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1
封筒の中身を読んだのは、昨夜の二十時十一分だった。
> 失敗報告書
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:18:05
> 事象:取引先の名前を間違え、信用を損ねる
> 備考:発生する
四通目の報告書だった。角を揃えて、他の三通の上に重ねた。指先に紙の繊維が引っかかる感触がある。数字のときは怖かった。でも数字には正解がある。120は120で、121ではない。直せば終わる。
名前は、違う。
名前を間違えるというのは、相手の存在を取り違えるということだ。数字のように赤ペンで線を引いて、正しい値を横に書くわけにはいかない。間違えた瞬間、相手の目に何かが映る。それを消す方法を、真琴は知らない。
冷蔵庫の麦茶を注いだ。グラスの底に結露がたまるのを見ながら、明日会う取引先の名前を頭の中で並べた。
三社。五名。
そこまではすぐに出る。問題は、どの名前を間違えるのか、報告書が教えてくれないことだ。
---
2
名簿を開いたのは、二十時二十三分。
CSチームの共有フォルダにある取引先リスト。五名の名前を、真琴はノートに一人ずつ書き写した。
渡辺 剛志 (わたなべ・たけし)── 株式会社ムラタ技研、第二営業部部長。
黒澤 紗英 (くろさわ・さえ)── 同社、CS窓口担当。
藤井 誠一郎 (ふじい・せいいちろう)── カシマ物流、業務推進課課長。
梶山 伸也 (かじやま・しんや)── 同社、システム管理。
小早川 真理子 (こばやかわ・まりこ)── 株式会社アムリス、代表取締役。
五つの名前。五つの読み仮名。五枚の名刺の記憶。
真琴は一人ずつ声に出した。声に出すと、音が空気に触れて、間違いが耳に返ってくる。
「わたなべ・たけし、さん」
舌が歯の裏を叩く感覚を確かめる。
「くろさわ・さえ、さん」
唇が閉じる。開く。名前を発音するたびに、口の中の形が変わる。
「こばやかわ・まりこ、さん」
この名前だけ、少し長い。途中で息が浅くなる。小早川。こばやかわ。子音が多い。急ぐと「こばかわ」になる。
ペンを持ち直した。小早川の「早」の字の横に、赤で波線を引いた。ここが危ない。
ノートを閉じた。閉じてから、もう一度開いた。
波線の「早」が、まだそこにある。消えていない。消えるわけがない。自分で引いたのだから。それなのに、確認せずにはいられなかった。
---
3
金曜日の朝。
駅の改札を抜ける前に、真琴はカバンの中のクリアファイルを指で確認した。昨夜のノートが入っている。名前のリスト。読み仮名。波線。
電車の中で、目を閉じた。
「こばやかわ、まりこ」
口の中だけで唱える。音を出さない。でも舌は動いている。
会社に着いたのは八時四十七分。席に座り、PCを開く前に、ノートを広げて五名の名前をもう一度見た。昨夜の赤い字がそのまま残っている。インクが乾いて、少しだけ色が暗くなっていた。
九時の朝会で、榊原が言った。
「今日十八時から、ムラタ技研とカシマ物流の合同レビューがある。真琴と真央で対応して」
真琴の指が、机の下でノートの角を押さえた。
合同。二社同時。名前が増える。いや──五名のうち、四名が同じ場にいるということだ。一度に四つの名前を正確に呼ばなければならない。
「資料は既存ので回す。追加はなし」
榊原はそれだけ言って、次の議題に移った。真琴は頷いた。頷きながら、ノートの角を親指で撫でていた。
---
4
昼休み。
真央が席に来た。
「今日のレビュー、真琴と一緒でよかった。私、ムラタ技研の窓口の人の名前、いつも一瞬迷うんだよね」
真琴の背中に、冷たいものが一本、通った。
「……くろさわさん?」
「そう、くろさわ。なんかいつも"くろかわ"って言いそうになる」
真央が笑った。屈託のない笑い方だった。真央にとっては、間違えそうだという事実そのものが軽い。間違えたら「すみません」と言って、正しい名前をもう一度言えばいい。真央はそう思っている。真琴にはわかる。
でも報告書は、そうは言っていない。
「信用を損ねる」と書いてある。
間違えた後に訂正すれば済む話ではない。間違えた瞬間に、何かが壊れる。報告書は、その壊れ方を示している。
「……真央」
「ん?」
「くろさわさん、だよ。"かわ"じゃなくて、"さわ"」
「うん、わかってる。わかってるんだけどね」
真央は笑ったまま席に戻った。
