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先回りの快感
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1
13時38分。
廊下の空気は、冷房で乾いている。
真琴は会議室の扉の前に立っている。左腕にクリアファイルを抱えている。中の資料は八ページ、四部。角と角を合わせて、クリアファイルの背を親指で押さえている。押さえている力を緩めると、紙がずれる気がする。ずれたら直せばいい。それだけのことなのに、緩められない。
扉の向こうから声が漏れている。榊原の低い声。佐伯が何か言って、誰かが笑った。椅子の脚が床を擦る音。空調の吹き出し口が、かすかに震えている。
壁の時計を見た。秒針が6を越えた。13時38分30秒。
資料の数字を一桁間違え、会議で詰む。
その一文が、昨夜から頭の中に住んでいる。追い出せない。追い出す必要がないくらい馴染んでいる。馴染んでいることが怖いのか、馴染んでいるから落ち着けるのか、その区別がつかなくなっている。
クリアファイルの角が、スーツの袖口に食い込んでいる。爪の先が、ファイルの樹脂を押して白くなっている。
---
十八時間前に、戻る。
---
2
水曜日。19時28分。
マンションのポストを開けた。チラシ。電気料金の通知。その下に、白い封筒。
二通目だった。
真琴はポストの扉を閉める前に、もう開けていた。昨日は部屋に上がってから開封した。今日は立ったまま糊を剥がしていた。手が一晩で手順を覚えていた。取る、剥がす、抜く。指に迷いがなかった。
A4一枚。余白の広い帳票。等間隔のゴシック体。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:13:40
> 事象:資料の数字を一桁間違え、会議で詰む
> 備考:発生する
「一桁」。
どの資料か書いていない。どの数字かも分からない。
最初に来たのは恐怖ではなかった。苛立ちだった。報告書は「発生する」としか書かない。回避策は一行もない。こちらで全部考えろ、と突き放されている。紙に感情はないのに、冷たい意思を感じた。
苛立ちは三秒で沈んだ。その下から、恐怖がせり上がってきた。腹の底から胸の方へ、泥が這い上がるような速度で。
会議で詰む。
まぶたの裏に映像が走った。会議室。モニターに数字。誰かが「この数字、合ってますか」と言う。全員の目が真琴に向く。口が開かない。喉に蓋がされている。沈黙が落ちる。沈黙の中で、自分の鼓動だけが鳴っている。
想像を、振り払った。
部屋に上がった。靴を脱いで、テーブルについた。封筒を、昨日の一枚の右に並べた。二枚の端と端を揃えた。指の腹で角をなぞって、ずれがないことを確認した。昨夜、一枚目を揃えたとき、自分が揃えていることに気づいていなかった。二枚目の今、真琴は自分の指先を見ていた。
二枚並ぶと、台帳の始まりみたいに見えた。右側にまだ余白がある。
パソコンを開いた。
---
3
明日の13時40分に該当する会議は一つ。A社の月次定例。資料は真琴が準備する担当。
関連ファイルを全部開いた。四つ。数字の総数を数えた。八十七箇所。
このうちのどれか一つが、明日、一桁ずれる。どれかは分からない。
全部確認するしかなかった。
一箇所ずつ、元データのExcelと突き合わせた。値、書式、桁区切り、単位。一つ終わるたびにノートに赤ペンでチェックを入れた。線の長さは五ミリ。不揃いのマークは信用できない。五ミリが五ミリであることが、真琴にとっては確認の証拠だった。
二つ目のファイルの五行目で、手が止まった。
税抜表記の列に、税込の数字が混ざっていた。
心臓が一回だけ強く打った。胸骨の裏を、内側から拳で叩かれたような衝撃。一回。それきり。でもその一回で、首の後ろの産毛が逆立つのが分かった。
これか。これが「一桁」の正体かもしれない。
修正した。赤ペンでマークを入れた。入れた瞬間、呼吸が少しだけ深くなった。肋骨の内側に張りついていた何かが、一枚だけ剥がれた感覚。
残りのファイルも確認した。グラフのスケールを直した。小数点の位置を二度見た。合っていた。合っているのに三度目を見かけて、止めた。止めるのに力が要った。
