1 / 10
投函
しおりを挟む
プロローグ
封筒の角が、右手の人差し指を裂いた。
薄い痛みだった。紙を抜いたとき、指先に赤い線が走っていることに気づかなかった。気づいたのは、文字を読み終えたあとだ。A4の白い紙に、一箇所だけ、血の点がついていた。
紙面には活字が並んでいる。行政文書のような書体、等間隔のゴシック体。余白だけがやたらに広い。
書かれていたのは六行。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:9:12
> 事象:社内チャット誤送信(宛先違い)により信用を失う
> 備考:発生する
——昨日の話だ。
---
1
朝の改札は、体温で湿っている。
綾瀬真琴はICカードを二度、読み取り面に当てた。一度目で反応したのに、もう一回。ゲートが開いたあとも手首を返す動作が残って、後ろの人の舌打ちが背中にぶつかった。
すみません、と口の中で言った。唇は動いたが、音にはしなかった。
コンビニでアイスコーヒーのSサイズを買う。ストローの袋をごみ箱に入れるとき、レシートも一緒に捨てたか確認する。確認してから歩き出す。横断歩道は青で渡る。点滅したら止まる。
ミナトリンクのエントランスは朝8時40分になると、エレベーター前にスーツの列ができる。真琴は列の後ろにつく。カバンの中で、クリアファイルに入れた資料が三部あることを指で触って確かめる。昨夜、部数を数えた。今朝も数えた。今、三度目。
スマートフォンのメモアプリを開く。
「やった?」という見出しのチェックリストが、画面いっぱいに並んでいる。
□ 定期入れ
□ 社員証
□ 資料3部
□ 充電器
□ チャット予約投稿(9:00)確認
□ 榊原さんへ返信済み
六つのうち五つにチェックが入っている。最後の一つ、「榊原さんへ返信済み」だけが空欄のままだ。真琴はエレベーターに乗りながら、社内チャットを開いて、昨夜送った返信をもう一度確認した。送信済み。チェックを入れた。
六つ全部が埋まっても、安心しない。安心に形があるとしたら、真琴はまだ見たことがない。ただ、全部にチェックが入ったリストを閉じるとき、画面をスワイプする指の力が少しだけ緩む。それが真琴にとっての、安心に最も近い状態だった。
---
2
「確認、してる?」
朝会は短い。カスタマーサクセスのチーム八人が、デスクの島に集まって進捗を共有する。五分で終わるはずが、七分かかった。榊原恒一が最後に一言を足したからだ。
「先週、他のチームでチャットの宛先間違いがあった。うちは出さない。一回の誤送信で、クライアントの信用は落ちる。確認して」
全員がうなずく。うなずいて、それぞれのモニターに目を戻す。七秒で忘れる程度の注意喚起。全体に向けた言葉で、誰か一人を指したわけではない。
真琴のペンが、指から滑り落ちた。
拾おうとして、椅子の下に転がったペンに手を伸ばした。届かない。膝をついて、デスクの脚の横に指を差し込む。ペンの軸に触れたとき、自分の手のひらが濡れていることに気づいた。冷たい湿り気だった。
胃の底を、誰かが素手で掴んだような感覚がある。掴んで、ゆっくり絞っている。肋骨の内側を、その冷たさがじわじわと広がっていく。肺が浅くなる。息は吸えている。吸えているはずなのに、酸素の味がしない。
ペンを拾って、椅子に戻った。
「真琴、顔こわいよ。大丈夫?」
真琴の隣で、坂口真央が椅子の背もたれに体重を預けている。声が軽い。榊原の方を向いてもいない。モニターに映ったチャットの画面を、片手でスクロールしている。
「うん。大丈夫」
自分の声が半音高い。気づいている。直せない。喉の奥に何か小さな塊が引っかかっている。飲み込もうとしても、塊は溶けずにそこに留まる。
真央はもう別の話をしている。昨日のクライアントの返信が遅い、ランチどうする、冷房が強すぎる。言葉が次から次へと流れていく。真央の声にはいつも、立ち止まりの溝がない。水みたいに流れていって、どこにも溜まらない。
真琴は拾ったペンを、筆箱の定位置に戻した。キャップの向きを揃えて、口金を手前にして、仕切りの左側。ペンの軸と仕切りの縁が平行になるまで、指先で微調整した。
---
3
火曜日の夜のことだ。
退勤は19時14分。丸ノ内線で四駅、歩いて七分。マンションは築十二年の8階建てで、真琴の部屋は3階の角にある。
集合ポストは、エントランスを入ってすぐ右の壁に並んでいる。ダイヤルロック式のスチール扉が二十四個。真琴は302号室のダイヤルを回して、中身を取り出した。
ガス会社の検針票。クレジットカードの明細。不動産の投資セミナーのチラシ。その三枚の下に、もう一通あった。
封筒は白い。定形サイズ。長3号。郵便局を経由した形跡がない。切手もなければ消印もない。直接投函されている。
宛名だけが、表面の中央にある。
「綾瀬真琴 様」
筆記体ではない。印字。フォントは明朝体で、インクは黒い。住所も差出人も、どこにもない。宛名だけが、封筒の真ん中に浮いている。
それだけのことが、変に冷たかった。
チラシなら差出人がある。DMならロゴがある。何かを売りたい人間は、必ず自分の名前を書く。この封筒は、何も売ろうとしていない。名前を呼んでいるだけだ。
真琴はエレベーターに乗ってから、封筒を開けた。
---
4
紙を広げたとき、最初に目に入ったのは余白だった。A4の用紙に、文字は数行しかない。上部三分の一が空白。下部も空白。文字列は、紙のちょうど中心に寄せられている。レイアウトが整いすぎている。人間が作った書類というよりも、制度が出力した帳票に見えた。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:9:12
> 事象:社内チャット誤送信(宛先違い)により信用を失う
> 備考:発生する
読み終えるまでに、四秒かからなかった。
まず、笑った。口元だけの笑い。頬の筋肉が持ち上がったが、目は笑っていない。誰かのいたずら、にしては手が込みすぎている。新手の詐欺、にしては何も要求していない。宗教の勧誘、にしては教義がない。
笑いはすぐに消えた。消えたあとの口の中が、妙に乾いていた。