真琴は弁当の蓋を開けた。卵焼きの黄色が目に入る。箸を持った。持ったまま、三秒ほど動けなかった。
真央が「くろかわ」と言ったら。
その可能性が、腹の底に落ちた。重い。数字のときとは違う重さだった。数字は自分の手の中にある。自分が確認すれば、自分の失敗は防げる。でも他人の口は、自分の手の中にはない。
真央が間違えたら──真琴の失敗ではない。報告書の対象者は「綾瀬真琴」だ。真琴が間違えると書いてある。真央のことではない。
でも。
もし真琴が真央の間違いを防げるのに防がなかったら。その場にいて、聞こえていたのに、何もしなかったら。
信用を損ねるのは、真琴かもしれない。
箸を持つ指に力が入った。卵焼きが少し崩れた。
---
5
十五時。
真琴は社内チャットの過去ログを検索していた。ムラタ技研とのやりとりで、黒澤紗英の名前がどう表記されているかを確認するためだ。
「黒澤様」「黒澤さん」「黒澤さえ様」。
どのメッセージでも「くろさわ」。「くろかわ」は一件もない。当然だ。正しい名前なのだから。
でも検索したのは、正しいことを確認したかったからではない。
正しいと知っていても、不安が消えなかったからだ。
画面の文字を見つめていると、「黒」と「澤」の間にある空白が広がっていくような気がした。ここに何か、見落としがあるのではないか。読みが二つある苗字なのではないか。「くろさわ」と「くろざわ」、濁点の有無。名刺にはどう書いてあった?
ノートを開いた。「くろさわ・さえ」。自分の字で書いてある。
名刺フォルダを開いた。「黒澤紗英」。ふりがなは「くろさわ さえ」。
同じだ。何も間違っていない。
なのに、安心しない。
十六時。真琴はA4のコピー用紙を一枚取り、五名の名前を楷書で大きく書いた。一文字ずつ、ゆっくりと。書き終えると、その紙をクリアファイルの一番手前に入れた。会議の席で、膝の上に置く。名前を呼ぶ前に、一瞬だけ目を落とせば確認できる。
保険だ。念のため。
これで大丈夫なはずだ。
「はず」が取れない。
---
6
十七時三十分。
会議室の準備をしている。真琴は椅子を引き、テーブルの上を拭き、名刺を並べる位置を頭の中で決めた。真央はプロジェクターのケーブルを差しながら、鼻歌を歌っていた。
「ね、真琴」
「うん」
「リラックスしなよ。レビューって言っても、いつものメンバーだし」
真央の声は軽い。軽いから余計に、自分の体の硬さが際立つ。首の後ろに張り付いた冷たさが、肩を通って腕まで伸びている。
十七時四十五分。取引先が到着した。
渡辺部長が先に入り、後から黒澤紗英が続いた。渡辺が名刺を差し出し、真琴は受け取りながら「渡辺さん、いつもお世話になっております」と言った。声が出た。正しい名前だった。喉の奥に残る振動を確認した。
次に黒澤。
「黒澤さん、本日もよろしくお願いいたします」
言えた。名前が正しく空気に乗った。黒澤は軽く頭を下げた。
カシマ物流の藤井と梶山が入ってきた。四名。全員揃った。
十七時五十二分、レビュー開始。
---
7
十八時四分。
レビューは順調だった。数字の報告が終わり、質疑に入っている。渡辺が月次の改善提案について話し、真琴はメモを取っている。ペンを持つ指に力は入っていない。名前は全部、正しく呼べている。報告書の予言まであと一分。
あと一分。
「その件、うちの担当に確認を──」
渡辺が振り返り、黒澤を示した。
「黒澤、資料あるか?」
「はい」
黒澤がクリアファイルから紙を出した。真琴の視線が時計に行く。十八時四分三十秒。
このとき、真央が口を開いた。
「あ、くろか──」
真琴の体が動いた。
考える前に、声が出ていた。喉ではなく、腹の底から押し出された音だった。
「黒澤さん、こちらの資料と突き合わせてもよろしいですか」
真琴の声が、真央の言葉を覆った。「くろか」の「か」は空気に溶けた。真央は一瞬止まり、真琴を見た。真琴は真央を見なかった。黒澤を見ていた。
「ええ、もちろん」
黒澤が資料を差し出す。真琴は受け取った。指先が冷たかった。紙の端を揃えながら、自分の心臓の音を聞いていた。
十八時五分。
何も、起きなかった。
真琴は資料を並べ、数字を読み上げ、突き合わせた。黒澤が頷いた。渡辺が「わかりやすい」と言った。会議は続いた。
真央がもう一度口を開くことはなかった。真琴のカバーに気づいたのか、気づかなかったのか。真琴にはわからない。わからなくていい。
大事なのは、名前が正しく呼ばれたことだ。
──本当に?