23時14分。八十七箇所すべてにチェックがついた。赤いマークがノートの上で整列している。八十七本の線。同じ角度。同じ長さ。
ノートを閉じた。テーブルの端と平行に置いた。パソコンの端とも合わせた。テーブルの上のものが全部、直角か平行で構成されている。
シャワーを浴びた。湯を頭から被ったとき、肩が大きく震えた。一日分の緊張が流れていく錯覚。錯覚だと分かっていても、体が楽になった。
布団に入った。目を閉じた。まぶたの裏に赤いマークの残像が浮かんでいる。八十七本。全部確認した。全部合っている。
まだ足りない気がした。何が足りないのか分からないまま、意識が沈んでいった。
---
4
木曜日の朝。
デスクでパソコンを開き、昨夜の資料を確認した。一箇所。合っている。もう一箇所。合っている。三箇所目に行きかけて、手を止めた。止めないと全部やり直す。指が次のセルに向かおうとしている。その指を、意志で引き戻した。
真央が出社してきた。ペットボトルの水を出しながら声をかけてきた。
「真琴、今日のA社の資料、もうできてる?」
「うん。昨日の夜に仕上げた」
「早っ。私まだ先月のレポート終わってない」
キャップを開ける手が雑で、水滴がデスクに飛んだ。真央はそれを手の甲で拭って、何も気にせず座った。
10時17分。
榊原がチャットで全体連絡を流した。
「今日の13時のA社定例、投影資料は最新版テンプレに差し替えてください。フォーマットが先週更新されてます」
真琴の指が、キーボードの上で止まった。
テンプレートが変わっている。先週。真琴はそのフォルダを月曜から水曜まで一度も開いていなかった。自分の手元のファイルだけを見ていた。八十七箇所を確認していた。正しいファイルの正しい数字を正しく確認していた。でもそのファイルは、もう最新ではなかった。
みぞおちの下が、きゅっと縮んだ。昨夜の冷たさとは違う。もっと鋭い。細い針で一点だけ刺されたような冷たさだった。
共有フォルダを開いた。最新テンプレートをダウンロードした。開いた。レイアウトが違う。列の順番が入れ替わっている。
昨夜の八十七箇所のチェックマークが、一枚の紙の上で静かに意味を失っていくのが分かった。赤いマークは消えていない。ノートの上にある。でもマークが指し示していた場所がなくなっていた。地図の上の目印が、地形の変化で宙に浮いている。足元の地面ごと消えている。
首の後ろから背中に、冷たさが落ちてきた。あの夜と同じ温度だった。同じ温度が同じ場所に戻ってきていた。
真琴はモニターの前で目を閉じた。三秒。暗闇の中で息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
一、数字を新テンプレに移す。二、再確認する。三、13時に間に合わせる。
目を開けた。キーボードに手を戻した。
---
5
午前中は、数字の引っ越しに使った。
列の順番が変わっているから手動で一セルずつ。移して、確認して、次に進む。確認を飛ばそうとすると、肩甲骨のあいだに薄い膜が張るような違和感が出る。背中の皮膚の下で何かが引っ張られている。小さな不快感。それが気になって、結局戻る。
11時40分。移行が終わった。ここからもう一度、全数字を確認した。二度目。
12時20分。真央が立ち上がった。
「ランチ行かない?」
「先に行ってて。あとで追いかける」
真央は一瞬だけ真琴のモニターを見た。数字が並んでいる画面。何か言いかけて、やめた。「了解」とだけ言って歩いていった。
真琴はモニターから目を離さなかった。真央の背中が視界の端を横切ったことは分かっていた。分かっていて、追わなかった。確認しないままランチを取ったら、その四十分のあいだ、胃の中で不安が転がり続ける。食べ物と一緒に。消化できない種類の不安が。
12時51分。終わった。昼食は食べていない。引き出しから飴を一つ出して口に入れた。レモン味。甘さが舌に広がるのを感じる前に、奥歯の脇に押しやった。
資料を印刷した。八ページ、四部。重ねて、角をトン、とデスクに打ちつけて四辺を合わせた。クリアファイルに入れた。
---
6