次に、捨てようとした。キッチンに行って、シンク横のごみ袋を手に取って、口を開いた。紙を袋の中に落とせばいい。明日の朝にはごみ収集車が持っていく。
ごみ袋の口を結ぶ手が、止まった。
紙はまだ、左手に持っている。親指と人差し指で端を挟んでいる。指の腹に、紙の繊維の微かなざらつきが伝わっている。妙に上質な紙だった。コピー用紙ではない。もう少し厚くて、もう少し白い。
真琴はもう一度、「9:12」という数字を見た。
明日の朝9時に、社内チャットの予約投稿がある。週次のクライアント対応レポートを、チーム内チャンネル「CS_Team」に共有する。毎週やっている。ルーティン。9時に投稿されるように、前日の夜にセットする。
9:12。投稿のあと、十二分後。
何かの返信をするタイミングだ。チャンネル上で誰かに反応して、慌てて打ち返す。そのとき宛先を間違える——。想像が、筋道を持って動いた。腹の底がじわりと重くなった。重さというよりも、何かが沈んでいく感触だった。泥水の中にゆっくり足が沈んでいくような、逃げ遅れの予感。
紙をごみ袋には入れず、テーブルに置いた。
裏返して、何もないことを確認した。裏面は真っ白。透かしてみた。何もない。匂いを嗅いだ。紙の匂いしかしなかった。
封筒をもう一度確認した。宛名の印字。差出人なし。内側にも何もない。封を留めていた糊は、市販の液体糊と同じ手触り。
誰かに聞きたかった。
スマートフォンを手に取って、真央のトーク画面を開いた。「変な郵便が来てさ」。そこまで打って、指が止まった。
胸の内側で、何かが小さく縮こまった。声に出したら、この紙が本物になってしまう。あるいは、自分がおかしい人になってしまう。どちらも嫌だった。どちらの怖さも、胃の同じ場所を掴んでくる。
打ちかけた文字を一文字ずつ消した。「変な郵便が来てさ」。「さ」が消えて、「て」が消えて、「来」が消えて。最後の「変」が消えたとき、入力欄が空白に戻った。白い四角を、三秒ほど見つめていた。
代わりにカレンダーアプリを開いた。明日の予定。9:00、週次レポート共有(予約済み)。9:30、チーム朝会。10:00、クライアントA社フォロー。
9:12は、レポート共有と朝会のあいだの空白にある。
真琴は椅子に座り直して、ノートパソコンを開いた。社内チャットのログインページ。予約投稿の設定画面。宛先は「CS_Team」チャンネル。
一、宛先の自動補完機能をオフにした。入力欄の設定アイコンを開き、「入力候補を表示」のトグルを切った。
二、投稿先チャンネルを手動選択に切り替えた。ドロップダウンをクリックして、「CS_Team」を選び直した。
三、付箋に「宛先!」と書いて、パソコンの送信ボタンの横に貼った。付箋の角を爪で押さえて、画面の枠と平行になるように位置を整えた。
四、送信前に「指差し確認」をするルールを、スマホのリマインダーに登録した。8:55に通知が来るように設定した。文面は「宛先を声に出して読む」。
五、すべてが終わったあと、もう一度チャット画面を開いて、宛先が合っているか確認した。
対策にかかった時間は四十三分だった。何度も同じ画面を確認しながら、閉じて、開いて、閉じた。途中で一度お茶を淹れた。マグカップを両手で包んだまま、モニターの画面を見ていた。お茶が冷めていく。陶器の温度が、手のひらからゆっくり抜けていく。指先に残る熱がなくなっても、マグカップを置けなかった。何かを握っていないと、手が震えそうだった。
紙に書かれていた回避方法は、ゼロだった。「発生する」の三文字だけ。だから全部、真琴が自分で考えた。考えて、準備して、ルールを作った。
それが正しいかどうかは分からない。でも何もしないでいると、みぞおちの少し上あたりに冷たいものが溜まっていく。それが少しずつ膨らんで、胸郭の内壁を内側から押してくる。対策を一つ終えるたびに、その圧が少しだけ弱まった。完全には消えない。でも、呼吸ができる程度にはなった。
——真琴は「念のため」という言葉が好きだった。正確には、好きなのではなく、それがないと体が硬くなるのだ。念のため確認する。念のため二回やる。念のため早めに出る。念のためが十個並んだとき、ようやく息ができる。
テーブルの上の白い紙は、まだそこにあった。
---
5
水曜日の朝が来た。
8時41分にエレベーターを降り、デスクについた。パソコンを起動する。社内チャットを開く。予約投稿の宛先を確認する。「CS_Team」。合っている。
8時55分、スマホが震えた。リマインダー。「宛先を声に出して読む」。真琴は唇だけ動かした。声は出さなかった。出したら隣に聞こえる。代わりに、指でモニターの宛先欄を差した。爪の先が画面の表面に触れるか触れないかの距離で止まっている。
9時00分。予約投稿が送信された。週次レポート。宛先は「CS_Team」。正しいチャンネルに、正しいフォーマットで、正しい時間に届いた。
何も起きない。
9時03分。リーダーの佐伯がリアクションスタンプを押した。いつもどおり。9時05分、真央が「おつ~」とコメントした。いつもどおり。
9時08分。
真琴はモニターの右上にある時計を見ている。見るな、と思っている。思っているのに、三十秒おきに目が戻る。数字が変わるたびに、背筋の奥のほうで何かが一段ずつ締まっていく。ネジを巻くように。一段。また一段。肩甲骨のあいだに板を差し込まれたみたいに、体の後ろ側が硬くなっていく。
9時09分。
キーボードに載せた指先が、微かに冷たい。空調のせいか、自分の血流のせいか、分からない。
9時10分。
榊原が「CS_Team」チャンネルに、メンション付きでメッセージを投げてきた。
「@綾瀬 今週のA社の件、13時の打ち合わせ前に概要まとめてもらえる?」
チャンネル上のやり取りだ。他のメンバーも見える場所。真琴はそのまま「CS_Team」の入力欄にカーソルを置いた。返信を打ち始める。「承知しました。13時までに——」
9時11分。
隣の島で電話が鳴った。真央が出た。受話器を押さえて、真琴の方を向いた。
「真琴、A社の鈴木さんから。請求書の件で確認したいって」
「え、いま——」
「急ぎだって。ごめん」
返信の途中でチャット画面を離れた。受話器を取った。鈴木の声が早口で入ってくる。「先日の請求書の明細なんですが、二行目の単価が——」。片手でメモを取りながら、受話器を肩と耳で挟んだ。ペン先が紙の上で小さく震えている。自分の字が読めるか怪しい。