膝の上のコピー用紙に目を落とした。五名の名前が、楷書で並んでいる。全部正しい。間違いはない。
なのに、呼吸が浅い。
自分の名前を間違えなかった。それだけではない。真央の間違いも、止めた。報告書は「綾瀬真琴」の失敗を予言していた。だから自分が防いだ。それは正しい。
でも今、真琴の胸の中にあるのは安堵ではなかった。
もっと深い場所に、新しい冷たさが生まれていた。他人の口が怖い。他人の言い間違いが、自分の信用を壊す可能性がある。自分だけチェックしても足りない。自分だけ準備しても足りない。
この部屋にいる全員の発言を、聞いていなければならない。
---
8
十八時四十一分。レビュー終了。
取引先を見送り、会議室に戻ると、真央が言った。
「真琴、ナイスフォローだったね。私、途中で名前つっかえそうになったの気づいた?」
気づいていた。気づいていたから、止めた。
「……ちょっとだけ」
「助かったー。くろさわさんなのに、くろかわって言いそうになるの、もう癖なんだよね。今度から気をつける」
真央は軽く頭を掻いて笑った。
真琴も笑った。笑いながら、腹の中が冷えていくのを感じた。
「気をつける」と真央は言った。でも真央は、次も間違えるかもしれない。その次も。真琴が隣にいなかったら、誰が止めるのか。
──止めなくていい。真央の間違いは、真央のものだ。
頭ではわかっている。報告書の対象は「綾瀬真琴」だけだ。他人の失敗は、他人の問題だ。
でも、さっき体が動いた。考えるより先に声が出た。あの瞬間、真琴は真央の失敗を「自分の問題」として処理した。そしてそれは──うまくいった。
うまくいってしまった。
廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「綾瀬さん」
振り返ると、高瀬慎が廊下の端に立っていた。隣の部署の打ち合わせ帰りらしい。ネクタイを少し緩めている。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。……レビュー、長かったですか?」
「いえ、予定通りで」
「そうですか」
高瀬は少し笑った。穏やかな笑い方だった。それから、真琴の顔を見て言った。
「焦らなくて大丈夫ですよ、綾瀬さん」
一言だった。意味があるのかないのかわからない一言だった。でもその音が、乾いた廊下の空気を一瞬だけ変えた。真琴の肩から、ほんの少し、力が抜けた。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、真琴は自分の席に戻った。
高瀬の声がまだ耳の中に残っている。「焦らなくて大丈夫」。その言葉が体のどこかに触れて、温かかった。冷たさの中に、一点だけ。
すぐに消えた。
---
9
帰宅は二十時十四分。
ポストを開けた。白い封筒が一通、立てかけるように入っている。五通目。
真琴は封を切った。報告書の文字が目に入る。
> 失敗報告書
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:14:20
> 事象:言い訳をして空気を悪くする
> 備考:発生する
指が止まった。
数字でもない。名前でもない。
「言い訳」。
自分の口から出る言葉そのものが、失敗になる。
真琴は封筒を四通目の上に重ねた。角を合わせた。揃える手つきは、正確だった。
テーブルの上に五通の封筒が並んでいる。一通目から五通目まで、同じサイズ、同じ白、同じ書式。ただ、中身だけが変わっている。数字。名前。そして今度は、言葉。
回避の範囲が、広がっている。
真琴はノートを開いた。明日のスケジュールを確認する。十四時二十分。何の予定があるのか。空欄だった。空欄の中に、言い訳をする自分がいる。まだ見えない。見えないものを、どう防ぐのか。
ペンを持った。何も書けなかった。
ペンを置いた。封筒の角を、もう一度揃えた。
封筒の中身を読んだのは、昨夜の二十時十一分だった。
> 失敗報告書
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:18:05
> 事象:取引先の名前を間違え、信用を損ねる
> 備考:発生する
四通目の報告書だった。角を揃えて、他の三通の上に重ねた。指先に紙の繊維が引っかかる感触がある。数字のときは怖かった。でも数字には正解がある。120は120で、121ではない。直せば終わる。
名前は、違う。
