を赤くして戸惑っているリュンクスをテュフォンは不思議に思ったが、先が少し見えたことで安心した。
その後もしばらく、この世界の事やリュンクスについて話をし、夜半過ぎまで時間をついやしたのだった。
視覚で捕えることが出来た時間は極僅かなもので。
彼がその光を認識したと自覚できた時には、彼はその光に包まれ、そして、意識を奪われていたのだった。
真っ暗な視界がほのかな光を感じた。
瞼を閉じていても光を感知することは可能なので、そのおかげで周囲は明るいと言う事を知ることが出来た。
そして、聴覚もなにかの音…いや、声を感知していた。
「…大丈夫ですか?意識はありますか?」
安否を確認する声だ。
若い女性の声で、小鳥がさえずるような可愛らしく高い声。きっと、この声の持ち主はその声にふさわしく愛らしい姿をしているに違いない。
右肩に温かい感触と、揺さぶられる圧を感じる。そこまで強くはないが、横たわった身体に振動を感じさせる程度の力が加えられている。
鼻腔は草と土の匂いのほかに、花のような香りを感知している。おそらく自分は屋外…森や草原で横たわっているようだ。
…なぜこのような状況に自分が置かれているのかはわからない。
自分が置かれた状況を彼は冷静に認識すると、ゆっくりと目を開けた。
光を感じると同時に彼は自分が認識していた事項に相違が無かったことを確認する。
自分を見下ろしていたのは、可愛らしい少女だった。やや色の薄い金髪が光をキラキラと反射させているのが美しい。瞳はライトブラウンでとても澄んでいる。その目は大きく、反して鼻と口は小さめだがバランス良く整っている。
絶世の美女とは言えないが、十分可愛らしい少女である。フリルの付いたドレスが似合いそうな彼女だが、今はカーキ色の分厚いマントでその身を包んでいた。
「気がつかれましたか?気分は宜しいですか?お身体に痛みはありますか?」
彼と視線が合うと彼女の潜めた眉が一瞬緩んだ。しかし、また、心配そうな表情に戻って彼に問いかける。
彼は問われたことをゆっくりと理解したのち、言葉を口にする。
「…あぁ、意識はあるし、気分も悪くはない。が、少し、頭が痛いな」
彼の答えに彼女の顔はサッと青ざめた。
その様子を見て、彼は首を軽く横に振る。
「大丈夫だ。ケガの痛みではないから…一時的なものだと思う」
そう答えると、彼は腕に力を入れて上半身を起こそうとする。
「あ、急がず、無理をなさらず…!」
「ありがとう」
差し出された彼女の手を彼が取る事はなかったが、その気持ちがありがたかったので彼が礼を口にした。
彼女に視線を向けると、彼女が頬を淡く染めているような気がした。礼を言うので意識して笑顔を作ったつもりだったが、それの影響と思うのは自意識過剰かと彼は自問する。
身体を起こすと彼は周囲を見渡した。
感じた香りから連想した通り、ここは森の中だった。申し訳程度に整備された道の端に2人はいる。馬車が通る事は出来なく無さそうだが、好んでは通らないだろうと言う道だ。
そんな場所に倒れていた自分の事も気にはなるのだが、森の中にしては明るすぎる事も彼は気になった。
ふと、空を見上げてみれば、光の向こうにある空は暗いように見えた。だが、周囲は明るい。
「ん?」
ちぐはぐな状況に彼が小さく唸ると、彼女が身を乗り出した。
「あ、明りは私の魔法でして。まぶしすぎましたか?」
「いやぁ…不思議な状況だと思って…」
彼女を改めて見てみる。
淡い金色のセミロングの髪を後ろで1つに結んでいる。カーキ色の厚手のマントを前で合わせているが、その留め具に使用されているのは宝石のようだった。おそらく、タリスマンと呼ばれる護り石だろう。そして、彼女の横に置かれた杖が彼女の特性の1つを示していた。
「…魔法使い…なのか…」
その言葉を口にして彼は違和感を覚えた。
魔法使い。多くの魔力をその肉体に宿し、その魔力を源に様々な現象を起こす事が出来る人間の呼び名。出来る事に個人差はあるが、たいていはその能力を生かせる仕事につくことが多い。
頭の中で言葉の意味を羅列したものの、やはり彼にはぬぐい切れない違和感があった。
良く知っている存在のはずなのに、この単語を口にしたのは初めてに近い、そんな感覚だった。
そもそも、意識していなかったが、自分はこんな口調で話をしていただうろうか。
もっと、腰が低く、いつもですます調で話していたような…そんな気がしてならなかった。
「はい。未熟ですが、魔法使いです」
恐縮したように答える彼女を見つつ、彼は自分はなんなのかを考えた。
そして、浮かばなかった。
彼女に問いかけたところで、彼女は自分の事を知らないだろうと思った。今のように魔法使いである事を彼が知らなくても当然と言う答え方では、初対面なのだろう。