鈴木の質問に答えながら、頭の半分がチャットに残っている。榊原への返信が途中のままだ。メンション付きで飛んできた。チーム全員が見ている。返信が遅れれば、遅れた事実が全員の画面に残る。早く戻らなければ。
「確認して折り返します」
受話器を置いた。指がキーボードに戻った。
9時12分。
画面が変わっていた。
真琴がチャットを離れている間に、「CS_Team」チャンネルで別の会話が動いていた。佐伯が全体連絡を流し、返信が三件続いている。画面が押し上げられて、真琴の途中書きの入力欄が流されていた。
チャンネル一覧の左カラムに目を走らせた。「CS_Team」を探した。チャンネル名が縦に並んでいる。CS_Budget、CS_Client_Shared、CS_Internal、CS_Team——。指がトラックパッドの上を滑る。「CS_Team」をクリックしようとした。
指が、ひとつ上の行に触れた。
「CS_Client_Shared」。
クライアント共有チャンネル。A社の鈴木も、他の取引先の担当者も閲覧できるチャンネル。
入力欄が開いた。そこに、先ほど途中まで打っていた文章がブラウザの入力キャッシュで復元されていた。自動補完はオフにした。したのは投稿画面の設定だった。返信欄のキャッシュ復元は、別の機能だった。
復元された文章は、こうだ。
「承知しました。13時までに概要まとめます。なお請求書の二行目の単価差異はA社側の入力ミスの可能性が高いので、」
電話の直後だった。鈴木の話の内容が頭に残っていて、返信の続きにそのまま流れ込んでいた。A社側の入力ミスの可能性が高い。社内でしか書かない言葉だ。先方の目に触れてはいけない一文。それがクライアント共有チャンネルの入力欄に、カーソルを点滅させながら座っている。
心臓の音が聞こえた。自分の耳の内側で、速く、硬く、脈打っている。こめかみの血管が、拍動のたびに押し広げられるのが分かった。視界がわずかに狭くなっている。モニターの四隅が暗い。入力欄の文字列と、送信ボタンだけが、異様にはっきり見えている。
右手がマウスの上にある。人差し指が、左クリックの位置にある。送信ボタンまで、カーソルの移動距離は二センチもない。
チャンネル名を、見ていなかった。
入力欄の中の文字だけを見ていた。早く返さなければ。榊原が待っている。チーム全員が見ている。返信が遅い。遅い自分は、減点される。減点——その言葉が頭の中で閃いた瞬間、人差し指が送信ボタンに向かって沈みかけた。
付箋が、視界の端にあった。
画面右下。送信ボタンのすぐ横。黄色い正方形に、黒いペンで「宛先!」。昨夜、自分で書いた。角を、画面の枠と平行に揃えて貼った付箋。
指が、止まった。
一ミリ手前で止まった。クリックの抵抗を感じる直前、指の腹がボタンの表面に触れる直前の、その隙間で止まった。
宛先欄に目を上げた。
「CS_Client_Shared」。
首の後ろから、温度が落ちた。比喩ではない。物理的に、うなじの表面から熱が消えた。鎖骨まで一気に冷えて、その冷たさが肩から腕を通って、マウスを持つ指先まで降りてくる。指先が、自分のものではないみたいに冷たくなっていた。胃が裏返るような嘔吐感が、一瞬だけ込み上げて、消えた。
「CS_Client_Shared」を消した。チャンネル一覧に戻り、「CS_Team」をクリックした。入力欄の文面を見直した。「A社側の入力ミスの可能性が高いので、」——消した。一文字ずつバックスペースを叩いた。一文字消すたびに、指の力が少しずつ戻ってくるのが分かった。全部消して、「概要は13時までに共有します」とだけ打ち直した。
宛先を確認した。「CS_Team」。指で画面を差した。声は出さなかった。
送信した。
9時13分。
何も起きなかった。
誰にも気づかれなかった。チャンネルには真琴の返信が一行だけ表示されている。榊原がスタンプを一つ押した。佐伯は別の会話を続けている。真央はコーヒーを飲んでいる。世界は一ミリも変わっていない。
真琴だけが知っている。
一分前、指が送信ボタンの上にあったこと。宛先が違っていたこと。クライアントの目が届くチャンネルに、「先方のミスの可能性が高い」と書かれた文章を、あと一ミリで送り出すところだったこと。
椅子の背もたれに、体を預けた。
息を吐いた。長い息だった。肺の底の、いちばん古い空気を全部押し出すような吐き方だった。吐き終えると、体の芯が少しだけ揺れた。緊張が一気に解けたときの、あの揺れだ。筋肉が弛緩する速度に、意識がついていけない。脚の力が一瞬だけ抜けた。椅子に座っていなかったら、膝が折れていたかもしれない。
少なくとも五分間、まともに呼吸をしていなかった。
---
6
午後はなだらかに過ぎた。
A社の打ち合わせは予定どおり13時に始まり、13時48分に終わった。真琴がまとめた概要資料に、榊原はモニターを見ながら小さくうなずいた。
「いい。過不足ない」
それだけだった。語尾に感情の色はなかった。事実の確認。書類に検印を押すような、乾いた短さ。
なのに、真琴の体が反応した。
張り詰めていたものが、胸のどこか深い場所で、糸一本だけ切れた。切れた瞬間、その一本が支えていた重さがなくなって、胸腔の中にぽっかりと隙間ができた。隙間に入ってきたのは温かさではなかった。安堵だった。安堵は温かさとは違う。温かさは外から来る。安堵は、重さが抜けた場所に、内側から滲む。
褒められた、とは思わなかった。落とされなかった、と思った。今日の自分は、減点されなかった。ここまで来られた。まだ立っている。
その「まだ立っている」が、午前中の恐怖の深さの分だけ、甘く響いた。
資料のクリアファイルを棚に戻すとき、ファイルの端を棚板の縁にぴったり揃えた。隣のファイルとの間隔が均等になるように、指の腹で位置を微調整した。
夕方、チームの退勤が始まる頃、榊原がもう一度だけ真琴の方を見た。
「今朝のレポート、宛先も時間も正確だった。助かった」
何気ない一言だった。榊原はもうモニターに目を戻している。真琴以外には聞こえない音量だった。
真琴の中で、何かが静かに組み替わった。