13時34分。会議室に全員が揃った。
スクリーンにスライドの一ページ目が映っている。真琴は手元の印刷資料と見比べた。同じだった。
13時40分。
榊原が口を開いた。「では始めましょう。綾瀬さん、お願いします」
一ページ目。売上概要。榊原がうなずく。二ページ目。契約状況。佐伯がメモを取る。
三ページ目に切り替えた。
CS対応件数の推移表がスクリーンに映った。左の列は金額。ヘッダーに「千円」。右の列は対応件数。手元の印刷資料には「120件」と書いてある。
スクリーンを見た。
「1200」。
真琴の視界が、一瞬だけ白くなった。
新テンプレートの数値列には千単位表示が既定で入っていた。「120」と入力したセルが「1200」と表示されている。ヘッダーは移した。セルの表示形式までは見ていなかった。
左列が「千円」。その隣に「1200」。読む人間には「1200千円」——120万円に見える。120件と120万円。一桁どころではない。数字の意味が壊れている。
報告書が言ったとおりだった。
首の後ろから温度が抜けた。一瞬で。鎖骨から肩へ、肩から腕へ、冷たさが滝のように降りてくる。指先が自分のものではないみたいに冷たくなっていた。視界が狭い。スクリーンの「1200」だけが異様にくっきり見えて、周囲が暗い。心臓の音が耳の内側で速く硬く脈打っている。
榊原がスクリーンを見ている。目が数字の列を左から右に動いている。左列の金額を読んで、今、右列に向かっている。あと数秒で「1200」に到達する。到達したら声に出す。「120万? 対応件数じゃなくて?」。全員の視線が真琴に向く。沈黙が降りる。
あと数秒。
喉が締まった。
締まって——割れた。
恐怖の殻が砕けて、その下から別のものが出てきた。恐怖が消えたのではない。恐怖の上に、薄い蓋をかぶせた。蓋の名前は知らない。でも声が出た。
「すみません、三ページ目の対応件数、表示形式がテンプレのデフォルトに引っ張られてます。念のため直します」
自分の声が、遠くから聞こえた。平静だった。昨夜から自分の中を走り続けていた恐怖の痕跡が、一ミリも滲んでいなかった。念のため。いつもの言葉。いつもの自分。
榊原の目が右列に届く前に、真琴はノートパソコンに手を伸ばしていた。セルの書式設定を開いた。千単位表示をオフにした。「1200」が「120」に戻った。注釈を一行加えた。保存した。スクリーンが切り替わった。
「120件」。
数字が、正しい姿に戻った。
榊原はスクリーンを見ていた。修正後の。何も言わなかった。何事もなかったかのように、次の行に目を移した。
会議は続いた。真琴の膝が、テーブルの下で細かく震えていた。震えていることを、真琴だけが知っていた。
---
7
会議は47分で終わった。
120件。前月比8%増。榊原が読み上げたとき、誰も引っかからなかった。数秒前に「1200」が映っていたことを、この部屋で知っているのは真琴だけだった。
全員が立ち上がった。椅子を引く音。ノートパソコンを閉じる音。
榊原が真琴の横を通りながら言った。
「資料、見やすかった。注釈も入ってて助かった」
振り返らなかった。言い切る前にドアに向かっていた。背中が廊下に消えた。
真琴の足が、半歩分だけ止まった。
胸の奥で、冷たい板が一枚、音もなく倒れた。昨夜から肋骨の内側に立てかけてあったもの。倒れた跡にぽっかりと隙間ができて、そこに空気が入ってきた。冷たい空気ではなかった。体温と同じ温度の、やわらかい空気だった。
安堵だった。安堵は温かさとは違う。外から来るものではない。重さが抜けた場所に、内側から滲む。
褒められたとは思わなかった。落とされなかった、と思った。今日も減点されなかった。二晩かけた八十七箇所。テンプレートの差し替え。二度目の確認。昼を抜いた午後。会議中に膝を震わせながら直したセル。全部がこの一言に繋がっていた。
あの紙がなかったら。
「1200」がスクリーンに映ったままだった。榊原の目がそこに止まっていた。沈黙が降りていた。全員が真琴を見ていた。真琴の喉は閉じていた。
でも——閉じなかった。
閉じなかったのは、知っていたからだ。報告書が教えてくれたから。教えてくれたから準備した。準備したから動けた。動けたから、今、榊原の背中を見送っている。
