失敗報告書

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報告書が来ない日

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 1

二十二時十三分。

真琴はポストの前に立っている。鍵を差して、扉を開けている。中に白い封筒がある。

今日一日、これがなかった。

手が封筒に伸びた。指先が紙に触れた。触れた瞬間、体の中から何かが抜けた。力ではない。抜けたのはもっと内側の、名前のないものだった。

安堵だ。

怖いはずの封筒に、安堵している。

その事実が、もう一つの恐怖を連れてきた。

---

 2

朝に戻る。

七時十一分。真琴はマンションのエントランスでポストを開けた。

空だった。

封筒がない。広告もない。何も入っていない。金属の箱の中に、影だけがある。

もう一度、鍵を抜いた。差し直した。回した。扉を開けた。同じだった。空。

角度を変えて覗いた。奥の壁が見えた。何も貼りついていない。何も挟まっていない。

閉じた。三秒待って、もう一度開けた。

空だった。

真琴はポストの扉を閉め、鍵をかけ、鍵をバッグにしまった。しまってから、もう一度バッグを開けて鍵を確認した。鍵はある。ポストは閉まっている。中には何もない。

息を吸った。吸えなかった。肺の入口が細くなっている感覚があった。

報告書が来ていない。

昨夜届いた報告書──事象欄に罫線だけが引かれたあの紙は、まだテーブルの上にある。あれは今日の予告だったのか。それとも今日は来ないという意味だったのか。

わからない。わからないまま、駅に向かった。

---

 3

改札を抜けて、電車に乗った。

いつもの時間、いつもの車両、いつもの位置。ドアの横に立ち、左手で吊り革を握った。右手はバッグの上に置いている。

予定表を開いた。

九時、朝会。十時、チームミーティング。十一時半、A社への月次レポート送付。十四時、個別の問い合わせ対応。十六時、サブリーダー引き継ぎ資料の確認。

普通の金曜日だった。特別なことはない。大きな会議もない。

なのに、予定表の文字がぼやけて見える。焦点が合わない。合わせようとするのに、視線が文字の上を滑っていく。

報告書がないからだ。

これまでは、報告書が恐怖の焦点を決めてくれた。9:12の誤送信。13:40の数字ミス。18:05の名前違い。時刻と事象が書いてあったから、その一点に向かって準備すればよかった。準備すれば、回避できた。回避すれば、安全だった。

今日は焦点がない。

恐怖が霧のように広がっている。どこを見ても、同じ濃さの不安がある。朝会で何か失敗するかもしれない。レポートの数字が間違っているかもしれない。メールの宛先を間違えるかもしれない。全部かもしれない。全部かもしれないから、全部を同じ強さで警戒しなければならない。

電車が駅に着いた。ドアが開いた。降りた。改札を出た。会社に向かった。

空が曇っていた。雨は降っていない。降るかもしれない。傘は持っている。持っているけど、差すかどうかの判断が、今日はもう一つの負荷になる。

---

 4

午前。

朝会が終わった。何も起きなかった。真琴は自分の担当箇所を報告した。声は平坦で、余計な言葉を入れなかった。榊原が頷いた。次の人に移った。

何も起きなかった。なのに、安心しない。

十時。チームミーティング。

榊原がホワイトボードの前に立っている。来月のキャンペーン施策について、方向性を決める会議だった。

「A案とB案、どっちで行く。意見を聞きたい」

A案はコスト重視の堅実な施策。B案は新しいチャネルを試す挑戦型。

真央が先に口を開いた。

「B案がいいと思います。新しいチャネル、競合はまだやってないから、先に取りにいったほうが──」

「リスクは?」

榊原が遮った。

「あります。数字が読めない部分はあるけど、やらないと数字も出ないので」

真央はそう言い切った。間違っているかもしれない。でも間違う前に動くことを、真央は恐れていなかった。

榊原が真琴を見た。

「真琴は?」

胸の中が冷えた。

A案が安全だ。数字が読める。前例がある。失敗しにくい。B案は未知数が多い。やってみて失敗したら──

「……確認したい点があるので、少し時間をいただけますか」

声が出た。丁寧で、正しくて、何も言っていない声だった。

榊原が一瞬だけ間を置いた。

「わかった。午後までに出してくれ」

会議は次の議題に移った。

真琴は席に座ったまま、ノートを見ていた。どちらがいいかは、実はわかっていた。B案のほうが可能性がある。真央の言う通り、やらないとデータも出ない。

わかっていた。でも言えなかった。報告書がない日に、判断を出すのが怖かった。

---

 5

十一時半。

A社への月次レポートを送信する時間だった。レポートは昨日のうちに完成している。数字も確認済み。宛先も確認済み。添付ファイルも確認済み。

送信ボタンの上に、カーソルを合わせた。

動かない。指が動かない。

宛先をもう一度見た。合っている。ファイル名を見た。合っている。本文を読み直した。誤字はない。

全部、合っている。なのに、送れない。

報告書があれば、こんなことにはならなかった。「今日の失敗はこれです」と書いてあれば、それ以外は安全だとわかった。9:12の誤送信を回避した日は、午後のメールは怖くなかった。報告書は、恐怖を一点に集めてくれた。集めてくれたから、それ以外の場所で息ができた。

今日は全部が怖い。全部が怖いから、何も押せない。

三分間、送信ボタンの上にカーソルを置いたまま、画面を見つめていた。

送った。送ったのは、三分が限界だったからだ。これ以上待ったら送信時刻が遅れて榊原に聞かれる。

送った直後、送信済みフォルダを開いた。宛先を確認した。ファイルを開いて中身を確認した。全部合っている。全部合っているのに、確認をやめられなかった。

---

 6

十三時。昼休み。

真央が席に来た。

「真琴、A案B案どうする? 午後って榊原さん言ってたよね」

「……うん。まだ整理してる」

「私はBだと思うけどなー。新しいチャネル、面白そうじゃない?」

真央はコンビニのおにぎりを出した。梅。いつも梅だ。迷わない人間は、おにぎりの具も迷わない。

「真琴はどう思う?」

「……Bのほうが可能性はあると思う。でもデータが──」

「データは後からでしょ。やってみないと出ないし」

真央は梅のおにぎりを一口食べて、「うまい」と言った。

真琴は弁当箱を開けた。箸を持った。持ったまま、動かなかった。

B案がいいと思っている。思っているのに言えない。言えない理由は、データが足りないからではない。間違えるのが怖い。B案を推して、失敗したら。「綾瀬が言ったから」と言われたら。

報告書があれば、その失敗が今日起きるかどうかわかった。起きないとわかれば、B案と言えた。今日はわからない。

卵焼きを一切れ食べた。味がした。でも、味を感じる余裕が体の中にほとんどなかった。

---

 7

十四時。

榊原が席に来た。

「A案B案、どうする」

「B案の可能性は高いと思います。ただ、初月の数字が読めないので、一度チャネルのテスト配信をしてからのほうが──」

「それをやると二週間かかる。その間に競合が入ったら?」

「……リスクはありますが、データなしで走るのは──」

「真央」

榊原が振り向いた。真央が顔を上げた。

「B案で行くなら、来週の頭から動けるか」

「動けます」

真央は即答した。

「よし。B案で行く。真琴、サポートに入ってくれ」

「……はい」

頷きながら、胸の中で何かが閉じた。小さな音がした。ドアが閉まるような音だった。

B案がいいと思っていた。最初からそう思っていた。思っていたのに、先に言えなかった。確認したいと言って時間をもらい、データが足りないと言って判断を先送りにし、結局、真央が先に動いた。

十五時。チャットの通知が来た。A社の窓口担当からだった。

「キャンペーンの方針、本日中にいただけますか? 弊社側の稟議が月曜朝に入っているので、今日中にないと来週のスケジュールに間に合いません」

真琴は画面を見つめた。

午前中に真琴がB案と言っていれば、この時点で方針は先方に伝わっていた。午前の時点で判断を出していれば、先方の稟議に間に合う形で金曜中に投げられた。

真琴が「確認したい」と言った数時間で、先方のスケジュールが一つ、ずれた。

榊原が真琴の画面を見た。

「これ、午前で出してれば間に合ってたな」

声は責めていなかった。事実を言っただけだった。でもその事実が、真琴の胸の中で冷たく光った。

失敗していない。判断を慎重にしただけだ。データが不足していたから確認を求めた。正しい手順だ。

でも正しい手順の結果、先方の稟議が一日ずれた。一日のずれは、来週のスケジュール全体に波及する。波及した分は、誰かが調整しなければならない。

減点ではない。でも、確実に何かが失われた。

失敗しなかったのに、損をした。

真琴は画面に向かって返信を打った。「申し訳ありません。方針は本日中にお送りします」。丁寧で、正しくて、遅い返信だった。

---

 8

十六時。

チャットの通知が光った。高瀬慎。

「お疲れさまです。先日のレポート、確認しました。問題ないです」

用件だった。真琴は「ありがとうございます」と返した。

十秒後。

「今日、返事の感じが違いますね」

真琴の指が止まった。文面は同じだ。丁寧で、「ありがとうございます」。いつもと同じだ。でも高瀬は「違う」と言っている。

「眠れてます?」

短い一行だった。用件から完全に離れた一行だった。

眠れていない。昨夜、空白の報告書を見てから三時間しか眠れなかった。何を準備すればいいかわからないまま布団に入って、天井を見ていた。

「大丈夫です」

打った。送った。

本当は言いたかった。今日、報告書が来なかったこと。来ないと何も準備できないこと。準備できないと動けないこと。でも言えない。ポストに届く白い封筒のこと、明日の失敗を予告する帳票のこと──全部、真琴の中だけにある話だ。

高瀬に言えることは、何もない。

二十秒後。

「大丈夫じゃない時は、大丈夫って言わなくていいですよ」

前にも似たことを言われた。高瀬は同じ言葉を、少しずつ形を変えて繰り返す。押しつけない。ただ、扉を開けたまま立っている。

「ありがとうございます。少し疲れてるだけです」

送った。

「了解。でも無理はしないで」

短かった。引かなかった。押してもこなかった。

画面を閉じた。閉じてから、高瀬の言葉が胸の中に残っているのを感じた。「大丈夫って言わなくていい」。その言葉は、「大丈夫です」以外の選択肢があることを静かに示している。

昨日、一度だけ使った。「怖かったです」と言った。あのとき高瀬は「言ってくれてありがとう」と返した。あの文字がまだ記憶にある。温かかった。

でも今日は、あの一歩が踏めない。昨日はサブリーダーに抜擢された直後で、達成感の余韻があった。今日は余韻がない。報告書がない。準備がない。壁だけがある。

---

 9

十七時。

一日が終わろうとしている。

失敗していない。今日も、一度も失敗していない。でも今日は、一度も「勝って」いない。

レポートは送った。朝会は乗り切った。ミーティングでは正しいことを言った。でも「した」ことの中身は、全部「壊さなかった」だった。先方の稟議を一日ずらした。真央にB案を取られた。どれも失敗ではない。でもどれも、前に進んだ証拠ではない。

席でバッグの中のクリアファイルに触れた。今日のノートには、赤い印が一つもない。確認すべき数字がなかった。練習すべき名前がなかった。矯正すべき言い訳がなかった。

報告書がなかったから、何も準備しなかった。何も準備しなかったから、何も回避しなかった。何も回避しなかったから、何も──。

帰り支度をした。

「お疲れ」と真央が言った。

「お疲れさま」と返した。

駅に向かった。電車に乗った。窓に映る自分の顔を見た。何も変わっていない顔だった。何も壊れていないし、何も作られていない顔だった。

---

 10

二十時四十分。

帰宅して、着替えて、手を洗って、夕食を済ませた。食べたものの味を覚えていない。

ソファに座って、テーブルの上の封筒を見た。きれいに並んでいる。一番上は空白の報告書。罫線だけが引かれた事象欄が、テーブルの光を反射している。

ポストには朝、何も入っていなかった。今日は金曜日だ。明日は休みだ。

二十一時。何もしないまま、一時間が過ぎた。テレビはつけなかった。スマートフォンは見なかった。ただ座って、封筒を見ていた。

二十一時半。立ち上がって、冷蔵庫から麦茶を出した。グラスに注いだ。飲んだ。味がした。やっと味がした。

二十二時。

もう一度だけ見に行こう。

そう思った。思ったことに驚いた。朝から何度もポストを確認して、何も入っていなくて、一日中不安だった。もう見るのはやめよう。来ないなら来ないでいい。来ないほうがいい。来ないほうが自由だ。

自由のはずだ。

靴を履いた。部屋を出た。エレベーターで一階に降りた。ポストの前に立った。鍵を差した。回した。扉を開けた。

白い封筒が一通、立てかけるように入っていた。

---

 11

手が伸びた。指先が紙に触れた。

安堵が来た。

恐怖の予告に、安堵している。この封筒が来なかった一日がどれほど苦しかったか、体が覚えているから、封筒が来たことに安堵している。

依存だ。

そう思った。思ったけれど、指は封筒を掴んでいた。

部屋に戻った。テーブルに座った。封を切った。

>   失敗報告書  
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 事象:失敗を恐れて"やらない"を選ぶ
> 備考:選ぶ

指が止まった。

これまでの報告書は「発生する」と書いてあった。誤送信が「発生する」。数字ミスが「発生する」。名前の間違いが「発生する」。真琴の外側で起きる出来事が、発生する。

今回は違う。

「選ぶ」。

真琴が選ぶ。真琴の意思で、やらないを選ぶ。外側の出来事ではない。内側の判断だ。

そして事象欄に書かれているのは、ミスでも事故でも失言でもない。「やらない」。何もしないことが、失敗として記載されている。

今日の自分なら、明日もそうする。

午前にB案と言えなかった自分。データが足りないと言って判断を先送りにした自分。先方の稟議を一日ずらした自分。正しいことを言ったのに、何も動かせなかった自分。今日の延長で、明日も「やらない」を選ぶ。報告書はそう言っている。

封筒を他の封筒の上に重ねた。角を合わせた。揃える手つきは、正確だった。もう儀式だった。

でも今夜は、揃えても安心しなかった。

「やらないを選ぶ」。これは回避できるのか。やらないを選ばないためには、やるを選ばなければならない。やるを選ぶとは、失敗する可能性に自分から踏み込むということだ。

それは、報告書が真琴に求めてきたこと全部の逆だ。

ノートを開いた。ペンを持った。

何を書くのか。「やらないを選ばないための準備」。それは、準備で解決できる問題なのか。

ペンの先が紙に触れたまま、動かなかった。

テーブルの上の封筒を見た。きれいに並んでいる。同じ白、同じサイズ、同じ書式。ただ中身だけが変わってきた。数字、名前、空気、場、空白、そして──意思。

報告書が追いかけているのは、真琴の行動ではない。

真琴の生き方だ。

ペンを置いた。ノートを閉じた。封筒の角をもう一度撫でた。

明日、真琴は何かを選ぶ。やるか、やらないか。報告書は「やらないを選ぶ」と書いている。それを回避するなら、やるを選ばなければならない。

でも「やる」とは、何を。

まだ、見えない。
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