今朝、あの九時十二分に味わった恐怖——首の後ろから温度が消えていくあの感覚、指先が自分のものでなくなるあの冷たさ——が、今、この一言でひっくり返されようとしている。恐怖が、報酬に変わろうとしている。怖かったからこそ、「助かった」の四文字がこんなにも深く刺さる。苦い薬のあとの水みたいに、平凡な言葉が甘い。
「ミスしなかった自分は、正しかった」。その認識が、事実としてではなく、肌の内側に直接触れるような感触として定着していった。
真央が帰り際に声をかけた。
「今日、珍しく慎重じゃん。朝のチャットの返信、めっちゃ丁寧だったし」
「そう? いつもどおりだけど」
「いつもよりちょっと丁寧。なんか、いいことあった?」
「別に。念のため」
真央は「出た、念のため」と笑って、手を振って帰っていった。真央のカバンが肩の上で揺れている。チャックが半分開いている。中身の整理をしている気配がない。
真琴はそれを見送りながら、自分のデスクを片付けた。
失敗は起きなかった。起きかけた。あの一ミリで、人生が変わるところだった。でも、起きなかった。
準備していたからだ。宛先を固定し、自動補完をオフにし、付箋を貼り、リマインダーを設定した。だから防げた。偶然ではない。対策で防いだ。自分の判断で、自分の手で。
その事実を噛みしめるたびに、体の奥で何かが緩んでいく。朝から肋骨の内側に張りついていた冷たい膜が、一枚ずつ剥がれていくような感覚。不安が安心に反転する瞬間は、快感に似ている。痛みが消えた瞬間の軽さに似ている。ゼロに戻っただけなのに、プラスに感じる。
——もしあの紙がなかったら。
その考えが浮かんだとき、真琴の背中を何かが走った。冷たさではない。もっと甘いもの。禁じられた近道を知ってしまったときの、あの後ろめたい高揚。
報告書がなかったら、今日、自分は誤送信していた。クライアントの目の前に、社内の本音をさらしていた。榊原の顔が曇っていた。真央が気まずそうにしていた。チームの信用が、自分のせいで、一段落ちていた。
でも、落ちなかった。落ちなかったのは、自分が準備したから。準備できたのは、紙があったから。
紙が、あったから。
真琴の中で何かが定まった。名前のつかない感情だった。感謝ではない。安堵とも違う。もっと深い場所にあるもの。暗い部屋で壁に手をついたとき、そこに壁があった、という確かさ。手のひらに返ってくる硬さ。自分の体重を預けていいもの。
報告書は、壁だった。
---
7
19時22分。最寄り駅から歩いて七分。
マンションのエントランスを抜けて、集合ポストの前に立った。ダイヤルを回す。扉を開ける。
チラシが二枚。水道局の通知が一枚。
その下に、白い封筒が一通。
長3号。無地。宛名は印字で「綾瀬真琴 様」。差出人欄は空白。昨日とまったく同じ封筒。同じ紙。同じフォント。同じ空白。
昨日は部屋に上がって、テーブルについて、座ってから開封した。
今日は、ポストの前で開けた。
指は迷わなかった。封筒の糊に爪をかけて、一息で剥がした。紙を抜く手つきに、昨夜の躊躇がない。手が覚えている。この封筒の開け方を、一晩で学習していた。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:13:40
> 事象:資料の数字を一桁間違え、会議で詰む
> 備考:発生する
読み終えて、紙をゆっくり封筒に戻した。
怖かった。昨日よりも具体的に怖かった。13:40。明日の午後に会議がある。資料はこれから作る。数字を間違える。一桁。そのミスで、詰む。「詰む」という二文字が、目の裏側にべったり貼りついて剥がれない。
会議室の空気を想像した。モニターに映した数字を、榊原が見ている。西園寺が見ている。クライアントが見ている。誰かが「この数字、一桁違いませんか」と言う。全員の視線が真琴に集まる。沈黙が落ちる。
想像しただけで、手のひらが湿った。ポストの金属に触れている指先が、かすかに滑った。
でも——怖さの隣に、別の感覚があった。
昨日と同じだ。
そう思った瞬間、恐怖の輪郭がほんの少しだけ柔らかくなった。今日の九時十二分を思い出した。あの冷たさ、あの硬直、あの一ミリ。そして、何も起きなかった。起きなかったのは、前の夜に知っていたから。知っていたから、準備できた。準備したから、防げた。
今度も同じだ。明日起きることを、今夜のうちに知っている。知っていれば、数字を三回確認すればいい。四回でも五回でもいい。念のため。
その「同じ」が、不思議と心地よかった。恐怖の形が分かっている。分かっていれば対処できる。対処できれば、明日もまた「助かった」と言ってもらえる。あの言葉がもう一度聞ける。
そこまで考えたとき、ポストの前に立ったまま、真琴は自分がかすかに笑っていることに気づいた。口元だけの笑い。頬の筋肉が、ほんの少しだけ持ち上がっている。
怖いのに、笑っている。
その矛盾に気づいたが、不快ではなかった。
ポストの扉を閉めた。ダイヤルを元の位置に戻した。
部屋に上がって、封筒をテーブルに置いた。昨日の封筒の隣に。二枚を並べたとき、端と端をぴったり揃えた。
揃える手つきが、正確だった。
封筒の角と角を合わせ、指の腹で軽くなぞって、ずれがないことを確認する。テーブルの端からの距離も、左右均等にする。まるで書類棚に帳票を収めるときの動作——役所の窓口で、職員がやるような手つきだった。
真琴はその手つきに、自分では気づいていなかった。
パソコンを開いた。明日の会議の資料を開いた。数字を確認する作業を始めた。念のため。一つ目の数字を確認し終えたとき、ノートパソコンの角度を直した。画面の端とテーブルの端が平行になるように。
部屋の時計は19時38分を指している。
白い封筒が二枚、テーブルの上で、行儀よく並んでいる。
封筒の角が、右手の人差し指を裂いた。
薄い痛みだった。紙を抜いたとき、指先に赤い線が走っていることに気づかなかった。気づいたのは、文字を読み終えたあとだ。A4の白い紙に、一箇所だけ、血の点がついていた。
紙面には活字が並んでいる。行政文書のような書体、等間隔のゴシック体。余白だけがやたらに広い。
書かれていたのは六行。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:9:12