恐怖の深さの分だけ、「助かった」が甘く響いた。苦い薬のあとの水みたいに。平凡な言葉が、舌の上で甘い。
デスクに戻った。クリアファイルを棚に立てた。ファイルの背が棚板の縁と平行になるように位置を直した。隣のファイルとの間隔を指一本分に揃えた。
真央が戻ってきた。
「お疲れ~。会議どうだった?」
「うん。問題なかった」
「真琴の資料で問題あったことないけどね」
何でもない一言だった。たぶん感想ですらなかった。でもその言葉が真琴の喉の奥で引っかかった。小さくて、丸くて、飲み込めないもの。問題があったことがない。それは事実だ。事実のはずだ。なのに、この丸いものが溶けない。何なのか、今の真琴には分からなかった。
17時を過ぎた頃。
西園寺が席を立ちながら、真琴の方を見た。
「綾瀬さん」
「はい」
「今日のあれ、会議中に気づいてすぐ直してたよね。私だったら、たぶん一回止めてた」
西園寺は微笑んでいた。目尻にしわが寄っている。悪意はなかった。悪意がないことは見れば分かった。だからこそ、次の言葉が深く入った。
「安定してるね、綾瀬さんは」
歩いていった。ヒールの音がフロアの絨毯に吸い込まれていった。
安定してる。
その五文字が、耳の内側に残った。残って、反響した。褒め言葉だ。そのはずだった。安定しているということは崩れないということで、崩れないということは信頼されるということで——。
なのに「安定」の輪郭が冷たかった。
真琴には言語化できなかった。できなかったが、体が反応していた。肩甲骨の内側あたりに、薄い重さが一枚だけ載った感覚。天井。何かの天井。低くはない。低くはないが、ある。あるということが、体に伝わっていた。
その天井に名前がつくのは、もっと先のことだ。
今の真琴が知っているのは、今日も落とされなかったということと、それが昨日よりも甘いということだけだった。
---
8
19時19分。
マンションのポストを開けた。チラシが一枚。その下に、白い封筒。三通目。
ポストの扉を閉める前に開けていた。糊を剥がす。紙を抜く。広げる。三通目で、もう手順に迷いがなかった。体が覚えている。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:18:05
> 事象:取引先の名前を間違え、信用を損ねる
> 備考:発生する
名前。
今度は数字ではなかった。
紙面の文字を見つめたまま、呼吸が一拍だけ止まった。止まって、ゆっくり再開した。
数字なら検算できる。元データと突き合わせれば白か黒が出る。名前は違う。名前は人間に属している。人間はセルに入っていない。計算式で検証できない。読み方にゆらぎがある。間違えたとき、傷つくのは数字ではなく人間だ。
数字の恐怖は冷たかった。名前の恐怖は、もう少し生温かった。人の体温に近い温度で、腹の底に座った。
封筒を紙に戻した。部屋に上がった。テーブルについた。三枚目を二枚の右に並べた。三枚の端と端を揃えた。指の腹で角をなぞった。テーブルの端からの距離まで均等にした。
一枚目は無意識だった。二枚目で意識して揃えた。三枚目の今、真琴はこの動作に安心を感じていた。封筒が並んでいる。角が合っている。台帳みたいに。右側にまだ余白がある。余白は明日も埋まる。
パソコンを開いた。取引先の名簿ファイルを開いた。明日の18時前後に連絡する可能性がある名前を、一つずつ確認し始めた。
田中。たなか。
鈴木。すずき。
高瀬。たかせ。
三人目で、指が一瞬だけ止まった。
理由は分からなかった。ただ、この名前の上で指が止まったという事実だけが残った。
すぐに次の名前に進んだ。
テーブルの上で三枚の封筒が行儀よく並んでいる。モニターの青白い光が真琴の横顔を照らしている。部屋の時計は19時43分を指している。
今夜は数字の代わりに、名前と過ごすことになる。
13時38分。
廊下の空気は、冷房で乾いている。
真琴は会議室の扉の前に立っている。左腕にクリアファイルを抱えている。中の資料は八ページ、四部。角と角を合わせて、クリアファイルの背を親指で押さえている。押さえている力を緩めると、紙がずれる気がする。ずれたら直せばいい。それだけのことなのに、緩められない。