名前を間違えるというのは、相手の存在を取り違えるということだ。数字のように赤ペンで線を引いて、正しい値を横に書くわけにはいかない。間違えた瞬間、相手の目に何かが映る。それを消す方法を、真琴は知らない。
冷蔵庫の麦茶を注いだ。グラスの底に結露がたまるのを見ながら、明日会う取引先の名前を頭の中で並べた。
三社。五名。
そこまではすぐに出る。問題は、どの名前を間違えるのか、報告書が教えてくれないことだ。
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名簿を開いたのは、二十時二十三分。
CSチームの共有フォルダにある取引先リスト。五名の名前を、真琴はノートに一人ずつ書き写した。
渡辺 剛志 (わたなべ・たけし)── 株式会社ムラタ技研、第二営業部部長。
黒澤 紗英 (くろさわ・さえ)── 同社、CS窓口担当。
藤井 誠一郎 (ふじい・せいいちろう)── カシマ物流、業務推進課課長。
梶山 伸也 (かじやま・しんや)── 同社、システム管理。
小早川 真理子 (こばやかわ・まりこ)── 株式会社アムリス、代表取締役。
五つの名前。五つの読み仮名。五枚の名刺の記憶。
真琴は一人ずつ声に出した。声に出すと、音が空気に触れて、間違いが耳に返ってくる。
「わたなべ・たけし、さん」
舌が歯の裏を叩く感覚を確かめる。
「くろさわ・さえ、さん」
唇が閉じる。開く。名前を発音するたびに、口の中の形が変わる。
「こばやかわ・まりこ、さん」
この名前だけ、少し長い。途中で息が浅くなる。小早川。こばやかわ。子音が多い。急ぐと「こばかわ」になる。
ペンを持ち直した。小早川の「早」の字の横に、赤で波線を引いた。ここが危ない。
ノートを閉じた。閉じてから、もう一度開いた。
波線の「早」が、まだそこにある。消えていない。消えるわけがない。自分で引いたのだから。それなのに、確認せずにはいられなかった。
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金曜日の朝。
駅の改札を抜ける前に、真琴はカバンの中のクリアファイルを指で確認した。昨夜のノートが入っている。名前のリスト。読み仮名。波線。
電車の中で、目を閉じた。
「こばやかわ、まりこ」
口の中だけで唱える。音を出さない。でも舌は動いている。
会社に着いたのは八時四十七分。席に座り、PCを開く前に、ノートを広げて五名の名前をもう一度見た。昨夜の赤い字がそのまま残っている。インクが乾いて、少しだけ色が暗くなっていた。
九時の朝会で、榊原が言った。
「今日十八時から、ムラタ技研とカシマ物流の合同レビューがある。真琴と真央で対応して」
真琴の指が、机の下でノートの角を押さえた。
合同。二社同時。名前が増える。いや──五名のうち、四名が同じ場にいるということだ。一度に四つの名前を正確に呼ばなければならない。
「資料は既存ので回す。追加はなし」
榊原はそれだけ言って、次の議題に移った。真琴は頷いた。頷きながら、ノートの角を親指で撫でていた。
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昼休み。
真央が席に来た。
「今日のレビュー、真琴と一緒でよかった。私、ムラタ技研の窓口の人の名前、いつも一瞬迷うんだよね」
真琴の背中に、冷たいものが一本、通った。
「……くろさわさん?」
「そう、くろさわ。なんかいつも"くろかわ"って言いそうになる」
真央が笑った。屈託のない笑い方だった。真央にとっては、間違えそうだという事実そのものが軽い。間違えたら「すみません」と言って、正しい名前をもう一度言えばいい。真央はそう思っている。真琴にはわかる。
でも報告書は、そうは言っていない。
「信用を損ねる」と書いてある。
間違えた後に訂正すれば済む話ではない。間違えた瞬間に、何かが壊れる。報告書は、その壊れ方を示している。
「……真央」
「ん?」
「くろさわさん、だよ。"かわ"じゃなくて、"さわ"」
「うん、わかってる。わかってるんだけどね」
真央は笑ったまま席に戻った。
真琴は弁当の蓋を開けた。卵焼きの黄色が目に入る。箸を持った。持ったまま、三秒ほど動けなかった。
真央が「くろかわ」と言ったら。
その可能性が、腹の底に落ちた。重い。数字のときとは違う重さだった。数字は自分の手の中にある。自分が確認すれば、自分の失敗は防げる。でも他人の口は、自分の手の中にはない。