> 事象:社内チャット誤送信(宛先違い)により信用を失う
> 備考:発生する
——昨日の話だ。
---
1
朝の改札は、体温で湿っている。
綾瀬真琴はICカードを二度、読み取り面に当てた。一度目で反応したのに、もう一回。ゲートが開いたあとも手首を返す動作が残って、後ろの人の舌打ちが背中にぶつかった。
すみません、と口の中で言った。唇は動いたが、音にはしなかった。
コンビニでアイスコーヒーのSサイズを買う。ストローの袋をごみ箱に入れるとき、レシートも一緒に捨てたか確認する。確認してから歩き出す。横断歩道は青で渡る。点滅したら止まる。
ミナトリンクのエントランスは朝8時40分になると、エレベーター前にスーツの列ができる。真琴は列の後ろにつく。カバンの中で、クリアファイルに入れた資料が三部あることを指で触って確かめる。昨夜、部数を数えた。今朝も数えた。今、三度目。
スマートフォンのメモアプリを開く。
「やった?」という見出しのチェックリストが、画面いっぱいに並んでいる。
□ 定期入れ
□ 社員証
□ 資料3部
□ 充電器
□ チャット予約投稿(9:00)確認
□ 榊原さんへ返信済み
六つのうち五つにチェックが入っている。最後の一つ、「榊原さんへ返信済み」だけが空欄のままだ。真琴はエレベーターに乗りながら、社内チャットを開いて、昨夜送った返信をもう一度確認した。送信済み。チェックを入れた。
六つ全部が埋まっても、安心しない。安心に形があるとしたら、真琴はまだ見たことがない。ただ、全部にチェックが入ったリストを閉じるとき、画面をスワイプする指の力が少しだけ緩む。それが真琴にとっての、安心に最も近い状態だった。
---
2
「確認、してる?」
朝会は短い。カスタマーサクセスのチーム八人が、デスクの島に集まって進捗を共有する。五分で終わるはずが、七分かかった。榊原恒一が最後に一言を足したからだ。
「先週、他のチームでチャットの宛先間違いがあった。うちは出さない。一回の誤送信で、クライアントの信用は落ちる。確認して」
全員がうなずく。うなずいて、それぞれのモニターに目を戻す。七秒で忘れる程度の注意喚起。全体に向けた言葉で、誰か一人を指したわけではない。
真琴のペンが、指から滑り落ちた。
拾おうとして、椅子の下に転がったペンに手を伸ばした。届かない。膝をついて、デスクの脚の横に指を差し込む。ペンの軸に触れたとき、自分の手のひらが濡れていることに気づいた。冷たい湿り気だった。
胃の底を、誰かが素手で掴んだような感覚がある。掴んで、ゆっくり絞っている。肋骨の内側を、その冷たさがじわじわと広がっていく。肺が浅くなる。息は吸えている。吸えているはずなのに、酸素の味がしない。
ペンを拾って、椅子に戻った。
「真琴、顔こわいよ。大丈夫?」
真琴の隣で、坂口真央が椅子の背もたれに体重を預けている。声が軽い。榊原の方を向いてもいない。モニターに映ったチャットの画面を、片手でスクロールしている。
「うん。大丈夫」
自分の声が半音高い。気づいている。直せない。喉の奥に何か小さな塊が引っかかっている。飲み込もうとしても、塊は溶けずにそこに留まる。
真央はもう別の話をしている。昨日のクライアントの返信が遅い、ランチどうする、冷房が強すぎる。言葉が次から次へと流れていく。真央の声にはいつも、立ち止まりの溝がない。水みたいに流れていって、どこにも溜まらない。
真琴は拾ったペンを、筆箱の定位置に戻した。キャップの向きを揃えて、口金を手前にして、仕切りの左側。ペンの軸と仕切りの縁が平行になるまで、指先で微調整した。
---
3
火曜日の夜のことだ。
退勤は19時14分。丸ノ内線で四駅、歩いて七分。マンションは築十二年の8階建てで、真琴の部屋は3階の角にある。
集合ポストは、エントランスを入ってすぐ右の壁に並んでいる。ダイヤルロック式のスチール扉が二十四個。真琴は302号室のダイヤルを回して、中身を取り出した。
ガス会社の検針票。クレジットカードの明細。不動産の投資セミナーのチラシ。その三枚の下に、もう一通あった。
封筒は白い。定形サイズ。長3号。郵便局を経由した形跡がない。切手もなければ消印もない。直接投函されている。
宛名だけが、表面の中央にある。
「綾瀬真琴 様」
筆記体ではない。印字。フォントは明朝体で、インクは黒い。住所も差出人も、どこにもない。宛名だけが、封筒の真ん中に浮いている。
それだけのことが、変に冷たかった。
チラシなら差出人がある。DMならロゴがある。何かを売りたい人間は、必ず自分の名前を書く。この封筒は、何も売ろうとしていない。名前を呼んでいるだけだ。
真琴はエレベーターに乗ってから、封筒を開けた。
---
4
紙を広げたとき、最初に目に入ったのは余白だった。A4の用紙に、文字は数行しかない。上部三分の一が空白。下部も空白。文字列は、紙のちょうど中心に寄せられている。レイアウトが整いすぎている。人間が作った書類というよりも、制度が出力した帳票に見えた。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:9:12
> 事象:社内チャット誤送信(宛先違い)により信用を失う
> 備考:発生する
読み終えるまでに、四秒かからなかった。
まず、笑った。口元だけの笑い。頬の筋肉が持ち上がったが、目は笑っていない。誰かのいたずら、にしては手が込みすぎている。新手の詐欺、にしては何も要求していない。宗教の勧誘、にしては教義がない。
笑いはすぐに消えた。消えたあとの口の中が、妙に乾いていた。
次に、捨てようとした。キッチンに行って、シンク横のごみ袋を手に取って、口を開いた。紙を袋の中に落とせばいい。明日の朝にはごみ収集車が持っていく。
ごみ袋の口を結ぶ手が、止まった。
紙はまだ、左手に持っている。親指と人差し指で端を挟んでいる。指の腹に、紙の繊維の微かなざらつきが伝わっている。妙に上質な紙だった。コピー用紙ではない。もう少し厚くて、もう少し白い。
真琴はもう一度、「9:12」という数字を見た。