扉の向こうから声が漏れている。榊原の低い声。佐伯が何か言って、誰かが笑った。椅子の脚が床を擦る音。空調の吹き出し口が、かすかに震えている。
壁の時計を見た。秒針が6を越えた。13時38分30秒。
資料の数字を一桁間違え、会議で詰む。
その一文が、昨夜から頭の中に住んでいる。追い出せない。追い出す必要がないくらい馴染んでいる。馴染んでいることが怖いのか、馴染んでいるから落ち着けるのか、その区別がつかなくなっている。
クリアファイルの角が、スーツの袖口に食い込んでいる。爪の先が、ファイルの樹脂を押して白くなっている。
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十八時間前に、戻る。
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2
水曜日。19時28分。
マンションのポストを開けた。チラシ。電気料金の通知。その下に、白い封筒。
二通目だった。
真琴はポストの扉を閉める前に、もう開けていた。昨日は部屋に上がってから開封した。今日は立ったまま糊を剥がしていた。手が一晩で手順を覚えていた。取る、剥がす、抜く。指に迷いがなかった。
A4一枚。余白の広い帳票。等間隔のゴシック体。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:13:40
> 事象:資料の数字を一桁間違え、会議で詰む
> 備考:発生する
「一桁」。
どの資料か書いていない。どの数字かも分からない。
最初に来たのは恐怖ではなかった。苛立ちだった。報告書は「発生する」としか書かない。回避策は一行もない。こちらで全部考えろ、と突き放されている。紙に感情はないのに、冷たい意思を感じた。
苛立ちは三秒で沈んだ。その下から、恐怖がせり上がってきた。腹の底から胸の方へ、泥が這い上がるような速度で。
会議で詰む。
まぶたの裏に映像が走った。会議室。モニターに数字。誰かが「この数字、合ってますか」と言う。全員の目が真琴に向く。口が開かない。喉に蓋がされている。沈黙が落ちる。沈黙の中で、自分の鼓動だけが鳴っている。
想像を、振り払った。
部屋に上がった。靴を脱いで、テーブルについた。封筒を、昨日の一枚の右に並べた。二枚の端と端を揃えた。指の腹で角をなぞって、ずれがないことを確認した。昨夜、一枚目を揃えたとき、自分が揃えていることに気づいていなかった。二枚目の今、真琴は自分の指先を見ていた。
二枚並ぶと、台帳の始まりみたいに見えた。右側にまだ余白がある。
パソコンを開いた。
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3
明日の13時40分に該当する会議は一つ。A社の月次定例。資料は真琴が準備する担当。
関連ファイルを全部開いた。四つ。数字の総数を数えた。八十七箇所。
このうちのどれか一つが、明日、一桁ずれる。どれかは分からない。
全部確認するしかなかった。
一箇所ずつ、元データのExcelと突き合わせた。値、書式、桁区切り、単位。一つ終わるたびにノートに赤ペンでチェックを入れた。線の長さは五ミリ。不揃いのマークは信用できない。五ミリが五ミリであることが、真琴にとっては確認の証拠だった。
二つ目のファイルの五行目で、手が止まった。
税抜表記の列に、税込の数字が混ざっていた。
心臓が一回だけ強く打った。胸骨の裏を、内側から拳で叩かれたような衝撃。一回。それきり。でもその一回で、首の後ろの産毛が逆立つのが分かった。
これか。これが「一桁」の正体かもしれない。
修正した。赤ペンでマークを入れた。入れた瞬間、呼吸が少しだけ深くなった。肋骨の内側に張りついていた何かが、一枚だけ剥がれた感覚。
残りのファイルも確認した。グラフのスケールを直した。小数点の位置を二度見た。合っていた。合っているのに三度目を見かけて、止めた。止めるのに力が要った。
23時14分。八十七箇所すべてにチェックがついた。赤いマークがノートの上で整列している。八十七本の線。同じ角度。同じ長さ。