真央が間違えたら──真琴の失敗ではない。報告書の対象者は「綾瀬真琴」だ。真琴が間違えると書いてある。真央のことではない。
でも。
もし真琴が真央の間違いを防げるのに防がなかったら。その場にいて、聞こえていたのに、何もしなかったら。
信用を損ねるのは、真琴かもしれない。
箸を持つ指に力が入った。卵焼きが少し崩れた。
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十五時。
真琴は社内チャットの過去ログを検索していた。ムラタ技研とのやりとりで、黒澤紗英の名前がどう表記されているかを確認するためだ。
「黒澤様」「黒澤さん」「黒澤さえ様」。
どのメッセージでも「くろさわ」。「くろかわ」は一件もない。当然だ。正しい名前なのだから。
でも検索したのは、正しいことを確認したかったからではない。
正しいと知っていても、不安が消えなかったからだ。
画面の文字を見つめていると、「黒」と「澤」の間にある空白が広がっていくような気がした。ここに何か、見落としがあるのではないか。読みが二つある苗字なのではないか。「くろさわ」と「くろざわ」、濁点の有無。名刺にはどう書いてあった?
ノートを開いた。「くろさわ・さえ」。自分の字で書いてある。
名刺フォルダを開いた。「黒澤紗英」。ふりがなは「くろさわ さえ」。
同じだ。何も間違っていない。
なのに、安心しない。
十六時。真琴はA4のコピー用紙を一枚取り、五名の名前を楷書で大きく書いた。一文字ずつ、ゆっくりと。書き終えると、その紙をクリアファイルの一番手前に入れた。会議の席で、膝の上に置く。名前を呼ぶ前に、一瞬だけ目を落とせば確認できる。
保険だ。念のため。
これで大丈夫なはずだ。
「はず」が取れない。
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十七時三十分。
会議室の準備をしている。真琴は椅子を引き、テーブルの上を拭き、名刺を並べる位置を頭の中で決めた。真央はプロジェクターのケーブルを差しながら、鼻歌を歌っていた。
「ね、真琴」
「うん」
「リラックスしなよ。レビューって言っても、いつものメンバーだし」
真央の声は軽い。軽いから余計に、自分の体の硬さが際立つ。首の後ろに張り付いた冷たさが、肩を通って腕まで伸びている。
十七時四十五分。取引先が到着した。
渡辺部長が先に入り、後から黒澤紗英が続いた。渡辺が名刺を差し出し、真琴は受け取りながら「渡辺さん、いつもお世話になっております」と言った。声が出た。正しい名前だった。喉の奥に残る振動を確認した。
次に黒澤。
「黒澤さん、本日もよろしくお願いいたします」
言えた。名前が正しく空気に乗った。黒澤は軽く頭を下げた。
カシマ物流の藤井と梶山が入ってきた。四名。全員揃った。
十七時五十二分、レビュー開始。
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十八時四分。
レビューは順調だった。数字の報告が終わり、質疑に入っている。渡辺が月次の改善提案について話し、真琴はメモを取っている。ペンを持つ指に力は入っていない。名前は全部、正しく呼べている。報告書の予言まであと一分。
あと一分。
「その件、うちの担当に確認を──」
渡辺が振り返り、黒澤を示した。
「黒澤、資料あるか?」
「はい」
黒澤がクリアファイルから紙を出した。真琴の視線が時計に行く。十八時四分三十秒。
このとき、真央が口を開いた。
「あ、くろか──」
真琴の体が動いた。
考える前に、声が出ていた。喉ではなく、腹の底から押し出された音だった。
「黒澤さん、こちらの資料と突き合わせてもよろしいですか」
真琴の声が、真央の言葉を覆った。「くろか」の「か」は空気に溶けた。真央は一瞬止まり、真琴を見た。真琴は真央を見なかった。黒澤を見ていた。
「ええ、もちろん」
黒澤が資料を差し出す。真琴は受け取った。指先が冷たかった。紙の端を揃えながら、自分の心臓の音を聞いていた。
十八時五分。
何も、起きなかった。
真琴は資料を並べ、数字を読み上げ、突き合わせた。黒澤が頷いた。渡辺が「わかりやすい」と言った。会議は続いた。
真央がもう一度口を開くことはなかった。真琴のカバーに気づいたのか、気づかなかったのか。真琴にはわからない。わからなくていい。
大事なのは、名前が正しく呼ばれたことだ。
──本当に?