明日の朝9時に、社内チャットの予約投稿がある。週次のクライアント対応レポートを、チーム内チャンネル「CS_Team」に共有する。毎週やっている。ルーティン。9時に投稿されるように、前日の夜にセットする。
9:12。投稿のあと、十二分後。
何かの返信をするタイミングだ。チャンネル上で誰かに反応して、慌てて打ち返す。そのとき宛先を間違える——。想像が、筋道を持って動いた。腹の底がじわりと重くなった。重さというよりも、何かが沈んでいく感触だった。泥水の中にゆっくり足が沈んでいくような、逃げ遅れの予感。
紙をごみ袋には入れず、テーブルに置いた。
裏返して、何もないことを確認した。裏面は真っ白。透かしてみた。何もない。匂いを嗅いだ。紙の匂いしかしなかった。
封筒をもう一度確認した。宛名の印字。差出人なし。内側にも何もない。封を留めていた糊は、市販の液体糊と同じ手触り。
誰かに聞きたかった。
スマートフォンを手に取って、真央のトーク画面を開いた。「変な郵便が来てさ」。そこまで打って、指が止まった。
胸の内側で、何かが小さく縮こまった。声に出したら、この紙が本物になってしまう。あるいは、自分がおかしい人になってしまう。どちらも嫌だった。どちらの怖さも、胃の同じ場所を掴んでくる。
打ちかけた文字を一文字ずつ消した。「変な郵便が来てさ」。「さ」が消えて、「て」が消えて、「来」が消えて。最後の「変」が消えたとき、入力欄が空白に戻った。白い四角を、三秒ほど見つめていた。
代わりにカレンダーアプリを開いた。明日の予定。9:00、週次レポート共有(予約済み)。9:30、チーム朝会。10:00、クライアントA社フォロー。
9:12は、レポート共有と朝会のあいだの空白にある。
真琴は椅子に座り直して、ノートパソコンを開いた。社内チャットのログインページ。予約投稿の設定画面。宛先は「CS_Team」チャンネル。
一、宛先の自動補完機能をオフにした。入力欄の設定アイコンを開き、「入力候補を表示」のトグルを切った。
二、投稿先チャンネルを手動選択に切り替えた。ドロップダウンをクリックして、「CS_Team」を選び直した。
三、付箋に「宛先!」と書いて、パソコンの送信ボタンの横に貼った。付箋の角を爪で押さえて、画面の枠と平行になるように位置を整えた。
四、送信前に「指差し確認」をするルールを、スマホのリマインダーに登録した。8:55に通知が来るように設定した。文面は「宛先を声に出して読む」。
五、すべてが終わったあと、もう一度チャット画面を開いて、宛先が合っているか確認した。
対策にかかった時間は四十三分だった。何度も同じ画面を確認しながら、閉じて、開いて、閉じた。途中で一度お茶を淹れた。マグカップを両手で包んだまま、モニターの画面を見ていた。お茶が冷めていく。陶器の温度が、手のひらからゆっくり抜けていく。指先に残る熱がなくなっても、マグカップを置けなかった。何かを握っていないと、手が震えそうだった。
紙に書かれていた回避方法は、ゼロだった。「発生する」の三文字だけ。だから全部、真琴が自分で考えた。考えて、準備して、ルールを作った。
それが正しいかどうかは分からない。でも何もしないでいると、みぞおちの少し上あたりに冷たいものが溜まっていく。それが少しずつ膨らんで、胸郭の内壁を内側から押してくる。対策を一つ終えるたびに、その圧が少しだけ弱まった。完全には消えない。でも、呼吸ができる程度にはなった。
——真琴は「念のため」という言葉が好きだった。正確には、好きなのではなく、それがないと体が硬くなるのだ。念のため確認する。念のため二回やる。念のため早めに出る。念のためが十個並んだとき、ようやく息ができる。
テーブルの上の白い紙は、まだそこにあった。
---
5
水曜日の朝が来た。
8時41分にエレベーターを降り、デスクについた。パソコンを起動する。社内チャットを開く。予約投稿の宛先を確認する。「CS_Team」。合っている。
8時55分、スマホが震えた。リマインダー。「宛先を声に出して読む」。真琴は唇だけ動かした。声は出さなかった。出したら隣に聞こえる。代わりに、指でモニターの宛先欄を差した。爪の先が画面の表面に触れるか触れないかの距離で止まっている。
9時00分。予約投稿が送信された。週次レポート。宛先は「CS_Team」。正しいチャンネルに、正しいフォーマットで、正しい時間に届いた。
何も起きない。
9時03分。リーダーの佐伯がリアクションスタンプを押した。いつもどおり。9時05分、真央が「おつ~」とコメントした。いつもどおり。
9時08分。
真琴はモニターの右上にある時計を見ている。見るな、と思っている。思っているのに、三十秒おきに目が戻る。数字が変わるたびに、背筋の奥のほうで何かが一段ずつ締まっていく。ネジを巻くように。一段。また一段。肩甲骨のあいだに板を差し込まれたみたいに、体の後ろ側が硬くなっていく。
9時09分。
キーボードに載せた指先が、微かに冷たい。空調のせいか、自分の血流のせいか、分からない。
9時10分。
榊原が「CS_Team」チャンネルに、メンション付きでメッセージを投げてきた。
「@綾瀬 今週のA社の件、13時の打ち合わせ前に概要まとめてもらえる?」
チャンネル上のやり取りだ。他のメンバーも見える場所。真琴はそのまま「CS_Team」の入力欄にカーソルを置いた。返信を打ち始める。「承知しました。13時までに——」
9時11分。
隣の島で電話が鳴った。真央が出た。受話器を押さえて、真琴の方を向いた。
「真琴、A社の鈴木さんから。請求書の件で確認したいって」
「え、いま——」
「急ぎだって。ごめん」
返信の途中でチャット画面を離れた。受話器を取った。鈴木の声が早口で入ってくる。「先日の請求書の明細なんですが、二行目の単価が——」。片手でメモを取りながら、受話器を肩と耳で挟んだ。ペン先が紙の上で小さく震えている。自分の字が読めるか怪しい。
鈴木の質問に答えながら、頭の半分がチャットに残っている。榊原への返信が途中のままだ。メンション付きで飛んできた。チーム全員が見ている。返信が遅れれば、遅れた事実が全員の画面に残る。早く戻らなければ。
「確認して折り返します」
受話器を置いた。指がキーボードに戻った。
9時12分。
画面が変わっていた。