ノートを閉じた。テーブルの端と平行に置いた。パソコンの端とも合わせた。テーブルの上のものが全部、直角か平行で構成されている。
シャワーを浴びた。湯を頭から被ったとき、肩が大きく震えた。一日分の緊張が流れていく錯覚。錯覚だと分かっていても、体が楽になった。
布団に入った。目を閉じた。まぶたの裏に赤いマークの残像が浮かんでいる。八十七本。全部確認した。全部合っている。
まだ足りない気がした。何が足りないのか分からないまま、意識が沈んでいった。
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木曜日の朝。
デスクでパソコンを開き、昨夜の資料を確認した。一箇所。合っている。もう一箇所。合っている。三箇所目に行きかけて、手を止めた。止めないと全部やり直す。指が次のセルに向かおうとしている。その指を、意志で引き戻した。
真央が出社してきた。ペットボトルの水を出しながら声をかけてきた。
「真琴、今日のA社の資料、もうできてる?」
「うん。昨日の夜に仕上げた」
「早っ。私まだ先月のレポート終わってない」
キャップを開ける手が雑で、水滴がデスクに飛んだ。真央はそれを手の甲で拭って、何も気にせず座った。
10時17分。
榊原がチャットで全体連絡を流した。
「今日の13時のA社定例、投影資料は最新版テンプレに差し替えてください。フォーマットが先週更新されてます」
真琴の指が、キーボードの上で止まった。
テンプレートが変わっている。先週。真琴はそのフォルダを月曜から水曜まで一度も開いていなかった。自分の手元のファイルだけを見ていた。八十七箇所を確認していた。正しいファイルの正しい数字を正しく確認していた。でもそのファイルは、もう最新ではなかった。
みぞおちの下が、きゅっと縮んだ。昨夜の冷たさとは違う。もっと鋭い。細い針で一点だけ刺されたような冷たさだった。
共有フォルダを開いた。最新テンプレートをダウンロードした。開いた。レイアウトが違う。列の順番が入れ替わっている。
昨夜の八十七箇所のチェックマークが、一枚の紙の上で静かに意味を失っていくのが分かった。赤いマークは消えていない。ノートの上にある。でもマークが指し示していた場所がなくなっていた。地図の上の目印が、地形の変化で宙に浮いている。足元の地面ごと消えている。
首の後ろから背中に、冷たさが落ちてきた。あの夜と同じ温度だった。同じ温度が同じ場所に戻ってきていた。
真琴はモニターの前で目を閉じた。三秒。暗闇の中で息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
一、数字を新テンプレに移す。二、再確認する。三、13時に間に合わせる。
目を開けた。キーボードに手を戻した。
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午前中は、数字の引っ越しに使った。
列の順番が変わっているから手動で一セルずつ。移して、確認して、次に進む。確認を飛ばそうとすると、肩甲骨のあいだに薄い膜が張るような違和感が出る。背中の皮膚の下で何かが引っ張られている。小さな不快感。それが気になって、結局戻る。
11時40分。移行が終わった。ここからもう一度、全数字を確認した。二度目。
12時20分。真央が立ち上がった。
「ランチ行かない?」
「先に行ってて。あとで追いかける」
真央は一瞬だけ真琴のモニターを見た。数字が並んでいる画面。何か言いかけて、やめた。「了解」とだけ言って歩いていった。
真琴はモニターから目を離さなかった。真央の背中が視界の端を横切ったことは分かっていた。分かっていて、追わなかった。確認しないままランチを取ったら、その四十分のあいだ、胃の中で不安が転がり続ける。食べ物と一緒に。消化できない種類の不安が。
12時51分。終わった。昼食は食べていない。引き出しから飴を一つ出して口に入れた。レモン味。甘さが舌に広がるのを感じる前に、奥歯の脇に押しやった。
資料を印刷した。八ページ、四部。重ねて、角をトン、とデスクに打ちつけて四辺を合わせた。クリアファイルに入れた。