なにから判れば良いのかすら、彼はわからなかった。
顎に手を当てたまま沈黙する彼を見て、彼女がおずおずと声をかける。
「あの…気分がすぐれませんか?」
その言葉に彼は自分が考え込んでしまっている事に気が付いた。
「あ、あぁ。すみません。気分は大丈夫です」
彼のその返事に彼女は僅かに目を大きく開いた。
彼が自分に違和感を抱かない話し方をしたら口調が大分変ってしまったので、それに驚いたのだろう。
1人で考えていても判らないので、彼は腹をくくることにした。
「今、考えてみたんですけど…俺、記憶があいまい…いや、忘れてしまっているみたいで。申し訳ないんですけど、色々と教えてもらえますか?」
「記憶が…。あ、頭が痛いと言われていたのはやはり何かあったのでは!?」
彼女がハッとして彼に問いかけるが、彼は苦笑するだけだった。
「なにかあったのか、無かったのか、それすらも覚えていませんね…」
力なく言う彼を少しの間見つめると彼女は彼に問いかけた。
「それでは、いくつか質問をしてもよろしいですか?」
「あぁ、お願いします」
彼女は良い人だと思った。そして、慌てず冷静に物事を判断できる、冷静な人で良かったと思う。
「あなた自身のお名前はわかりますか?」
彼女の最初の問いは基本中の基本だった。
その問いに応えるように彼の頭の中には名前が浮かんだが、何故か2つ名前がそこにはあった。どちらも毛色が違う名前で、どちらかが自分の名前なのだろうが正解はわからない。
ただ、片方の名前がしっくり来たのでそちらを彼は口にした。
「カノエ アスカ…だと思う」
名前を言葉にしてしっくりくる感覚が彼にはあった。しかし、彼女は不思議そうな顔を見せていた。
「カノエアスカですか。あまり聞かないタイプのお名前ですね。遠い地域の方なのでしょうか」
「あ、カノエとアスカで分かれているんです」
「苗字をお持ちなのですか?」
「ん?」
彼女の反応に彼の思考が色々とこんがらがっていた。
自分ではしっくりくると感じていた名前だが、どうやら正解ではなかったらしい。
「あ、いや、実はもう1つ名前が浮かんでいまして…テュフォンと言う名前なんですが」
慌ててもう1つ浮かんだ名前を伝えると、今度は彼女の反応が薄かった。ありふれた名前なのだろうか。
「テュフォン…そうですね、こちらのお名前がきっとあなたのお名前ですよ」
「そうなのか」
テュフォン…自分の口が言いなれているとはとても思えなかったが、彼女が肯定するのならこちらが正解なのだろう。
腑に落ちていないテュフォンをよそに彼女は自らの名を告げる。
「申し遅れてすみません。私の名前はリュンクスと言います。先ほども伝えた通り、一応魔法使いです。今は帝都の大図書館に行くための道中になります」
自己紹介を聞いてテュフォンの頭は特になにも動かされなかった。
判らないことが多すぎる今では考える資料にもならない。ただ、彼女の名前であるリュンクスと言う響きが彼女の見た目と合って可愛いらしいとは思っていた。
リュンクスが帝都に向かう途中だとして、この道は絶対に通る道なのか。そうだったら、テュフォン自身も帝都に関係する可能性はあるが…。
どうやって質問をすれば効率よく状況がわかるのか思案するテュフォンだったが、リュンクスの提案の方が早かった。
「テュフォンさんは身分証明書をお持ちではありませんか?」
「身分証明書?」
おうむ返しをしたテュフォンにリュンクスはうなずき、自分のカバンから木片を取り出した。彼女の手のひらよりも大きいそれには文字が焼きつけられている。
それは名前と在住都市と身分と犯罪歴、そして、発行した都市とそれを保証する紋様だ。
シンプルだがとりあえずは信頼できる人間か判らなくはない情報が記載されていた。特に、犯罪歴の有無がわかるのは信頼できる相手か見定めるのには便利かもしれない。
「私は一番シンプルなものですけれど…。長旅をする場合は持っていた方が便利な事も多いので、大抵の人は役所に発行してもらっています。テュフォンさんもお持ちでしたら色々とわかるかもしれません」
「確かに」
リュンクスの提案にテュフォンは納得して、自分の荷物を手に取る。荷物があると言う事は、彼は物取りなどに襲われたわけではないと言う事を理解できた。
一抱えある背負いカバンの中を調べてみる。
カバンの中には数着の着替えと携帯食料と日用品、あと、路銀とそれくらいしかなかった。
身につけている服も調べてはみたが、少額の路銀をポケットに入れていたくらいで特筆すべきものや身分を証明できるようなものはなかった。
この時になって、テュフォンは自分の事を改めて知った。