真琴がチャットを離れている間に、「CS_Team」チャンネルで別の会話が動いていた。佐伯が全体連絡を流し、返信が三件続いている。画面が押し上げられて、真琴の途中書きの入力欄が流されていた。
チャンネル一覧の左カラムに目を走らせた。「CS_Team」を探した。チャンネル名が縦に並んでいる。CS_Budget、CS_Client_Shared、CS_Internal、CS_Team——。指がトラックパッドの上を滑る。「CS_Team」をクリックしようとした。
指が、ひとつ上の行に触れた。
「CS_Client_Shared」。
クライアント共有チャンネル。A社の鈴木も、他の取引先の担当者も閲覧できるチャンネル。
入力欄が開いた。そこに、先ほど途中まで打っていた文章がブラウザの入力キャッシュで復元されていた。自動補完はオフにした。したのは投稿画面の設定だった。返信欄のキャッシュ復元は、別の機能だった。
復元された文章は、こうだ。
「承知しました。13時までに概要まとめます。なお請求書の二行目の単価差異はA社側の入力ミスの可能性が高いので、」
電話の直後だった。鈴木の話の内容が頭に残っていて、返信の続きにそのまま流れ込んでいた。A社側の入力ミスの可能性が高い。社内でしか書かない言葉だ。先方の目に触れてはいけない一文。それがクライアント共有チャンネルの入力欄に、カーソルを点滅させながら座っている。
心臓の音が聞こえた。自分の耳の内側で、速く、硬く、脈打っている。こめかみの血管が、拍動のたびに押し広げられるのが分かった。視界がわずかに狭くなっている。モニターの四隅が暗い。入力欄の文字列と、送信ボタンだけが、異様にはっきり見えている。
右手がマウスの上にある。人差し指が、左クリックの位置にある。送信ボタンまで、カーソルの移動距離は二センチもない。
チャンネル名を、見ていなかった。
入力欄の中の文字だけを見ていた。早く返さなければ。榊原が待っている。チーム全員が見ている。返信が遅い。遅い自分は、減点される。減点——その言葉が頭の中で閃いた瞬間、人差し指が送信ボタンに向かって沈みかけた。
付箋が、視界の端にあった。
画面右下。送信ボタンのすぐ横。黄色い正方形に、黒いペンで「宛先!」。昨夜、自分で書いた。角を、画面の枠と平行に揃えて貼った付箋。
指が、止まった。
一ミリ手前で止まった。クリックの抵抗を感じる直前、指の腹がボタンの表面に触れる直前の、その隙間で止まった。
宛先欄に目を上げた。
「CS_Client_Shared」。
首の後ろから、温度が落ちた。比喩ではない。物理的に、うなじの表面から熱が消えた。鎖骨まで一気に冷えて、その冷たさが肩から腕を通って、マウスを持つ指先まで降りてくる。指先が、自分のものではないみたいに冷たくなっていた。胃が裏返るような嘔吐感が、一瞬だけ込み上げて、消えた。
「CS_Client_Shared」を消した。チャンネル一覧に戻り、「CS_Team」をクリックした。入力欄の文面を見直した。「A社側の入力ミスの可能性が高いので、」——消した。一文字ずつバックスペースを叩いた。一文字消すたびに、指の力が少しずつ戻ってくるのが分かった。全部消して、「概要は13時までに共有します」とだけ打ち直した。
宛先を確認した。「CS_Team」。指で画面を差した。声は出さなかった。
送信した。
9時13分。
何も起きなかった。
誰にも気づかれなかった。チャンネルには真琴の返信が一行だけ表示されている。榊原がスタンプを一つ押した。佐伯は別の会話を続けている。真央はコーヒーを飲んでいる。世界は一ミリも変わっていない。
真琴だけが知っている。
一分前、指が送信ボタンの上にあったこと。宛先が違っていたこと。クライアントの目が届くチャンネルに、「先方のミスの可能性が高い」と書かれた文章を、あと一ミリで送り出すところだったこと。
椅子の背もたれに、体を預けた。
息を吐いた。長い息だった。肺の底の、いちばん古い空気を全部押し出すような吐き方だった。吐き終えると、体の芯が少しだけ揺れた。緊張が一気に解けたときの、あの揺れだ。筋肉が弛緩する速度に、意識がついていけない。脚の力が一瞬だけ抜けた。椅子に座っていなかったら、膝が折れていたかもしれない。
少なくとも五分間、まともに呼吸をしていなかった。
---
6
午後はなだらかに過ぎた。
A社の打ち合わせは予定どおり13時に始まり、13時48分に終わった。真琴がまとめた概要資料に、榊原はモニターを見ながら小さくうなずいた。
「いい。過不足ない」
それだけだった。語尾に感情の色はなかった。事実の確認。書類に検印を押すような、乾いた短さ。
なのに、真琴の体が反応した。
張り詰めていたものが、胸のどこか深い場所で、糸一本だけ切れた。切れた瞬間、その一本が支えていた重さがなくなって、胸腔の中にぽっかりと隙間ができた。隙間に入ってきたのは温かさではなかった。安堵だった。安堵は温かさとは違う。温かさは外から来る。安堵は、重さが抜けた場所に、内側から滲む。
褒められた、とは思わなかった。落とされなかった、と思った。今日の自分は、減点されなかった。ここまで来られた。まだ立っている。
その「まだ立っている」が、午前中の恐怖の深さの分だけ、甘く響いた。
資料のクリアファイルを棚に戻すとき、ファイルの端を棚板の縁にぴったり揃えた。隣のファイルとの間隔が均等になるように、指の腹で位置を微調整した。
夕方、チームの退勤が始まる頃、榊原がもう一度だけ真琴の方を見た。
「今朝のレポート、宛先も時間も正確だった。助かった」
何気ない一言だった。榊原はもうモニターに目を戻している。真琴以外には聞こえない音量だった。
真琴の中で、何かが静かに組み替わった。
今朝、あの九時十二分に味わった恐怖——首の後ろから温度が消えていくあの感覚、指先が自分のものでなくなるあの冷たさ——が、今、この一言でひっくり返されようとしている。恐怖が、報酬に変わろうとしている。怖かったからこそ、「助かった」の四文字がこんなにも深く刺さる。苦い薬のあとの水みたいに、平凡な言葉が甘い。
「ミスしなかった自分は、正しかった」。その認識が、事実としてではなく、肌の内側に直接触れるような感触として定着していった。