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13時34分。会議室に全員が揃った。
スクリーンにスライドの一ページ目が映っている。真琴は手元の印刷資料と見比べた。同じだった。
13時40分。
榊原が口を開いた。「では始めましょう。綾瀬さん、お願いします」
一ページ目。売上概要。榊原がうなずく。二ページ目。契約状況。佐伯がメモを取る。
三ページ目に切り替えた。
CS対応件数の推移表がスクリーンに映った。左の列は金額。ヘッダーに「千円」。右の列は対応件数。手元の印刷資料には「120件」と書いてある。
スクリーンを見た。
「1200」。
真琴の視界が、一瞬だけ白くなった。
新テンプレートの数値列には千単位表示が既定で入っていた。「120」と入力したセルが「1200」と表示されている。ヘッダーは移した。セルの表示形式までは見ていなかった。
左列が「千円」。その隣に「1200」。読む人間には「1200千円」——120万円に見える。120件と120万円。一桁どころではない。数字の意味が壊れている。
報告書が言ったとおりだった。
首の後ろから温度が抜けた。一瞬で。鎖骨から肩へ、肩から腕へ、冷たさが滝のように降りてくる。指先が自分のものではないみたいに冷たくなっていた。視界が狭い。スクリーンの「1200」だけが異様にくっきり見えて、周囲が暗い。心臓の音が耳の内側で速く硬く脈打っている。
榊原がスクリーンを見ている。目が数字の列を左から右に動いている。左列の金額を読んで、今、右列に向かっている。あと数秒で「1200」に到達する。到達したら声に出す。「120万? 対応件数じゃなくて?」。全員の視線が真琴に向く。沈黙が降りる。
あと数秒。
喉が締まった。
締まって——割れた。
恐怖の殻が砕けて、その下から別のものが出てきた。恐怖が消えたのではない。恐怖の上に、薄い蓋をかぶせた。蓋の名前は知らない。でも声が出た。
「すみません、三ページ目の対応件数、表示形式がテンプレのデフォルトに引っ張られてます。念のため直します」
自分の声が、遠くから聞こえた。平静だった。昨夜から自分の中を走り続けていた恐怖の痕跡が、一ミリも滲んでいなかった。念のため。いつもの言葉。いつもの自分。
榊原の目が右列に届く前に、真琴はノートパソコンに手を伸ばしていた。セルの書式設定を開いた。千単位表示をオフにした。「1200」が「120」に戻った。注釈を一行加えた。保存した。スクリーンが切り替わった。
「120件」。
数字が、正しい姿に戻った。
榊原はスクリーンを見ていた。修正後の。何も言わなかった。何事もなかったかのように、次の行に目を移した。
会議は続いた。真琴の膝が、テーブルの下で細かく震えていた。震えていることを、真琴だけが知っていた。
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会議は47分で終わった。
120件。前月比8%増。榊原が読み上げたとき、誰も引っかからなかった。数秒前に「1200」が映っていたことを、この部屋で知っているのは真琴だけだった。
全員が立ち上がった。椅子を引く音。ノートパソコンを閉じる音。
榊原が真琴の横を通りながら言った。
「資料、見やすかった。注釈も入ってて助かった」
振り返らなかった。言い切る前にドアに向かっていた。背中が廊下に消えた。
真琴の足が、半歩分だけ止まった。
胸の奥で、冷たい板が一枚、音もなく倒れた。昨夜から肋骨の内側に立てかけてあったもの。倒れた跡にぽっかりと隙間ができて、そこに空気が入ってきた。冷たい空気ではなかった。体温と同じ温度の、やわらかい空気だった。
安堵だった。安堵は温かさとは違う。外から来るものではない。重さが抜けた場所に、内側から滲む。
褒められたとは思わなかった。落とされなかった、と思った。今日も減点されなかった。二晩かけた八十七箇所。テンプレートの差し替え。二度目の確認。昼を抜いた午後。会議中に膝を震わせながら直したセル。全部がこの一言に繋がっていた。
あの紙がなかったら。
「1200」がスクリーンに映ったままだった。榊原の目がそこに止まっていた。沈黙が降りていた。全員が真琴を見ていた。真琴の喉は閉じていた。