服は一般的に出回っているものの上に皮でできたライトメイルを身につけている程度だった。マントも羽織っているが、リュンクスの物より薄いようだった。どうやらテュフォンは金銭に余裕がない人物らしい。護身用なのか、ロングソードを一振り持っていたが安い物であることは刀身を見れば素人目にもわかる出来だった。
「ヒントになるものはありませんでしたね…」
残念そうに言うリュンクスに対してテュフォンは申し訳なっていた。
服も大量に出回っている物なので、地域性すら見いだせなかったのだった。繊維まで鑑定できれば多少は絞り込めるかもしれないが、それでも輸送されてしまえば絶対的な証拠にはならない。
「…あの、身分証明書に書かれるものはどんな内容があるんですか?」
テュフォンは気になったことがあってリュンクスにたずねた。
「身分証明書は記載事項を選べるので、色々あります。私の証明書が最低必須事項なんです。他にも職業とか家族構成とか記載できますが、費用や調査時間がかかったりするので証明の必要が無ければ無理に記載はしないと思います」
「そうなんですね…」
リュンクスの答えを聞いて、テュフォンの中でよぎった嫌な考えが確信に変わりかけていた。
短く息を吐くと、テュフォンはリュンクスから視線をそらし、地面の草を見ながら話し始めた。
「今、俺の事でわかる事は…荷物からそれなりの期間の旅をしていると言う事。そして、身分は高くないだろうし、金も大して持っていない事。さらに、身分証明書も持っていない…。そして、身分証明書には身分や犯罪歴が記載されるって事は…」
そこでテュフォンは言葉を切った。
「俺は…犯罪者なのかもしれない」
吐き出すように言葉を口にするとテュフォンは目を強く閉じた。
身分証明書を持つことで不利益があるとしたら、証明したくない事を知られてしまう事だろう。犯罪歴なんて、知られたくない最たるものだ。
長旅では持っていた方が便利な身分証明書を発行していないと言う事は、発行していない方が物事が有利に進むと言う事なのだろう。
そうだと仮定して考えると、持たない理由が明確になる。
しかし、テュフォン自身には身に覚えがないし、少なくとも犯罪に手を染めるように者ではないと今の自分の感覚では思える。
しかし、記憶が無いからそのように思えるだけなのかもしれない。
いたたまれなくなってしまったテュフォンの手に温かいものが触れた。リュンクスは両手でテュフォンの右手をそっと包み込んだ。
「テュフォンさん、顔を上げてください」
優しいその言葉にテュフォンはうつむくのを止めて、目を開いて彼女に視線を向けた。
慈愛…と言う言葉を表情にしたら、このようになるのだと理解できるほどの笑顔がそこにはあった。
「テュフォンさん。安心なさってください」
リュンクスの小さな口が1つ1つ優しい口調で言葉をテュフォンへ送る。
「あなたはそのような後ろめたい事をなさっていません。私は魔法使いとしては未熟者ですが、人の目の光を見る事に自信があります。あなたの目は良い光をお持ちです。今までもこれからも善良な存在である方の目です。テュフォンさんが進んで犯罪を犯すような人ではない事を私が保証いたします」
まっすぐにテュフォンを見つめるリュンクスの目は迷いが無かった。
お互いに初対面であるが、リュンクスがテュフォンを信じられるように、テュフォンもリュンクスを信頼できる人物だと思えた。
「…ありがとう。リュンクスさんにそんな風に言ってもらえると自信が出てきました」
テュフォンの中から不安は消えなかったが、安心がやってきた気がする。
弱いながらも笑顔を浮かべるテュフォンを見て、リュンクスは安堵のため息をこぼした。
「もし、テュフォンさんがよろしければ、一緒に帝都に向かいませんか?帝都では色々な物があるので思い出すきっかけにも出会いやすいかもしれません。道中でも私の知る限りの事をお伝えしますので、それもヒントになる可能性があります」
リュンクスが草の上で改めて座り直すと、そのように提案をしてきた。その提案をテュフォンが断る理由があるわけがなかった。
「こんな得体のしれない奴にそう言ってもらえてありがとうございます。迷惑をかけますが、よろしくお願いします」
テュフォンも座り直すとリュンクスに答え、頭を深々と下げた。そんなテュフォンにリュンクスが慌ててしまっていた。
「迷惑だなんて…!そんな、私なんか…あのぉー」
頬を赤くして戸惑っているリュンクスをテュフォンは不思議に思ったが、先が少し見えたことで安心した。
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