膝の上のコピー用紙に目を落とした。五名の名前が、楷書で並んでいる。全部正しい。間違いはない。
なのに、呼吸が浅い。
自分の名前を間違えなかった。それだけではない。真央の間違いも、止めた。報告書は「綾瀬真琴」の失敗を予言していた。だから自分が防いだ。それは正しい。
でも今、真琴の胸の中にあるのは安堵ではなかった。
もっと深い場所に、新しい冷たさが生まれていた。他人の口が怖い。他人の言い間違いが、自分の信用を壊す可能性がある。自分だけチェックしても足りない。自分だけ準備しても足りない。
この部屋にいる全員の発言を、聞いていなければならない。
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十八時四十一分。レビュー終了。
取引先を見送り、会議室に戻ると、真央が言った。
「真琴、ナイスフォローだったね。私、途中で名前つっかえそうになったの気づいた?」
気づいていた。気づいていたから、止めた。
「……ちょっとだけ」
「助かったー。くろさわさんなのに、くろかわって言いそうになるの、もう癖なんだよね。今度から気をつける」
真央は軽く頭を掻いて笑った。
真琴も笑った。笑いながら、腹の中が冷えていくのを感じた。
「気をつける」と真央は言った。でも真央は、次も間違えるかもしれない。その次も。真琴が隣にいなかったら、誰が止めるのか。
──止めなくていい。真央の間違いは、真央のものだ。
頭ではわかっている。報告書の対象は「綾瀬真琴」だけだ。他人の失敗は、他人の問題だ。
でも、さっき体が動いた。考えるより先に声が出た。あの瞬間、真琴は真央の失敗を「自分の問題」として処理した。そしてそれは──うまくいった。
うまくいってしまった。
廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「綾瀬さん」
振り返ると、高瀬慎が廊下の端に立っていた。隣の部署の打ち合わせ帰りらしい。ネクタイを少し緩めている。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。……レビュー、長かったですか?」
「いえ、予定通りで」
「そうですか」
高瀬は少し笑った。穏やかな笑い方だった。それから、真琴の顔を見て言った。
「焦らなくて大丈夫ですよ、綾瀬さん」
一言だった。意味があるのかないのかわからない一言だった。でもその音が、乾いた廊下の空気を一瞬だけ変えた。真琴の肩から、ほんの少し、力が抜けた。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、真琴は自分の席に戻った。
高瀬の声がまだ耳の中に残っている。「焦らなくて大丈夫」。その言葉が体のどこかに触れて、温かかった。冷たさの中に、一点だけ。
すぐに消えた。
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帰宅は二十時十四分。
ポストを開けた。白い封筒が一通、立てかけるように入っている。五通目。
真琴は封を切った。報告書の文字が目に入る。
> 失敗報告書
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 時刻:14:20
> 事象:言い訳をして空気を悪くする
> 備考:発生する
指が止まった。
数字でもない。名前でもない。
「言い訳」。
自分の口から出る言葉そのものが、失敗になる。
真琴は封筒を四通目の上に重ねた。角を合わせた。揃える手つきは、正確だった。
テーブルの上に五通の封筒が並んでいる。一通目から五通目まで、同じサイズ、同じ白、同じ書式。ただ、中身だけが変わっている。数字。名前。そして今度は、言葉。
回避の範囲が、広がっている。
真琴はノートを開いた。明日のスケジュールを確認する。十四時二十分。何の予定があるのか。空欄だった。空欄の中に、言い訳をする自分がいる。まだ見えない。見えないものを、どう防ぐのか。
ペンを持った。何も書けなかった。
ペンを置いた。封筒の角を、もう一度揃えた。
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泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。
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