でも——閉じなかった。
閉じなかったのは、知っていたからだ。報告書が教えてくれたから。教えてくれたから準備した。準備したから動けた。動けたから、今、榊原の背中を見送っている。
恐怖の深さの分だけ、「助かった」が甘く響いた。苦い薬のあとの水みたいに。平凡な言葉が、舌の上で甘い。
デスクに戻った。クリアファイルを棚に立てた。ファイルの背が棚板の縁と平行になるように位置を直した。隣のファイルとの間隔を指一本分に揃えた。
真央が戻ってきた。
「お疲れ~。会議どうだった?」
「うん。問題なかった」
「真琴の資料で問題あったことないけどね」
何でもない一言だった。たぶん感想ですらなかった。でもその言葉が真琴の喉の奥で引っかかった。小さくて、丸くて、飲み込めないもの。問題があったことがない。それは事実だ。事実のはずだ。なのに、この丸いものが溶けない。何なのか、今の真琴には分からなかった。
17時を過ぎた頃。
西園寺が席を立ちながら、真琴の方を見た。
「綾瀬さん」
「はい」
「今日のあれ、会議中に気づいてすぐ直してたよね。私だったら、たぶん一回止めてた」
西園寺は微笑んでいた。目尻にしわが寄っている。悪意はなかった。悪意がないことは見れば分かった。だからこそ、次の言葉が深く入った。
「安定してるね、綾瀬さんは」
歩いていった。ヒールの音がフロアの絨毯に吸い込まれていった。
安定してる。
その五文字が、耳の内側に残った。残って、反響した。褒め言葉だ。そのはずだった。安定しているということは崩れないということで、崩れないということは信頼されるということで——。
なのに「安定」の輪郭が冷たかった。
真琴には言語化できなかった。できなかったが、体が反応していた。肩甲骨の内側あたりに、薄い重さが一枚だけ載った感覚。天井。何かの天井。低くはない。低くはないが、ある。あるということが、体に伝わっていた。
その天井に名前がつくのは、もっと先のことだ。
今の真琴が知っているのは、今日も落とされなかったということと、それが昨日よりも甘いということだけだった。
---
8
19時19分。
マンションのポストを開けた。チラシが一枚。その下に、白い封筒。三通目。
ポストの扉を閉める前に開けていた。糊を剥がす。紙を抜く。広げる。三通目で、もう手順に迷いがなかった。体が覚えている。
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:18:05
> 事象:取引先の名前を間違え、信用を損ねる
> 備考:発生する
名前。
今度は数字ではなかった。
紙面の文字を見つめたまま、呼吸が一拍だけ止まった。止まって、ゆっくり再開した。
数字なら検算できる。元データと突き合わせれば白か黒が出る。名前は違う。名前は人間に属している。人間はセルに入っていない。計算式で検証できない。読み方にゆらぎがある。間違えたとき、傷つくのは数字ではなく人間だ。
数字の恐怖は冷たかった。名前の恐怖は、もう少し生温かった。人の体温に近い温度で、腹の底に座った。
封筒を紙に戻した。部屋に上がった。テーブルについた。三枚目を二枚の右に並べた。三枚の端と端を揃えた。指の腹で角をなぞった。テーブルの端からの距離まで均等にした。
一枚目は無意識だった。二枚目で意識して揃えた。三枚目の今、真琴はこの動作に安心を感じていた。封筒が並んでいる。角が合っている。台帳みたいに。右側にまだ余白がある。余白は明日も埋まる。
パソコンを開いた。取引先の名簿ファイルを開いた。明日の18時前後に連絡する可能性がある名前を、一つずつ確認し始めた。
田中。たなか。
鈴木。すずき。
高瀬。たかせ。
三人目で、指が一瞬だけ止まった。
理由は分からなかった。ただ、この名前の上で指が止まったという事実だけが残った。
すぐに次の名前に進んだ。
テーブルの上で三枚の封筒が行儀よく並んでいる。モニターの青白い光が真琴の横顔を照らしている。部屋の時計は19時43分を指している。
今夜は数字の代わりに、名前と過ごすことになる。
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