真央が帰り際に声をかけた。
「今日、珍しく慎重じゃん。朝のチャットの返信、めっちゃ丁寧だったし」
「そう? いつもどおりだけど」
「いつもよりちょっと丁寧。なんか、いいことあった?」
「別に。念のため」
真央は「出た、念のため」と笑って、手を振って帰っていった。真央のカバンが肩の上で揺れている。チャックが半分開いている。中身の整理をしている気配がない。
真琴はそれを見送りながら、自分のデスクを片付けた。
失敗は起きなかった。起きかけた。あの一ミリで、人生が変わるところだった。でも、起きなかった。
準備していたからだ。宛先を固定し、自動補完をオフにし、付箋を貼り、リマインダーを設定した。だから防げた。偶然ではない。対策で防いだ。自分の判断で、自分の手で。
その事実を噛みしめるたびに、体の奥で何かが緩んでいく。朝から肋骨の内側に張りついていた冷たい膜が、一枚ずつ剥がれていくような感覚。不安が安心に反転する瞬間は、快感に似ている。痛みが消えた瞬間の軽さに似ている。ゼロに戻っただけなのに、プラスに感じる。
——もしあの紙がなかったら。
その考えが浮かんだとき、真琴の背中を何かが走った。冷たさではない。もっと甘いもの。禁じられた近道を知ってしまったときの、あの後ろめたい高揚。
報告書がなかったら、今日、自分は誤送信していた。クライアントの目の前に、社内の本音をさらしていた。榊原の顔が曇っていた。真央が気まずそうにしていた。チームの信用が、自分のせいで、一段落ちていた。
でも、落ちなかった。落ちなかったのは、自分が準備したから。準備できたのは、紙があったから。
紙が、あったから。
真琴の中で何かが定まった。名前のつかない感情だった。感謝ではない。安堵とも違う。もっと深い場所にあるもの。暗い部屋で壁に手をついたとき、そこに壁があった、という確かさ。手のひらに返ってくる硬さ。自分の体重を預けていいもの。
報告書は、壁だった。
---
7
19時22分。最寄り駅から歩いて七分。
マンションのエントランスを抜けて、集合ポストの前に立った。ダイヤルを回す。扉を開ける。
チラシが二枚。水道局の通知が一枚。
その下に、白い封筒が一通。
長3号。無地。宛名は印字で「綾瀬真琴 様」。差出人欄は空白。昨日とまったく同じ封筒。同じ紙。同じフォント。同じ空白。
昨日は部屋に上がって、テーブルについて、座ってから開封した。
今日は、ポストの前で開けた。
指は迷わなかった。封筒の糊に爪をかけて、一息で剥がした。紙を抜く手つきに、昨夜の躊躇がない。手が覚えている。この封筒の開け方を、一晩で学習していた。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:13:40
> 事象:資料の数字を一桁間違え、会議で詰む
> 備考:発生する
読み終えて、紙をゆっくり封筒に戻した。
怖かった。昨日よりも具体的に怖かった。13:40。明日の午後に会議がある。資料はこれから作る。数字を間違える。一桁。そのミスで、詰む。「詰む」という二文字が、目の裏側にべったり貼りついて剥がれない。
会議室の空気を想像した。モニターに映した数字を、榊原が見ている。西園寺が見ている。クライアントが見ている。誰かが「この数字、一桁違いませんか」と言う。全員の視線が真琴に集まる。沈黙が落ちる。
想像しただけで、手のひらが湿った。ポストの金属に触れている指先が、かすかに滑った。
でも——怖さの隣に、別の感覚があった。
昨日と同じだ。
そう思った瞬間、恐怖の輪郭がほんの少しだけ柔らかくなった。今日の九時十二分を思い出した。あの冷たさ、あの硬直、あの一ミリ。そして、何も起きなかった。起きなかったのは、前の夜に知っていたから。知っていたから、準備できた。準備したから、防げた。
今度も同じだ。明日起きることを、今夜のうちに知っている。知っていれば、数字を三回確認すればいい。四回でも五回でもいい。念のため。
その「同じ」が、不思議と心地よかった。恐怖の形が分かっている。分かっていれば対処できる。対処できれば、明日もまた「助かった」と言ってもらえる。あの言葉がもう一度聞ける。
そこまで考えたとき、ポストの前に立ったまま、真琴は自分がかすかに笑っていることに気づいた。口元だけの笑い。頬の筋肉が、ほんの少しだけ持ち上がっている。
怖いのに、笑っている。
その矛盾に気づいたが、不快ではなかった。
ポストの扉を閉めた。ダイヤルを元の位置に戻した。
部屋に上がって、封筒をテーブルに置いた。昨日の封筒の隣に。二枚を並べたとき、端と端をぴったり揃えた。
揃える手つきが、正確だった。
封筒の角と角を合わせ、指の腹で軽くなぞって、ずれがないことを確認する。テーブルの端からの距離も、左右均等にする。まるで書類棚に帳票を収めるときの動作——役所の窓口で、職員がやるような手つきだった。
真琴はその手つきに、自分では気づいていなかった。
パソコンを開いた。明日の会議の資料を開いた。数字を確認する作業を始めた。念のため。一つ目の数字を確認し終えたとき、ノートパソコンの角度を直した。画面の端とテーブルの端が平行になるように。
部屋の時計は19時38分を指している。
白い封筒が二枚、テーブルの上で、行儀よく並んでいる。
0
あなたにおすすめの小説
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。抱かれたら身代わりがばれてしまうので初夜は断固拒否します!
雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
隣国の国王キリアン(アルファ)に嫁がされたオメガの王子リュカ。
しかし実は、結婚から逃げ出した双子の弟セラの身代わりなのです…
本当の花嫁じゃないとばれたら大変!
だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、
だんだんキリアンに惹かれてしまい、苦しくなる…という
お話です。よろしくお願いします<(_ _)>
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる